宿命の対決

その咆哮の刹那、

聖が高槻の前に瞬間移動していた。


少なくとも、そうとしか見えなかった。


肉体操作で爆発的に脚力を高め、

タイミングを見計らった上での完璧な飛び込み。


僅かな距離ながら、目にも留まらない高速ステップで、

完全に高槻の虚を突いた。


そして――


「あぁああああっ!!」


ゼロ距離から、拳打の嵐が高槻を襲う。


ナックルを装着した高威力の右拳が急所を襲い、

空手の左が上半身へ絨毯爆撃を見舞っていく。


それはさながら弾幕のように。


蟻一匹草一本すら残さぬ勢いで、

高槻良子の身体という身体を打ちのめしにかかる。


そんな聖の奇襲を、焦土作戦を、

高槻は最小限の被弾で回避していた。


何十もの弾丸に対し、

高槻の体に届いた数は僅かに六。


しかも、必殺の右は一発足りとも食らっておらず、

肉体的損傷に至っては打ち身のみ。


信じがたい怪物の反応に、

聖がさすがに眉根を寄せる。


「痛ぇじゃんかよこの野郎!!」


その隙に飛び退る高槻――

距離を離し、再び仕切り直しから。


「うるぁああああっ!!」


今度の交戦の皮切りは高槻から。


摺り足から踏み込んで肘鉄――

聖がガードしながら後退。


そこを高槻が追いかけ、流れるように顎へ掌底

/レバーブロー/右のひざ蹴りを放ってくる。


あちこちに走る鈍い痛み。


が、聖の感心はそこにはなく、

既に今閃かんとしている四つの打撃へと移っていた。


それぞれがまともに食らえば

昏倒しかねない脅威の一撃。


しかし、ダイアログの超感覚により、

聖は事前にその軌跡を察知――


読み通りに飛んでくる高槻の拳を回避しながら、

肉体操作により右拳へ力を充填する。


そうして高槻の攻撃を避けきったところで、

反撃の左ジャブを閃かせた。


「おぉっとぉ?」


高槻のすかさずのガード/ステップ。

『ついて来いよ』と言わんばかりの細やかな動作。


それに付き合う振りをしながら、

なおも聖が高槻の動きを知覚し続ける。


ダイアログで活性化した脳がフル回転し、

煮えたぎった心境と真逆の冷静さで計算を継続――


ガードの隙間を血流/筋肉/骨の動きから予測し、

導かれた必中の軌道へ右腕を乗せて放つ。


「っ……ぶねぇっ!!」


それでもなお、

高槻良子は回避してのけた。


肉体情報は決して嘘をつかない。

絶対に命中する軌道で攻撃していたはずだった。


にも関わらず、

この女は無理やりそれを回避する。


似たようなやり取りを何度か続けるも、

どれもクリーンヒットまで持って行けない。


聖の脳裏に走る苦い思考――

何たる化物/何たる異常。


直前までデータを収拾/分析し、

導出した動きは、予知にも等しいはずなのだ。


なのに何故、

この女はその未来を回避できるのか。


信じたくないが、

その答えは一つしかない。


高槻は、聖の収拾した行動をギリギリで破棄し、

行動を刹那に修正して防御に回っているのだ。


聖にとって、それはあり得ないことだ。

そして、あってはいけないことだ。


何故なら、防御でそれをされるということは――


っ……!」


聖の腹部に激痛が走る。


それが右の掌底によるものと知ったのは、

命中よりも僅かに前――超感覚による予測時点。


つまり、高槻良子は、

聖が予測してなお回避不可能な攻撃を放ってきていた。


「オラオラ、まだまだ行くよォ!」


「くっ……!?」


再び迫る高槻を前に、

腕を上げて防御姿勢を取る聖。


皮膚感覚/聴覚/視覚を可能な限り高め、

繰り出される攻撃と軌跡を予測する。


――先ほどの命中に味を占めたのか、

右の拳を捻り込むように突き上げてくる動き。


明らかに左はない。


ならばと、その軌跡を遮断すべく、

ガードを割り込ませに行き――


それよりも速く到達した高槻の右拳が、

聖の体に深くめり込んだ。


予測が外れたわけではない。

高槻が直前で軌道を変えたわけでもない。


超高速で動く中、そんな小細工はできないし、

されても聖の超感覚はそれを看破できる。


ならばどうして、

高槻の攻撃が聖へと突き刺さるのか。


その答えは、至極単純だった。


高槻良子は、

森本聖よりも圧倒的に速いのだ――!


