完結篇 ~那美~

正位置


第188場面「再会」からの続きとなります。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883115712/episodes/1177354054883374200









「う、うぅうう~~っ!」


羽犬塚が体をぶつけてテーブルをずらす

/ナイフの傍に転がって手に取る。


テーブルががたがたと音を立てたが、

もう気にしてはいられなかった。


むしろ、相手に気付いてもらって、

後戻りできなくなって欲しい気さえした。


そうでなければ、きっと自分は手が止まると、

羽犬塚自身が理解していた。


「はっ……はやくっ、早く!」


半ばやけくそ気味に声を出して、

羽犬塚がナイフでロープを切りにかかる。


怪我は怖かったが、これもまた勢いに任せて、

机と体の間にナイフを挟み体重をかけた。


そのまま、ずりずりと往復すること数回――


ふっと腕が軽くなって、

戒めが緩んだ感触があった。


後は力任せにロープの残骸を引き剥がし、

両手の自由を確保。


続いて足のロープを切断し、

完全に自由を取り戻せた。


だが、思っていたよりも時間がかかり、

いつ田西が戻って来てもおかしくはない。


「えっと……えっと……!」


逃げ出す前に忘れ物はないかと、

周囲を見回す羽犬塚。


携帯は田西が持っている。荷物はない。

持っていって役に立ちそうなものも――ない。


ならば後はとにかく早くと、

机やら椅子やらにけつまずきながら走り出す。


それから、おやおやと見送るディーラーの横を抜け、

カジノエリアの外へ――


「――何やってんだ、オイ?」


飛びだそうとしたところで、

後ろから聞こえてきた藤崎の声に凍り付いた。


息が止まった。


体がぶるぶると震え出して、

冷や汗がだらだらと浮いてきた。


初めての決断で高ぶっていた体が、

一気に冷えていく。


何で、どうしてという言葉が、

頭の中でひたすらループする。


寝ていたはずの藤崎が、

どうして後ろから声をかけてくるのか――


「……田西はどうした?

何でテメェのロープが解けてんだよ?」


藤崎が羽犬塚の元へと近づいていく。


『こっち向けよオラ』と、その小さな肩に手をかけ、

固まっていた体を強引に振り向かせる。


「うおっ……!?」


涙と鼻汁を垂れ流す真っ青な顔が出て来て、

思わず仰け反る藤崎。


それでも、その悲惨な様子を見て、

ひとまずの事情は察したらしい。


「逃げようとしてんのか」


びくりと、羽犬塚の体が跳ねる。

小さくなって俯く。


その頭の中は、

殺される恐怖で一杯だった。


余計なことをしないでおけばよかったと、

心の底から自分の行為を後悔していた。


それが、嗚咽になって漏れ出し、

涙が少女の靴へぽたぽたと落ちる。


今、頭の上で自分を見下ろしている藤崎は、

一体どんな顔をしているのだろうか。


自分はどんな風にして殺されるのか。

一杯殴られるんだろうか。どれくらい痛いんだろうか。


考えれば考えるほど怖くなって――


少女はとうとうしゃがみ込んで、

すすり泣きを始めてしまった。


「ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」


心の底から自分の行為を反省して、

藤崎の足下で何度も何度も頭を下げる。


そんな少女を見て――

藤崎は、大きな溜め息をついた。


「……ったくよぉ。んな泣いて謝るくらいだったら、

最初っから逃げんじゃねぇよバカ」


羽犬塚がびくりとする

/小さい体をさらに縮こまらせる。


そして、相手の言葉を反芻し、

とりあえず謝罪を求めてるのだと理解した。


「ご、ごめんなさい……」


「だから、謝るんじゃねぇっつってんだろ。

蹴り飛ばすぞ?」


『ひぃ!?』と少女が頭を押さえて、

さらに縮こまる。


「……とりあえず立て。あと顔上げろ」


「は、はい……」


おずおずと立ち上がる少女――

しかし、藤崎が怖くて顔を上げられなかった。


スカートの裾を掴み、小さくなって震えたまま、

じっと藤崎の沙汰を待つ。


「逃げようとしてたのか?」


「……ごめんなさい」


「誰が謝れっつったんだオラ。

俺様の質問にはきちんと答えろ」


「う……に、逃げようと、してました」


「田西はどこに行った?」


「えっと、その……トイレ……」


「……なるほどな。あの野郎がクソしてる間に

逃げる計画だったっつーわけか」


「そしたら、俺様が起きてきて、

計画は台無しになってしまいましたと」


『運が悪かったな』と、鼻で笑う藤崎。


それから少しの間だけ黙り――

腰を屈めて、羽犬塚の顔を覗き込んできた。


「いいよ。逃げろ」


「……えっ?」


「どうせ携帯も持ってねぇんだろ?

