裏切り










何が起こったのか、

まるで分からなかった。


温子は椅子から転げるほど仰け反り、

ギャラリーらが口元を押さえて悲鳴を上げた。


それで、田西は何とか、

自身の首から血が噴き出していることを認識した。


ほぼ同時に、座っていることも困難になり、

田西がポーカーテーブルへと突っ伏す。


自身に滾っていた熱と力とが、

急激に抜けていくのが分かった。


目を開けているのに、

目の前の情報がまるで頭に入って来なかった。


そんなぼやけた意識に、辛うじて、

温子が『田西』と呼んでくるのが聞こえ――


その隙間に聞こえて来た小さな笑い声で、

おおよその事情を察した。


『ゲームに夢中になりすぎたな』と思ったが、

反省をする時間も、藤崎に文句を言う時間もなかった。


ただ今は、涙を溜めて必死に叫ぶこの遊び相手に、

何かを残してやりたかった。


触れようと手を伸ばしたが、

それは叶わなかった。


どんどん自身が希薄になるのを感じ、

せめて何かと口を動かす。


しかし、それは結局、

言葉にはならず――


田西成輝は、最後のスペードのKを握り締めたまま、

眠るようにしてラビリンスゲームから退場した。


その死を傍で見取った温子が、

体をぶるぶると震わせながら後退る。


椅子に体がぶつかり――転びそうになったところで、

何とかテーブルに手をついて踏み止まる。


深く理解し合っていた対戦相手の

突然の消失。


しかも、目の前で凄惨な死を遂げたとあっては、

温子も動揺を隠しきれなかった。


酷い目に遭わされた相手とはいえ、

那美も羽犬塚も同じだった。


二人で寄り添うように抱き合って、

田西の死から必死になって目を逸らしていた。


そんな中、唯一死に慣れている高槻が、

田西にずかずかと近づいて、その首元を眺めた。


「あー、こりゃ首輪の爆発だな。

いきなり何が起きたのかと思ったよ」


「首輪の……爆発?」


「このオッサン、自分のカウント増やすの

忘れてたんじゃねーのか?」


そろそろゲームが始まって二十四時間だろ――と高槻。


確かに、それであれば首輪が爆発しても

不思議ではない。


が、田西に限って言えば、

そんなミスをするような男とは思えない。


では、何故――と思ったところで、

消去法で一つしか答えがないことに気付いた。


「……やったのはお前か、藤崎」


「女如きが、何の権利があって

人様の名前を呼び捨てにしてんだ?」


不愉快そうな口振りの割りに、

その表情はにやけた笑顔。


それは、何よりも雄弁に、

田西を殺した犯人を語っていた。


「でもよぉ温子、

こいつってオッサンの仲間なんじゃねーの?」


「いや……逆に、仲間だからこそだと思います。

そうでなければ、危害を加えた人間のルール違反になる」


田西との勝負の取り決めで、

相手側への暴力禁止があった。


逆に言えば、自分の味方への暴力行使に関しては、

それを咎める規定がない。


だが、一体どうして、

そんなことをするのか――


その理由を探して藤崎の顔を見ていると、

彼は鼻を鳴らして温子たちに背を向けた。


そのまま荷物を持って、

カジノエリアから出て行こうとする。


「ちょっ……どこへ行く気だ!?」


「どこもへったくれもねぇだろ。

ここに残ってる意味があんのか?」


「……!」


「じゃあな。

せいぜい、時間切れにならないように祈っとけ」


田西の死体へは一瞥もくれないまま、

藤崎はカジノエリアから消えていった。


「あいつ冷てーなー。

仲間が死んだっつーのに興味なしかよ」


「いやまあ、

そこは藤崎自身が殺してますからね」


「結局、オッサンでも

あいつは制御できなかったっつーことか」


『オッサンも人望ねーなー』と、

高槻が死んだ田西の肩を叩く。


だが、人望の有無で仲間を殺すというのは、

どうにも温子の腑に落ちなかった。


ラビリンスゲームは、

脱出のために必要な小アルカナを集めるゲームだ。


仲間は限度はあれど多い方が有利だし、

田西に預けた小アルカナを全て捨てるのも理解できない。


なのに何故、

藤崎は田西のことを殺したのか。


「おいおい、おめーら何そんな暗い顔してんだよ?

