志徳院葉というABYSS








八歳の時、トラックに轢かれて

亡くなったクラスメイトがいた。


クラスが重い雰囲気に包まれていて、

最後のお別れにと全員でお葬式に出席した。


顔だけしか見えない死体に、

次々と泣きながら話しかけていくクラスメイトたち。


その光景を見て、

女も周りと一緒に泣きながら思った。


すごい、みんなは死体とお話できるんだ――と。





それは、女が初めて

周囲とは違う自分に気付いた切っ掛けだった。


“喪失”は分かっても

“悲しい”が理解できない。


“不都合”は分かっても

“怒る”が理解できない。


物事の隙間に生じる人間の機微が、

どれだけ触れても全く感知できない。


“どうしてだろう?”


女は考え――周囲にそれを訴えたことで、

ようやく感情が欠落しているのだと発覚した。


その特異性が長らく表面に出なかったのは、

女が人の真似をするのが抜群に上手かったからだ。


状況別の表情や仕草の変化を周囲から学習し、

即座に相手が望んでいる所作を返す。


感情としては理解できなくとも、

“約束事”としてなら処理ができる。


外から帰ったら『ただいま』、

ご飯を食べる前に『いただきます』と言うのと同じ。


行為の意味よりも先に、

『痛い思いをしたら泣いて示す』というルールで泣く。


それが女にとっての常識であり、

当然、周囲もそうしているのだと思っていた。


だが、実際は違っていた。


視界に入る人間は全て感情というものを持っており、

その波に揺られるがままに動いていた。


まるで見えない脚本でもあるかのように、

一人一人異なる個性が自然と存在していた。


女も『志徳院家の令嬢らしい』とされてはいたが、

それは演じていた個性キャラクターに過ぎない。


波のない海で揺れるのは難しいように、

脚本のない世界で演技を続けるのにも苦痛を伴う。


そして何より、周囲は気付かなくとも、

女自身が作り物めいた感を拭えなかった。


だからこそ、

本物の個性が欲しかった。


コピーではなく、他の人が持っているような、

ちゃんとした脚本が必要だと思った。


そうして自分を知ったことで――

女は以前よりも丹念に人間を観察するようになった。


感情の変化に伴う動作だけではなく、

その起こりについても興味の対象となった。


授業中も、給食の時間も、下校中も帰宅後も、

ひたすら周囲を観察し続ける。


ただし、そのことを

周囲に悟られてはならなかった。


女の特異性の露見は自分を知る切っ掛けとなったが、

同時に、周囲の不審を生み出したからだ。


もしも女が家族の逆鱗に触れてしまえば、

どうされるのかはよく分かっていた。


観察はこれまで通り、人の真似を続けながら、

息を潜めてじっくりとやっていく。


そんな少女の感情の研究は、

時が経つごとに深みを増していった。


約束事のパターンは三桁から四桁にまで増大。

相手の機微にも細かく対応できるようになった。


また、肉体の反応だけでなく、

心理/思考も予測できるようになった。


一方で、知れば知るほど、

自分にはそれが味わえないのだと気付いていった。


当然だ。元々水脈のない場所に、

新たに泉が湧こうはずもない。


見れば見るほど、知れば知るほど、

感情というものがデジタルなデータへと変わっていく。


少女の中に生まれる疑問――

“この研究は、感情の獲得には無意味なのでは?”。


だが、仮にそうだとしても、

どうしていいのかは分からない。


惰性で研究を続ける日々。


思春期を迎え、さらに変化していく周囲の中で、

一人だけ何も変わる様子のない自分。


人生とは一体何なのだろうか。

女がそんなことを思い始めたところで、


――首吊り死体が、目の前に現れた。


解雇されたことの逆恨みで、

敷地内で首を吊った、使用人だった男。


女も僅かに記憶にあるそれが、

変わり果てた姿で倉庫にぶら下がっていた。


嫌悪感は抱かなかった。

理由は二つ。


まだ首を吊ったばかりで、

蝿が複数集まり始めたような段階だったこと。


そして、そんなことより何よりも、

女は好奇心で一杯だった。


“果たして、普通の人間の中には、

見えない脚本が詰まっているのだろうか?”