テメェ一人が逃げたところで何も変わんねぇよ」


「困るとしても、せいぜい田西だ。

俺様には関係ねぇ」


「でも……いいの……?」


「逃げたいんだろ?」


『何で変なこと聞くんだコイツは?』という藤崎に、

少女が全力で首を縦に振る。


「ほら、さっさと行け。

田西が戻ってくんぞ」


面倒臭そうに言って、藤崎が腰を上げる

/あくびをしながら背筋を伸ばす。


それから、まだ何か言おうとしている羽犬塚へ、

舌打ちしながら追い払うように手を振った。


「あ……ありがとう……」


「んなこと言ってる暇があんなら

早く消えとけ」


いい加減言い飽きたとばかりに、

藤崎はもう、羽犬塚に一瞥もくれなかった。


追い払う言葉もおざなりに、

どすどすと足音を立ててベッドルームへと消えていく。


その背中を見送りながら、

羽犬塚は深々と頭を下げた。


それから――怒られるから本人に聞こえないように、

こっそりと呟いた。


「ありがとう、ともくん……」








「その田西って男は、佐倉さんを餌に

私たちを釣るつもりなんですよ」


カジノエリアへ向かう道中――


『田西が那美を逃がした理由は?』という高槻の疑問に、

打てば響くような速さで温子が即答した。


「多分、佐倉さんから私たちのことを聞いて、

友達なら助けに来るだろうと踏んだんです」


「どうせただの学生だろうから、

巻き上げるのは楽勝だろう――ってね」


「あー、そういうことね。

那美が戻ってくることに賭けたっつー話か」


「賭けにもなってないですよ。

田西側のリスクはゼロなんですから」


「いやいや、ゼロじゃねーだろ。

那美みたいな可愛い子で遊べなくなるんだぜ?」


「先輩……そういう発言は、

当事者に聞こえないようにやってください」


「いやいや、こういうのは早めに免疫つけねーと、

『男なんて不潔だわ!』ってなっちまうんだよ」


「先輩の話を聞いてるほうが、

余計に男嫌いになると思うんですが」


「んなこたぁねーよなぁ、那美?

アタシの話を聞いて男大好きになっただろ?」


『そんなことあるわけないでしょう?』と、

温子が高槻の脇腹を小突く。


それから、先輩の無礼を詫びようと、

那美に声をかけようとしたところで――


蒼い顔で俯き、

口元を押さえていた那美に気付いた。


「佐倉さん……?」


「もしかすると……羽犬塚さんが、

そういうことをされてるんじゃ……」


「……大丈夫だとは思うけれど、

心配だし、少し急ごうか」


温子が不安におののく那美の肩を叩く

/高槻を見て同意を求める。


「あー……そうしてーところだけどよー、

なーんか聞こえねーか?」


「……聞こえる、ですか?」


「女……っつーか、クソガキの悲鳴だなこりゃ。

泣き喚きながら走り回ってるっぽいな」


『本当ですか?』と那美が耳を澄ます。


すると、甲高い悲鳴らしきものが、

遠くから届いてきた。


その聞き覚えのある声に、

那美がはっとなって温子を見る/頷きが返ってくる。


そんな二人に『行っていいんだろ?』と

不敵な笑みを浮かべて、高槻が走り出し――


那美と温子も、

急いでその後を追った。





「羽犬塚さんっ!!」


「さっ、さくらさっ……

こわかったよぉおおお!!」


胸に飛び込んで泣きじゃくる羽犬塚を、

那美がきつく抱き締める。


その光景を遠巻きに眺めながら、

高槻が傍らの温子へと目を向ける。


「温子はアレに参加しねーのか?」


「さすがに柄じゃないですからね。

というか、どんな顔して私があそこに入るんですか」


「それを聞いてちっとは安心したよ。

お前、すんげー変わってたっぽいからさ」


「つーか、お前まで友情パワーとかやり始めたら、

全力で逃げるぞアタシ? キモすぎて」


「……先輩が私をどういう風に思ってるのかが、

よく分かりましたよ、ええ」


『後でその件はよく話し合いましょう』と言い残して、

温子が高槻の隣から那美たちの元へ。


「ちょっとは落ち着いたかな?