これで携帯が戻ってくるんだろ? もっと喜べよ」


「それは、そうですけど……」


「ともくんが、

田西さんを殺しちゃうなんて……」


「あのなー……そんなん気にしてどーすんだよ?

このオッサンだって、お前ら殺す気だったんだぜ?」


「死んでも自業自得だし、

別にお前らがやったわけじゃねーじゃん」


『どこに悩む場所があんの?』と、

高槻が本気で分からないという風に首を捻る。


が、その論理が正しいと理解できても、

やはり那美らは容易に受け入れることはできなかった。


それが、ABYSSである高槻と、

そうでない者の間に横たわる大きな壁だった。


「ったく、つまんねーなー。

温子まで気にしてやがってよー」


「……私は、別にそんなんじゃないですよ。

ショックではありましたけれど」


「ただ、ちょっと気になるんです。

どうして藤崎は田西を殺したのか」


「別にそんなん仲間割れだろ。

どうでもいいんだから忘れろって」


「でも……藤崎が最後に言い残していった、

時間切れにならないようにっていうのも気になって……」


「あー、はいはい分かった。

ずっと考えてろよバーカ!」


とうとう温子にも構うのを諦めたらしく、

高槻がディーラーの元へ。


「おい、勝負はアタシらの勝ちだろ?

携帯もらっていくぜ」


ホラ寄越せ――と手を出したものの、

ディーラーは全く動こうとしなかった。


「おい、聞こえなかったのか?

