本物のABYSS2

「この……化け物野郎ッ……!」


「いえいえ、とんでもない。

ただのクソ貧弱な女ですよ」


先の自身の言葉を使った謙遜に、

片山の頬が引きつる。


細かく震える腕は、

怒りか、はたまた恐怖故か。


どちらにしても、あの部長の前に立って、

逃げ出さずにいるだけ大したものだった。


「部長」


そんな二人の対峙に、

横から声がかかる。


「ああ、ようやく来ましたか」


部長の傍へと歩み寄る新手の――

見覚えのある仮面。


もし、いつも同じ仮面を着用しているのであれば、

このABYSSは鬼塚だろうか。


「では、始めましょうか」


頷いて、

鬼塚が手にしていたものを差し出す。


それを見て、

思わずぎょっとなった。


明らかに人間向きじゃない武器。


いや――武器と言っていいのかどうか。


ぼんやりと月を弾き、

ざりざりと刃を鳴らすいかめしいその姿。


食い込む瞬間を想像しただけで鳥肌が立つそれは、

チェーンソーという名の狂気だった。


片山が息を呑むのが分かった。


僕も、にわかには信じられなかった。


子供の頃でさえ、

あれを使っていた暗殺者は見たことがない。


効率、倫理、嗜好といった諸々を考えても、

あんなものを人に向けるのは、まともな神経じゃない。


けれど――それこそがABYSSなのか。


デジタルビデオカメラを手に、

淡々と撮影を始める鬼塚。


それを確認してから、

リコイルスタータを引く部長。


途端、猛り吼えるかのようにエンジンが唸りを上げ、

ガソリンと排ガスの臭いが漂い始める。


「あら、逃げないんですね」


「……当然だろ。

俺をその辺のクソと一緒にしてんじゃねぇ」


「勝とうが負けようが、今までもこれからも、

俺の辞書に『逃げ』はねぇんだよ」


「なるほど。映像の出来としては問題ですが、

その覚悟は買いましょう」


「何か言い残すことはありますか?」


いつでも飛びかかれる体勢でぴたりと止まり、

部長が片山の言葉を待つ。


「……ゲームオーバー、か」


「まあ、言えっつーなら、

一言残してやるよ。くっくっく」


「ファック!」



――その一言を最後に、

片山信二は終わった。


肩口から、袈裟に真っ二つ。


最後の意地か――断末魔も残さずに。


「……さて」


全身を返り血に染めたABYSSの部長が、

ゆっくりとこちらへ向き直る/歩いてくる。


まあ、それはとりわけ驚くべきことでもなく、

順番的には当然だろう。


問題は……

僕が敵う相手じゃないということ。


後々のリスクは考えずに、

いっそここはダメ元で逃げてしまうのも手だけれど――


「逃げる気なら無駄ですよ?

あなたが逃げれば、校舎にいる三人を殺しますから」


……まあ、そう来るよな。


向こうも僕のことを知っている以上、

遅かれ早かれこうなったのは間違いない。腹を括れ。


彼我の距離はまだ五メートル強。


手近で使えそうなのは、足下の砂と石と、

丸沢の持っていたスリングにスリングの弾丸か。


やるなら先手必勝として、

初手は何で行くべきか。


部長はチェーンソーを低く構えたまま、

ゆったりとした足の運びでこちらへと向かってくる。


ペースは変わらない。


なら――あと三歩。

三歩目を踏み出した瞬間に、


「右足ですか?」


「!?」


思わず飛び退った。


なん……え?

行動を読まれた?


もしかして、目線と姿勢か?


でも、そんなあからさまに狙いがばれるほど、

不用心だったことはないはずだぞ?


「……ふぅ」


呼吸を整える。……落ち着け。


さっきのは、

当てずっぽうでも十分に当たる範囲だ。


片山の手下の連中がみんなそうだったように、

利き腕や足のほうを使いたがる人間は多い。


丁寧に予備動作を隠しさえすれば、

そうそう読まれることは――


「左腕」


「……!?」


今度は、完璧に読まれた。


どうしてだ?

どうして行動を読まれた?