そろそろ、話を聞かせて欲しいんだけれど」


「……羽犬塚さん、大丈夫?」


「う、うん……だいじょうぶ……」


それじゃあ――と、

幾つかの質問を投げていく温子。


田西からどうやって逃げてきたのか。


携帯やその他の荷物はどうなったのか。


そして、田西らの武器やカードの所有状況――


「……なるほどね。

藤崎に逃がしてもらったのか」


「うん。ともくんが……多分だけど、

私のことを覚えててくれたんだと思う」


「そういえば、説明会でもそんな話をしてたね。

子供の頃に知り合いだったんだっけ?」


「うん……お父さんの実家に帰った時にね、

ともくんと何度か一緒に遊んだの」


「その頃のともくんは、大人しくて、

すっごく優しかったから」


「大人しくて、優しい……」


藤崎には嫌な記憶しかないためか、

想像の壁を乗り越えられずに眉間に皺を刻む那美。


「まあ、藤崎がそれを覚えてるかどうかは、

不確定要素だからとりあえず除外しよう」


「大事なのは、藤崎と田西の

意思統一ができていないところかな」


「クリアを目指すって目標は同じだけれど、

その手段の選択に隔たりがあるんだと思う」


「汚い手段は使いたくねーってところか?

ABYSSらしくねーと思うけど」


「それは分かりませんが、

策を弄するタイプではないんでしょうね」


「交渉に使えればいいんでしょうけれど、

カード勝負が先に提案されてるから難しいかな……」


「殴り合いの勝負に変更しようぜっつったら、

朋久が乗ってくるんじゃねーのか?」


「相手に携帯を取られてるんで無理ですね。

恐らく、それを提案した時点で携帯を人質にされます」


「じゃあ、やっぱりカード勝負で、

携帯を取り返さなきゃいけないんだね……」


田西と対峙する場面を想像したのか、

那美の顔に陰りが浮かぶ。


それほど、田西という存在は、

那美の中で驚異的な存在だった。


これまで会ったどの大人とも違う分厚さ。

明確に年と能力の差を意識させられる雰囲気。


あまりにも違う世界の生き物過ぎて、

妖怪だと言われても疑問には思わないほどだ。


温子の実力を疑ってはいないが、

それでも燻る不安が、那美を内からじわじわ焦がす。


そんな那美の肩に、高槻が腕を回して

ぐいと引き寄せてきた。


「何だよ那美よー、

暗い顔しちゃってんじゃないの?」


「高槻先輩……」


「んな心配することねーよ。

最後はどーせ温子が全部どーにかしてくれんだから」


「……そんなに期待されても困るんですけれどね。

もちろん、負けないように全力は尽くしますが」


「だってさ。だから那美も、

大船に乗ったつもりでどーんと構えとけよ」


「最悪、こいつらブッ殺したみたいに、

アタシが全部ぶっ壊してやるからよ」


高槻が、足下に転がる三つの怪物の死体を足蹴に、

あくどい笑顔を浮かべる/それに温子も同調する。


そんな頼もしくも若干恐ろしい二人に、

那美と羽犬塚はお互いに顔を見合わせて、笑った。


不安はあったが、この二人なら、

きっと杞憂で終わらせてくれるのだと思うことにした。





そうして、

四人で乗り込んだカジノエリア――


待ち受けていた田西たちとの交渉は、

順調そのものだった。


羽犬塚の逃走と、予想外の高槻の出現で、

田西側の交渉カードはほとんど機能せず。


対して温子側は、盤石の態勢で、

的確に交渉の着地点へと話を進めていく。


「……それじゃあ、

カード勝負で決着を付けるんだな?」


「ああ、それで構わんよ。

元々それが私の希望だしな」


「ただし、勝負は二回に分けさせてもらおうか。

最初の勝負で賭けるのは羽犬塚さんの携帯だけだ」


「おいおい、それはおかしくないか?

