本物のABYSS1


――目を凝らした先にあったのは、

赤々と燃える狂喜の仮面だった。


勝負に負けた生け贄たちが、断頭台に向かう心持ちで、

言葉少なに地下室へと連行される最中のことだった。


差し込む月影により蒼く染まった廊下の向こうに、

それは音もなく佇んでいた。


待ち受けていた新たな仮面に、

温子と那美が身を固くする。


が――


二人はすぐに、違和感に気付いた。


何故か、自身らを連れた片山の部下たちもまた、

新たな仮面の出現に明らかな狼狽を見せていたのだ。


その様子から察するに、この新手の怪人の登場は、

彼らにとっても好ましくはないらしい。


状況としては完全に詰んでいる状態だっただけに、

温子の胸中に期待が灯る。


自分たちの味方ではないにしろ、もしや新たな仮面が、

脱出の糸口となってくれるのではないか――


そんな彼女の期待を知ってか知らずか、

焔の仮面の奥から『おい』と加工音声が飛んでくる。


その短い言葉は音のない廊下にやたらと響き、

片山の手下たちの体をぎくりと強張らせた。


「な……何だよ?」


ボイスチェンジャーを介してなお、

虚勢じみた声。


しかし、新手の怪人はそれを侮るような様子も見せず、

大型の肉食獣のように油断なく一歩を踏み出した。



「そいつらを置いて消えろ。

今すぐだ」


「は? 何でてめぇに

んなこと言われなきゃいけねんだよ」


「つーか関係ねぇだろうがてめぇはよぉ!」


「……聞こえなかったか?」



「遊びはもう終わりだ」


二人を解放しろと、

焔の仮面が顎で示す。


「っ……何勝手に決めてんだオイ!」


片山の部下が声を張り上げる。


仮面の下で瞳をぎらぎらと燃やし、

握りしめた拳をわななかせる。


そうしてお互いで顔を見合わせた後に、

彼らはそれぞれ掴んでいた生け贄を放り出した。


温子らがよろめき、慌ててバランスを取る中、

男らが焔の仮面へと殺到する。


「死ねやっ!」


「調子こいでんじゃねぇぞ鬼塚ァ!」


焔の仮面――鬼塚と呼ばれたその怪人は、

やれやれとばかりに溜め息をついた。


脱力したまま体を捻り、

次の息を吸い込む前に、向かってきた拳を回避する。


そこに飛んでくる、もう一人の飛び蹴り。


が、これを焔の仮面は、

宙にいる間に掴み取った。


そして、男が走ってきた勢いそのままに、

ぐるりと一回転し――


初撃をスカして止まっていた男の片割れに向かって、

バットのように遠心力たっぷりで振り下ろした。


「うそっ……」


一瞬で動かなくなった男たちを見て、

那美と温子が絶句する。


片山が超人と謳っていたABYSSは、

せいぜい力の強い男子程度の印象だった。


が、いざその力を目の当たりにすると、

そんな考えは塵ほども残らず消え失せてしまった。


自分たちとはまるで違う生き物なのだと、

心の底から思い知らされた。


同時に、悟った。


この本物のABYSSからは、

絶対に逃げられない、と。


「どれ――」


焔の仮面が掴んでいたぶきを離し、

震える生け贄二人へと向き直る。


その接近を許す前に、

辛うじて温子が我に返り――


片山の部下二人が、目の前のABYSSのことを

何と呼んでいたのかを思い出した。


「鬼塚……鬼塚先輩、ですか?」


呼びかけるも、返事はない。


ただ、その背格好から、

温子は男のことを同じ学園の鬼塚であると判断した。


というより、

そうでなくては困る。


「あの……私のこと、覚えてますか?