これまで考えはしたものの

実行できなかったこと――人間の解剖。


そのチャンスが、

今、目の前に勝手に転がり込んできていた。


死体を見上げる。

脱臼し垂れ下がった首と見つめ合う。


あの重そうな頭の中には、

脚本が詰まっているのだろうか。


そのでっぷり膨れた腹を捌いたら、

人間の感情というものが見えるのだろうか。


見たくて堪らなくなってくる。

手を伸ばしたくなってくる。


だが、問題は家の人間だ。


このまま死体を荒らしてしまえば、

家の人間がその行動を異常に思うことは確実だった。


そうなれば、女を疎ましく思っている人間が、

喜んで処理をしに来るだろう。


これまで目立たずにやってきたのに、

ここで散らかしてしまっては元の木阿弥だ。


一方で――志徳院の外面を取り繕う性質から、

この死体が表に出ることは決してないだろう。


きっと、死体がどういう状態で見つかろうと、

最終的には内々で処理してしまう。


隠し通さなければならない範囲は、

非常に小さい。


もう一度、

死体と向かい合う。


こうして死体とまみえる機会が、

次はどれくらい後にやってくるのだろうか。


女は考え――

意識をして、深呼吸をした。


そうしないと、

上手く息が吸えなかった。


溢れそうになっていた唾液を嚥下する。

手をぎゅっと握り締める。


そうして女は、

死体へと手を伸ばし――


その手を宙で止めて、

指をぎゅっと握り込んだ。


死体へと背を向ける。

倉庫を見つからないように素早く後にする。


理性が欲望にまさった。

志徳院は敵に回せないという判断だった。


倉庫を後にした女は、外の空気を吸い込んだ後に、

そのまま自転車に乗って学校へと向かった。


だが、興奮は冷めやらず、

その日は初めて日課の人間観察をしなかった。


口元がにやけっぱなしになり、

したいと思ってもできなかったためだ。


それくらい、

先の出会いは鮮烈だった。


それこそ、世界の色が

全て黄色く塗り変わったような感覚だった。


興奮は、三日ほど続き――


遺体の話が志徳院から消え去ると同時に、

ようやく落ち着いてくれた。


そうしたところで思い返してみると、

どうにも先の興奮は感情ではないかという結論に至った。


自然と浮かぶ笑顔や気分の高揚など、

女の観察し蓄積したデータとほぼ同じ内容。


つまり――“喜悦”。


自分には感情がないと思っていた女にとって、

それは砂糖のように甘く衝撃的な体験だった。


周囲が初恋に心を揺り動かされている時に、

女は初めて覚えた喜びに打ち震えていた。


こうなれば後はもう、

雪崩のようなものだ。


女はその感情を再び実感するために、

情熱を傾けるようになった。


自ら死体を作ることはさすがにリスクを考えて避けたが、

死と出会えそうな場所へは足繁く通った。


結果は実らなかったが、それを追い求めている間は、

常に喜びを感じていた。


その果てに女は、

人の命をチップ代わりにするカジノへと向かい――


須賀刀也と出会い、ゲームも楽しいのだと知って、

最後にはクイーンの称号を得ることとなった。





「……何笑ってんの?」


女が娘の声で起こされたと思ったら、

その娘からすぐに半眼で睨まれた。


話を聞く限りは、夢で見ていた内容が、

そのまま顔に出てしまっていたらしい。


「……懐かしいなぁと思って」


「はぁ? 何の話?」


「お父さんの夢よ」


正確には、刀也と出会うまでの女の軌跡だが、

実際はあまり変わりないだろう。


ぼんやりと当時のことを思い返してみると、

今でも口元が自然と笑みを形作った。


今となってはこんな風に笑うことなど、

死に触れた時か、ゲームで強敵と当たった時しかない。


言い換えれば、あの当時は、

本当に楽しかったということなのだろう。


その感情は、果たしていつ、

どこへ消えてしまったのか――


「どうでもいいけど、さっさとこれ解いてよ。

携帯も人質なんだから逃げるわけないでしょ」


「ダメ。解いたら由香里ちゃんは

絶対にすぐに逃げ出すもの」


「はぁ? 何で分かるんだよ?」


「だって、獅堂を殺すつもりでここに来たんでしょう?

それなら携帯は必要ないものね」


「……何で分かるんだよ?」


「分かるわよ。

だって私はABYSSの――」


『おっし、んじゃ葉はABYSSの“賢い役”な!

これから俺らはお前の指示に従って動く』


『“賢い役”って、あんたね……普通は司令塔でしょ?

ほら、葉も呆れて笑ってるじゃん』


「……」


『通じれば細かいことはいいだろ、秋埜あきのぉ。

とにかく葉が俺らに指示することが大事なんだよ』


『つーわけだから、明日から正義の活動開始な。

あ、ヒーロー戦隊っぽい感じだとモアベター!』


『言っとくけど、変なスーツとか用意しないでよ。

こいつの趣味に合わせるのなんて、私ヤだから』


「ABYSSの、何だよ?」


「……ううん、勘違いだった。

あなたの母親だからってことにしといて」


賢い役だから――とは言えなかった。


今のABYSSは、刀也の望んだそれとは

遠くかけ離れてしまったものだったからだ。


それに、本当に賢い役だったのなら、

そもそもこんな場所には来ていないだろう。


そんな考えで『母親だから』と

口にしたのだが――


その言葉は、目の前で転がっている娘にとっては、

どうしようもない禁句だったらしい。


「今までちっとも会いに来なかった癖に、

いきなり母親とか言い出すのかよ?」


「あら、ダメ?」


「ダメに決まってんだろ!

何様のつもりだよ、お前は!?」


「ABYSSの上から二番目の役職よ。

だから、由香里ちゃんに会いに行けなかったの」


仮に足繁く通ったとすれば、きっと娘の存在は

獅堂派に弱みとして利用されただろう。


だからこそ、信頼できる施設に預け、

壊されないように注意を払ってきたつもりではあった。


「嘘つけ。お前はABYSSなんて関係なしに、

私に興味なんてなかったんだろ?」


「嘘なつもりはないけど、興味ないのも正解ね。

結局、回数は少なかったんじゃないかな」


女が興味を持てるのは、

夫とゲームと人の死だけ。


子育ては初期の段階で無理だと判断し、

ネグレクトする前に手放したという面もある。


だが、どちらにしても、

その行動は一貫して娘を守るため――


正確には、須賀刀也と作ったものを、

壊れないように守るためだと言えた。


その一方で、守られる側の由香里には、

母親に纏わる複雑な事情を理解できなかった。


無責任としか思えない母親に向けて、

罵倒の言葉を浴びせる/唾を飛ばす。


涙の溜まった瞳で焼き殺さんばかりに睨み付け、

これまでの艱難辛苦を声高にぶつける。


普段は物事を数字で見ていながらも、縁を挟んだ途端に

私情が乗算されてしまうのが、この少女だった。


だが――


どれだけ言葉をぶつけても、

暖簾に腕押し。


表情一つ変えず、じっと観察してくる母親に、

少女の怒りは虚しさへと変わっていった。


「クソ……何でなんだよ……」


荒げた息を整えながら、頭を垂れて、

少女が悔しそうに言葉を零す。


「……寂しかったの?」


「っ、何なんだよ!?