羽犬塚さんの携帯は、お前らが盗んだんだろう?」


「いやいや、それを言うなら藤崎くんに言ってくれ。

彼と私は同盟を組んでいるだけの関係なんだ」


「羽犬塚さんの携帯でさえ、

彼が好意で出してくれているだけに過ぎない」


「私に彼の資産を自由にする権利はないし、

彼が何をしようと、私の知ったところではない」


田西が、羽犬塚へと咎めるような視線を向ける――

怯えた羽犬塚が那美に抱き付く。


だが温子は、その視線の行き先が

本当は羽犬塚ではないことを何となく理解していた。


田西が羽犬塚を通して睨んでいるのは、

恐らくだが、彼の背後にしかめ面で立つ藤崎。


事前情報通り、二人の同盟関係は、

そう堅固なものではないのだろう。


ただ――その関係を分断するにしても、

この勝負が終わった後だ。


「分かった。勝負は二回でいい。

こっちが最初に賭けるのは私の携帯にする」


「けれど、その前にルールを確認させてもらうぞ。

イカサマを仕込まれるのはごめんだからな」


「安心し給え。ここでは、監視カメラとディーラーが

全てのイカサマを咎めてくれる」


「もちろん、咎めてくれるように

お願いした場合だけだがね」


「……なるほど。その辺りも

ルールに組み込めるという感じか」


「それじゃあ、イカサマは無しだ。

違反した場合は自動的に負けにする」


「望むところだ。小細工なしで正々堂々勝負するほうが、

私も性に合っているからな」


貫禄を伴った田西の首肯――

やはり勝負事には大層な自信があるらしい。


だが、どんなに紳士ぶっていても、

この男は追い詰められれば平気で泥を食らうだろう。


プライドよりも勝ちに執着するにおいが、

この男からはぷんぷんと漂ってくる。


ルールによる縛りはもちろんだが、

それ以外でも田西には注意しなければならない。


「――制限時間はねぇのかよ」


そう思っていたところで、

いきなり予想外の藤崎から質問が飛んできた。


「何だよその顔は。

俺様もゲームに参加していいんだろ?」


「……ああ、もちろんだ。

勝負は別に一対一とは限らないからね」


すぐに落ち着きを取り戻した田西がソファを軋ませて、

藤崎の顔も見えるように座り直す。



それから、その場の全員で

細かいルールの確認をした。


制限時間に関しては、どのゲームでも二十四時間。

時間を迎えた時点の有利不利で勝敗が決まる。


また、勝負を途中で中断することはできず、

度を過ぎた遅延行為には電撃のペナルティがある。


電撃や病気で続行不能になった場合は、

本人の申告を待ち、ギブアップか続行かを決定――


「……つまり、本人が負けを認めるか

終了時間を迎えるまで、勝負は続行ってことだな?」


「そういうことだ。

まあ、そんなに長丁場になるとは思わんがね」



「分かった。十分だ」


「おいおい、ちょっと待てよ。

まだ何のゲームやるか聞いてねーぞ」


「そっちは何でも来いやって感じでも、

アタシたちが知ってるのなんて簡単なのしかねーぞ?」


「なるほど、それは確かにそうだ。

では、競技についてはお互い一つずつ選択でどうだ?」


「最初にそちらの指定する競技で勝負した後、

こちらの競技を実施するという形だ」



――まるで、最初は負けてやって、

後から全部取り返すようなやり方だな。


そう温子は思ったものの、

敢えて口に出すことはしなかった。


相手の狙いが何であれ、

田西の提案が温子らに有利であることは確実。


既に羽犬塚の安否も確認できている以上、

ここで口にすべきは不満ではなく交渉だ。


「もし、指定の競技でお互いの合意が取れない場合、

別な競技を提示するという条件ならOKだ」


「もし、こちらの誰も知らない競技を提示されて、

一方的にやられましたでは話しにならないからな」


「なるほど、君の話ももっともだ。

それで行くとしようか」


田西の同意は引き出した。

これで、事前に想定していたラインには到達した。


後は、実力で田西に打ち勝ち、

那美らの携帯と大量のカードを手に入れるだけ。


「では、競技を指定してくれ給え」


顎で促してくる田西に首肯を返し、

温子が味方の顔を見渡す。


全員が参加できそうで、

かつ熟知している競技となると――


「私の提案するゲームは“大富豪”だ」


自然と、その名前が浮かんだ。






……勝負は、田西からすると、

特に波乱もない展開だった。


一戦目で温子の大富豪を阻止した後は、

二戦目で田西が大富豪に。


三戦目で下克上を食らいはしたが、