携帯出せよ」


眉をひそめて催促する高槻。


が、ディーラーはやはり黙ったまま、

首を横に振るのみ。


高槻が理解出来ず、

ポーカーテーブルを叩いてディーラーを睨み付ける。


そのやり取りを傍で見ていた温子が、

はたと気付いた/顔を蒼くしてぼそりと呟いた。


「もしかして……

まだ、続いてるのか?」


「……続いてるって、何が?」


「私と田西の勝負です」


瞬間――高槻が『あっ』と声を漏らした。


その隣で、ディーラーがゆっくりと頷き、

温子のこめかみを汗が伝っていった。


勝負が続行しているということは、

預けたままの携帯を受け取れないということだ。


つまり、田西の携帯も、温子のそれも、

那美のものも、全て回収も操作もできない。


カウントは増やしてあるため、

それで死ぬことはないが――


それでも、今から残り二十二時間、

温子はカジノエリアから動けなくなってしまった。


「藤崎が田西を殺した理由はこれか……」


温子が額に手を当てて、

顔を俯けて『くそ』と呟く。


温子の推測は当たっていた。


藤崎は、田西が負ける可能性が高いと判断し、

預けていた小アルカナを全て捨てることを選択。


その代わり、温子と田西という厄介な参加者を、

一挙に葬ることに決めたのだった。


もし、仮に温子が間に合っても、

その時は殺して小アルカナを回収すればいい。


田西を切ると決めた藤崎にとっては、

どちらに転ぼうともいい結果が期待できる。


だが、温子からすれば堪ったものではない。


カードの総数が決まっているこのゲームにおいて、

二十二時間の拘束の影響は絶大だ。


参加者が十五人だと仮定して、初日に各二枚ずつ

小アルカナを集めていたとして、三十枚。


二日目でこれが平均一枚ずつとなったとしても、

四十五枚が消えることとなる。


温子らが確保している枚数は現状で十一枚だが、

二日目に動けないとなると、これ以上の回収は絶望的だ。


いや――死んだ田西の携帯から、

そもそもデータを回収できるのかどうか。


もし、回収できなかったとすれば、

たった六枚の所持で三日目を迎えることとなる。


そんな状態から、高槻と那美、羽犬塚を合わせた

四人分のカードを集められるわけがない。


一応、温子の動けない二日目に関しては、

高槻らだけで動いてもらうことは可能だが――


高槻は単独でいいとしても、

心臓の悪い那美と羽犬塚のペアが問題だ。


もし、怪物や凶悪な参加者に遭遇すれば、

一巻の終わりだろう。


だが、どう足掻いても、

この先は多大なリスクを負わなければならない。


「……やられた」


思えば藤崎は、ゲームに参加する前に、

入念に遅延事項を確認していた。


あの時から、実行を少なくとも選択肢に入れて

行動していたに違いない。


田西を殺すのに使ったのは、

恐らくは何らかの大アルカナだろう。


『カジノエリアは暴力禁止』という前提が頭にあって、

大アルカナを使用した殺害は完全に頭から抜けていた。


何より、藤崎が田西を切るということが、

そもそも想像の外にあったと言っていい。


この二人の関係であれば、切る立場なのは田西で、

藤崎からはないと思っていた。


完全な不覚に、温子が奥歯を鳴らす

/テーブルを拳で叩く。


カジノエリアに鐘の音が響き渡ったのは、

そんな時だった。


何事かとその場の全員が構えていると、

迷宮内に放送設備があるのか、加工音声が流れてきた。


「ただいまをもって、ゲーム開始から

二十四時間の経過をお知らせいたします」


「それでは、現時点での参加者の脱出状況と、

死亡者の発表をいたします」


「脱出成功者は現時点ではおりません。

次に死亡者です。芳賀鉄男、明夜正吉――」



「――田西成輝」


先ほどまで熱を共有していた相手の名前が

出て来たことで、温子らが暗い顔で田西を見やる。


まさか、ここで名前を呼ばれることになるとは、

田西も思っていなかっただろう。


「また、クリア時の褒賞に関して、

追加ルールの発表をいたします」


「内容は、ラビリンスゲームで最も優秀な成績を

収めた方への褒賞の追加となっております」


「その褒賞とは『他の脱出に成功した人間の

運命を握ることができる権利』です」


「それでは皆さん、

一位を目指して頑張ってください」


ぶつりと放送が切れ――

誰からともなく、顔を見合わせた。


「温子さん、今のって……」


「……ああ。最悪の発表だ」


一位の人間には利益となり、

それ以外の人間には害となる追加の褒賞――


今から一位など望むべくもない温子らにとっては、

当然、後者の意味でしかない。


「つまり、一位を取った奴が『二位以下は全員死刑ね』

って言えば、死刑になるっつーことだろ?」


「ええ……そうです。なので、確実に生き残るには

一位を目指す以外にありません」


勝ち逃げ――というか“脱出逃げ”は許さないという、

ABYSS側の意図なのだろう。


血の宴を見て楽しむ人間からすれば、

きっと最高の計らいに違いない。


一方で、弄ばれている側の人間としては、

湧いてくるのはただただ怒りの感情だった。


しかし問題は、どれだけ怒ろうとも、

現状を打破する方法がないことだ。


とりあえず、動ける人間で小アルカナを探すにしても、

一体どういう風にすればいいのか――


「よーし! んじゃ、日付も変わったことだし、

早速小アルカナ探索の営業に出るとしますかね」


頭を悩ませていたところで、

高槻がいきなり率先して声を上げた。


「……高槻先輩?」


「一位を取らなきゃ死ぬんだろ?

だったら、さっさと集めに行かなきゃじゃねーか」


「それはそうですけれど……」


「つーわけで、さっさと行ってくるよ。

他の連中に取られるわけにはいかねーしな」


「じゃあな、温子!」


高槻が手を挙げて、

快い笑顔を浮かべる。


「あ……」


その瞬間、温子は悟ってしまった。


高槻との長い付き合いから、

嫌でも分かってしまった。


この人は、自分を見捨てる気だ――と。


「あのっ、高槻先輩!」


「あん?」


「……集合場所は、どうします?」


だが、それを本人に

直接問いただすのは怖かった。


代わりに、戻ることを前提とする

問いを投げる温子。


「あー……んじゃ、後で連絡してくれよ。

臨機応変ってことでよろしく」


明確な回答は、返ってこなかった。


温子の顔が歪に引きつる。


泣きっ面に蜂という顔の見本があるとすれば、

まさにこれがそうだった。


そんな温子の顔をくすりと笑って、

高槻がカジノエリアの出口へ向かって歩き出す。


「高槻先輩!!」


その背中に、もう一度、

温子の声が飛んだ。


「じゃあ……せめて、佐倉さんと羽犬塚さんを

一緒に連れて行ってもらえませんか?」


「……二手に分かれたほうが効率的だろ?

アタシは一人で行くよ」


とうとう、

高槻は振り返ることもしなかった。


そうして、カジノエリアには、

三人の無力な少女だけが残され――


万策尽きた温子が、

床に手をついてくずおれた。


「ちょっと……温子さんっ?

大丈夫!?」


「朝霧さん、どうしたのっ?」


「ゲームのことなら大丈夫だよっ?