バカにしてんのか!」


「ううん、まさか。

感情があるんだなと思っただけ」


言っている意味が分からず、由香里が眉をしかめる

/その顔を葉がまじまじ眺める。


親には感情がなくとも、

子にはあるのだな――


不思議に思う反面、

よかったと安堵する気持ちもあった。


そして、その心の遺伝元が刀也なのだと思うと、

少しばかり興味も湧いてきた。


「ねえ、人生は楽しい?」


「……は?」


「背が随分低いけど、ちゃんとご飯食べてる?

刀也さんの子供なんだから、もっと伸びるはずよ」


「うっ……うるせーな! 食べてるよ!

何で今さらそんな話してんだよ!?」


「ちょっとお話してみたくなったから。

お勉強はちゃんとしてるの?」


「してるよ! 知ってるだろ?

どうせ私のデータ見てるんだから!」


「データは見てても、直接聞いてみないとね。

勉強しなくてもテストはいいって子もいるし」


「そうだ、素敵な男の子は見つけた?

由香里ちゃんの年頃だと一杯周りにいるでしょう?」


「お前のせいでそんなことしてる暇ねえよ!

ふざけんな!」


「うーん、それは困ったわねぇ」


言葉とは裏腹に、

葉がニコニコと微笑む。


会話自体に意味はなかったが、葉の質問に対し、

娘が常に強い感情を返してくるのは面白かった。


親子の関係にはまるで興味がなかったが、

こういう関係なら悪くないなと思った。


こうなってくると、

色んな感情を観察してみたくなってくる。


さて、それじゃあ次は、

この子のどんな反応を引き出してみようか――


そんな女の気持ちに水を差すように、

電話のコール音が鳴り響いた。


「……やっぱり来たか。

ちょっと待っててね」


娘の頭を優しく撫でてから、

通話を押下。


発信元は、確認しなくても分かる。


「獅堂天山ね」


「須賀葉だな」


示し合わせたように、

第一声でお互いの名を呼び合った。


「お前がまだ迷宮内に留まっているとはな。

とっくに逃げたと思っていたが」


「あら、逃げたらあなたを殺せないじゃない?」


ごみが世迷い言をほざくな。

俺を殺せるなど思い上がりにも程がある」


「それともまさか、

本気で殺せるなどと思っているのではあるまいな?」


「さてどうでしょうね。

お互いに殺したいと思ってるのは確かでしょうけど」


「……その通りだ。そのためにわざわざ、

こんな迷宮くんだりまでやってきたのだからな」


「だが、最終日の怪物役にされるのは想定外だった。

上手く手を回したな、須賀」


「そっちも、高槻良子を寸前でねじ込んだでしょう?

顔を合わせた時は、どうしようかと思ったわよ」


「幸い、高槻の護送に際して、

私たちの側の手配が間に合ってたみたいだけど」


「……その妨害のおかげで、

俺の側は高槻に任務を伝え損ねたというわけか」


「あら、あなたが高槻を隠そうとしてるから悪いのよ。

もっと前に入れる動きを見せればよかったんだから」


「もっとも、そうしたところで、

私たちは森本聖を焚きつけていたでしょうけどね」


聖と高槻の因縁は、

葉もしっかりと把握している。


獅堂と高槻が会う等、高槻が入る可能性が見えれば、

ラビリンスゲームの前に聖に討たせるつもりだった。


それを警戒したところから生まれたのが、

高槻の処罰という形での直前投入だ。


しかし結局は、命令伝達の唯一の機会となる護送を、

葉に押さえられ防がれた――という形だった。


だが、葉の派閥だけが

一方的に勝利しているわけではない。


特に、獅堂の側が設定した追加ルール――

『一位脱出者が他の参加者の運命を握る権利』。


これにより、葉は確実に一位を取らねばならず、

今も足止めを食らっているのだ。


おかげで、こうして獅堂からの電話にも

出るハメになってしまっていた。


「つくづく目障りな奴だ」


「とことん面倒な人ね」


「……今すぐ殺してやりたいが、

俺が出るまであと小一時間ほどある」


「じゃあ、今回も結局、

お互いを殺すことはできなさそうね」


「お前が居場所を言えば、

迷宮に出たら真っ先に向かってやるんだがな」


「やめてよね。もし来たら、

私はその場で脱出させてもらうから」


「……次の機会を待っていろ。

お前は必ず殺す」


「次があるかどうか分からないけど、

私もあなたを殺せるように頑張るわ」


その宣言の後に、

舌打ちが聞こえて来て――電話が切れた。


この相手とまだ付き合うのかと思うと、

自然と溜め息が漏れた。


「……今の電話の相手、獅堂か?」


「ええ、そうね。

あの人がここに来る前に全部終わらせないと」


そう口にしたところで、

女がはたと気付いた。


“さて、この子をどうしようか?”


