タカツキリョウコの最期









「参加者が誰なのかを確認しに行く?」


「ああ。この傍にもう一つ来てるみたいなんだ。

朝霧さんも一緒に来てくれないか?」


「“悪魔”持ちの私一人だけだと連絡が取れないし、

部屋にいるなら佐倉さんたちも安全だろ?」


「あーっと……そうだね。そうするか」


温子が横へちらりと目を向ける。


そこには、放送以来ずっと泣いている羽犬塚と、

そんな彼女を慰め続ける那美の姿があった。





「……何とも難しいもんだね。

相手は敵だって分かってるのにさ」


「藤崎の話?」


「ああ。須賀さんだって、

羽犬塚さんを気遣って私を連れて出て来たんだろう?」


「私と須賀さんは、

藤崎を排除することを主張してたしね」


「それはついでだよ。

メインは参加者の確認だし」


「でも、それだったら、

晶くんが戻ってきてからでもよかったよね」


二人が部屋を出るより十分ほど前に、

既に晶がコロシアムへと向かっていた。


万全を期すのであれば、

彼が戻ってから全員で行動するのが正しい。


なのに、それをしなかったのは、

やはり羽犬塚を気遣ったのだろう。


「やっぱり朝霧さんでも気になるんだ?

藤崎が死んだこと」


心中を見透かされたことの照れ隠しに、

温子へと話題を振り直す由香里。


それに、温子は照れることなく、

『まあね』と噛み締めるように頷いて返した。


「意外だな。朝霧さんなら

『手間が省けた』くらい言うと思ってた」


「確かに排除を考えてはいたけれど、

いざ羽犬塚さんの泣き顔を見るとね……」


「悲しいとかじゃなくて、

もやっとする感じ」


「まあ、私たちは駒じゃないしな。

何か思うのは人間としては普通の反応だと思うよ」


「そこを忘れてしまうと、

あっという間にABYSSの仲間入りだ」


「怪物と戦う者は、自らが怪物と化さぬよう心せよ。

深淵を覗く時、深淵もまたお前を見返すのだ――かな?」


「そう。善悪の彼岸だな」


「大丈夫……と言いたいところだけれど、

もし知り合いが殺されたらと思うと自信はないな」


「それはそれで人間らしいと思うけど。

死に敏感だってことだし」


「本当にまずいのは、

自分以外の死に鈍感になることだな」


「そういうプレイヤーはごまんといたけど、

例外なく破滅していったよ」


「黒塚さんも?」


「……破滅に向かってる最中って感じだな。

何とかして止めたいと思ってるよ」


「私たちもできるだけ協力するよ。

黒塚さんから話も聞いておきたいしね」


「あいつに何を聞くんだ?」


「アビスって薬をどこから手に入れたか」


「誰かから奪った線もあるけれど、それよりは、

もらったと思うほうが自然だろう」


「確かにね。あいつは拾い食いしかねないバカだけど、

さすがに奪った薬を闇雲に飲みはしないと思うし」


「……散々な言いようだなぁ。

私にはそうは見えなかったんだけれど」


「外面だけはいいからねー、あいつは」


「まあそれはともかく。

黒塚さんが薬をもらった相手が気になるんだ」


「その行為が悪意によるものかどうかは別として、

その人は私がまだ遭遇してない参加者の可能性が高い」


「でもって、その参加者が、

私たちを除いた最大勢力なんじゃないかなって」


「……そう思う根拠は?」


「さっきも軽く話したけれど、

小アルカナがどうにも足りていないから」


温子たちの所持している小アルカナは

全体のおよそ三割強。


だが、それだけあってなお、

4枚組は一種類も存在していなかった。


「七並べみたいに、

止めてるやつがいるんじゃないかって話しだっけ」


「そう。その止めてるやつが、

黒塚さんに薬を渡したんじゃないかなって」


「トレードとかを込みで考えるなら、

カードの流れもある程度は操作できるしね」


「最初から現在の形を考えていたんだとすれば、

誰かを暴走させる目的で薬を持ち込んだのはあり得るよ」


「……牽強付会の域は出ないかな。

でも、未知の参加者に会うのは賛成」


「今のままじゃ助かる人数は限られてるし、

できることはやっておいたほうがいいからな」


「そうだね。というわけで、

まずはこっちの参加者の確認に行こうか」


「あと、晶くんのチェックも忘れずにね。

今、どうなってる?」


「……ちょっと進行が遅いな。

まだコロシアムに着くまで時間がかかりそうだ」


「怪物にでも遭ったのかな?」


「かもな。でも、二つの光点もそのままだから、

このまま行けば多分接触すると思う」


「接触か……もしもコロシアムで争ってるなら、

それに巻き込まれなければいいんだけれど――」








「おぉおおおおぉぉっ!!」