高槻先輩だけじゃなくて、私たちも頑張るから!」


友達二人が駆け寄って、

温子の傍で励ましの言葉をかける。


しかし、未だに状況を理解できていない二人の言葉は、

決して温子に届くことはなかった――









……迷宮で須賀刀也の弟子と出くわした時は、

さすがの女でも若干ながら心がざわついた。


飄々としながらも、どこか脆いところを含んだ

彼の雰囲気は、往年の刀也の面影があった。


師弟関係というのは、

人間的にも似てしまうのだろうか。


先に出会ったのが彼でなくてよかったと、

女が今さらながらに幸運に感謝する。


反面、もし仮に先に会っていたとしても、

彼を利用するだろうなと思った。


自分がそういう人間なのだということを、

女は他人を通して嫌というほど知っていた。


ともあれ――

既に駒は手に入っている。


女が、ベッドの上に横たわる黒塚幽へと目をやる

/さらさらと柔らかい髪をそっと撫でる。


こちらは須賀刀也の一番弟子の妹だが、

直接教わっていないせいか、性能は今一歩だった。


ダイアログを使用してなお、

森本聖に手も足も出ない程度。


今回のラビリンスゲームがなかったとすれば、

朱雀学園で力尽きていただろう。


対して、彼女の兄の黒塚焔は、

規格外の優秀さだった。


以前のラビリンスゲームにおいて、

五人のABYSSのうち一人を打倒――


ついにABYSSの奥の手である処刑人まで

引っ張り出したという逸話まである。


そんな優秀な兄と比べてしまうと、

どうしても幽は見劣りした。


が――“アビス”が完成した今となっては、

本人の資質はあまり重要ではない。


使い捨てであることさえ考慮しなければ、

十分に優秀な駒になってくれる。


飲ませるまでに手間はあるが、

女が身の上話をすればそう難しくはないだろう。


そのために、わざわざ須賀刀也と関係の深い

黒塚幽と今川龍一を選んだのだから。


後は、のんびりと

幽の目覚めを待つだけ。


そうして、

女が食事を取っていたところで――


「あれ……なに、ここ?」


幽が匂いに釣られたのか、

ゆっくりと目を開いた。


「あ、起きたのね。

大丈夫? 気持ち悪かったりしない?」







カジノエリアは、

重苦しい空気で澱んでいた。


事態をようやく把握した那美と羽犬塚が、

呆然と高槻の出て行った方向を見ていた。


その後ろで、打ちひしがれた温子が、

拳を握り締めて俯いていた。


頼みの綱の高槻はいなくなり、

“隠者”の入った携帯も使用不能。


そして、温子はあと二十二時間、

カジノエリアから出ることができない。


さらに、小アルカナの収集等で一位を取らなければ、

ゲーム後に殺される可能性がある。


目の前にあるのは悪材料ばかりで、

希望はどこにも見当たらなかった。


「佐倉さん、羽犬塚さん」


ぽつりと聞こえた温子の呼びかけに、

二人が振り返る。


何か妙案を思いついたのだろうか――と、

期待を込めて温子を見る。


「私はここに残るから、

二人だけで頑張って迷宮を歩いて」


「かなりリスクは高いけれど、

もう安全に行ってどうにかなる状況じゃないから」


「一応、三分以内に部屋に駆け込める場所以外は、

駆け足で移動するといいと思う。気休めだけれど」


「武器は銃器が手に入るならいいんだけれど、

それ以外は下手に持たないほうがいいと思う」


「ナイフなんか持ってても戦えるわけがないし、

持つことで変に力が入るかもしれないから」


「あと、探して回るなら迷宮の端のほうだね。

多分、中央よりは荒らされてない可能性が高い」


こんな時でも指示を出してくれる温子に、

那美が尊敬と感謝を込めて頷く。


温子はただ、首を横に振った。


「こんなの指示じゃないよ。ただの注意事項。

もう、それしか言えることはないんだ」


「だから……今から二十二時間経ったら、

ここに戻って来て、携帯とかを持っていって」


「持っていってって……温子さんは?」


「……私はここで待ってるよ」


「じゃあ、迎えに来てじゃないの?」


羽犬塚の問いに――

温子は、困った風に眉を寄せた。


それで、那美は温子が何をする気なのか理解した。

理解してしまった。


「温子さん……まさか、死ぬ気なの?」


「……」


「温子さんっ!」


「……別に、死ぬ気はないよ。

私も私で足掻いてみるつもりはあるし」


「でも、私が脱出するぶんの小アルカナがあれば、

もしかすると佐倉さんたちが一位を取れるかもしれない」


「高槻先輩もそう判断したから、

私たちと組むのを諦めて出て行ったんだ」


「だから?