「あううぅ!!」


さらに数発の打撃を貰った聖が、

その身体を制御することもままならず床の上を転がる。


そうして吹き飛んでいった後輩に、

高槻が汗を拭いながら口笛を吹いた。


「いやー、ホント強くなったなーお前。

アタシがマジ全力で行ってギリギリだ」


「でもごめんねー!

アタシはもっと強えーんだよなーこれが!」


「で、どうよ? 訓練して屈辱に耐えて

二年間頑張ってきた努力が叩きのめされる気分は?」


「悔しい? やっぱ悔しい?

泣いちゃう? おしっこ漏らしちゃう? んん?」


「くっ……!」


相手の舐め腐った態度に、

聖が奥歯を噛み鳴らす。


が、高槻が恐ろしく強いのは事実であり、

このまま立ち上がっても結果は同じ。


どうにか突破口を見出さなければならないが、

果たしてどこにそれがあるのか。


「何だよ聖よぉー、黙っててつまんねーな。

もっとお喋りしようぜー」


「……じゃあ、一つ教えて」


「お、何を教えて欲しいんだ?

お前の弟が『お姉ちゃん』って泣いた回数か?」


「――」


瞬間――聖は怒りに任せて突撃しそうになったが、

辛うじて堪えて踏み止まった。


必ず殺す。

必ず殺すが、それは今ではない。


怒りに震える体で何とか深呼吸して、

突破口を見出すべく高槻に質問を投げつける。


「あなたの使っている薬は、ダイアログなの?

それともアビスなの?」


ダイアログを使ってなお圧倒されるという経験は、

これまでに一度もなかった。


明らかに強敵と感じたのは、目の前の高槻を除けば、

アビスを服用した怪物とダイアログの使い手のみ。


となれば、高槻はダイアログかアビスを

使用している可能性が高い。


もしもそれがダイアログであれば、

聖と同様に時間制限が鍵となるだろう。


そうではなく、アビスだというのであれば、

高槻の願いとは逆の方向に戦いの展開を持っていく。


アビスは噂では願いを叶える薬と聞いているため、

それで力が弱まるかもしれない。


高槻の答えは――


「フォールだよ」


「うそ……そんな、そんなはずが……!」


聖が、あり得ないと首を振る。


フォール使いはダイアログ使いに勝てないはず――

その通説を口に、高槻へ答えの真偽を問う。


「あー、そんな法則あったなー。

今川のオッサンがそんなこと言ってたっけ」


「でもそれって、多分、

常識の範囲内でって話だと思うんだよな」


「確かに、ダイアログはつえーよ。

並みのフォール使いなら、やり合う以前にボッコボコだ」


「何しろ、体機能の上昇率が違いすぎる。

制限時間なんて補って余るくらいにな」


それは、ダイアログを使っている聖が

誰よりもよく分かっていた。


意識的な肉体操作まで至らずとも、

ダイアログは十分に強い。


「でもよー、アタシはその上昇率で

薬の強弱を測るのって、ちょっと違う気がするんだよ」


「だって、考えてみろよ。

ダイアログとフォールは、そもそも効果が違うだろ?」


「ダイアログがいきなり限界を引き出すのに対して、

フォールは長い期間で徐々に肉体を変えていくんだ」


――ダイアログの特性である肉体操作は、

服用から僅かな時間で、服用者の肉体の限界を引き出す。


故に、すぐさまフォールの効果を超えることができるが、

肉体自体は服用以前のまま。


そのため、全力で動き続ければ身体が損傷するし、

出せる力も元々の性能に依存している。


対してフォールは、

服用の量および期間により効果を発揮する。


こちらは力を引き出しているのではなく、

肉体が変化し性能が上昇することで強化されるのだ。


「で、ここでクイズだけど。

フォールの肉体の変化のゴールってどこだと思う?」


「ゴールって……それは……」


聖は答えられなかった。


当然だ。変化のゴールなんてものが、

明確に決まっているわけがない。


恐らくは飲み続ければ飲み続けるほど、

際限なく変化していく。


「そう。つまり、ダイアログが“限界到達”なら、

フォールは“限界突破”なんだ」


「フォール使いがダイアログ使いに勝てない?