獅堂を殺す計画を立てて来たと把握しているが、

どうやっても敵う見込みはない。


このままであれば、カード勝負の結果に関わらず、

確実に死を迎えるだろう。


そして、カード勝負に関しても、

由香里にはもう人質としての価値はない。


では、どうするか――


「もういいかな」


「……何がいいんだよ?」


「由香里ちゃんのこと助けてあげる」


「私を自由にするって名目で、

獅堂を殺させるつもりか?」


「ううん。

この迷宮から脱出させてあげようと思って」


『はぁ!?』と大きな声が上がった。


「お前……何考えてるんだよ?

私はお前の敵なんだぞ!?」


「私は別に敵だと思ってないし。

それに、さっき刀也さんの夢を見てたから」


「そんなの理由になってないだろ!」


「そうね。私もそう思う」


実際、どうしてそういう選択をしたのかは、

葉自身も何となくしか分かっていなかった。


敢えて理由を付ければ、刀也と作ったものを、

わざわざ壊したくないというところだろう。


大事なものや価値を見出せるものが少ない葉にとって、

それは大きな理由になり得る。


では、何故壊したくないのか――


その疑問に関しては、この感情の欠けた女では、

どうしても理解することができなかった。


けれども、その行為が正しいと信じて、

葉が迷いなく携帯を操作していく。


その後ろに、

数多がぼんやりと現れた。


「……いいのか?

それは脱出用の切り札だろう?」


「大丈夫よ。“世界”を使っちゃっても、

どうせ私はカードで勝ってみせるし」


「あなたの脱出も保証してあげるから、

そんなに心配しないで」


「それならいい」


面倒そうに呟く数多の前で、

葉が“世界”を由香里の携帯へ移し――起動。


かかってきた電話に葉が出て、

須賀由香里を脱出させることをスタッフに告げた。


「はい。後は少し待てば、

由香里ちゃんに迎えが来てくれるから」


「来てくれるからじゃねーよ、ふざけんな!

私はお前なんかに助けられたくない!」


「うん、そうでしょうね。

でも、私は助けてあげたいと思ったから」


噛みつかんばかりに暴れる由香里を、

葉が楽しそうな笑顔で眺める。


「もう少し話していたい気持ちもあるけど、

そろそろ準備をしなきゃいけないの」


「だから、由香里ちゃんとは

もうこれでお別れ」


「お別れって、お前……」


娘の声を横に、葉が数多に目配せする――

数多が機械的に頷く。


「あ。それから、私が一位を取った権利で、

GreedからもABYSSからも足を洗わせるから」


「はぁ!? 何だそれ?