私たちも、温子さんを見捨てろってこと?」


那美の問いに、

温子は何も言わなかった。


それは、何よりも明確なYESだった。


「本気で言ってるの?

死んじゃうんだよ、温子さん?」


「……死ぬのは怖いよ。

それは分かってる」


「でも、二人の足を引っ張るほうが、

……ずっと怖いんだ」


俯く温子の肩は――

震えていた。


その初めて見る温子の弱さに、

那美は驚いた。


身勝手な自己犠牲に対して抱いていた怒りが、

一瞬で吹き飛んだ。


那美にとっての温子は、

知性と強さの象徴だった。


本当の意味で出会ってから、

今の今まで、ずっと温子に頼ってきた。


そうすれば、何もかもが上手くいっていたし、

那美も疑問に思ったことはなかった。


だが――


そうして頼られる側の温子の気持ちは、

果たしてどうだったのだろうか。


自信はもちろんあっただろうが、それだけで、

他人の運命まで背負った戦いに臨めたのだろうか。


那美が知らないだけで、本当はずっと、

温子もプレッシャーを感じてきていたのではないか。


那美はこれまで温子に頼るばかりで、

その気持ちまでは考えたことがなかった。


この人は強い人だから、

当たり前に何でもできるのだと思っていた。


だが、違った。


これまで勝ち続けてきたから、

弱い部分が見えなかっただけだ。


そのことに、

那美はようやく気付き――頭を下げた。


「……温子さん、ごめんね。

私、今まで全然温子さんのこと考えてなかった」


「えっ……?」


「温子さんに頼るのが当たり前になってて、

全然気付かなかったけど……」


「温子さん、本当は凄く頑張ってたんだよね。

色んな辛いことも、一人で受け止めてたんだよね」


「今回だって、私たちが持ってきたトラブルなのに、

温子さんは文句も言わないで戦ってくれて……」


「気付かなくてごめんなさい。

それと、ありがとう温子さん」


途端――


温子の瞳から、

ほろりと涙がこぼれ落ちた。


「あ……あれっ?