今川龍一の友達です」


「助けに来て下さってありがとうございます」


温子が深々と頭を下げる

/那美もそれに習って頭を下げる。


ついこの間の昼休みの件から、

まだそう時間は経っていない。


龍一の名前を出し、鬼塚の助援を既成としてしまえば、

手心を加えてくれるのでは――


そんな、温子なりの

現状でできる精一杯の打算だった。


ただ、問題は二つ。


一つは、学園で危険人物とされている鬼塚に、

話がどこまで通じるのか未知数なこと。


そしてもう一つ――

続く言葉が浮かばない。


果たしてこの先どんな提案をすれば

鬼塚に見逃してもらえるのか。


なけなしのチップの賭け先に悩む博徒の気分で、

頭を下げたまま、温子が必死になって頭を巡らせる。


「顔を上げろ」


が、その考えが形になる前に、

最悪の時間切れノーモアベットが宣言された。


冷たい汗が背を流れるのを感じながら、

温子が恐る恐る顔をあげる。


「俺たちは、お前らを助けにきたわけじゃない。

好き勝手やり過ぎたバカの後始末に来ただけだ」


「その際、生け贄の命に関しては、

明確な理由がない限り奪うなと言われてきた」


「! それじゃあ……!」


「余計な手間をかけさせるな」


「……はい。ありがとうございます」


今度は打算ではなく、

感謝と安堵の気持ちから、温子は頭を下げた。


「温子さん……よかったぁ」


「ホントによかったよ……。

今日でもう既に三回くらいは死んでる気がするし」


特に、最後の一回――この鬼塚との対峙に関しては、

今でも内心では疑念が拭えない。


つい先日の昼休みであれば、同じ交渉をしたところで、

見逃してもらえる可能性はなかっただろう。


なのにどうして、今はこうも話が通じるのか、

温子には理解ができなかった。


それとも鬼塚は、

あくまで職務には忠実なのだろうか――


「安心してるところで悪いが、

今からお前らには眠ってもらう」


「目が覚めたら、

今夜のことは全部、夢だったと思って忘れろ」


「……死にたければ、誰かに喋るんだな」


『もちろんそんなことはしないだろうが』と暗に示して、

鬼塚が二人へと近づいてくる。


「あの……その前に一つだけいいですか?」


温子の挙手。


肯定的な返事はなかったが、

鬼塚が足を止めたということでYESと解釈した。


「笹山晶もここに来ていると聞いたんですが、

彼のことも助けてもらえるんでしょうか?」


好き勝手やり過ぎたバカというのは、

恐らく片山らのことだろう。


だが、そこに巻き込まれている一般人に関しては、

どう処理するつもりなのか。


もしも助けてもらえるのであれば、

片山に殺される前に、早く行ってあげて欲しい。


そう思っていたのだが――


「さぁな」


鬼塚の返答は、

温子の期待と裏腹に、素っ気ないものだった。


「せいぜい祈っとけ。

笹山が無駄な抵抗をしないことをな」









――何が起こっているのか、

わけが分からなかった。


「一人で大丈夫ですか?」


「え? あ、はい……」


爽が片山たちに捕まったと思っていたら、

うちの女子制服を着た新たな仮面が出て来て。


「でしたら、校舎の中に入っていて下さい。

ここから先は関係者以外立ち入り禁止ですので」


ABYSSのはずなのに、

侵入者そうのことを逃がしてくれて。


その様子を、まるで時が止まったかのように、

誰もが言葉一つ発することなく傍観していて――


「……さて。

これでこちらに集中できますね」



一連の茶番じみたやり取りが終わった後、

場の全員と相対するように黒白の仮面が向き直った。


改めてその姿を確認しても、

女子生徒が単純に仮面を付けただけにしか見えない。


この新手の仮面は……

本当にABYSSなのか?


「片山に丸沢……。

随分とはしゃいでくれたみたいですね」


「で、どうでしたか?

二人だけの儀式は」


「楽しかったですか? 充実していましたか?

思うに、さぞかし羽を伸ばせたんでしょうね」


仮面の女性が校舎へ――化学室のほうへ目を向けると、

片山は決まり悪そうに目を伏せた。


その様子に、

女性がくすりという忍び笑いを漏らす。


「どうしました?

もっと自分の成果を誇ったらどうですか?」


「校舎だけじゃないでしょう?

例えばこの……あなたの兵隊ですか? 凄いですね」


「私にはとてもとても、

こんな人数を集めることなんてできません」


「そんなことをする勇気がありませんからね」


目を伏せたまま拳を握りしめる片山。


それをくすくすと眺めながら、

言葉を並べていく女性。


そのやり取りを傍から見ていて、

……徐々に、この仮面が何者なのか分かってきた。


そして――この仮面が、

何をするためにここへ来たのかも。


「もう、いいでしょう」


ひとしきり笑った後、

仮面の女性が片山へと向き直る。


「ここまでやったんですから、

何も思い残すことはありませんよね?」


「っ、てめぇ……!