聖が雄叫びと共に拳を放つ/蹴りを飛ばす――

高槻が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。


果敢に反撃を試みようとするも、

全く追いついていない。


脳内物質によりブーストされた聖の超反応と、

痛みを忘れた体による、人外じみた速度と猛攻。


超感覚こそなくなったものの、

瞬時に閃く打撃はほぼ対処不能。


容赦なく振るわれるナックルが、

次々と高槻の四肢に刺さっていく。


そして、命中箇所に深刻なダメージを植えつけ、

どんどん高槻を死の淵へと追い詰めて行く。


急所こそ庇ってはいるものの、

それも決壊寸前の様相。


今や、序盤の一方的な展開がそのままひっくり返り、

完全に聖が高槻を圧倒していた。


だが――


「っ!?」


三十秒ほど経過したところで、

聖の体に異変が訪れた。


最初にそれが訪れたのは、

負荷をかけ続けていた右腕。


腰の入ったフックを叩き込んだ際に、

ぶつりと不吉な音を立てて力が抜けた。


筋断裂――脳内麻薬が痛みを押さえているものの、

腕の性能が格段に低下し始める。


それでもごまかしごまかし立ち回るも、

動くたびにボロが出る/性能が落ちていく。


それ以前からダメージを受け続けていた聖の体が、

とうとう破綻の時を迎えたのだ。


同時に、ダイアログの効果が切れ始め、

肉体操作の精度も低下――


脳内物質のコントロールも上手くいかなくなり、

どんどんブーストの効果も薄れてきた。


それを自覚した聖が、

大急ぎで高槻をまとめにかかる。


何とか時間に滑り込めないかと、

歯を食いしばって懸命に拳を振るう。


しかし、並みの相手ならともかく、

そんな雑な攻めが高槻に通じるわけがない。


「うっ……」


「へっ……な、なに焦ってやがんだ、

バカヤロォがぁ!」


高槻はとうとう、聖の放った右を掴み取り、

メリメリと音を立てて締め上げてきた。


そして――その状態で殴り合いが始まる。


お互いに片手を封印したまま、足技もなく、

空いた手でひたすら相手を殴る/殴る/殴る。


目を覆いたくなるような

血みどろの削り合い。


血を/唾液を/汗を撒き散らしながら、

命を武器に衝突を繰り返す。


そのうちに片手を縛る高槻の指が解け、

腕を振るうほうも振るわれたほうも弾けて倒れた。


それでも即座に起き上がり、

迷わず相手へ向かって突進していく。


もう、二人の意識からは、

目の前の相手以外が消し飛んでいた。


ただ/とにかく/ひたすらに、

この宿敵を絶対に殲滅してやるという意地をぶつけ合う。


そんな肉弾戦の明暗を分けたのは――

一本のナイフだった。


「ぐっ! ぁああっ……!」


「はぁっ、はぁっ……

ふへへ、こ、このヤロォ……!」


地に伏す森本聖が、

口から悲鳴と唾液交じりの血を零す。


が、それよりもずっと多くの血が、

ナイフの刺さった肩から腕を濡らしていた。


その赤色を眩む視界の中で眺めながら、

高槻が口角を上げる。


「さ、さすが、鬼塚のナイフだなっ……。

あいつマメだから、よく研いてやがる」


「どうして……あなたがっ、それを……!?」


「鬼塚のやつに頼まれたんだよ。

聖に渡してやってくれってな」


「おかげでアタシが勝てそうっつーのは、

何ともありがてー話だよなぁ?」


「っ……!」


「っつーか、アタシに、はぁっ、勝とうなんて――

はあっ、づ、ひ、百年くらい早いんだよォ!!」


高槻が勝ち鬨を上げながら、

聖の肩に刺さったナイフを蹴りつけ押し込む。


聖の口から迸る悲鳴。


しかし、それを上げさせた高槻もまた、

蹴りつけた反動でふらふらと後ろへ後退した。


「おっ……と、はあっ、はあっ……!

っぶねぇ……!」


危うく消えかけた意識をどうにか繋ぎ止めつつ、

高槻が前髪をかき上げる。


この女がここまで追い詰められるなど、

本人も含め誰も想像できないことだった。


止めを刺そうにも、

遂行できるだけの余力は残っていない。


使えそうなナイフは、

既に聖の肩へと突き刺してしまっている。


聖はもう立ち上がることもできないだろうが、

ナイフを回収しに近づいて噛まれる可能性もある。


何をしていいのか分からない――

こんなことは、高槻にとって初めての経験だった。


「あー……クソっ」


ふらふらと頭を揺らしながら、

高槻が何かないかと周囲を見回す。


その足下で、聖はこっそりと、

肩に刺さったナイフを引き抜いていた。


聖も同様に体力が残っていないため、

もう頼れるのはこの鬼塚の置き土産以外にない。


だが、どうして彼は

わざわざこれを残したのだろうか?