そんなの勝手に決めんな!」


「ダメ。勝手に決めちゃう。

私はあなたの賢い役だから」


母親という自覚はなくとも、

何が娘にとって幸せな選択なのかは分かる。


せめて刀也と作ったこれくらいは、

やはり壊れる前に保護しておきたかった。


ガーガーと喚く娘の、賢い役として。


「じゃあね、由香里ちゃん。

もう会うことはないと思うけど、元気でね」


「待て! 逃げるな、おい――」


言いかけたところで、

電池が切れたように由香里が黙った。


その背後に立つ数多が、

首輪に走る電撃の痛苦に小さく呻く。


「そういえば、ここってまだ暴力禁止だったっけ。

大丈夫? ごめんなさいね、無茶言って」


「想定内だ。

行動に支障はない」


「あら頼もしい。あなたをこっそり参加させたのが、

私の一番のファインプレーだと思ってるわ」


「余計な言葉は必要ない。

指示があるんだろう?」


ええそうよ――と頷く葉。


「保険をかけておきたいの。

念のためだけどね」








「“星”を使わせて欲しいって……

何に使うつもりなの?」


「それを説明する前に、

まずは現時点で勝ちの目を整理しようか」


温子さんがメモ帳を取り出し、

話しながらそこに鉛筆を走らせていく。


一番上に上がったのは、

『志徳院葉との勝負に必ず勝利すること』。


全てのカードを賭けている以上、

これは避けて通れないとのこと。


そして次に上がったのは、

『脱出後の順位決めで一位を取ること』。


「あれ? でもこれって、

葉との勝負に勝てば考える必要ないんじゃない?」


「カードを全部賭けた勝負なんだから、

負けたほうは脱出不可能になるわけだし」


順位決めは、

あくまで脱出した後の話だ。


脱出不可能であれば、

そもそも関係ないんじゃないだろうか。


「カードを全部賭けてるのはこっちだけだよ。

向こうは全部賭けてるわけじゃない」


「そうなのっ?」


「うん。実際、獅堂がカジノエリアに来たら

すぐに脱出するって葉が言っていたから」


「多分“世界”の大アルカナだ。

賭けずに手元に隠し持ってるんだと思う」


「もしかすると、他の携帯に数多のぶんの

小アルカナも残してるかもしれない」


……それじゃあ、脱出後の得点争いは、

ホールデムの勝敗に関わらず絡んでくるってことか。


「そこで問題になってくるのが、

採点基準の話だ」


温子さん曰く、採点基準が不明ではあるものの、

要素としては『ゲーム中の行動』が全て。


可能性として考えられるのは、カードの数、

脱出の順位、参加者および怪物の殺害数――


「っていうことは、もしかして現時点で

深夜さん……数多さんが有利だってこと……?」


「もしかするとね」


僕たちのチームで

参加者を殺した数はゼロ。


対して葉のチームでは、

藤崎と爆弾を仕込まれていた誰かは確実に殺している。


怪物の殺害数に関しては、

恐らくそこまで差はついていないだろう。


「でも、こっちは特別な怪物を

二人処理したことになって……ますよね?」


「まあ、カードを奪ってるからね。

殺害が条件だったらちょっと困るけれど」


「分からないなら悪い方向で考えて、

得点になってないと思ったほうがよくない?」


「今、楽観的に考えて、後でダメだったら、

取り返しようがないじゃない」


「……確かにそうだね」


さすがはプレイヤー、

悪い状況の想定は慣れたものって感じか。


「つまり、ここで今川くんの妹と

真ヶ瀬を殺れば確実って話よ」


「……」


「いやいや、やめてや……。

冗談に聞こえんから」


龍一に心底同意。

絶対に目を離しちゃダメだ、これ。


「まあ、真ヶ瀬先輩たちを殺すうんぬん以外は、

黒塚さんの言う通りだと思う」


「最悪の状況を想定するのであれば、

カード勝負で勝っても、順位は負けているとすべきだ」


「でも、それだったら、

葉さんは勝負してこなかったんじゃないのぉ?」


「最初から葉さんたちが勝ってるなら、

そのまま脱出しちゃえばよかったと思うし」


「それに関しては、向こうも単純に、

私たちに勝ってる自信がなかったんだろうね」


「こっちが怪物をどれだけ倒してるか分からないし、

何か他に採点要素があるかもしれないから」


「しかも、派閥争いなんてものがあるなら、

絶対に一位は死守しなきゃいけないし」


「だろうね。晶くんたちの誰かが脱出した後に、

獅堂派に買収されない保証なんてないし」


……そういうことか。

向こうも思ってるより必死なんだな。


『一位以外は死ぬ可能性がある』って追加ルールは、

こうして考えると本当にいやらしい。


「話を戻すと、私たち全員が生還するには、

ホールデムと順位争いの両方に勝つ必要がある」


「じゃあ、順位争いに勝つにはどうすればいいか。

取れる手段は二つだけしかない」


温子さんがメモから顔を上げて、

みんなに見えるように二つの指を立てる。


「端的に言うよ。

御堂数多の殺害か、獅堂天山の殺害だ」


一気に、場の空気が冷たくなった気がした。


それが、どちらも困難であるためでもあるけれど、

やはり『人を殺す』という行為が絡んでくるためだろう。


特に那美ちゃんは何か言いたそうにしているけれど、

方法がこれしかない以上、何も言えないようだった。


「ま、いいんじゃないのかな。

私は元々、獅堂を殺すつもりだったしね」


そんな重い空気の中を、

先輩の軽い声がさらっと流れた。


「朝霧さんは志徳院さんに勝つ。

私と晶くんは獅堂を倒す。分かりやすいよね」


「その通りです。御堂数多を狙うのは、

脱出される怖れも含めて適切ではないので」


「でも、メッチャ難しいやろ、それ。

普通にやったらどっちも勝てへんのやろ?」


「その通り。そこで出てくるのが、

この“星”のカードだ」


現状の整理を終えたところで、

ようやく本題に戻ってきた。


温子さんは“星”を、

一体何に使うつもりなんだろうか?


「この“星”を使って、

爽をこの迷宮に呼び寄せる」


その場の全員の顔に、

一瞬で困惑が浮かんだのが分かった。


「冗談でしょ?

今さら爽を呼んで何するのよ?」


「っていうか、ABYSSとの勝負に爽を呼ぶ?

朝霧さん、あなた自分の妹を殺したいわけ?」


「悪いけど、俺も黒塚さんと同じ意見やな。

爽一人増えたところで、何か変わるとも思えんよ」


提案に対し真っ先に非難の声を上げる

プレイヤーの二人。


それに続いて那美ちゃんも手を挙げる。


「……温子さんが考えなしで提案する人じゃないのは、

私も知ってるし信じてるよ」


「でも、爽さんを呼んでどうするの?

もしかして、温子さんの代わりに戦ってもらうの?」


「いや、それだけだと結果は同じだろうね。

爽はホールデムをやったことがないだろうし」


「じゃあ、爽ちゃんを呼んでどうするのぉ?」


「私と爽の二人で、葉に挑戦する」


途端に、再び上がる非難/疑問――


“そんなことをする意味があるのか”

“一人と二人で何が変わるのか”


けれど、温子さんはそれらの声に負けずに、

凛々しい顔でみんなの顔を見回してきた。


「みんなの気持ちは分かるよ。

爽はバカだと思われてるし、実際バカだしね」


「でも、子供の頃は私よりも、

爽のほうがずっと頭がよかったって言ったら信じる?」


「……それ、ホントなの?」


「本当だよ。爽は必ず私の一歩先を行ってたんだ。

勉強でもゲームでも運動でも、何でもね」


「あの爽がなぁ……」


説明を聞いてなお、全員の顔は渋いまま――

明らかに不満が丸見え。


けれど、それが事実であることを、

僕は既に、爽に聞いて知っていた。


温子さんと不仲になったり、

両親が離婚をしたり、全て爽が原因だという話だ。


そんな人を動かすほどの頭を持つ爽なら、

行き詰まった状況でも動かせるかもしれない。


温子さんと力を合わせられるなら、

葉にだって勝てるかもしれない。


でも……それをみんなに、

どう説明したらいいだろうか?