んなのはオッサンの寝言だよ」


「フォール使いだって、服用期間と量を増やせば、

いずれダイアログを超えられる」


「じゃあ、あなたは……」


「毎日飲んで、服用期間は十年ってトコだな。

今朝も美味しくおくすりのめたよ!」


げらげらと笑う高槻。


対する聖の顔は、

その途轍もない返答に凍り付いていた。


だが、無理もない。


大量に服用したとはいえ、あの意思の強い鬼塚でさえ、

壊れるまで三年と持たなかったのだ。


眼前の女が、本当の意味で化物だったことを知って、

驚きを隠せるわけがなかった。


もちろん、その混乱が落ち着くのを、

高槻が待っていてくれるわけがない。


「さーて、んじゃま、

そろそろお喋りも終わりにすっか」


聖が我に返り、辛うじて拳を構える。


そこに真っ直ぐ/真正面から、

高槻が突撃した。


「おっせぇーよ!!」


ダイアログで先読みするも、

間に合わずに聖が吹っ飛ばされる。


さらに、間髪入れず飛んできた回し蹴りを、

ほとんどガードになってない腕で受けた。


しかし、痛みに呻く暇もない。


迫っている次の打撃を決死の思いで回避し、

半ば転がるようにして高槻との距離を離す。


「オラオラオラオラァッ!

逃げてばっかじゃつまんねーぞ!」


高槻の更なる追撃が、聖に付いて回る。


その遊んでいる風に追ってくる連打を、

避けて/転がって/跳んで逃げ回る聖。


そうしてようやく見つけた隙間で、聖が前進――

高槻へと挑戦的な突撃を仕掛ける。


防御は無理と理解したが故の決死の行動。


それを、当然のように、

化け物女が笑顔で受けて立っていく。


「あぁああああっ!!」


「そんなん通んねーよバーカっ!」


あっさりと高槻に防がれ弾かれる、

聖の猛ラッシュ。


またもや読みが役に立たない。


既にダイアログで自傷しない領域を超え、

ツケが聖へと返り始めている。


なのに、それでも追いつかない。


圧倒的な性能差が、

文字通り骨身に染みる。


フォールによる能力向上を積み重ねてきた高槻に、

聖の限界が叩き伏せられる。


「あうぅっ!!」


そして、またもや聖が吹き飛ばされた。


肉体の損傷が激しいわけではないが、

超感覚を宿した体で拳を浴びるのは地獄の苦痛だった。


だが、それでも狂うわけにもいかず、

よろよろと立ち上がりながら、高槻の姿を見据える。


「おいおい、つまんねーなー。

サンドバッグじゃねーか完全に」


「こんなんじゃお前を拾った意味ねーぞ。

もっと根性見せろよなー。ホレがんばっ、がんばっ」


高槻が手拍子も交えて煽ってくる。


しかし、聖はそのことへの怒りよりも、

高槻の口にした言葉のほうが気になっていた。


「拾った意味……?」


「ん? あー、そうだよ。

アタシはお前に期待してたんだよ」


高槻の前髪の下に隠れている目が、

髪の毛越しに聖を見据える。


「――アタシはさ、殺されたいんだよ」


「……は?」


「だから、殺されたいんだ」


理解不能とばかりに聞き返してくる聖へ、

高槻の嘲るような笑みが向けられる。


お前も理解できないのか――と、

言わんばかりに。


「ま、しゃーねーわな。

アタシも分かってもらおうなんて思っちゃいねーし」


「でもよー、理解してもらわないにしろ、

頑張って殺して欲しいよねーみたいな」


「殺して欲しいって……

そんなの、自殺でもしてればいいじゃない!」


「ばーか、自殺なんてつまんねーだろ」


「じゃあ、殺されてればいいでしょ!