温子の台頭はほぼ予想通り。


というより、頭一つ抜け出るような相手でなければ、

田西が勝負する価値はない。


そういう意味では、朝霧温子という存在は、

今のところ及第点ではあった。


対して、那美と羽犬塚は予想通り問題外。


高槻と藤崎は、修羅場に身を置いた経験があるだけに

多少は期待していたのだが、こちらも空振り。


正直に言えば、よくこの腕でゲームに混じるなぁと

厚顔無恥っぷりに呆れたほどだ。


特に、藤崎。


温子側は勝率を上げるために人数を増やすのは分かるが、

藤崎が入ってくる理由が分からない。


羽犬塚をわざわざ逃がした穴を埋めようと、

田西に協力してきたのだろうか。


それとも、本当に大富豪に自信があって、

一位を取るために参加したのだろうか。


いずれにしても、

身の程知らずにも程がある。


もちろん、協力的になってくれるのは

悪くないのだが――


「はい、田西さん……貧民のカードです」


「おっと……これはどうも。

こっちも今、渡すカードを決めるよ」


田西が手の中のカードをざらっと見渡し、

ハートの5を貧民の少女へと滑らせる。


そのカードを手に取り、

『ふぇ……』と顔を曇らせる羽犬塚。


見ているぶんには可愛らしいが、

利害が絡むと可愛いだけでは済まされない。


懸念していた通り、この小さな少女が、

藤崎にエラーを起こさせてしまった。


もちろん、大勢に影響があるわけではない。

エラー自体も些細なものだ。


だが、藤崎への信頼性が揺らぐという意味で、

羽犬塚の為したことは大きい。


田西の内で、

後悔が首を擡げる。


もう少し早く“月”の大アルカナを

発動させておけば。


あるいは、もう少し早くトイレを出ておけば。

捕まえた時点でさっさと殺しておけば。


様々な“もしも”が頭の中に浮かんだが、

今となってはそれを実行するわけにもいかない。


もし田西が羽犬塚に手をかければ、

藤崎に恨まれる可能性さえあるだろう。


こうなったら、後はもう、

勝手に野垂れ死んでもらうしかない。


そして、その実現のためには、

温子らの携帯を奪い取る必要があった。


携帯を餌に高槻を引き剥がせば、

後は放っておくだけでいい。


迷宮の怪物に対抗する手段を持たない少女らは、

一日と持たずに死ぬだろう。


それに、仮にこの先で藤崎が裏切っても、

高槻が手元にあれば何も問題はない。


そこまで考えたところで――


「あー……これはまずいな」


田西はふと、

真面目になりすぎている自分に気付いた。


「……どうかしたんですか?」


「いや、あまりカード状況が

思わしくなくてね」


適当に嘘を言って那美を追い返す

/抜け目なく観察してくる温子に内心で苦笑する。


ゲームは楽しんでこそというのが、

田西の信条だ。


にも関わらず、その最中に余計なことを考えていては、

せっかくの時間が台無しになる。


この迷宮から脱出することも大事だが、

それが全てではない。


そもそも、この命を賭けたゲームに、

田西がわざわざ参加した目的は何か。


それは、楽しむことだ。


キングとのゲームはもちろん、

それ以外のゲームも全て同じく楽しむ。


なのに、その楽しんでこそ価値が生まれるものに、

余分な思考を持ち込んでどうするのか。


そんな自己反省と共に、

田西が深呼吸――再び大富豪へと向かい合う。


一流の博徒は、

メンタルのコントロールも当然のように一流――


それを体現するような切り替えの速さで、

田西が次の競技へ向けて着々と準備を進めていく。


各人のゲーム適正とその理解度を分析し、

性格的な部分も含めて勝負傾向を読み取る。


そして、自身の強さを印象付けながら、

いかにしてハメるかを組み立てていく。


その頭の中からは、もうすっかり

藤崎と羽犬塚の件は消え去っていた。








そうして、緒戦の大富豪は

田西が適当なところで負け――本命の二戦目。


「私はテキサスホールデムを提案しよう。

きっと朝霧さんは知っているだろう?」


「……もし、知らないと言ったら?」


「もちろん違う競技を指定するが、

君たちにはホールデムが一番マシだと思うがね」


田西はカジノでの現キングを務めている男。

他の競技でも満遍なく勝利する自信はある。


それに、仮に最後まで競技が決まらなかったとしても、

現時点での田西側の損失は羽犬塚の携帯のみ。


対する温子側は、

これから那美の携帯を取り戻す必要があるのだ。


駄々をこねて不利になるのは相手側なだけに、