力が入ってるとか、目線だとか、

パッと見じゃ絶対に分からないようにしてたのに……。


「なかなか冷静ですね。

それに、大した身体能力だと思います」


「ただ、それでは到底私には勝てませんよ」


「……そんなの、

やってみないと分からないだろ」


「分かりますよ。

目で見るように、肌で感じます」


まるで、

こっちの全てを悟ったように呟く仮面。


舐めてるのか、間合いを五メートル近く空けたまま、

攻め入ってくる気配さえない。


なら“集中”だ。


混戦になったら使えないけれど、、

時間をもらえるならやらない手はない。


目を閉じ、

視界から仮面の姿を追い出す。


それから、外界の情報を遮断して、

身体の奥底から糸を引きずり出すイメージで体を作る。


――集中。


――集中。


「あら? 全身の血流量が増加していますね」


……はぁ!?


「筋肉も活性化していますか?

蠕動の波がどんどん広がっていますが」


その言葉に、絶句した。


集中しようと思っていた頭が、

消火器をぶっかけられたように一瞬で真っ白になった。


この人……僕の集中さえも、見切ってる。


筋肉の動きとか、

血流量とかまで把握されてる。


そう――対象の状態把握。


そんな“異能”と言い切っても構わないような力を、

持ってるって……ことか。


でも、そんなのって、アリか?

そんなの、端から勝負になるとかそういう次元じゃない。


先の兵隊を十秒足らずで薙ぎ倒して回った身体能力と、

今の“異能”。


例え僕がこのまま“集中”したとしても、

勝率はかなり低いだろう。


鬼塚といい、黒塚さんといい、

ABYSSは人外ばかりだと思っていたけれど……。


この仮面は一人、段違いだ。


これが、ABYSSの部長……!