ABYSSにお願いして、勝手に!」


「それもつまんねーんだって。

てゆーか聖、お前さぁ、ゲームってしたことある?」


理解できない言葉の連発に、

聖があからさまな困惑を浮かべる。


しかし、それを一向に気にする様子もなく、

高槻が友達に話しかけるように続けていく。


「多分さー、死ぬってことを深く考えすぎてっから、

ガーガー言うと思うんだよ」


「でもさ、ゲームで考えてみ?

そうだな……格ゲーとか、その辺りが適当だ」


「格ゲーでひたすら強くなってさ、

もう並みの相手には余裕で勝てる状態だとするじゃん」


「もう、CPUじゃ相手にならない。

だからって、CPU戦でわざわざ自殺するかぁ?」


「それは……」


「しないだろ? 自殺したらもっとつまんねーし、

誰かが乱入してくる機会を逃すかもしれねーからだ」


「けど、自殺すんのと同じくらい、

強い相手に一方的にボコられんのもつまんねーんだ」


「次元が違うっつーか、勝手にやってろっつーか、

お前ちょっとは相手のレベル見ろよみたいな」


「だから、あなたは

自殺も殺されもしないっていうの!?」


「あーそうだよ。その通り。

でも、どの道、現状維持でもつまんねーんだよな」


「こういう時にゲーマーが何をするかっていうと、

制限プレイだ。新鮮な不自由さを味わうためにな」


「でも、アタシはそんなマゾいこと、

絶対にやりたくない。じゃあ何をすると思う?」


「そんなのっ……分かるわけないでしょう!?」


「オイオイ、サービス悪ぃなー。

せめてお喋りくらいは楽しませろっつーの」


頬肉を引きつらせるように笑いながら、

高槻が肩を竦める。


「行き詰まったら、不慣れなキャラで始めんだよ。

サブで使うキャラの育成だ」


「アタシもそれやって、まあそれなりには楽しめた。

けどな、行き着く先は同じなんだよ」


「結局、また雑魚との戦いに飽きながら、

強いヤツにボコられて理不尽さを味わうんだ」


「――さて、ここから現実の話に戻るぜ?」


「繰り返す退屈からアタシは逃げ出したい。

手段としては死ぬことだ」


「けど、自殺するのは嫌に決まってる。

一方的にボコられんのもゴメンだ」


「じゃあ、この状況で、

アタシは一体何をすると思う?」


「死にたいのに死ねない奴は、

一体何をその代わりにすると思う?」


「まさ、か……」


聖がおののきながら口元を押さえる。


恋人の殺人現場にうっかり出くわした少女のように、

目を見開いて一歩後退る。


「まさか、タカツキリョウコは……!」


「アタシは――死にたいんだ」


げらげらと、

高槻良子という名の女が嗤った。


「ま、何もそれだけじゃねーけどな。

アタシはさぁ、面白く死ねればそれでいいんだよ」


「これは本心だ。死ぬのが怖いんじゃなくて、

つまらない死に方をするのが嫌なんだ」


「だから、聖には期待してたんだけどなー。

ちょーいと届かなかったか」


高槻が、指先で『ちょいと』を作る。


その人差し指と親指で作られた僅かな隙間に狼狽しつつ、

聖が改めて目の前の化物を見やる。


色々と分かった。


この女がどうして生贄に自身の名前を付けるのかも。

一見して矛盾した行動/言動も。


そして――

聖では、その歪んだ欲求を満たせないことも。


「ま、聖は聖で、

オモチャとしては優秀だったんだけどな」


「お前の周りをブッ壊してて面白かったし、

いちいち無反応を装ってんのがバカみてーだし」


「っ……!」


