幽の過去1

「――お兄ちゃん、何かおかしい」


「え……そ、そうかなっ?」


「そうだよ。さっきからずっと、

琴子のお話、聞いてないし」


「聞いてる聞いてる」


「……何かあったの?」


「いや、別に……」


「ホントにぃ?」


琴子の鋭い追求を、

冷や汗を自覚しながらの半笑いでやり過ごす。


……あの後、幽が落ち着いてから、

僕が先に学園を後にした。


それから、帰ってきて、

すぐにシャワーを浴びて寝て。


起きたら朝で、快晴で、部屋の中が明るくて、

何だか夢でも見ていたような気になった。


けれど、寝惚け眼を擦りながら、

脱ぎっぱなしだった制服を片付けようとした瞬間――


一気に、目が覚めた。


どこに引っかかっていたのか、はらりと/ふわりと、

幽の長い髪の毛と甘い香りが零れてきて。


その仄かな余韻に、

昨日の夜と同じくらい胸がドキドキした。


それで、認めざるを得なかった。


夜の図書室にあったあの蠱惑的な光景は、

決して嘘じゃなかったということを。


そうなってくると、

ものすごーく大きな問題が出てくる。


僕は一体、

どんな顔をして幽に会えばいいのか――





「……って言っても、

結局は会わざるを得ないんだよなぁ」


ベッドに転がって携帯を弄りながら、

昨日までの情報を整理する。


僕らは昨日、

ABYSSの一人を殺した。


当然、その情報は、

残る四人にも伝わっているはずだろう。


仲間が殺されたとなれば、

静観してきた四人が本格的に動き出す可能性は高い。


それに対抗するにはどうすればいいか。

次に狙うべきABYSSは誰か。


どう考えても、

幽と決めるべきことは多い。


「……変に意識してても仕方ないか」


どうせ月曜になれば、

顔を合わせることになるんだ。


遅くなればなるほど多くの覚悟が必要になるし、

動くなら早いほうがいいだろう。


意を決して体を起こし、

幽の携帯をコールする。


が――出ない。


しばらく待ってみたものの、

電話の向こうから響くのはコール音だけ。


……もしかすると幽も、

気まずく思って出ることができないのか?


いやでも、だとしたら着信拒否にするよな。

あるいは電源を切るとか。


片山が死んでから、経つこと十二時間強。


あり得ないとは思うけれど、

もう既にABYSSの手が及んでるなんてことは……。


「……様子を見に行ってみるか」





マンションの前でもう一度電話を鳴らしたものの、

幽が出る気配はなかった。


結局、様子を見る必要ありと判断して、

部屋の前へ――ドア横の呼び鈴を押下。


電子の呼び出し音に緊張しながらも、

幽の応対を待つ。


が――

三十秒近く経っても反応がない。


おいおいと、

今度は携帯を鳴らしてみる。


同時に、ドアへと耳を付けて、

中から着信音が聞こえて来るかどうか確かめる。


「……あるな」


少なくとも、携帯は部屋の中にある。


……だったらどうして反応しないんだ?


さすがにここまで来て、

幽が居留守を使うとは思えない。


疑問に思いつつ、

念のためにドアノブへと手をかける。


「――えっ?」


すると、カチャリという軽い音と共に、

あっさりとドアが動いた。


……昨日、幽に連れられてこの部屋に来た時には、

鍵を開けて入っていた。


出る時も同じだ。


幽には、部屋を留守にする時には、

鍵をかける習慣があると考えていいだろう。


じゃあ、鍵がかかっていないなら、

部屋にいるのか?


だとしたら、

どうして呼び鈴に応えないんだ?


どうして――


「……幽っ!」


常識や気後れを端に追いやって、

ノブまで回していたドアを開ききる。


と、すぐさま玄関にある彼女の靴が目に入った。


つまり、幽は外出していない。


嫌な予感に駆られ、

靴を脱ぎ捨てて部屋へと上がりこむ。


先には、もう一つの開いてるドア。


玄関周りに荒らされた形跡はない……けれど、

どうしてそこが開いているんだ?


まさか、まさか、まさか――






「幽っ!」


飛び込んだ先は、

全てのものが止まっているように見えた。


そんな中で聞こえて来る、

微かな呼吸音と衣擦れの音。


見れば、ベッドの上には、

ごろりと横になっている幽の姿があった。


「……なんだ。びっくりした」


その姿を見て、気を抜かれた。


てっきり、

ABYSSに拉致でもされたのかと思った……。


が――そうして安心したのも束の間。

何だか幽の様子がおかしいことに気付いた。


ベッドの脇にしゃがみ込んで、

幽の顔を覗き込む。


額から頬にかけて、

髪の毛が張り付くほどの汗。


これは……熱が出てるのか?