形見として残したと考えるのが妥当だったが、

鬼塚をずっと見てきた聖からすると、少し違う気がした。


彼は、どちらかというと

忘れ去られることを望む人間だ。


フォールの副作用のため、

他人に迷惑をかけないよう行動していたこともそう。


死んでまで他人を悲しませたくないと

考える人間なのだ。


そんな彼が、

ナイフを残した意味は――


「――え?」


その時、突然何かが唸りを上げたことで、

聖は我に返った。


同時に、顔から血の気が引いた。


2ストロークガソリンエンジンの駆動音を

響かせるものなど、聖には一つしか思い当たらない。


「そういやよォー、

こいつを用意してたの忘れてたわ」


げらげらという女の笑い声。


排ガスの臭いと共に届いたそこに、

聖が恐々と目を向けると――


「これなら……止めも刺せるよなぁ?」


そこには、チェーンソーを取り構えた、

高槻の邪悪な笑みが待ち構えていた。


そのおぞましい光景に、

聖の全身の毛が逆立つ。


本能的に危機を感じ取った体が、

無意識のうちに後退する。


「おいおい、何ビビってんだよ。

お前だって片山に使ってただろ?」


アタシのお古を発掘してさ――と、

口の端から垂れるよだれを手の甲で拭い取る高槻。


聖の顔色が真っ青になる。


これから迎える結末を想像すると、

全身からどっと汗が噴き出してくる。


その生存本能が、

僅かながらに聖の体へ活力を与え――


振り下ろされた高速回転する刃を、

右手のナックルで受け止めていた。


当然、チェーンソーの刃を

そんなもので跳ね返せるはずがない。


聖が悲鳴を上げる。


手首が折れるのではという勢いで弾かれ、

掠めた刃に血飛沫を散る。


しかも、それだけやっても、

一瞬チェーンソーの進行を止めただけ。


聖の抵抗に驚きつつも、

高槻は再度右手を振り下ろす。


聖の頭上へとチェーンソーの刃が迫る。


「あ――」


そうして死に瀕した瞬間、

聖の脳内を再び神経伝達物質が駆け回った。


時間の流れがスローに感じる。


痛みが引き、重いながらももう一度、

腕が上がるようになる。


しかし、この状況をどう切り抜ければよいか。


秒速二十メートルで動く刃すら見えるが、

例えこの刃を回避できたとしても意味がない。


高槻は命中するまで

何度でも攻撃をしてくるだろう。


奇跡がいつまでも続けば回避は可能だが、

聖が自身の体を把握するに、そんな余裕はまるでない。


どうにかして、

高槻を止めなければならない。


どうにかして――どうやって?


どうすれば、

この絶望の一瞬を抜けられるのか――?


まるであの夜に再び放り込まれたかのように、

聖が恐怖に固まる/体が震え出す。


そんな時だった。


いつの間にか、

少女の手を包む温かいものがあった。


無骨で大きい、男性の手。


どこかで見たことのあるその手に、

聖がハッと振り返る。


「うそ……」


そこにあったものは、銀色の髪と鋭い眼差し、

そして優しげな微笑みだった。


初めて会った時からずっと支えてくれていた人が、

今もまた彼女の傍にいてくれた。


「鬼塚くん……」


聖が、かの人の名前を呼ぶ。


少女の呼びかけに、

無言で頷きを返すその男。


それから、彼はキッと目を絞り、

斜め前方を見据えた。


その視線を追った先には、

悪魔のような笑みを浮かべた、化物女の姿。


気が付けば、

手の震えが止まっていた。


先ほどまで感じていた彼の気配も、

いつの間にか消えていた。


それは、危機に瀕した生命のために、

脳髄が見せた幻だったのかもしれない。


だが、その正体が何であろうと、

聖は構わなかった。


今、彼女の手は、

確かに彼に支えられているのだから。


それを頼りに、叫んだ。

前へ出た。


チェーンソーを掻い潜る。

残る力を振り絞って地面を蹴る。


そして、


「あぁあああっっっ!!」


眼前のABYSSへと、

その鋭い刃を突きたてる――!


「……あ?」


小さな声が聞こえ――


程なく、チェーンソーのアイドリング音に

掻き消された。


ついで、大きく見開かれた高槻の双眸が

くるりと白く反転。


溢れ出した血が、女の胸元を濡らし、

ナイフを伝って聖の手を濡らしていく。


チェーンソーが音を立てて地面へと落ち、

衝撃でエンジンが止まる。


そうして、殺されることに憧れていた女は、

ようやくその願いを遂げた。


お喋りだった彼女とは対照的な、

無言の最期だった。


「ぐっ……」


崩れ落ちる高槻につられるように、

聖の体も地に落ちる。


膝を付き、うずくまるような体勢でもって、

呼吸を整える。


弟の仇を討った。


鬼塚の仇を討った。


しかし、達成感のようなものはなかった。


ただ、辛く苦しい戦いが終わったことに対する

安堵の気持ちで一杯だった。


いや、本当に終わったのだろうか?