何これ、やだっ、恥ずかしい……」


慌てて目元を拭う温子。


けれど、拭っても拭っても、

どんどん溢れてきて止まらなくなった。


「朝霧さん、これ使って」


目元を濡らす雫に温子自身が戸惑いながら、

羽犬塚から差し出されたハンカチで顔を覆う。


そんな温子に胸を打たれながら、

那美が片山のゲームの時のことを思い出す。


「片山くんのゲームの時にさ。

温子さんは、私の体のことを心配してくれたよね」


「私が半田ごてを使うのに失敗した時も、

温子さんは大丈夫って言ってくれたよね」


「さっきの田西さんとの勝負もそう。

温子さんは、ずっと私を支えてくれてた」


「だから、今度は私が支える番だよ。

もちろん私だけじゃなくて、羽犬塚さんも一緒」


だよね――と那美が目を向けると、

羽犬塚は手を握り締めて『うん』と大きく頷いた。


それに、にっこり笑顔を返してから、

もう一度、視線を温子へと戻す。


「温子さんも諦めないで。

私たちで、できるだけ頑張ってみるから」


「っていうか、温子さんが死んじゃうっていうなら、

私も一緒に死んでやるんだから」


「えっ!?」


ハンカチで顔を覆っていた温子が、

弾かれたように顔を上げて那美を見る。


その見開いた瞳に映る那美は、

冗談なのか本気なのか分からない笑顔を浮かべていた。


「というわけで、私を死なせたくないなら、

温子さんも頑張ってください」


「な……何なの、それ?」


全く意味のない脅迫がツボにはまって、

温子が失笑する。


現実を前にした頭は泣きたい気持ちだったのに、

那美に引きずられた感情が強引に笑わせてくる。


反則だ、と思った。


けれど、おかげで頭の中を占めていた絶望が、

途端にばからしくなった。


状況的には何も変わっていないのに、

不思議ともう少し歩いてみる気になっていた。


まるで魔法のよう。


「いや……」


前言撤回。

こんな反則が魔法であるはずがない。


では、何なのか――そう思ったところで、

温子の脳裏に笹山晶の顔が過ぎった。


屋上の記憶。


通い詰めてきた晶と、それを面倒に思いつつも

いつの間にか彼を好きになっていた自分。


ああ……と温子が一人得心する。


今目の前にいるこの子が、

話に聞いていた本来の佐倉さんで――


彼の温子じぶんすらを変えたマイペースさは、

元々はこの人のものだったんだ――と。


「温子さん?」


「いや……何でもない。

もう大丈夫だよ」


様々な思いが温子の内で芽生えたが、

今はそんな場合じゃないと隅に追いやった。


そして、残った涙を拭い、

羽犬塚に『汚してごめん』とハンカチを返し――


「今後の方針を決めよう」


笑顔の那美へと、

いつもの温子の顔で声をかけた。


「……とは言っても、さっき話したことで、

ほとんど完結しちゃってるんだけれどね」


「じゃあ、小アルカナを

探して回るってことでいいの?」


「うん。ただ、なるべく手元には

多種の数字を残すように立ち回って」


「それともう一つ、

協力できる参加者を探そう」


「心当たりとしては、まず森本先輩かな。

それ以外だと、黒塚さんだ」


「あ、黒塚さんならもう会ってるよ。

連絡先も交換してあるし」


「本当っ? それなら、

連絡が取れればかなり楽になると思う」


「根気強く話せば大丈夫だと思うから、

何とか連絡を取ってみて」


「うん、分かった」


「他の参加者に関しては……

基本的に近づかないほうがいいかな」


「どんな危険な参加者がいるか分からないし、

正直、リスクが高すぎると思う」


「でも、仲間を増やさないと、

私たちの勝ち目はないんでしょう?」


「だったら、手詰まりになってからよりは、

今のうちに危ない橋を渡ったほうがいいと思う」


「……じゃあごめん。危ないのは覚悟で、

仲間探しをお願いできる?」


「任せて。田西さんで一回騙されたし、

今度は大丈夫だと思うから」


「大丈夫かなぁ……」


「……大丈夫なように頑張ろう」


自信なさげに寄り添う二人に、

温子が若干の不安を覚える。


が、リスクはみんなで分かち合うと決めた以上、