この要求は十中八九、通るだろうと踏んでいた。


「……分かった。

テキサスホールデムでいい」


その予想通り、

温子側がホールデムを承諾――


ゲームを知らない人間に基礎を説明した後、

『無理そうだから』と羽犬塚が辞退。


最初は参加しようと思っていた那美と高槻も、

それならばと一緒に見学を選択した。


「藤崎くんはどうする?」


「……テメェが選んだからには、

自信あるんだろ?」


その問いに『もちろん』と答えると、

藤崎は何も言わずに席を立ち、田西の後ろに立った。


このゲームに関しては藤崎も知らないのか、

どうやら完全に田西にお任せという形らしい。


そんな藤崎の判断は、

田西にとってむしろありがたかった。


大富豪では誰か一人が勝てばそれでよかったが、

ホールデムではそうはいかない。


田西が幾らチップを稼いだところで、

藤崎が負け続ければ結果はマイナスだ。


藤崎の携帯、アルカナをチップに回せない不利はあるが、

元々彼の資産は使わない予定だった。


今の藤崎は、

田西にとって信用に値しない人物だ。


そんな人間に借りを作ってまで、

チップを増やそうとは思っていない。


幸い、チップは田西の資産だけでも事足りる。


温子側も、見学の高槻と羽犬塚の携帯は

賭けないということなので、結局はそう大差ないだろう。


状態は万全――後は狩るだけ。


「では、用意も整ったようだし、

ぼちぼち始めていくとしようか」


田西が指をぱちりと鳴らし、

ディーラーがカードを配り始める。


――そうして始まったゲームは、

予想以上に楽しめるものだった。


まず、出会い頭で、

田西は500枚近いチップをもぎ取られた。


この時点で只者ではないことは確かだが、

続く勝負でもその立ち回りは驚くべきものだった。


とても自分より

二回り近く若い少女とは思えない。


度胸も運も実力も、どれも申し分なく、

今すぐカジノに放り込んでも問題ないレベルだった。


佐倉那美が拘る理由に納得すると共に、

田西の博徒としての本能がざわざわと騒ぎ出す。


キングを求めてやってきた迷宮で

思わぬ掘り出し物を見つけたと、心が躍る。


「いやいや、これは堪らないな。

存分に楽しめそうだ」


ラビリンスゲームの参加者ではなく、

一人のギャンブラーとして、田西が椅子に座り直す。


「だとすると、申し訳ないな。

私はお前をがっかりさせたいんだ」


お互いに笑みを浮かべながら、

配られたカードへと目を落とす。


そうして、合間に会話を挟みつつ、

一進一退の攻防がさらに深みを増していった。


手を読み合い、嘘を交えつつ、

高度な心理戦を繰り広げる。


チップの派手な応酬こそなくなったが、

それはタイトなリスク管理を行っている証左だった。


そのやり取りを後ろから眺めながら、

那美が羽犬塚の袖を引く。


「……温子さんってやっぱり凄いね。

あの田西さんと完全にやりあってる」


「うん……ホントだね。

やっぱり委員長さんだなって」


勝負の邪魔にならないようにと、

二人がひそひそ話で感動の共有をする。


が、高槻にはそれが聞こえていたらしい。


「温子ー! お前褒められてんぞー!

やっぱり委員長はすげーだってよー!」


「先輩……そういうことは

いちいち言わなくていいですからっ」


わざわざ大声を上げて冷やかす高槻に、

温子が顔を赤くしながら振り向いて言い返す。


「私が褒めても全く反応しないのに、

友達に褒められると喜ぶのか……酷いなぁ」


「……別に喜んでなんてない。

気のせいだよ」


眼鏡を直しつつ、

カードに目を落とす温子。


対面の男が目を光らせていたのだが、

誰もそれに気付くことはなかった。


そして、これを機に温子と田西の会話が

本格化していく。


そのやり取りには、時にギャラリーも巻き込み、

何故か全員で温子を褒めそやす流れになった。


特に田西は、温子を褒め、時にはアドバイスを送り、

あらゆる面で持ち上げては少女の手を引いた。


温子もまた、そんな田西を適当にあしらいつつも、

しっかりとアドバイスを吸収し立ち回りを変えていく。


そのたびにまた田西は褒め、

ゲームが進むたびにサイクルが回っていく。


そうしていつしか、ポーカーテーブルには、

勝負というより遊びのような雰囲気が漂っていた。


温子たちにとっての田西は、既に敵や味方ではなく、

ゲームを楽しむ仲間のようなものだった。


もちろんその印象は、田西が植え付けたものなのだが、

温子たちは誰も気付かない。


“そろそろいいか”