怖くなって、

高槻の死体へと目をやる。


と、高槻の胸から抜け落ちたナイフの形が、

先ほどと変わっていることに気付いた。


倒れた時の衝撃か、

ナイフの柄尻の部分が取れている。


「壊れちゃったのかな……」


目をやって柄尻を探しつつ、

ナイフを回収しようと聖が近寄る。


あれ――と、その手が止まった。


ナイフの柄の中は空洞になっており、

そこに紙切れが丸まって入っていた。


「これって、もしかして……」


入っていた紙片は二つ。


そのうちの一つ――どこかで見た記憶のある紙を、

聖が慌てて広げてみる。



それは、二年前の儀式の夜に、

彼女が記した遺書だった。


鬼塚に託したきりそのままで、

聖自身も存在を忘れていたものだ。


それが彼のナイフから出てきたということは、

彼はずっと大事に持っていてくれたということになる。


「もう、必要なくなったのに……」


何でこんなのを大事に持っているんだろうか。


そう考えると、おかしくもあり、

どことなく嬉しくもあった。


「もう片方は何だろ……」


ナイフの柄から人差し指で取り出し、

こちらも広げてみる。


紙面には、

ボールペンで走り書きされた文章。


その最上段には、

『聖へ』と少女の名前が記されていた。


「私宛の手紙……?」


心臓が一つ高鳴るのを自覚しながら、

手紙へと目を落とす。


『弟を助けられなくて、

本当に申し訳なかった』


そんな、既に聖さえも割り切ったことへの謝罪から、

手紙は始まっていた。



『今まで一度もきちんと謝ることができなかったことを、

どうか赦して欲しい』


その、初めての言葉が

したためられていたことで――直感する。


これは、彼の遺書なのだと。


聖のために最期に残してくれた、

彼の言葉なのだと。


『結局、俺は全て

中途半端で終わってしまったんだと思う』


『ABYSSを潰すつもりでABYSSに入ったのに、

やってきたのは罪の無い人の命を絶つことだけだった』


『最低の人間だ』


『フォールのせいで、お前にも色々迷惑をかけた。

許してくれ』


「違う……ちがうよ……」


手紙を握り締めながら、

聖が震える声で呟く。


彼女の知っている鬼塚は、

最低な人間ではない。


ABYSS以外の人間が生贄になる時は、

必ず助けようと奔走していたのは分かっていた。


そのために危険なこともやっていた。


誰かを殺したのも、

その子が生きながら慰み者になるのを防ぐためだ。


尊厳を守るためだ。


フォールのせいで暴れたことも、

鬼塚のせいじゃない。


鬼塚には、何の罪もなかった。


ただ、力がなかっただけだ。


『けど、お前なら、

俺にできなかったことをやれると思う』


だからこそ、その次の行には、

いたたまれないものがあった。


『お前には強い意志がある。

俺には無い力を持っている』


『だから、俺は多分、安心して死ねる』


「鬼塚、くん……」


『お前は凄いヤツだ。

お前と会えたことを、誇りに思う』


『お前に会えて、本当に良かった』


『この手紙を読んでいる時、

俺はお前の傍にはいないだろう』


『けど、それでも、

お前が目的を遂げることを心から祈ってる』


鬼塚はもういない――


頭では分かっていたつもりでも、今になってようやく、

聖の中でそれが実感となって湧いてきた。


『だから、頑張って欲しい。

俺の見れなかった夢を、お前はどうか見て欲しい』


『それが、俺の最高の戦友に贈る、最後の言葉だ。

どうか諦めずに、最後まで頑張ってくれ』


滲んでいた涙が、鼻筋を通っていく。


腫れて血に汚れた顔を洗い流していく。


高槻が死に、鬼塚が死に――


あの悪夢の日からずっと続いていた少女の夜が、

ようやく一つの終わりを迎えた。


聖が溜め息をついて、顔を拭う。


そして、クリアになった視界で、

もう一度手紙に目を落とす。


「戦友……かぁ。

私の片思いだったのかなぁ……」


せっかく拭いた涙なのに、また零れそうになって、

聖は天井を見上げた。


――コロシアムの扉が再び開いたのは、

そんな時だった。








「何だこれ……?」


コロシアムへの道中――


普通は一時間に一体でも遭えば多いと感じる怪物に、

既に三体も遭遇していた。


二十分間でこんなに多く遭遇したのは、

これまで迷宮を回っていた中で初めてだ。


そのせいで、想定していた時間なのに、

まだコロシアムに辿り着けていない。


「これは無理にでも一人で来るって言って

正解だったな……」


小部屋でのやり取りを思い出す。


――当初、僕が単独でコロシアムを見に行くことは、

全員から反対された。


けれど、一度に二人を確認できることと、

適任者が自分以外にいないことを主張――


最終的には『“悪魔”を持っていかず、

