逃走






――喜んで身を委ねた。


「っ!」


僕の視線に気付いたのか、

爽が慌てた様子でスカートを直す。


「何だよ、もっと見せてよ」


「爽だっていつも、

他の女の子のパンツを見てるんだろ?」


「あ、あたしはっ――」


「どうせここに僕を連れて来たのだって、

そういうのに期待してたんだろ?」


「……えっ?」


でなきゃ、こんな人気のない場所に、

わざわざ僕を連れてくるわけがない。


そう思うと――自分の口元が、

自然に笑みを形作るのが分かった。


不思議な気分だった。


まるで夢でも見ているみたいな感じがした。


そう――

昨日、琴子を押し倒した夢と同じ。


申し訳なさで胸が一杯になったものの、

あれほどの興奮は他になかった。


きっと、この夢が終わった後も、

あの申し訳なさで死にたくなる。


けれど、それでもいい。


もう何でもいい。


今はとにかく、早く、

朝霧爽という魅力的な女に触りたい――






――夢から覚めると、

目の前には悪夢のような光景が広がっていた。


[啜'すす]り泣く爽――

乱れた衣服で/手で顔を押さえて。


漂う臭い――

青臭い醜悪なケダモノのそれ。


べっとりとした汗が、

首筋から背中に滑っていく。


あれほど明るく見えていた部屋が、

本来の薄暗さを取り戻し始める。


急速に熱気が霧散していく。


そうして、僕はようやく――

甘美な果実の後味の悪さを思い知った。


けれど、もう遅い。


一旦食べてしまったものは、

吐き出したところで元には戻らない。


「う……」


後悔に胸が潰されて、

呼吸が上手くできない。


手足がぶるぶると震え出して、尻餅をつく。


用を為し、冷え始めていた自分自身が、

べちゃりと間の抜けた音を立てて肌に触れる。


「う、ううう……」


その感触が気持ち悪くて。

爽の[啜'すす]り泣きがとにかく怖くて。


「うわあぁあああああぁぁぁっ!!」


僕は、その場から逃げ出した――





それから、とにかく走った。


当て[所'ど]なく走った。


足がもつれて、転んで血が出て、

息が苦しくて、脇腹が痛くなって。


ぜいぜいと酷い呼吸を繰り返しながら、

それでもとにかく、動けなくなるまで走りたかった。


逃げ出したかった。


苦しい思いをしたかった。


それが罰になるなんてことは思ってない。

それで爽にしたことがなくなるとも思ってない。


ただ、じっとしていたら、

死にそうだという予感だけがあった。





――そうして、

どれくらい時間が経ったんだろうか。


辿り着いたのは、誰もいない公園。


こっちの世界に来て間もない頃、

一人になりたくてよく来ていた場所だった。


疲れ切った足を止めて、

ふらふらとベンチに[縋'すが]り付く。


荒れ狂う鼓動を感じながら、

擦り切れそうな喉で必死に酸素を貪る。


俯いた顔の下に、

ぽたぽたと雫が落ちた。


その染みを、雨が降ってるみたいだと思いながら、

しばらくじっと眺めていた。


「何やってんだ、お前……?」


「え……?」


降り止まない雨をいつまでも眺めていると、

聞き覚えのある声が聞こえてきた。


顔を向けた先に立っていたのは――


「鬼塚……先輩?」


「おう」


コンビニのビニール袋をぶら下げた鬼塚が、

ぶっきらぼうに声だけで応える。


それから、僕の傍へと近づいてきて――

唐突に、眉間に皺を寄せた。


「……泣いてんのか?」


「っ……」


今の酷い自分を見られたくなくて、

鬼塚から顔を背ける。


「何があった?」


「……」


「おい」


応える気はなかった。


今は誰とも関わりたくなかった。


何度か呼びかけられるものの、顔を背けたままで、

鬼塚が飽きてくれるのをひたすらに待つ。


お願いだから、

今は放っておいてくれ――


「あー……ったくよぉ。

面倒くせぇ野郎だな」


「ちょっと待ってろ。

いいか、絶対にどこにも行くなよ?」


……鬼塚が小走りで駆けていく音が聞こえる。


どこに行ったんだろう――と思っていたら、

すぐに足音が戻ってきた。


「ほらよ、とりあえず飲んで落ち着け」


「……要りません」


「いいから飲め。

飲むまで俺は動かねぇからな」


「さっさとどっかに行って欲しいなら、

黙って言うこと聞いとけ」


押しつけられた缶コーヒーに目を落とす。


よく分からないけれど……きっとこの人は、

僕が飲むまで本当にどこにも行かないんだろう。


なら、仕方ない。


そう思って、喉に流し込んだコーヒーは、

嫌になるほど苦かった。


「んじゃ、次はベンチに座れ」


抵抗するのも面倒臭くて、

湿ったベンチに腰掛ける。


と、どうしてか、

鬼塚も僕の隣に座った。


「……で? 何があった?」


「……」


「当ててやろうか?」


「え……?」


「友達とケンカした」


思わず顔をあげて、鬼塚を見た。


何で……この人は、

そのことを知ってるんだ?


「……当たりか」


鬼塚が、はぁと大きな溜め息をつく。


「別に、知ってたわけじゃねぇよ」


「お前がそんだけ落ち込むってことは、

そういうことだと思っただけだ」


そういうことだとって……

どうして、そんなのが分かるんだ?


鬼塚と話したのなんて、

そんなに多いわけじゃないのに。


「何をやらかしたんだ?