そんなことを思っているうちに、

真ヶ瀬先輩がおもむろに手を挙げた。


「妹さんをここに呼んだら、下手すると道連れにする。

それはちゃんと分かってるんだよね?」


「分かってます。私たちと一緒にクリアする以外、

外には出られないでしょうから」


「それを分かった上で、

妹さんをここに呼ぶ価値があると思ってるの?」


「もちろんです」


「勝率がかなり低くても?」


「全員が助かる可能性を残せるのであれば」


先輩の蒼い瞳が、

温子さんをまじまじと覗き込む。


けれど、温子さんの眼鏡の奥の光は、

一向に揺らぐような気配は見えなかった。


「ふーん……じゃあ、

やってみればいいんじゃないかな?」


「ちょっと真ヶ瀬、無責任なこと言わないでよっ。

もしかしたら爽まで死ぬかもしれないのよ?」


「それも込みで勝算があるって踏んでるなら、

もう君たちは信じるしかないんじゃないの?」


「全員が助かる道はそれしかないって言ってるんだし、

あとは単純な数の損得の問題じゃない」


何人生き残れるか分からない現状よりも、

全員が生還できる可能性に賭けるか否か。


リスクは、一つ死体が増える。

一方でリターンは、七人全員の生存。


先輩の言う数の損得っていうのは、

そういう話だろう。


問題は、ここにいなくて何の関係もない爽一人に、

そのリスクを負わせてしまうことか……。


「……爽には、後で何でも

わがままを聞いてあげるしかないかな」


「笹山くん? 正気?」


「もちろん正気だよ。

だから、爽をここに呼ぼうと思う」


「ほら、黒塚さんも分かるでしょう?

生き残ればいいっていう問題じゃないって」


「それは……」


「今のままなら、僕らはカードを全部取られて、

全滅する以外にないんだ」


「そうなったら、爽はきっと、

ABYSSに対しての復讐を選ぶと思う」


「ABYSSだって、

それを見込んで爽に対して声をかける」


以前に行われた“次のゲーム”の後に、

黒塚さんがそうされたみたいに――


「だったら、爽のことも最初から巻き込んで、

全員が助かるほうに賭けたいんだ」


「僕らの目的は生き残ることだけじゃない。

元の生活に戻ることだよ」


「だから、ここにいる誰が欠けても嫌だ。

みんなで生きて帰らなきゃダメなんだ」


「まー、ちょっと欲張りだとも思うけどね。

外の人にリスクを負わせて賭けに出るんだから」


「いえ、欲張りでいいんです。

そこは諦めちゃダメなところだと思います」


「僕たちの求めているものが、

仮に十だとして――」


「今、手元にあるものが七しかないんだったら、

外から三を借りてでも十にするべきなんです」


「だってもう、僕らの勝負は、

十かゼロかしかないんですから」


「三を借りて来られないならともかく、

それを用意する方法が今、手元にあるんですから」


「ああ、もちろん爽を連れて来る前に、

きちんと意思確認はしてもらいますけれどね」


爽の同意なしにリスクを負わせるのは、

さすがに望むところじゃない。


爽が嫌だと言ったら、勝負はそれまで。

後は玉砕覚悟で行くだけだ。


でも、きっと爽は、

僕らの提案に乗ってくれると思う。


僕が一年半の付き合いで知った朝霧爽は、

そういう人間だから。


「じゃあ、笹山くんは朝霧さんの話を信じるの?

爽がいれば葉に勝てると思ってるの?」


「思ってるよ」


「もし勝てなかったら?」


「その時は、僕が責任を持って葉を殺すよ」


「負けそうだと思ったら、

僕が行くまでゲームを引き延ばしてくれればいい」


「脱出なんてさせる暇も与えない。

僕が首輪が爆発するのを前提で仕留めるから」


「もちろん、大丈夫だっていう温子さんと、

爽の頭のよさを信じてるから約束できるんだけれどね」


二人のことを信じられるから、

どんなに無茶な約束でもできる。


そして、いざその時が来れば、

きちんと履行する覚悟もできている。


「だから、お願い。

温子さんと爽を信じてあげて」


頭を下げる。


それに、黒塚さんは腕を組んで黙り込み――


やがて、呆れた風に溜め息をついた。


「晶がそこまで言うんなら、ええんちゃうの?

俺らも爽と温子はんのこと信じようや」


「それに、こんだけ見慣れた顔が並んでたら、

むしろ爽がおらんほうが不思議やしな」


「それもそうだね。

あいつは呼ばなくても来るやつだし」


「それはすっっっっごくよく分かるけど、

私はやっぱり全部賛成って感じじゃないわね」


「でも、笹山くんの言ったことも理解できるし、

好きにすれば?」


「その代わり、絶対に勝ちなさいよね」


黒塚さんが、

温子さんをじろりと睨め付ける。


その視線を真正面から受け止めながら、

温子さんは『もちろんだ』と頷いた。


「でも“星”をそれに使うなら、

涼葉ちゃんたちはどうなるのぉ?」


「そこも勝てばって感じかな。

褒賞として文句なく解放できるからね」


「まあ最悪、私が生きて帰れたら、

意地でも帰してあげるから安心して」


……とはいえ、褒賞や“星”が解放条件である以上、

先輩でも簡単に解放できるとは思えない。


温子さんと葉のホールデム勝負だけじゃなくて、

僕らも絶対に獅堂天山に勝たないと。


そのために出来ることは――


「……もう一人、

“星”で呼び寄せたい人がいるんだ」


「もう一人って……誰か他にいる?