この件に関しては二人に任せることにした。


ただし、注意点だけは忘れない。


特に、高槻と藤崎の二人には、

よく注意するよう温子が繰り返した。


この二人は、温子らが大小のアルカナを

まとめて持っていることを知っている。


今は勝負の取り決めにより取り出せないが、

時間が来ればそれも解放される。


田西のカードがもしも回収できるとなれば、

相当美味しいことになるだろう。


それを奪いに来るというのは十分に考えられるし、

その時に備えて那美らを捕まえるのも自然な発想だった。


「でも、高槻先輩まで

そんなことをするの……?」


「あの人は全部信用しちゃダメだよ。

一部分だけなら大丈夫だけれどね」


「良くも悪くも適当な人だから、

仲間だった人でも躊躇なく殺せる人なんだ」


「うん……あの人、

ちょっと怖いかも……」


温子だけでなく、羽犬塚までそう言うのであれば、

那美としては是非もない。


高槻とは、今後関わらないようにするというのが、

このチームでの方針として決定。


後は、田西のものを含めて持ち物の確認をした後、

三人で食事を取って一眠りすることにした。


そうして、眠りに落ちる直前。


那美はしばらく振りに

幼馴染みのことを思い出し――


荷物の中の縦笛を取り出して、

ベッドの中でぼんやりと眺めていた。








「……そういうわけで、佐倉さんたちを助けたいなら、

君もゲームに参加するしかないんだ」


「君と琴子ちゃんだけだったら、

逃がしてあげられるんだけどね」


人を殺した悪夢から目が覚めてみたら、

女装した真ヶ瀬先輩が隣にいて――


とんでもない話を聞かされながら、

ひとまず現状については理解した。


悪い夢が、

今も続いてるとしか思えなかった。


僕がどうしようもない人殺しだったことが、

今さらになって分かってしまって。


佐倉さんたちが、新しいABYSSのゲームに

強制的に参加させられていて。


もう、何もかもが最悪で、

いっそ死んでしまいたかった。


けれど――それはできない。


僕の逃避で佐倉さんたちを

殺してしまうようなことだけは、絶対に嫌だ。


「でも……一つだけ確認しておきたいんですが、

今回のゲームで本当に最後なんですよね?」


「それは心配しなくて大丈夫。

今度のゲームは、ABYSSの上層が関わってるから」


「詳しくは言えないけど、派閥対立の一環で、

約束を違えられないことになってるんだ」


「だから、次のゲームで勝つことさえできれば、

本当に完全に自由になれるよ」



「……分かりました。

それなら、僕もそのゲームに参加します」


「オッケー。

それじゃあ、後で迷宮まで送っておくね」


「でも、その前に教えてもらえますか。

先輩の目的と、ABYSSの派閥対立の内容を」


先輩に利用されることはいいとしても、

権力争いに巻き込まれるのは別だ。


ABYSSと縁を切るために戦うのに、

また何か別なしがらみができるのは困る。


「……さっきも言ったけど、

詳しくは言えないんだよね」


「だから、これから話したことの大半を、

晶くんが忘れちゃうツボを突いていくね」


えいや、っというかけ声を添えて、

僕の眉間を指で突いてくる先輩。


そのお茶目な優しさに感謝しつつ、

『忘れちゃう気がします』と返答した。


「それじゃあ、まずはABYSSの派閥から。

これは、大きく分けて三つあるんだ」


先輩が三本の指を立てて、

指折りで説明していく。


一つ目は、創設者の一人であり、

現在ナンバー2と呼ばれる人物が中心の派閥。


これはABYSS内で最大勢力らしく、

五割ほどの人間が属しているとのこと。


二つ目は、現在のABYSSのトップ、

獅堂天山を頂点とする派閥。


全体の三割ほどの所属ながら、過激派で、

ABYSSの勢力拡大を推進しているらしい。


三つ目は、初代の代表である切り裂きジャック――

須賀刀也を信奉する人々。


こちらは派閥というよりは無党派層に近く、

特に獅堂派とは理念で対立しているという話だった。


「今回のラビリンスゲームは、その三つの勢力の、

代理戦争みたいな形になってるんだ」


「みたいな……ですか?