必要に応じて電話誘導に従うこと』で許可をもらった。


その制限は、僕が深追いしないための

配慮だったんだろう。


もちろん、その警戒の対象は

“悪魔”に映る参加者がメイン。


この怪物が異様に多い状況は、

あの場の全員が全く想定していなかった。


そして――異常があるということは、

原因があるということ。


「この先に、何かあるのか……?」


警戒を高めつつ、

コロシアムへの道のりを進む。


その道中――

温子さんから、連絡が入った。


『コロシアムの参加者が一人減った。

もしかすると、殺し合って片方が死んだのかもしれない』


『もう一人はコロシアムに留まり続けてる。

気を付けて』


「……」


不穏な予感を胸に、迷宮を進む。


そうして、

コロシアムに辿り着いてみると――





そこは、集結した異形の怪物たちが

奇声を上げて踊る地獄と化していた。


その隅で、群がる怪物に追い立てられる

見覚えのある姿。


見たことのないくらいぼろぼろで。

見たくもないくらい血だらけで。


なんで、なんでこんなことになってるのか

全然分からなくて――


「聖先輩っ!!」


ただその名前を叫んで、

先輩の元へと走った。


「晶くん……!?」


その声に、先輩が僕のほうを向く――

動きの止まったところを怪物に蹴り飛ばされる。


瞬間――目の前が真っ赤になった。


そいつをどうにも許せなくて、

ナイフを抜いた/走った。


「何してんだお前ぇえっ!!」


そして、先輩に覆い被さろうとしてるそいつの目を、

仮面の上から両方まとめて切り裂いた。


目を押さえて呻く怪物――

その鼻面を思い切り蹴り飛ばし、先輩から引き離す。


同時に背中に衝撃。

呼吸が止まる/噎せて咳き込む。


振り返れば、棍棒を握り締めた怪物が、

もう一撃とばかりに凶器を頭上に振りかぶっていた。


それを転がって躱す/別な場所から来た剣を避ける

/さらに飛んできた蹴りは避けきれずガードを選択。


「いぎっ……!」


黒塚さんに蹴られたのとほとんど変わらない威力に、

腕が痺れかける。


“集中”なしで

何度も攻撃をもらうのはまずい。


転がされた先で跳ね起きる。


と、酸素不足で目の前がくらりとした。


もちろん休む間もなく襲ってくる怪物――

往なす/追い返す/逃げ場を求めて走る。


さらに気分が悪くなるも、先輩を放っておけず、

咳き込みながら先輩に向かおうとする怪物の元へ。


怪物が振り向いてきたところにナイフを突き込むも、

動きが噛み合わず皮膚を僅かに削っただけ。


即座に飛んでくる反撃――それを何とか受け流しつつ、

さらに幾つもの軌道でナイフを走らせる。


が、焦っているせいか、

動きを奪うには至らず効果の薄い傷を刻むだけに。


そうして手間取っている間に

他の怪物が向かってきて、たちまち乱戦に。


「くそっ!」


四方八方から襲い来る怪物に、

危機感知が警鐘を鳴らし続ける。


その音の小さくなった隙間で酸素を貪りながら、

再び聖先輩の傍を目指す。


が、状況は依然としてかなり厳しいまま。


飛んでくる幾つもの攻撃を全て躱すことは敵わず、

危機感に従って選択的に対処することに。


殺傷力の高い槍や斧は優先的に避け、

素手や鈍器は多少の被弾覚悟で流す。


けれど、こんなものが

いつまでも持つはずがない。


とにかく、数を減らすなり逃げるなり、

この状況を変えないと――


そう思っていたところで、

コロシアムの扉が開いた。


「嘘だろ……」


さらに怪物が二体。


ざっと見回した限りでは、

これでこの場に二桁に近い怪物がいることになる。


一体、何が原因で、

こんなに怪物が集まって来てるんだ……!?


「っ!」


文字通りに飛んできた鉈を躱す。


その着地点に、すかさず怪物が殺到してきて

ぐちゃぐちゃになっていく。


一対一なら問題ない相手でも、

複数集まった時のこいつは完全に別物だ。


パターンにハメて殺す動きができない以上、

高いスペックの相手に真正面から行かなきゃいけない。


もちろん、そんなことをしていたら、

命が幾つあっても足りない。


どうにか聖先輩を連れて

ここから通路まで出ないと――


「聖先輩! 大丈夫ですかっ!?」


何とか逃げ延びている聖先輩に声をかけるも、

返事をする余裕すらないようだった。


幾ら怪物が複数とはいえ、

先輩がここまで消耗するなんてあり得ない。


となると、コロシアムにいたもう一人と、

死闘を繰り広げていたんだろう。


僕がここに来るまで三十分弱。


ダイアログも切れかけで、

今現在の身体能力は常人以下になってるはずだ。


全身のダメージも凄まじくて、

明らかに戦闘できる状態じゃない。


むしろ、早く処置をしないと、

命にすら関わってくる。


「先輩、コロシアムから逃げましょう!