佐賀島さんとか?」


「いや、うちの琴子を

呼びたいと思ってるんだ」


「ああ、それいいねっ。

琴子ちゃんもここに呼ぼう」


拍手で賛意を示してくる先輩。


……そういえば、

先輩が琴子たちを捕まえたって言ってたんだっけ。


となると、もしかすると先輩はもう、

あの子と会ってるのかもしれない。


「とりあえず、どうして琴子ちゃんを呼ぶのか

説明してもらえるよね?」


「あ、うん――」


と、見回した周りの顔は、

爽の時の比じゃないくらいに渋いものだった。


……まあ、当然こういう反応をされるか。


僕も御堂の記憶を思い出す前だったら、

絶対に反対してただろうし。


でも、話せばきっと

分かってもらえるはずだ。


僕に裏の人格というものが存在していたように、

琴子にもまた、もう一つの人格があるんだってことを。





そうして“星”を使って願いを叶え――





スタッフの指定したきっちり三十分後に、

頼んでいた二人が僕らの前にやってきた。


「いやー、何か呼ばれて来てみたら、

ホントにみんないるとはねー」


「っていうか、あたしびっくりなんだけど。

ガチでABYSSがいるとかさぁ」


「あー、そういう感動は後でいい。

それより、簡単な説明はされているんだよな?」


「もち。ここにいる人の大体の背景と、

今の状況について何となくね」


「で、ホールデムで勝負するって言ってたっけ?

あたし、やったことないんだけど」


「ルールとゲーム進行を紙にまとめておいた。

今から日付の変わるまでの間に全部覚えて」


「はいはい、了解。っていうかトランプない?

模擬戦とかしてみたいんだけど」


「ない。代わりに幾つか状況を出題するから、

その時に最も効率のいい手を回答してくれ」


「うへぇ、まあそれも了解。

一夜漬けモードでやるしかねーっすね」


状況の深刻さを理解しているのか、

爽が挨拶もそこそこにホールデムの学習を開始する。


出て来た疑問はすぐさま温子さんに質問――

回答を噛み砕き、早くも話題は心理戦の押し引きに。


まさに一を聞いて十を知るような、

とんでもない吸収の速さ。


……話に聞いてはいたけれど、

これが爽が本気で勉強する時の姿ってことか。


「爽ちゃん、

何だかいつもと違う……」


「そうね……何か、悔しい」


何が悔しいのかは分からないけれど、

爽が頼もしく見えるのは間違いない。


爽はこのまま、

温子さんに任せておいていいか。


で、問題は――


「えっと……私はどうすればいいの、

お兄ちゃん?」


笹山琴子のままのうちの妹から、

どうやってミコを呼び出すかだな……。


先輩から話を聞いた限りだと、ABYSSに襲われて

出て来たんじゃないかってことだったか。


でも、琴子をわざと

危険な目に遭わせるなんてことはやりたくない。


「琴子、よく聞いて」


琴子の肩に手を置いて、

真正面から向かい合う。


いつも見慣れた妹の顔に、

戸惑いが浮かぶ。


……これから話すことは、きっと、

もっと琴子を混乱させることになる。


それでも、琴子にも手伝ってもらう以上、

ちゃんと伝えなきゃいけない。


「実はね、琴子の中にはもう一人、

別の人格がいるんだ」


「えっ、何それ……?