念のために手を置いて確かめると、

明らかに自分の額よりも熱かった。


風邪か?

それとも、昨日の薬の副作用が続いているのか?


その判断は付かないけれど、

このまま放っておくわけにはいかない。


「とりあえず、

水分と栄養のある食べ物だな……」


幽のことだし、

多分まともにご飯も食べてないはずだ。


普通の風邪の対処になるけれど、

温かくして、病人食を作って……。


――あ。


やるべきことを考えていく途中で、

そもそも用意がないことに気付いた。


昨日、見た限りだと、

食材はもちろん調理器具もほとんどない。


まずは買出しが先か。

それと、包丁とかも家から持ってこないとな。


「……ぃ……さん……」


急がなきゃ――と立ち上がったところで、

ふと幽の寝言が聞こえてきた。


……“兄さん”だろうか?


幽にもし、兄弟がいるのだとすれば、

今は、その夢でも見てるのかも知れない。


でも、幽の兄弟か……。


一体、どんな家族だったんだろう?





少女がいそいそと受話器を取ると、

電話の相手は『黒塚さんのお宅ですか』と訊ねてきた。


初めて聞く、

深く暗い水底から響いてくるような声音。


それに、少女がおずおずと肯定を返すと、

相手は彼女をまだ子供だと判断したのだろう。


電話先の男は、誰か大人の人に代わって欲しいと告げ、

少女もそれに従った。


首を傾げながら応答する母親を尻目に、

少女が椅子へと戻る。


そうして、

再びテレビ番組へと没頭を始め――


傍らで、真剣な表情のまま頷きを繰り返す母の様子に、

気付くことができなかった。


……番組も終わり、

次回予告がコマーシャルで上書きされる頃。


少女はようやく、

母親の電話が終わっていることに気付いた。


だが、不思議なことがあった。


どうしてか、少女が電話を渡した時と同じ場所、

同じ姿勢のまま、母親が止まっていたのだ。


いつもであれば、

この母は歩き回りながら電話をする。


洗濯物を干しながら/料理の本を眺めながら

/時にはトイレに行ってまで会話を続ける。


なのに、どうして今日は、

そうしなかったんだろうか?


そしてもう一つ。


立ち尽くして振り返ろうともしない母の後姿には、

煤けたかのように影が落ちていた。


そこに不吉なものを感じ取ったのか、

少女がおずおずと声をかける。


――どうしたの?


――誰からだったの?