僕が今行くんで、出入り口に近づいてて下さい!」


遠くの先輩に叫びながら、

押し寄せてくる怪物の猛攻を捌く。


多勢に無勢の状況を覆すために、

なるべく相手の足や視界を奪うように攻撃する。


が――追いつかない。


弾丸をしこたま撃ち込まれてなお

丸沢が動き回っていたことを思い出す。


傷を負わせて止めようという考え自体が、

そもそも間違ってたっていうことなのか――


「っ!?」


そうこうしている間に、

聖先輩の悲鳴。


ダメだ。

もう一刻の猶予もない。


戦線を放棄して大きく後退――

大幅に迂回して、先輩の元を目指す。


道中で降り注ぐ攻撃の雨は、

危機感知に全部任せて勘で避けて進む。


被弾は二カ所。


ざっくりと背中が切れた気がするけれど、

止まってる暇はない。


先輩に組み付こうとしている怪物を、

走る勢いそのままの体当たりでふっ飛ばす。


さらに、傍にいたもう一体の足に

ナイフを突き立てて、先輩を抱え込んだ。


「先輩! しっかりして下さい!」


「……私はいいから、

晶くん一人で逃げて下さい」


「何言ってるんですか!?」


怒鳴って、先輩の体を無理矢理引っ張り上げる

/腕で抱いて持ち上げる。


どこもかしこも傷だらけの体は、

触れているだけで壊れそうで恐ろしい。


けれど、このまま放置していたら、

間違いなく死ぬ。


そう思っていた矢先に降ってきた槍を、

側方に跳んで回避。


着地の衝撃が思ったよりキツいのか、

聖先輩が顔を歪める。


「少し我慢してて下さい!」


さらに二つの斬撃を回避してから、

コロシアムの扉を目指して走る。


わらわらと追ってくる怪物たち。


けれど、距離はそこそこ稼げているため、

このままなら廊下までは確実に間に合うだろう。


そこまで行けば、怪物に囲まれることはない。

逃げながら対処しつつ部屋を目指せる。


幸い、コロシアムの扉は観音開き。


体当たりしてしまえば、先輩を抱えたままでも、

あまり速度を落とさず開閉は可能だ。


後は、どれだけ先輩に負担をかけないように、

扉を開けられるか。


「先輩、ちょっと衝撃行きます!」


肩でも危ないと思い、

背中から扉へとぶつかっていく。


そして――


いきなり背中に痛みが走って、

先輩もろとも地面に投げ出された。


「……えっ?」


ちょっと待て。

何が起こった?


何で、背中から殴られたんだ――?


信じられない思いで見上げた先には、

開いた扉から入ってくる新たな怪物の姿。


「ちょっ……と、」


待ってくれよ……。


何でだよ……?


先輩は早く治療をしないと

危ないんだぞ?


なのに、

なんで、なんで――


「何で、こんな時に限ってぇええっ!!」


叫んだ。

けれど、誰も聞いてくれなかった。


怪物たちには僕の思いなんて関係なくて、

ただ殺すために、様々な武器を手に集まってくる。


逃げていた時は走って追いかけてきたのに、

今はぞろぞろと周りを囲んできていた。


まるでそうすることが

決まっているかのよう。


じゃあ、この後は――と嫌な想像が駆け巡る中、

怪物が何人か前へと出て来た。


一斉に来られるよりはマシだけれど、

ずっとそうしてくれる保証はない。


脱力している先輩を背後に庇いながら、

必死になってこの状況を打破する方法を探す。


けれど、どうにも思いつかない。

どんどん胸の内に絶望感が押し寄せてくる。


そんな折りに、

ふいに既視感が訪れた。


周囲に溢れた敵/向けられた武器

/向けられた殺意/凄絶な殺し合い。


手元に伝ってくる生温かい血と、

覆い被さってくる体の重さ。


涙でぼやけた顔。


掠れて声にならなかった言葉を紡ぐ、

細かく震えていた唇。


『お前が死ねばよかったのに』


「あ……」


気付いたら、

かちかちと歯が鳴っていた。


そうだった。


僕の一番奥底へと封印されていた

忌まわしい記憶。


実の姉である御堂琴子が被害者だった、

僕の初めての人殺し。


今と全く同じ状況で、僕は、

琴子姉さんを刺し殺したんだ。


「ひっ――!?」


思い出した途端に、

急に聖先輩の傍にいるのが怖くなった。


何かの間違いでまた殺してしまわないかと

不安に駆られて、聖先輩から這って逃げた。


そこで、世界が跳ね上がった。


殴られたのだと分かった頃に、

頭が割れたかと思うくらいの痛みがやってきた。


堪えきれずに、地面をのたうち回る。

悲鳴を上げる。


揺れる視界の中で見下ろしてくる

怪物たちの狂喜の仮面。


それで、自分がどうしようもなく

馬鹿げた行動を取ったのだと悟った。


その思考がさらに蹴り転がされて、

視界がさらにぐるりと回る。


もう、わけが分からなかった。


自分がどうされているのかも分からず、

地面に伏せて痛みから逃げた。


ただ、あの時に琴子姉さんを殺したみたいに、

自分もきっと殺されるんだろうということは分かった。


何度も打撃音が繰り返される。

自分の体が揺さぶられる。


もう、痛みも――


「……えっ?」


どうして、痛くないんだろうか?


殴られていて、息が噎せるでもなく、

体が勝手に悲鳴を上げるでもなく。


まだ思考がまともにできる状態で、

そんな風になるわけがない。


じゃあ、どうして――


「ひじり、せんぱい……」


いつの間にか、

僕の上に聖先輩が覆い被さっていた。


そして、怪物たちが繰り返していく攻撃を、

ひたすらその背中で受け止めていた。


その衝撃がどれだけ大きいのかが、

打撃音から伝わってくる。


それがどれだけ痛いのか、

聖先輩の苦悶の表情を見れば分かる。


それでも、悲鳴一つも上げずに、

先輩はじっと黙って耐えていた。


「先輩っ、どうして……」


先輩が目を開く。


その目が、琴子姉さんのものとダブって見えて、

また歯が僕に関係なく鳴り始めた。


けれど、聖先輩は構わず、

姉さんと同じように僕を見てきた/口を開いた。


思わず耳を塞ぎたくなる。


『お前が死ねばよかったのに』


あの言葉が聞こえて来そうで、

怖くて涙が溢れてくる。


お願い。

聖せんぱい、やめて――


「だいじょうぶですよー、あきらくん」


「……えっ?」


「こわくないですよー。

だいじょうぶ、こわくない……」


「せん、ぱい……?」


僕の困惑に、

先輩がにっこりと微笑んでくる。


何度も何度も背中を打たれながら、

なのに、その痛みを感じていないみたいに。


いや、痛くないわけがない。


だって、さっき、

あれだけ苦しそうにしてたじゃないか。


怪物に襲われて、

少しの衝撃でも辛そうなくらいだったのに。


なのに、何で……。


何でこの人は、

そんな風に笑ってられるんだ?