「んでも、アタシが一番欲しいものをくれねーんじゃ、

これ以上生かしとく意味はねー」


「後はお前の仲間とか可愛い後輩ちゃんとかに、

せいぜい楽しませてもらうとするよ」


高槻が余裕綽々といった様子で、

ゆっくりと聖に歩み寄ってくる。


が、のんびりとしているのは表面だけ。

何かあれば即座に跳ねる準備をしてある。


その動きに、

聖は付いていけないだろう。


それでも、仕掛けざるを得ない。


「ほらやっぱり来やがった――!」


高槻が笑顔で聖の拳を受け止める

/続く蹴りを躱し反撃の肘打ちを放ってくる。


そこから始まる連携――

ありとあらゆるデタラメ格闘技の適当技の嵐。


が、そのぐちゃぐちゃの動きでさえ、

聖の体を的確に捉えてくる。


まるで身体能力の化身――半端な技術より性能という

身も蓋もない論理を体現したよう。


そして、高槻本人もそれを自覚しながら、

容赦なく聖を打ち据えていく。


「ぐっ……あ、ああぁあ!!」


勝負はどんどん一方的になっていき、

ほとんど高槻が殴っているような有様に。


ここまで偏った展開になるのは、

聖と高槻の相性もあった。


本人にその自覚はないが、聖の戦術は、

ダイアログの超感覚ありきのものだ。


それで今まで苦労してきたこともなかったため、

対応できる相手との戦闘は想定していなかった。


だから、対応できる高槻が相手となると、

途端に脆さが露呈する。


これが藤崎であれば、高槻が避けようと守ろうと、

力押しでこじ開けて泥仕合へと持っていくだろう。


だが、聖にはそれができない。

そういう戦い方をそもそも知らないからだ。


その結果が、現状。


ナックルを嵌めた聖の右腕も、

もうずっとガードのために縮こまっていた。


読みを突き破ってくる相手に、

動きを感知してから始動するのは遅過ぎる。


相手の打撃に当たりに行く形で防御して、

何とか致命傷を防ぐしかない。


が、超感覚が痛覚を倍増させているため、

ガードは地獄の苦しみだった。


そんな聖の苦しみをしゃぶるように、

高槻が聖を満遍なく叩いていく。


聖の右腕が痛みに震える

/悔しさに震える。


仇を討つために嵌めたナックルダスターが、

縮こまった右腕の先で、死んだように固まっていた。


「うぐ……ふうぅぅっ……!」


悲鳴に混じって嗚咽が出そうになる。

痛みが視界を滲ませる。


今までの努力が一笑に付されているようで、

泣きたくなってくる。


どうして、こんなにまで差があるのか。

どうして、この化物に勝てないのか。


思う間に、高槻の左がついには防御を掻い潜り、

聖の右の脇腹に突き刺さった。


骨に罅が入ったが、その痛みに泣く前に、

次の軌跡を予測しなければならない。


また次の食らうターンが来る。

痛みに体が竦みそうになる。


「ひっ、ぐぅ、うっうっ……!」


とうとう漏れ出す嗚咽――“早く楽になりたい”。


責め苦に耐え抜くだけのこの状況から、

早く解放されてしまいたい。


しかし、それはできなかった。


それをすれば、聖のこれまでの人生は、

全て無駄だったことになってしまう。


「うぐぅぅぅうっ……!」


力が欲しかった。


この絶望的な状況を打破できるだけの、

圧倒的な力が欲しかった。


そうでなくては、この化物には勝てない。


何でもいいから、力が――


「はっ、頑張ったって無駄なんだよバーカ!」


そんな聖の思考を見透かしたかのように、

高槻が吠える。


「お前の薬はダイアログなんだ!