田西が顔を隠して歯を剥いて笑い――

徐々に、温子の立ち回りを崩す毒を撒き始めた。


温子の正しい選択を貶し、

間違ったアドバイスを繰り返す。


田西の言葉に忠実に従う温子を褒めて、

どんどんそれを求めてくるように仕向ける。


効果は絶大だった。


先に形成していた信頼と雰囲気を利用し、

田西が上手く作り上げた新たな負のサイクル。


堅固だった少女の立ち回りにあっという間に罅が入り、

水が漏れるようにチップの流出が始まる。


あれほどの強敵が、負けるための勝負に、

喜々としてチップを積み始める。


こうなれば、本人に自覚症状がない以上、

もうどうしようもない。


田西がいつもの

歯を剥いた笑みを浮かべる。


後はもう、思うがままに、

温子のチップを吸い取るのみ――


「ねえ、どうして朝霧さんは、

わざわざ負けに行ってるの?」


――そんな田西の笑顔が、

一瞬で消え失せた。



いや、田西だけではない。


緩い雰囲気のテーブルも、そこにあった笑顔も、

同様に色を失っていた。


「えっと……ごめんなさい?」


その変化をもたらした羽犬塚が、

悪いことをしたのだと思いおどおどと周りを見回す。


と、笑顔の消えた温子と目が合い、

『ひっ』と羽犬塚が声を上げた。


同時に、怖い顔をした温子が勢いよく立ち上がり、

逃げようとする羽犬塚の肩を掴んだ。


「どういうこと、羽犬塚さん?」


「あっ、あのっ、

朝霧さんごめんなさいっ……」


「いや、怒ってない。

大事なことだから聞いてるんだ」


「私がわざわざ負けに行ってるっていうのが、

どういうことなのか説明して欲しい」


「説明って……言われても……」


羽犬塚が助けを求めて那美を見る。


その那美がさらに温子を見て――

鬼気迫った様子に、羽犬塚の発言の重要性を理解した。


「羽犬塚さん、お願い。思ったままを言ってみて?