「せっ、せんぱい……」


「……うん?」


「何で……何で、

僕なんかを庇ってるんですか!?」


「……よかった。

もう、大丈夫そうですね」


「大丈夫って……」


「さっきの晶くんは、

すごく、怖がってましたから」


「いつもの晶くんなら、

きっと……何とかできるはずです」


「でもっ……だとしても!

先輩が僕を庇う必要なんてなかったじゃないですか!」


「何で先輩が僕の代わりに

痛い思いをしてるんですかっ!?」


「何でって……

決まってるじゃないですか」


「晶くんは、

私にとって弟みたいなものですから」


「晶くんが無事なら、

それでいいんです」



ああ……そうだ。


思い出した。


僕はあの時、

琴子姉さんの声をちゃんと聞いていた。


殺した記憶から逃げたくて、

思い出そうとしてなかっただけだ。



そうして一つを思い出すと、

次々と思い出が蘇ってきた。


人を殺したくなくて逃げ回っていた僕にさえ、

家族の中でただ一人優しかった姉さん。


琴子姉さんとミコと三人で遊んだ記憶。


僕を見極めるために、

家族会議で決まって放り込まれた蠱毒の壺。


逃れ得ぬ運命と呼ばれ誰よりも強かった姉さんが、

僕の保険として一緒に入ったこと。


予想外の強敵がいたこと。

僕が予想以上に動けなかったこと。


そして、

相打ちを狙っていた敵と僕の間に入って――


『晶くんが無事でよかった』


「今度は……

ちゃんと守れて、よかった」


聖先輩が崩れ落ちる/昏倒する。


その覆い被さってくる体の重さを感じたところで、

やっと目が覚めた。


ようやく全てを思い出した。


本当は、僕は姉さんに

守られていたのだということを。


そして、僕がどうして力を欲しがったのかを。



先輩を殴りつけようとしていた

怪物の足を切り飛ばす/武器を弾き飛ばす。


それから、

先輩の体をそっと横たえた。


「ありがとうございます、先輩」


僕を守ってくれた手を握り――


先輩が落としたものらしい、

傍に落ちていたナイフを取って立ち上がった。


ずらりと並ぶ怪物の壁。


けれど、その向こうで、

自分の深淵が僕を覗き込んでいるのを感じる。


胸の奥のざわつきが、

自然と喉元を昇ってくる。


やがて訪れる根源的な理解――

懐かしいそれに自分から触れていく。


出すのではなく

色を付けるのだという感覚。


必要なのは、

それを流す扉を開けておくこと。


それさえ分かれば、

何も難しいことはない。


怖がらずに、扉を開け放つ。


途端に溢れ出す深淵

/渦巻く怪物の“音”の奔流。


けれど、それに飲み込まれないように、

きちんと心を保った。


焦る必要はない。

誰も逃れることはできない。


大切な人を守るために、

必要な力を振るえばそれで十分だ。


「もう、僕は怖れない」


先輩の持っていたナイフを前方へ構える。


同時に木霊する怪物の咆哮。

突っ込んでくる幾多もの異形。


その波に乗せて。


「この運命からは逃げないし――逃がさない」


僕は、自分の深淵と繋がるための声を出した。


同時に飛んでくる怪物の槍/鉄パイプ。


予測していたそれらをすり抜け、

さらに伸びてくる幾つもの腕を切り裂く。


降り注ぐ血の雨/怪物の咆哮/乱打――

全て背後に置き去りに。


僕を見失ったのか、

首を振って周囲を探し始める怪物たち。


その動きに合わせて、

二匹の目にナイフをねじ込んだ。


悲鳴が上がる。

誘い水のように怪物をおびき寄せる。


けれど、既にそこには僕はいない。


次の死角となる彼らの背後へと到着して、

さらにもう一体の運動能力をそぎ落とす。


再び上がる悲鳴――場が混乱に包まれる

/咆哮が木霊する/残った怪物が闇雲に攻撃を始める。


その一つ一つを縫うように回避しながら、

ひとまず集団の中心を離脱。


そして、怪物たちの認識が追いつかないうちに、

彼らの発する“音”の隙間へと潜行する。


真正面からは決していかない。


臭い、音、姿形も何もかもを、

彼らには一切認識させない。


そのために必要な“声”は、

怪物自身が発してくれる。


彼らに見つからない場所を、

彼ら自身が僕に教えてくれる。


その“音”の隙間に潜んでいる限り、

僕が見つかる可能性は――ゼロだ。


そうして、次なる意識の外へと滑り込み、

すぐ傍で暴れる怪物のアキレス腱を断った。


防御なんてさせない。

攻撃だってさせない。


暗殺者らしく、相手に全く認識できないところから、

一方的に攻撃を加え続ける――



「……終わりだな」


立っている怪物がいなくなったのを確認してから、

深淵との繋がりを断つ。


と、まるで車酔いした時のような

浮遊感と吐き気に襲われた。


……やっぱり、

長時間これを続けるのはまずいか。


“判定”もそうだけれど、あまり長く繋げると、

自分が自分でなくなりそうになる。


「それでも……ちゃんと上手くやれたな」