大層なこと言ってくれるじゃねぇか」


片山が手を上げる。


と、丸沢も含めた動ける兵が全て、

片山の周囲へと集まった。


「あんたが部長だからって、

俺が大人しくしてるとでも思ってんのか?」


「もちろん、

大人しくしてくれると思っていましたよ」


「だからこそ放置していたんですが、

やっぱりダメだったようですね」


「まあ、あなたの管理を怠っていたのは私ですから、

きちんと責任は取るべきでしょう」


「……はっ。

何様のつもりだこのクソビッチがァ!」


「部長だぁ? クソ貧弱な女の分際で、

ビッグなつらしてんじゃねぇぞ!」


「周りを見ろよ。八人だ。

俺の兵隊はまだ半分は生きてんだぜ」


「さらに、俺と丸沢も一斉にかかったら、

もう部長もクソも関係ねぇよなぁ?」


片山が『おい』と周囲の部下に声をかける。


それに兵らは頷きを返し、

どたばたと部長の周囲に展開した。


「言っておくが、今さら命乞いしても無駄だぜ。

お前はきっちり殺してから犯してやる」


「ついでだから、鬼塚の野郎もブチ殺してやるか。

こっちは念入りに、二十人くらいで闇討ちしてな」


邪悪な笑みから下種げすな言葉を撒き散らす片山。


……とりあえず、大まかな事情は飲み込めた。


模様入りの仮面と片山が本物のABYSSで、

それ以外は全部片山の私兵なんだな。


でも、そうなってくると、あの片山と丸沢は

鬼塚並みの実力を持っていることになる。


正規のABYSSそんなの二人に兵まで同時に戦うなんて、

……正直言ってあまり想像したくない。


でも、部長がもしここで負けるようなことがあれば、

次は間違いなく僕の番が来る。


逃げるにしても、顔も名前もバレている以上、

被害を広げるだけの結果になるのがオチだ。


となればここは、部長を助けに入って、

二対二の構図にするべきか……?


「……!?」


いや、これは――


この、部長の“判定”の音は――


「どれ。善は急げ、だな」


そうこうしているうちに、

片山は笑いを止めて髪をかき上げた。


それから胸を張り、

恐らく振り下ろすことで合図となる手を掲げる。


「何か言い残すことはあるか?」


片山の問いに、

部長は何も答えない。


ただ、片山には見えない場所で、

ギリギリと拳を握り締めて――


「……チッ。バッドな野郎だな。

さっきから何ずっと黙って――」


――瞬間。


片山の隣に立っていた兵が、

紙屑のように吹っ飛んでいくのを見た。


「……は?」


整えたばかりの片山の髪が、

風に乱れる。


その揺れが収まる前に、

さらにもう一人が宙を舞う/べしゃりと落ちる。


何が起きたのかは、

恐らく、傍で見ている僕以外は分からなかっただろう。


ただ、誰がやったのかは、

全員が等しく理解しているようだった。


「ひっ……」


落ち方が悪かったのか、

はたまた殴ったほうに原因があるのか――


げぇげぇと血を吐いてのたうつ仲間に、

言葉を失う男たち。


そんな彼らの前で、平然と手の埃を払いながら、

ABYSSの部長がうっそりと呟く。


「まずは二人」


「う……おぉおおおぉっ!?」


次々と悲鳴が上がり、

瞬く間に包囲網内で恐慌が吹き荒れた。


自慢の兵たちは逃げ惑い、あるいはまごつき、

一部は匹夫の勇でもって立ち向かい――


そのどれもが、

一撃で粉砕されていった。


その手際や膂力、身のこなしは、

傍から見ているだけで胸焼けしてしまいそうだ。


尋常じゃないどころの話じゃない。


お話しにならない。


初めてABYSSの儀式に紛れ込んだ時に、

あれに遭うことがなくて本当によかった。


“集中”もして、態勢が万全だったならともかく、

そうでなければ殺されるのがオチだ。


勝つどころか――

逃げることさえままならない。


「ひぃっ!?」


背後から蹴り倒された丸沢が、

受け身も取れずに地面へ倒れ込む。


それでも、地を掻いて立ち上がり、

逃げだそうとしたところで――


「言い残すことはありますか?」


部長に、目の前の進路を塞がれた。


「あっ、あっ、あっ……」


「どうしました?」


「あっ……しっ……」


「死にたく、ないっ」


その言葉が聞こえた直後。


べきりと、湿った鈍い音が鳴った。


地面に転がり、

声にならない絶叫を繰り返す丸沢。


その足は、太ももの辺りから両方揃って、

ただの一蹴りで折れ曲がっていた。


転がり悶える丸沢に一瞥もくれないまま、

仮面の女性が片山のほうへと見返る。


「さてと……これで残るはあなた一人ですね」

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