凄く大事なことかもしれないから」


「う、うん……分かった」


深呼吸をしてから、一つ一つ確かめるように、

羽犬塚が語り出す。


「えっとね……朝霧さんの賭け方がね、

最初の頃と違うのかなって思ったの」


「違う……?」


「朝霧さんが自分のカードを見せる時って、

いつも絵札とかAとかだったの」


「でも、最近は10以下の数が凄く多くて、

何でそんなカードを見せるのかなって」


思い当たるところがあったのか、

はっとなって口元に手を当てる温子。


「あと、いっぱい賭けたのに勝負しなかったり、

負けてるのに笑ってたりしてたから……」


「分かった。

もう十分だ、ありがとう」


羽犬塚の肩を掴みながら、

深々と頭を下げる温子。


それから、羽犬塚の肩から離した手を握り締め、

ゆっくりと田西へ振り返る。


「危うくやられるところだったよ」


「……はてさて、何のことやら」


とぼけた顔で首を傾げる田西。


だが、その飄々とした様子とは裏腹に、

彼の内心は穏やかではなかった。


決して妨害してきた

羽犬塚へ怒っているわけではない。


むしろ、羽犬塚の本質を見抜けなかった、

自身への怒りがあった。


考えてみれば、かの少女は、

自力でこの地下迷宮を見つけているのだ。


それも、ただの地下迷宮ではない。


都市伝説としての噂しか残っていない、

ABYSSが管理している迷宮を、だ。


仮に田西がゼロから探せと言われても、

それなりに苦労するに違いない。


なのに、羽犬塚はそれを、

部活動という遊びの中で見つけ出した。


その上、古い知り合いとはいえ、

変わり果てた藤崎を一発でそれと認識した。


言うなれば――目利きだ。


羽犬塚ののかという少女は、

物事の本質を見抜く目を持っているに違いなかった。


それをこの瞬間まで意識できなかったのは、

田西が一度、この少女をカモにしていたからだ。


それができたのも、恐らくは、

少女が人を疑うことを知らなかったためだろう。


少女の愚鈍さもまた、

田西の目を曇らせるのに一役買っていた。


もちろん、どんな理由があったところで、

田西がそれを痛恨に思っていることには変わりない。


それくらい、自信があった。

カードを通して人を腐るほど見てきた自負があった。


それを、ちっぽけな少女に打ち砕かれた

田西の心境は、想像に難くない。


「さて、次のゲームに行こうか」


それでも、意地でポーカーフェイスを繕って、

温子に着席を促す。


無表情で応じる温子だったが、

こちらも内心はとんでもない状態だった。


田西に嵌められ、それに気付かず、

いい気になってチップを浪費――


結果、失ったチップは三百枚。

それでも、早い段階で気付いたからまだよかった。


もしも羽犬塚が気付かないまま行けば、

致命的なところまで行っていたに違いない。


そんな状態に陥っていた恥は、

腹を切りかねない自責の念となって温子を苛んでいた。


そんな二人が着いているテーブルが、

荒れないわけがない。


「レイズだ。240枚」


田西がチップの山を積み上げて、

温子に苦心の撤退を選択させれば――


「Qのスリーオブアカインド。私の勝ちだ」


温子が強いハンドで勝利を引き寄せ、

何百枚と積まれたチップをもぎ取る。


そのくせ、お互い絞るところは絞り、

ダメと思った手は即座に見切りを付けて下りる。


特に、温子がダイヤのAQの手札で下りた時は、

那美には全く理解ができなかった。


しかし、田西がこの時に伏せていたカードは、

最強の手札Aポケット。


場の情報とチップ状況、そして嗅覚によって判断した

その逃げは結果的に大正解ということに。


反面、温子の判断基準がタイトすぎるために、

田西に幾つもの勝負から下ろすスチールを許してしまう。


勝負は静かに、

しかし着実に熱を帯びながら進んでいく。


田西はもう、温子を搦め手で仕留めることは

完全に放棄していた。


最初は先の恥を拭うため。

そして、己の力を確かめるためだった。


しかし、今は違う。


どれだけ怒りを前に出そうと思っていても、

カードを楽しむ気持ちだけは隠しきれない。


思わぬところで出くわした強敵の一挙一動が、

彼の博打打ちとしての心を掻き立ててくる。


僅かな黙考が、手の動きが、目線の行く先が、

全て相手から結果となって返ってくる。


田西もまた、温子を余すことなく観察して、

導き出した行動でもって回答していく。


チップ管理と、相手の手札/心理の読み合いに、

どんどん没頭していく二人。


相手が今、何を思っているのか。

自分が行動はどう響いているのか。


相手は何を望んでいるのか。

どんな風にしたら望むように動いてくれるのか。


考えては試し、反応をもらって、

再び相手のことをひたすらに考え続ける。


それは、恋い焦がれる男女が、

愛を一つ一つ確かめ合う様に似ていた。


カードとチップを通じて、

お互いが相手の深くまで味わっていた。


その熱が、ギャラリーにも伝わる

/息を呑む戦いに引き込まれる。


高槻も、那美も、羽犬塚も、

いつしか夢中になって覗き込んでいた。


どちらかが下りれば自分も一緒になってその理由を探し、

手札を開くショーダウンのたびに息を呑む。


行き交う大量のチップに胸を高鳴らせ、

何度も三人で顔を見合わせては目で語り合う。


期待、好奇、熱気の渦巻く中、

二つの知性の間でたゆたい浮沈する勝敗。


どちらが有利か判断できるのは、

流れに応じてそれが浮いてきた時のみ。


温子にも、田西にも、ギャラリーたちにも、

基本的には浮いてくるまで見えることはない。


運良く見えた場合は、大抵は温子の不利だったが、

それもすぐに揺り戻しで分からなくなった。


先の見えない一進一退の攻防。


だったはずが――


今、ハッキリと天秤が温子のほうへ傾いているのが、

誰の目にも見て取れた。


田西のリバーフェイズでの三連敗。


手札も読み切り、落ち度もなかった。

それでも、最後のコミュニティカードに恵まれなかった。


長いゲームの中でよくある運の偏りが、

田西の目の前に見えない壁となって現れていた。


それに申し訳ない気持ちを抱きつつも、

温子が容赦なくチップを積み上げていく。


ここまでガチガチに締めてきた立ち回りを緩め、

流れに任せて投機的ハンドで突っ込んでいく。


それが功を奏し、

田西からさらにもぎ取ることに成功。


田西のチップは1000枚を切り、

大きな山がついに一つなくなった。


額に汗を浮かばせる田西――

それでも、その心はまだ冷静だった。


この程度は、よくあることだ。

過去にはもっと追い詰められたこともある。


運というのはそうそう長く続くものではない。

それは、好運でも不運でもそうだ。


寄せては返す波のように、

いずれ運勢は逆転する。


素の実力では勝っていることは明らかであり、

試行回数の増える長期戦になれば圧倒的に有利。


それだけに、ここは遮二無二堪え忍ばんと

田西が温子を強く見据える。


それを分かっている温子側もまた、

何が何でも田西を仕留める気で睨み返す。


緊張の走る中、

ディーラーがカードを配る。


流れよ変われ、いいカードよ来いと祈りながら、

田西がカードへと目を落とし――



唐突に、首から血を噴き出した。





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