「……もう、終わりですかね」


うっそりとした呟き。


その暗い響きに片山の末期がちらつき、

冷や汗が噴き出してくる。


「でも、驚きました。

あなたも普通の学生じゃなかったんですね」


「――晶くん」


「……えっ?」


ふいに名前を呼ばれて、

思わず、息が止まった。


心臓が高く跳ねる。

目の前の色が/周囲の音が、急にはっきりしてくる。


「ただ、残念です。できれば晶くんとは、

こんなところで会いたくありませんでしたから」


からりと渇いた音を立てて、

人殺しの仮面が地へ落ちる。


その下にあった顔は――


「聖、先輩……」


「こんばんは、晶くん」


いつもそうしているように、

くすりと聖先輩は笑った。


ただ、その目だけはいつもと異なり、

ひたすらに冷たい輝きを帯びていた。


その微笑みに、

僕は何を言ったらいいのか分からなくて――


「嘘……ですよね?」


思いつくままに、

一番言って欲しい言葉をおねだりした。


だって、先輩はいつも、

僕が相談やお願いをすると喜んでくれたから。


だからきっと、今回もそうであってくれると信じて、

先輩に同意を求める。


けれど――


先輩は、眉一つ動かさなかった。


ただ黙って首を振り、無機質な視線だけで、

この状況が真実であると告げてきた。


……先輩にこんな目で見られるだなんて、

これまで想像もしたことがない。


だから、悲しいとか辛いとか、

そういうのは通り越して――とにかく痛かった。


それでも、涙が滲みそうになるのをぐっと堪えて、

声に震えが出ないように、小さな声で訊ねる。


「……どうして、なんですか?」


「それは聞かないほうがいいですよ。

これ以上、ABYSSに関わりたくないでしょう?」


「それは……」


「まあ、驚くのも無理はないと思います」


「私も、晶くんが儀式に関わっていると知った時は、

凄く驚きましたから」


けど、聞かないほうがいいこともあるでしょう――と、

先輩が脱ぎ捨てた仮面を足で転がす。


「……分かりました。

これ以上は聞きません」


「物分りがよくて助かります」


「これ以上首を突っ込まないのでしたら、

私たちもあなたには関わりません。安心して下さい」


「あなたのお友達も、

全員解放してあげますよ」


「……ありがとうございます」


「お礼を言われるのも妙な気分ですけどね。

あなた方を生かすのは、こちらの都合ですから」


……僕らのことを気遣ってじゃない、

っていうことか。


「本当は私、

あなたを殺したくてたまらないんですよ?」


「――部長」



「……少し、話しすぎましたね。

この辺りのやり取りは消去しておいて下さい」


『了解』とぶっきらぼうに呟いて、

再び鬼塚がカメラを構える。


「ああ、晶くんのお友達ですけど、

全員校舎の中で眠っています」


「場所は晶くんの教室ですので、

早く迎えに行ってあげて下さい」


「分かりました」


「彼女たちを回収したら、すぐに学園から離れて下さい。

これから、後始末がありますから」


後始末……多分、痕跡の消去だろう。


それなりの人数が出入りするはずだろうし、

先輩の言う通り、早く学園から出たほうがいいな……。


「そういえば、片山の手下ってどうなるんですか?

まさか……」


「いえ、彼らは殺したりはしませんよ。

組織へと送る予定です」


「恐らく、薬を抜かれて、

記憶を消されるんでしょうね」


「そうですか……」


「殺されそうになった相手の心配ですか?

相変わらず優しいんですね」


「いえ。心配っていうか……」


聖先輩に、

これ以上人殺しをして欲しくないだけです――


そう思ってはいても、

結局、何も言えなかった。


そんな僕の内心を知ってか知らずか、

聖先輩はどこか寂しそうに笑った。


「さて、お喋りはここまでです。

早く行って下さい」


「……ええ。それじゃあ先輩、また月曜に」


「ええ、また月曜に」


それだけ言って、

聖先輩は僕に背を向けた。


いつもの挨拶をまた交わせたことに、

ホッとした反面――


お互いが泥の付いた手で握手をしているような、

無視できない違和感が頭から離れなかった。





それから――教室へ行って、

床に横たわっていた三人を起こした。


片山に捕まっていたのは、

予想通り温子さんと佐倉さん。


幸いなことに全員、特に目立った外傷もなく、

事情を説明した後に速やかに学園から退出できた。


そうして、温子さんは佐倉さんを、

僕は爽を送るという運びになって――


ようやく、今晩の事件は終わりを迎えてくれた。


「気ぃ抜けた顔してんね、晶」


「まあ、色々としんどかったしね」


……今日の出来事を、

爽がどう思っているのかは分からない。


ただ、何だかんだで爽は

『踏んではいけないもの』を知っている。


敢えて説明や口止めをする必要もないだろう。


可能であれば、

忘れてしまえるのが一番いいと思うし。


「そういやさ、

晶ってこれからどーすんの?」


「どうするって?」


「体育とか。

本気出して行くスタイル?」


あー……そういえば、本当の僕のことを

初めて他人に知られたんだっけ。


今までは、

知られたら引かれると思っていたけれど……。


爽の反応を見る限りは、

自分の思っているほど悪いものでもないのかな?