……彼女の本心を言うのであれば、

実は、声をかけることさえ躊躇われていた。


厳しくも優しい母の後姿は、

少女にとって、常に大きなものだった。


力強く逞しい父の背とは違う、

女として――母としての偉大さを感じさせる背中。


それが今は、

見る影もなく小さくなっている。


そこに、少女は何かを見取り――

次に、それが崩れ落ちる様を見た。


少女が慌てて駆け寄ると、

母は蒼い顔で、今にも壊れそうな微笑を浮かべた。


どうしたのと訊ねても、

母は首を振るばかりで何も答えない。


座り込んだままの姿勢で、上半身だけ、

柳の下の幽霊のように虚ろに揺れていた。


その様子に、少女は思わずぞっとした。


目の前の母がいつの間にか

別人にすり替わってしまったのではないかとさえ思った。


それから、しばらくして――


『ちょっとでかけてくる』と、

少女の母は紫がかった唇を動かした。


そして、のろのろと立ち上がって、

操られるように部屋から出て行った。


時間は夕飯の直前。


米も炊きあがり、仕込みの大半も済ませ、

もう少しで夕飯もできあがるところだ。


なのに、それを放り出して、

母は出かけるという。


そのいつもならあり得ない行動と母の様子に、

何かよくない電話だったのだと、少女はすぐに悟った。


だが、その理由を聞くことは適わなかった。


それを聞くのは、

とても恐ろしいことのように感じられた。


そうして、慌てて出て行く母を見送って。


少女は、一人残されて。


何ともいえない長いその時間を、

ただ居心地の悪さを感じながら待った。


やがて、夜になった。


彼女は、警察に確認にいった両親から、

兄が死んだということを知らされた。





……それから二週間が経ち、

少女の誕生日が明日へと迫っていた。


毎年、家族全員でお祝いをして、

ケーキを食べるイベントの日だ。


お誕生日プレゼントをもらって、

幸せな気持ちで一日を過ごすはずの日だ。


けれど、今年は違う。


一緒に祝ってくれるはずの兄は、もういない。


幸せな気持ちになんて、

なれるはずがない。


――お兄ちゃんは、もう帰ってこないよ。


帰ってきた直後の、

憔悴した顔の両親を思い出す。


死というものは、

いざ目の前にしてもどこか遠い世界のものだった。


が、両親の顔を見ると/兄のいない部屋を見ると、

言いようのない喪失感が込み上げてきた。


もう、世界には兄はいない。

それだけで、自然と涙が零れた。


兄の部屋の前を通りがかるだけで。

食卓に兄がいないだけで。


そんな、ほんの些細なきっかけで、

涙はいつも溢れていた。


だが、二週間たってようやく涙も枯れ果てたのか、

それとも取り繕う余裕を思い出したのか――


少女は、どうにか、

元気を装うことだけはできるようになっていた。


あるいは、気丈に振舞う二人を見て、

自分も見習わなくてはいけないと思ったのかもしれない。


そうした“いつも”を取り戻す中で、

一家は少女の誕生日を翌日に迎えた。


両親は例年通り、

特大のケーキを注文した。


三人で食べるには少々大きかったものの、

大きさを変えることに誰も何も言わなかった。


その贈り物を少女は喜び、

彼女の両親も、娘が喜ぶ様に笑みを浮かべた。


二週間ぶりに一家に訪れた笑顔だった。


『そうだ、言っておくことがあるんだ』


幸せの中で、少女の父が、

少女と目線の高さを同じにする。


『明日は朝から用事があるんだよ』


ごめんね――と、父親は目の端を下げて、

少女の頭を撫でた。


ケーキは、昼頃には届けてもらえると。


それを前に、

悶々としながら待っていて欲しいと。


――どうして出かけるの?


少女は問うたが、どうして、どこへというのは、

ついぞ教えてもらえなかった。


ただ、明日は誕生日。

心当たりがないわけではない。


きっと、私を驚かせるつもりなんだ――


少女はそう考え、

あまり追求しないまま両親を見送ることにした。


かくして、注文通りケーキは届けられ、

彼女の誕生日は今年も壮大なケーキに飾り付けられた。


その二日後。


少女の両親は、

死体となって発見された。






音が立たないように注意しながら、

幽の部屋に再び上がり込む。


幽は相変わらず眠ったままだった。


さっきと違ってうなされている様子はないけれど、

相変わらず熱は高い。


とりあえず、風邪の対処からか。






「ん……?」


脇の下を冷した後、額の汗を拭っていたところで、

幽の目の縁から涙がほろりと零れた。


……何で泣いてるんだ?


まさか、起きてるわけじゃないよな――と、

顔の上で手を振ってみる。


途端、幽が目を開けた。


「か、幽……起きてたの?」


勝手に上がり込んでたから怒ったのかな?


いやでも、泣くようなことじゃないよな……?


ぼんやりとした熱っぽい瞳が、

こちらを見つめてくる。


その視線に、

昨日の出来事がフッと頭を過ぎる。


まさか、まだ薬の影響が――


「……だれ?」


え……?


「だれっ!?」


「ちょっ……!?」


ほとんど昨夜の焼き直しだった。


不覚にも対応が遅れ、

ベッドから飛び出した幽に床に押し倒された。


「だれなの……!?」


「ぼ、僕だって……! 晶だよ!」


「しらない……だれ……!?」


「いや、知らないって言われても――」


というか、思った。


これは昨夜の焼き直しじゃない。


確かに朦朧としてはいるけれど、

昨日のそれとは何かが根本的に違っている。


寝惚けてるのか?


いや、まずはそれより、


「いいから落ち着いてよ、ねっ?」


心なしか幼く見える幽を宥めながら、

その細腕をゆっくりと引き剥がす。


それから、何とか幽の下から這い出て、

幽の身体を抱き上げベッドへ。


「ん……やぁっ」


「やじゃないの」


息を荒くし、ふるふると震える幽を、

無理やりベッドへ戻す。


何が嫌なのか、

地味に髪の毛を掴んできたりと抵抗される。


まあ、弱っている病人なんで問題なし。


とか思っていたら案の定、

力尽きたらしく、再び幽は目を閉じた。


……とりあえずは落ち着いてくれたか。


でも、どうして暴れ出したんだろう?


さっき泣いてたのと、

何か関係があったりするのか?


「……怖い夢でも見てたりして」


だとしたら、

ちょっと可愛くて笑ってしまう。


さっき持ち上げた時も思ったけれど、

幽もやっぱり女の子なんだな。


持ち上げれば軽いし、体は細いし、

何だかすぐに壊れてしまいそうだ。


……早く、よくなってもらわないとな。


これ以上痩せたら大変だ。

早いところ食事の用意をしよう。

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