所詮、そこがお前の限界なんだよ!」


「アタシに勝ちたきゃ、フォールでも何でも

浴びるほど飲んで、限界の一つでも超えてみろよ!」


「ま、今からじゃどう足掻いたって

遅いんだけどなー!」


「くっ……ち、ちぐしょ……この……!」


聖の脳裏に、かつて、

タカツキリョウコだった頃の無力感が押し寄せてくる。


あれから二年。

何も変わっていない自分が悔しかった。


この当時のABYSSの部長に、

時を経ても泣かされていた。


弟を助ける、弟の仇を取ると言って、

何もできていない。


何も成長がない。


今も昔も、ボロ雑巾のようになりながら、

床を舐めるようにして相手の攻撃から逃げているだけ。


惨めに過ぎる。


このままではどうしようもない。


「ぎっ――」


高槻の左の打撃に胃液を散らす。

襲い来る一撃必殺のフックを必死で掻い潜る。


けれど、それは惨めに逃げているだけ。

勝てる見込みなどどこにもない。


身体能力では圧倒的に負け、

肝心の読みは意味が――


「!?」


その瞬間、天啓が走った。


何を思い違いをしていたのだろうか――と、

苛烈な攻撃の只中で、聖がようやく思い至る。


読みに意味が無い?

いいや違う、意味なくされていたのだ。


速度で負けているから、

意味がなくなっていただけなのだ。


読みは決して、

負けていたわけではない。


すなわち、速度さえ上げることができれば、

読みが正常に機能するのは明白。


高槻に絶対有利な戦況を、

一気に引っくり返すことができる。


聖の目に光が戻る。


目の端に溜まっていた涙が、

回避と共に宙を煌めいて消えていく。


一縷の望み――それを掴み取る方法を、

猛攻を掻い潜りながら必死で思案する。


だが、高槻の言う通り、

身体の機能向上はもう望めない。


ダイアログにより引き出されたこの速度が、

今の聖に引き出せる最高の速度だ。


他に誰かがいる、もしくは地形効果がある場所を選べば、

あるいは高槻の速度自体を下げることも可能だろう。


しかし、今さら移動はできないし、

誰かの助けを借りることなどもっての他だ。


ならば、やはり聖自身の力で、

差を埋められる可能性を模索するしかない。


超感覚による読みを活用する際に必要なのは三つ。


相手の身体情報の探査時間、

情報の処理時間、そこからの行動時間だ。


このうち、行動時間は既に限界であるため、

短縮は不可能。


となれば、探査と処理を高速化すれば、

勝機は見えるのだが――


その実現には、最大の壁があった。


“イメージが……できないっ……!”