そのものじゃなくて?」


「うん。だって、獅堂派のトップの獅堂天山が、

迷宮の怪物役としてゲームに参加してるしね」


「あと、別派閥のナンバー2に関しても、

獅堂が政争で参加せざるを得ないようにしたんだ」


「ということは、

二つの派閥のトップが参加してるんですね」


それなら、代理戦争の体を取っていても、

実質は当事者同士の戦争ってことになるのか。


確かに、みたいなだな。


「そういうわけで、このゲームには、

各派閥がそれぞれ参加者を推薦して送り込んでる」


「獅堂の派閥からは、参加者として高槻良子と、

怪物役として獅堂天山を自ら推薦」


「まあ、高槻のほうは推薦じゃなくて、

懲罰で入った獅堂派って感じなんだけどね」


獅堂派だから入ったんじゃなくて、

入ることが決まった獅堂派ってことか。


「ナンバー2派からは、参加者は不明。

怪物役としては、私が推薦されてる」


「……どうして不明なんですか?」


「実のところ、私はナンバー2派じゃないんだよね。

私の目的は獅堂天山を倒すことだけだから」


「仮に籍を置いてるから、

教えてもらってないって話ですか」


そういうこと――と先輩の首肯。


「あと、初代派も公表してないんだけど、

最強のプレイヤーを送り込んでくることは決定してる」


「公表されてないのに、

どうして決定してるって分かるんですか?」


「そのプレイヤーと私が知り合いだから」


……ああ、納得。


「それと、もう一人推薦するって話があって、

こっちは今川龍一が最有力って言われてるね」


「龍一っ? 何であいつが?」


「晶くんは知らなかったと思うけど、

彼は切り裂きジャックの弟子なんだ」


「朱雀学園にはプレイヤーとして入ったんだけど、

聖ちゃんに負けて活動休止してた感じだね」


「……全然知りませんでした」


運動能力は高いと思ってたけれど、

まさか龍一がプレイヤーだったなんて。


本当に、身近なところに

ABYSSとプレイヤーが一杯いたんだなぁ……。


「他にも、私が知らないだけで、

派閥に属した人間が入り込んでると思うよ」


「確実に無関係なのは、佐倉さんと朝霧さん、

それと羽犬塚さんだけだろうね」


「いや、僕も無関係なんですが」


「あ、晶くんは私が推薦してるから。

私の持ってるつてを全部使ってねじ込んだんだ」


「……もう何があっても驚かないです」


僕に睡眠薬を盛って、

儀式の夜に放り込んだのも先輩だし。


っていうか、生徒会長の頃から、

こんなの日常茶飯事だったし。


全部状況を一人で整えた後に

『もう後戻りできないから』って笑顔で言う人だし。


真ヶ瀬先輩に話を持ち込まれた時点で、

覚悟を決めなきゃいけないのが生徒会の常識だ。


「でも、晶くんがもしも無理だーって言うなら、

逃がす予定だったのは本当だよ」


「必要になった場合に備えて、

晶くんに仕立てた死体も用意してたから」


もちろん予め死んでた体を使ってだけどね――と、

掌を見せて潔白をアピールする先輩。


……本当、下準備の良さでこの人に敵う人は、

僕の周りにはいない。


「話を戻すけど、派閥争いはそんな感じ。

晶くんたちは部外者だから、後を引くことはないよ」


「仮に僕が、派閥に属している人を

殺してしまってもですか?」


「逆に、派閥争いが起きてるから、

それをやっても問題ない感じだね」


……どういうことだ?


「本当はね、“次のゲーム”っていうのは、

クリアできないようになってるんだ」


「“儀式の生き残り対ABYSS”の構図だと、

ABYSSは何が何でも前者を殺しに行くから」


「事実、前回のラビリンスゲームでも、

そういう理不尽な力が働いた」


「その時は、勝利確実だった参加者に、

ABYSS側が奥の手を投入して始末したんだ」


「ご丁寧に、後でその参加者の家族まで誘い出して、

報復として殺したりもしたよ」


「……最悪ですね」


「当時の“五人のABYSS”が殺されてたから、

やむを得ない感じもあったんだけどね」


「でも、今回はABYSS対参加者じゃなくて、

ABYSS同士の戦いがメインなんだよ」


「その際、ゲーム中の争いはゲーム中で処理する、

っていう協定を派閥間で結んだんだ」


「これに違反した場合は、何でもアリになって、

ABYSS内で暗殺が横行するだろうって言われてる」


「それは長期的にABYSSの弱体化に繋がるから、

どの陣営も協定は遵守するはずだよ」


「まあ、ゲーム開始後に干渉できないからこそ、

事前工作に力を入れまくってるんだけどね」


それが、各陣営から送り込まれた参加者だったり、

怪物だったりするわけか。


もしかすると、事前にルールへ

手を加えていたりもするのかもしれない。


でも、参加者はゲームをクリアさえすれば、

本当に後腐れなく終わることができそうだ。


まあ、ABYSSの支配者層も参加してるんだから、

クリア可能に作られてるのは当然か。


「これで全部説明したかな。

晶くんは約束通り、きちんと忘れてくれた?」


「……はい、大丈夫です。

先輩に突かれたツボが効いてきました」


「いい回答だね。それじゃあ、

今度は眠くなるコーヒーを淹れてあげる」


儀式の夜に放り込まれた時のあれか……。


「眠らせるのは迷宮に運ぶための処置だけど、

それ無しでも、晶くんは休んだほうが良さそうだからね」


「……大変なことに巻き込んじゃったけど、

晶くんには何とか頑張って欲しい」


「まあ、先輩に面倒ごとを持ち込まれるのは、

いつものことですから」


『でしょう?』と苦笑いを見せると、

先輩は『そうだね』と嬉しそうに笑った。


それから、例の睡眠薬入りコーヒーを、

僕の元へと持ってきた。


……最初にこれを飲んだことで、

ABYSSに巻き込まれることになった。


でも、今度はこれを飲むことで、

ABYSSとの関係を断ち切ることができる。


僕が人殺しだったこととか、僕の記憶とか、

色々とどうしようもない状態だけれど――全て後だ。


今はとにかく、みんなを助けるために、

僕の持ってる力を全部使う。


そんな覚悟で、

コーヒーを飲み干した。


程なく、世界が傾いて、

意識が闇の中へと落ちていくのが分かった。


いつか味わったその感覚に任せて、

ゆっくりと目を閉じる。


「できれば死なないでね、晶くん……」


意識が消える直前に、

先輩の不安そうな声が聞こえた。



次に目が覚めた時には、

何故か手足が縛られていて――


そうすることで僕を保護してくれていた

須藤さんと、行動を共にする流れになった。



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