今度は琴子姉さんの時のように、

失敗しなかった。


いたずらに殺してしまうようなこともない。

きちんと、自分を制御しきれた。


そのことに心底安堵する。


それから、そのきっかけをくれた

聖先輩の元へ走った。


「聖先輩! 大丈夫ですか!?」


抱きかかえて呼びかける。


が、意識がないのか、

ぐったりとしたまま何も反応を示してこない。


出血は止まりつつあるようだけれど……

それ以前に顔色が悪すぎる。


「……やばいぞ、これ」


僕らの手元にあった包帯や解熱剤程度じゃ、

とてもお話にならない。


急いでまともな環境に移して治療をしないと、

このままじゃ最悪の事態も見えてくる。


でも、この迷宮内に

まともな環境なんてものがあるわけがない。


どうする?


このまま連れて帰って、

気休めでも手当てをする?


「いや……無理だ」


そんなものでどうにかなるなら、

最初から悩みはしない。


もっとちゃんとした治療を

受けさせないと。


でも、一体どこで――


「……脱出、させればいいのか」


ゲーム中はABYSSの助力は期待できないけれど、

脱出後なら治療してくれる可能性が高い。


何より、聖先輩が脱出したとなれば、

真ヶ瀬先輩にも伝わるはずだ。


それなら『かもしれない』じゃなくて、

ほとんど間違いないだろう。


残る問題は、脱出手段。


「先輩、ちょっと待ってて下さい」


聖先輩の体をそっと横たえて、

コロシアムを回って荷物を探す。


怪物の傍を歩くと掴みかかって来かねないので、

大回りにコロシアムを一周――


見つけた二人ぶんの荷物を漁ると、

携帯電話が出て来た。


片方は“節制”の入った携帯。

……となると、これが高槻良子って人のものか。


そちらの中身を確認/回収しつつ、

聖先輩の携帯も調べる。


もし、先輩が“世界”を持っていれば、

その時点で脱出させることが可能だ。


あるいは、

小アルカナが四枚あれば――


「……ダメだ。一枚足りない」


先輩の携帯に入っていたのは、

ハート、スペード、ダイヤの9。


僕らの集めたカードにも9はないため、

脱出するにはあと一枚がどうしても足りない。


『任意の小アルカナを10枚』という条件なら、

脱出させることは可能だけれど……。


僕らのチームの全員を脱出させることを考えると、

今それを選択するのはあまりにリスクが大きい。


でも、このままだと聖先輩が……。


「あっ!」


思い出した。


そういえば、僕の大アルカナ

“愚者”の効果は、確か――


「……やっぱりそうだ」


『愚者の大アルカナは、

好きな小アルカナと同じものとして扱う』


須賀さんに大アルカナの説明を聞いた後に、

一度確認したきりだったけれど、思い出せてよかった。


これさえあれば、

残り一枚の9が今すぐ手に入る。


“愚者”を使用――クラブの9へと変えて、

聖先輩の携帯へと送る。


と、携帯に脱出条件を満たした旨と、

脱出するかどうかという選択肢が表示された。


もちろん、迷うことなく脱出を選択。


「うわっ」


と、いきなり先輩の携帯に

電話がかかってきた。


発信は儀式スタッフ――

若干の躊躇いを覚えつつも電話に出る。


「脱出おめでとうございます、森本聖さん。

あなたが脱出一番乗りです」


「あーっと……すいません。

森本聖の代理で電話に出た笹山です」


「今、先輩は瀕死の状態で、

僕が代わりに脱出させたんですけれど……」


「はい。モニタで確認しております。

今すぐ医療スタッフを派遣しますのでご安心下さい」


「ああ、そうですか。

よかった……」


「なお、森本さんの持ち物に関しましては、

彼女の身柄と共に全て回収いたします」


「もしも必要なものがございましたら、

スタッフ到着までに取り分けておいて下さい」


それでは――と、通話が終了し、

安堵の溜め息が零れた。


……これで、ひとまずは安心だな。


みんなに相談もせずに“愚者”を使っちゃったけれど、

聖先輩を救うためなら誰も反対なんてしないだろう。


仮に反対されたとしても、

僕は使ったことを後悔しない。


守りたい人を守れたことに、

後悔なんてするわけがない。


聖先輩の顔を覗き込む。


血だらけ、傷だらけの顔。


先輩がこんなになってまで戦ってきた理由は、

僕にはまるで想像もできない。


でも、この人が本当に強くて、

優しくて、尊敬に値する人だということは分かる。


ABYSSだって知った時は、

本当にびっくりしたけれど――


僕は、この人の後輩でよかった。


この人に守ってもらえて、

この人を守り切れて、本当によかった。


「……ありがとうございました、聖先輩。

それと、お疲れさまです」


先輩の戦いは、もしかしたら、

まだまだ続くのかもしれないけれど――


せめて今だけは、

ゆっくり休んで下さい。



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