「……まあ、気が向いたらかな」


「みんなに変な心配されそうだし、

基本は今まで通りに行くよ」


「ふーん、そっか。

じゃあ、あたしも知らない振りしとく」


気安い感じで頷く爽。


それから、少しだけ駆け足で前に出て、

背伸びをしながら――



「でも、覚えてるかんね」


そう、独り言のように呟いた。


「あと、ありがと。温ちゃんを助けてくれて」


それだけ言って、

爽がすたすたと前を歩いて行く。


『忘れてもいいよ』と言おうと思ったものの、

それは止めておいた。


僕のことを知っている人が

一人くらいいるのもアリだろう。


それにいつか、爽の知っている秘密が、

秘密じゃなくなる時が来るかもしれないし。


「待ってよ、爽」


先を行く爽に、小走りで並びかける。


「やーだよん」


けれど爽は、逃げるように足を速めて――


深夜の街中で、いつの間にか笑いながら

追いかけっこをやっていた。



疲れている体に鞭を打つという、

何ともドMなじゃれ合い。


でも、何だか楽しくて、

止めようという気にはならなかった。


佐倉さんのこと。聖先輩のこと。


色々と考えるべきことはあるけれど、

今は全部横に置いてしまおう。


だって、ここ数日頭を悩ませていた事案が、

特に大きな被害もなく終息してくれたんだから。


ABYSSとの戦いが、

ようやく終わってくれたんだから――





「じゃあ、いただきます」


「はい、いただきます」


――あれから一週間が経過した。


温子さんが大暴れした学園も、

つつがなく事後処理が進行。


特に教室一つが吹き飛んだ化学室に関しては、

ガスの不始末による爆発事故ということになった。


それから、片山、丸沢の二人は

転校したことになっているらしい。


調べてはいないけれど、

恐らく、片山の部下だった連中もそうなんだろう。


その他の関係者――侵入組ぼくら生け贄組のんこさんたちに関しては、

幸いなことに何も起きていない。


きっと、聖先輩が

約束をきっちり守ってくれているんだろう。


「あ、お兄ちゃん。

お皿取ってもらってもいい?」


『はい』と琴子にお皿を渡しながら、

視線はテレビへ。


画面の中では、いつものキャスターが、

物騒な事件の特集みたいなことをやっていたりした。


当然だけれども、そこにABYSSの事件なんか、

欠片たりとも出てこない。


……そういえば、

聖先輩はいつまで学園にいるんだろうか。


上からの指示が来たら、

転校するとは言っていたけれど……。


もし聖先輩がそうなったら、鬼塚と黒塚さんも、

同じABYSSとして転校することになるんだろう。


ここ最近で殺し合った人たちとはいえ、

それなりに知っているだけに、やっぱり寂しい気はする。


まあ――そう思うのも今だけで、

いずれ何もかも忘れてしまうんだろう。


それこそ、ABYSSの事後処理の如く、

最初から何もなかったみたいに。


「あ、お兄ちゃん見て見て!

うちの学園!」


「――え?」


唐突に叫んだ琴子の声に呼ばれて、

外していた意識を再びテレビに向ける。


そこには確かに、

うちの学園の校門が映っていた。


……ABYSSが事後処理をミスしたとか?


いや、まさかそんなのはあり得ない。


けれど、じゃあ、

どうしてウチの学園が映ってるんだ?


何がなんだか想像もつかないまま、

テレビに見入る。


すると『男子生徒死亡! 鈍器でメッタ打ちか!?』

とかいう物騒なテロップが出て来た。


「うわ、怖っ……」


うちの学園でこういう事件があるなんて、

本当に珍しい。


最近流行ってるとかいう、

不良同士の抗争か?


というか、うちの学園で抗争とか、

一体誰が――


『殺されたのは、

朱雀学園三年生の鬼塚耕平さんで……』



「――はぁ!?」


鬼塚!?

鬼塚って言ったのか、今!?


『現場には激しく抵抗した形跡があり、複数人に……』


キャスターの説明する中、

画面に顔写真が映される。


卒業アルバムの写真撮影の時の写真なのか、

つい最近見た鬼塚と、寸分違わぬ顔をしていた。


「お兄ちゃん……」


不安そうに僕を見つめてくる琴子。


まあ、琴子と多少なりとも関わった人間が、

死亡したとしてテレビに出たんだ。


ショックだってあるだろう。


「でも、一体何があったんだ……?」


あの鬼塚が殺されるだなんて、

考えられない。


例え金属バットを持った集団に囲まれたとしても、

並みの相手なら鬼塚は撃退できる。


というか逆に

、鬼塚が相手を殺しかねない。


でも、実際に死んでいるのは鬼塚なわけで。


……なら、それはやっぱり、


「ABYSS、なのか……?」


「……お兄ちゃん?」


「何でもないよ」


そう琴子を撫でながらも、

頭の中はごちゃごちゃのままだった。


言い知れぬ不安の影が、

じわりじわりと伸びてくるのを感じる。


――ABYSS。

 

深遠、絶望、危機――奈落。


全てが終わったはずなのに、

まさか、まだ……。


『警察では、鬼塚さんが何らかの事件に

巻き込まれたものとして、捜査を進めている模様です。

以上、現場から中継でした』



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る