聖の顔に、

ありありと浮かび上がる焦りの色。


ダイアログにより超感覚を身につけた聖だが、

何もないところから始めたわけではない。


五感それぞれの感知の仕方をイメージし、

その精度を高めていった結果、手に入れたものだ。


これは、聖の感性にもよく合っており、

そうそう苦労はなかった。


しかし、精度を上げることはできても、

高速化するとなれば話は別だ。


反復練習により体に反射を叩き込めば別だが、

それ以外では鍛えるのは難しい。


特に、現象を認識、脳で処理、身体で反応という

プロセスを経る限り、まず強化は見込めないだろう。


思考速度も同様で、早くする方法というのは、

反復して学習する以外には見当たらない。


つまり、今この場で思考速度/反射速度の強化方法を

イメージするのは難しいため、肉体操作ができない。


「くっ……!」


高槻に打たれた苦痛に顔を歪めつつ、

聖が数歩退き下がる。


時間を稼ぎ、

せっかく得た光明を手繰る一手を思考する。


そんな聖の裏に、

高槻はしばらく前から気付いていた。


だが、一向に起死回生の手が飛び出す気配もなく、

無駄に長引く戦闘に飽きつつもあった。


もう、聖は満身創痍だ。


肉体操作で支えごまかしてはいるが、

既に複数個所を骨折している。


ダイアログの制限時間も迫ってきている。


なのに、一方的な展開は続き、

それが覆る気配もない。


「何考えてんのか分かんないけどさぁ――」


業を煮やした化物が、

不機嫌そうに舌を鳴らす。


加減とまではいかないが、様子見していた相手に、

背筋も凍るような視線を投げる。


「――そろそろ殺すぞ?」


「っ……!」


囁かれた死の宣告に、

聖の総身が粟立つ。


そして、それが脅しでないことは、

次の攻撃ですぐさま明らかとなった。


「ぐっ、うぅううっ!?」


それ以前よりも一歩、多い踏み込み。


そのたった一歩が高槻の拳の威力を高め、

とんでもない痛みがガードの上から突き刺さってきた。


繰り返し走る激痛に、

聖が絶叫する。


のた打ち回れない分、

口から音を出してひたすらに耐える。


痛い。痛い。

あんまりに痛くて壊れそうになる。


一撃一撃がナイフで抉られているように感じる。


腕が燃え上がっているとすら思える。


なのに、いつまでも痛みに慣れることはなく、

打たれれば打たれるだけ苦痛が積み重なっていく。


悟った。

死の宣告からの数合で、嫌というほど理解した。


もうこれ以上は持たない。

やるしかない。


聖には、イメージができようができまいが、

やる以外の選択肢が残っていない。


操作するのは、

認識処理と思考処理の高速化。


死にたくないのであれば、

速度を必死に搾り出すしかない。


高槻の打撃に晒された右腕に、

絶え間ない激痛が走る。


それに歯を食い縛って耐えながら、

思考の糸口を探し出す聖。


最初は単純な思考プロセスから。


感知、予測――しかし通常の読みとなんら変わらず、

その過程に変化を加えることができない。


ならばと、読みの精度が下がるのを覚悟で

聴覚を閉ざす。


感知の時間は変わらず、思考処理速度が低下――

反応が僅かに遅れ、高槻の拳に胃液を散らした。


その一撃を代償とした聖の直感。


違う、これじゃない。


入出力を弄るのではなく、

情報の処理系を弄る必要がある。


内部処理イメージとして、PCを想像。


デバイスからドライバ、アプリケーションへと

繋がるラインを、自身での処理に置き換えてみる。


――不発。


プロセスとしては理解できるが、脳内での使用部位

/処理の実行の仕方そのものが理解できない。


もっと単純な――例えば、血流を増やすといった

行為でなければ、コントロールができない。


「いぎ……ぎっ……!」


化物女に削られる。


右腕はもはや、

殴られる度に血が噴き出すほどに酷い状態だった。


それでも、気が狂いそうなほどの痛みに耐えながら、

聖が生きるための方法を模索する。


目を剥き、歯を砕かん勢いで噛み締め、

死に掛けの右腕をガチガチに固め続ける。


生きる。

この状況を超え、絶対に生き残ってみせる。


死にたくない。

死ぬわけにはいかない。


こんなところで死んでいる暇はない。


自分が死んだら、

誰が鬼塚と良都の仇を取るというのか。


自分が死んだら、

誰が笹山晶を守るというのか。


必ず、何としてでも、

自分は生き残らなければならない。


「あ――」


その瞬間、聖の頭の中で稲妻が走った。


爆発的な衝撃だった。

火山の噴火のような、猛烈な閃きだった。


そしてそれが、

聖の体に明確な変化を引き起こしていた。


「これ、は……」


気分が高揚する。

世界が光輝を放つ。


腕に走っていた痛みが消え、全身の血流量が上昇し、

感じていた疲労がいつの間にか吹き飛んでいた。


そして、何より一番大きな変化は、


今まで絶望的に速いと感じていた高槻の攻撃が、

未だに到達していない。


それらの作用から、聖は、

自身の体に起こっているものの正体を把握した。