いきなりどうしたの? 何の話?」


「真剣な話。冗談とか嘘じゃなくて、

本当に琴子の中にはもう一人、違う琴子がいるんだ」


「ちなみに、僕の中にもいる。

……那美ちゃんが、そこはよく知ってる」


「そうなの、那美ちゃん?」


「……うん。本当だよ」


ぎゅっと、

自分の腕を抱き締めて頷く那美ちゃん。


その様々な思いが滲む顔を見て、

琴子も何かしら悟ったらしい。


僕のほうへと戻って来た妹の表情は、

不安ながらも真剣なものになっていた。


「ABYSSのことをいきなり聞かされた上に、

こんな話まで出て来て、混乱しないわけがないと思う」


「でも、全部本当のことなんだ。

ABYSSもいたし、僕らにも別な人格がある」


「今はその、琴子のもう一つの人格と、

これからすることについて話したいんだ」


「じゃあ……私が呼ばれたんじゃなくて、

もう一人の私に用があるってこと?」


「うん。でも、琴子を蔑ろにしてるわけじゃないよ。

逆に大事だから、本当は呼びたくなかった」


「でも、ここからみんなで生きて帰るためには、

どうしても、もう一人の琴子が必要だから」


「でも、そんなこと言われても……」


「怖い?」


「ううん。そうじゃなくて、

どうすればいいんだろうって……」


「お兄ちゃんたちが、

もう一人の私と会いたいのは分かるの」


「でも、どうすればその、

もう一人の私を出せるかが分かんないの」


しょんぼりと琴子が項垂れる。


それを見て、先輩がこっそり

『危ない目に遭わせる?』とサインを送ってきた。


けれど、それはあくまで最終手段だ。


ミコを呼び出すためのトリガは、

一応、心当たりがある。


万が一の事故もあるかもしれないけれど……

その時はもう、自分の運命だな。


僕のしでかしたことなんだから、

きちんと責任を取るつもりで話そう。


「あのね、琴子。

そのもう一人の琴子の名前って、ミコって言うんだ」


「ミコ……お兄ちゃんは会ったことあるの?」


「あるよ。毎日いじめられてた」


「えっ!? どういうことっ?」


「ミコに恨まれてたんだ。

その……事故が原因で」


「事故……?」


さて……ちゃんと出てくるかどうか。


覚悟を決めて、

琴子の/ミコの目を見て、口を開く。


「――琴子姉さんを殺したのは、僕なんだ」


瞬間――地面が勢いよく

僕の顔を目がけてぶつかってきた。


それが、思い切り投げ飛ばされたのだと知ったのは、

ねじ上げられた僕の腕が、軋みを上げ始めてから。


ある程度、警戒はしていたつもりなのに、

それでも危機感知をすり抜けてくるのか。


「痛てて……相変わらずさすがだね、ミコ」


「黙れ。いいから聞かれたことにだけ答えろ」


背中から降ってくる冷たい声/

嘘は許さないとばかりに、さらに腕の軋みが増す。


それに息が詰まるような苦痛を覚えつつも、

とりあえず動こうとする周りを止めた。


ミコにとっての琴子姉さんは、

僕にとっての那美ちゃんくらい大きな存在だ。


ここでミコを無理に引き剥がそうとして、

死人を出されたんじゃ敵わない。


「いいよ。何でも答えるから」


当たり前だ――とミコ。


まあ、何でもと言ったけれど、

どうせ質問は一つしかない。


「本当に、お前が琴子ちゃんを殺したのか?」


「……うん。僕が殺した」


「何で殺した?」


「訓練中の事故だったんだ。

琴子姉さんと、蠱毒の壺に入った時の」


「嘘をつくな。

琴子ちゃんがそんなので死ぬわけがない」


「うん……僕でもまず負けない相手だったんだ。

でも、僕は初めての実戦で、怖かったんだ」


分からなくなって、殺したくなくて、

殺されたくなくて……。


でも、逃げ場なんてどこにもないから、

最後にはやるしかなくなった。


そうして、人を殺していったら――

どんどん気分が悪くなった。


「よく分からないけれど、僕はどうも人を殺すと、

頭に余計な記憶が混じるみたいなんだ」


「……意味が分からない。

ちゃんと説明しろ」


「そのままだよ。頭の中に、

他人の死の記憶が勝手に這入ってくる感じ」


「いつの間にか、殺される側の視点で自分を見てたり、

遥か昔の誰かが死ぬところを見てたりするんだ」


「しかも、人を殺すたびに、

どんどんその記憶が蓄積されてる感じがした」


まるで殺人の記録帳。


でも、今だからその現象を把握できているだけで、

当時の僕にはただただ恐怖だった。


殺したくないのに、殺すたびに、

知らない誰かの死をどんどん見せられて――


「……それで、最後にはもう、

殺してるのか殺されてるのかも分からなくなった」


「そんな中で、最後に残った相手が、

僕との相打ちを狙ってた」


「でも、当時の僕には、

そんなことを気遣う余裕なんてなくて……」


「気付いたら、敵と僕の間に

血塗れの琴子姉さんが立っていたんだ」


後ろで、

ミコが僅かに唸ったのが分かった。


今、ミコがどんな顔をしているのか。

僕には想像できないけれど――


「……琴子ちゃんは、

お前に死ねって言ってただろ?」


その質問で、何でもいいから

恨みをぶつける先を探しているのが分かった。


できることなら、それを受け止めてやりたいけれど、

琴子姉さんの言葉を偽るわけにはいかない。


「僕もそう思ってたよ。

姉さんは、僕に殺されて恨んでたはずだって」


「でも、姉さんが最後に残した言葉は、

ちゃんと思い出したら全然違ってたんだ」


「……何て言ってたんだ?」


「晶くんが無事でよかった――って」


ABYSSになろうと、

根っこは何も変わらなかった聖先輩と同じ。


琴子姉さんは、

最後まで僕の姉さんだった。


なのに、ずっと姉さんは恨み言を残すはずだって、

思い込みだけで怯えてて……。


僕は、本当にばかだ。


「ミコは僕を殺したいかもしれない。

僕だって本当は生きてちゃいけないのかもしれない」


「でも僕は、琴子姉さんとか那美ちゃんとか聖先輩とか、

色んな人に生かしてもらってここにいるんだ」


「だから、死なないことに決めた」


「僕は色んな人を殺して、傷つけてきたけれど、

僕の人生はこれまでが全てじゃない」


「これからの僕の人生を使って、

償ったり人を助けたりしていこうと思う」


「……大層なことを言ってるけど、

開き直りますってことだろ?」


「違うよ。開き直るんだったら、

過去なんて最初から見ない」


「過去は過去のものとして受け止めた上で、

これからの糧にしていくんだ」


「そのために、隠さないで全部ミコに話した。

ミコだけじゃなくて、みんなにも、全部」


「僕のダメなところとちゃんと向き合って、

これから頑張って行こうと思ったから」


「……」


「そのこれからを手に入れるために、

ミコの力を貸して欲しい」


「それがボクを呼んだ理由か」


「うん。みんなを助けるためには、

僕と先輩だけじゃまだ足りないから」


「でも、そこにミコが手を貸してくれるなら、

きっとABYSSにだって勝てる」


「だから……お願いできない?」


首をできるだけ後ろに回して、

何とかミコを仰ぎ見る。


そこにあったミコの顔は、

『私、不機嫌です!』とばかりにぷんぷんしていて――


「お願いしますミコ様と言え」


僕の腕を捻り直しながら、

それはそれはらしい要求をしてきた。



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