この感覚は、二年前にも味わっている。


タカツキリョウコとしてゲームに参加した際、

副長を殴り殺した時もこんな感じだった。


故に、聖は思う。


なるほど、こうだったのか、と――


眼前を見据える。


高槻が拳を引いている。


その筋肉の動き、血流量、骨の軋みを感じ分け、

向かってくる軌道を見極める。


それから聖は、

その軌道へと腕を伸ばし――


「!?」


驚きは、高槻良子のものだった。


これまで同様、繰り返し連打していた左の拳が、

いきなり宙で静止したのだ。


そう――


サンドバッグも同然だったはずの、

森本聖に掴まれて。


「な――」


驚愕に化物女が顔を上げる。


そこへ、したたかに拳が打ち付けられた。


女の眼前が明滅し、

打たれた熱さと共に、赤い血が顔を濡らす。


その衝撃に/自身がよろめかされているという事実に、

混乱しつつも目を見張る高槻。


その視線の先に、

信じられない光景を見た。


「聖、おまえ……」


驚きに声が震える。


畏敬に顔が強張る。


目の前にいる相手は、

既に高槻の知っている少女ではなかった。


瞳孔が散大しきっていた。

全身が脈と共に律動していた。


そして――肉食獣のような血走った瞳でもって、

触れることも躊躇するような気配を放っていた。


その変化を引き起こしているのは、

彼女が過剰分泌させた、アドレナリン等の脳内物質だ。


通常それらの神経伝達物質は、危機に瀕した時や、

狩猟を行う際に分泌される。


その効果は運動器官への血流増大や、呼吸の高効率化、

感覚器官の感度上昇、痛覚の麻痺といったものだ。


当然、同じく戦闘を行っている高槻側にも

分泌されている。


ただし、女の分泌量は正常の範囲のもので、

極端に効果があるものではない。


アスリートが、好ましい精神状態で

競技に望むのと同じようなものだ。


気分を高揚させ、

体の調子をよくする程度に過ぎない。


対して――今の聖が分泌させている量は、

そんなものではなかった。


交通事故に見舞われ、

死の危機に瀕した人間とほぼ同等。


それによる認識力および処理能力の超強化によって、

高槻の動きがスローモーションのように感じられていた。


痛覚の麻痺により皮膚感覚は消えていたが、

それは逆に、苦痛を意に介さないということでもある。


最大の長所と表裏一体だった弱点が、

完全に消失したのである。


もちろん副作用はある。


が、それは全て肉体操作と、

屈強な精神力によってクリアしていた。


また、肝心の能力の制御も、生命の危機に反応して

分泌されるというトリガは理解していた。


そのため、脳のどこで何を分泌できるのかは不明でも、

その分泌量の制御はできる。


肉体の操作で、

自身を常に死の一歩手前に置けばいい。


ああ、しかし何ということだろうか。


森本聖は、脳内物質精製の自己操作という

ある種の人の限界へ、ついに至ってしまったのだ――!


「高槻良子……」


腹の底から搾り出したような声で、

聖が仇の名を呼ぶ。


ひたすらに盾としていた右手を、

今度は槍のように持ち上げる。


「うぶッ!?」


その槍が、瞬き一つする間に

高槻の腹を抉った。


そして、そこから始まるのは、

目も眩むような連撃――


「あぁあああああぁっっ!!」


両肩右胸左脇腹、それと丹田に二発の都合六発を、

聖が一瞬にしてに叩き込んだ。


だがまだ足りない。


それでもまだ、

この化物は倒れるに至らない。


どころか、苦痛に喉を鳴らしながらも拳を握ろうと、

五指を動かし始め――


「動くなっ!!」


その動作が終了する前に、

聖に左拳を蹴り潰された。


さらに蹴り上げた足でもって踏み込み、

高槻良子の右頬へと掌底を叩き付ける。


今度こそ、高槻良子が吹き飛んだ。


足が地面を大きく離れ、

背中から地面に叩きつけられた。


「ハァ、ハァッ――!」


荒げる息に肩を上下させながら、

聖が両膝に手を置く。


「高槻良子……確か、お前に勝ちたければ、

限界を超えてから来いって言ってたよな?」


「限界を超える?

……ハッ、バカバカしい!」


「限界も知らない人間の癖に、限界を超えるなんて、

私を笑わせ殺す気なの?」


聖が頭を押さえながらも、

背筋を伸ばして直立する。


「私に勝ちたいっていうならねぇ……」


ABYSSの部長が生け贄にそうするように、

聖が地べたの高槻を狂喜の笑みで見下ろす。


「せめて限界の一つや二つくらい

極めてから来なさいよ、高槻良子さん!!」


「く……こ、この、テんメェ~~ッ!

言ってくれるじゃねぇかよこのヤロウ!!」


「おやおや、怒りましたか高槻良子さん!?

勝負はまだまだこれからですよ――!」


血管を浮かせながらキレ笑いする高槻良子と、

自身を鼓舞するキレさす笑みを浮かべるタカツキリョウコ。


その両者が再び拳を構える。


そして、お互いに右を振りかぶりながら、

同じ名前の相手へ突撃する――!




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