行方不明の友達が関係してるのか?」


「それは……」


……言えない。


僕のした行為は、

最低にもほどがある。


「……言いたくないなら言わなくてもいい。

俺も聞きたいわけじゃねぇからな」


鬼塚がコーヒーのプルタブを開け、一口含む。


それから、ふぅと息をついて――


二人の間に、沈黙が横たわった。


虫の音が、言葉の代わりに場を埋める。


草木の擦れる音が、そこに厚みを加える。


手の中で徐々に温くなっていく缶コーヒー。


少しずつ引いてきた汗。

平時のリズムを取り戻した鼓動。


静かな呼吸の音――僕と鬼塚の。


「……どうしてですか?」


「ん?」


「どうして、

僕の隣に座ってるんですか?」


少しずつ冷静になってきた頭で、

ひとまずの疑問を口にした。


「どうしてって……

必要だからじゃねぇの?」


「必要……?」


「ああ。お前、死にそうな[顔'ツラ]してたからな」


今でもしてるけどよ――と、

鬼塚が缶コーヒーに口を付ける。


「お前は放っておけとか思ってるかもしれねーけど、

誰かが隣にいたほうがいい時もあんだよ」


「さっきも言ったけど、

別に俺は、お前が何したかなんて興味ねぇ」


「そんでも、同じ“話を聞かねぇ奴”にしても、

壁相手にしてるよりかは人間のがマシだろ?」


「俺がここにいんのは、

それだけが理由だ」


……僕がもしも話したいなら、

その愚痴に付き合ってくれるってことか。


「だから、お前は話したくなったら話せばいい。

そん時ゃ、俺が面倒臭そうに聞いてやる」


「それまでは、お前が壁になっとけ。

俺が適当に話しておいてやるよ」


僕のほうを向くでもなく、

本当に独り言のように、鬼塚は呟いた。


「さぁて……何を話すかな」


「俺が[友達'ツレ]にやらかした話がいいか」


「やらかした……?」


聞き返すも、鬼塚は答えずに、

ただ缶コーヒーを傾けた。


「俺さ、前は結構、友達がいたんだよ。

一緒にバカやるやつとか、変にマニアックなやつとか」


「あん時ゃ、色々やったなぁ」


「余所の学園の子に惚れたやつがいて、

くっつけようと思って色々頑張ったりな」


「まあ、結局そいつは玉砕して、

みんなで残念会開いたりしたんだけどよ」


「あと、みんなで徹夜でゲームやって、

最後には殴り合いしたこともあったか」


「そん時の反省を生かして、

次にゲームをやる時はローカルルール決めたりな」


「友達のかーちゃんがバイトしてるコンビニで、

いっつも迷惑かけてる[不良'バカ]をボコったこともあったか」


「警察だとか先生だとかにすげー怒られたけど、

友達の親にはメチャクチャ感謝されてな」


「金ねー時とかに、

期限切れの弁当なんかをよく分けてもらってた」


「海で花火をやったこともあったなぁ。

みんなで金出して、ありったけの花火買って」


「そのままキャンプファイヤーだって調子こいてたら、

友達が親から借りた原チャリ燃やしちまってな」


「仕方ねぇからみんなでバイトして、

あの時の夏休み丸々ブッ潰れたんだ」


「……こうやって改めて思い返すと、

夜の思い出のがすげー多いな」


缶コーヒーに口を付けつつ、

しみじみと語る鬼塚。


今までは、ABYSSとしての鬼塚しか

見てこなかったけれど――


この人も僕と同じように、

友達との時間を過ごしてたりしたんだな……。


当然と言えば、

当然なんだろうけれど。


「今になって思うと、恵まれてたんだろうな。

そいつらとは、何やっても楽しかったよ」


「んでもまあ……俺がフォールを飲んでからは、

そいつらとの関係も切れちまった」


「……そうなんですか?」


「ああ。ABYSSに入ってから三ヶ月くらいだから、

……まあ、大体二年前くらいか」


「俺にフォールの副作用が出始めたら、

周りから少しずつ人がいなくなったよ」


「[副作用'アレ]ってよ、敷居が下がるっつーか、

何かタガが外れやすくなるんだよな」


「で、ムカついたらすぐ怒鳴るか、

手が出ちまう」


「しかも[性質'たち]が悪ぃことに、やってる間って、

あんま覚えてねぇんだよな」


「だから、終わった後に周りの反応で、

何があったかを推察するしかねぇんだけど……」


「……これが、辛いんだよな」


それは……

その気持ちは、分かる。


分かるようになってしまった。


「フォールも飲んでるから、力もあんだろ?

当たり前だけど、暴れたら周りも手に負えねぇんだよ」


「しかも口も悪ぃし、相手は平気で傷付けるし。

意味分かんねぇことでキレ始めるし」


「控えめに見ても……

俺は最悪だったと思う」


「……辛いですね」


まあな、と鬼塚は頷いて、

コーヒー缶の側面をべこりと凹ませた。


「……一応、友達もさ、

最初の頃は止めようとしてくれたみてぇなんだ」


「けど、どんどん酷くなっていくから、

段々みんな離れていっちまった」


「ガキの頃からの連れが離れるっていうのが、

一番キツかったな」


……僕も佐倉さんがそうなったから、

鬼塚の辛さは分かる。


ただ、僕は原因が不明だけれど、

鬼塚は自分のせいだと明確に分かっているわけで。


それは、どれだけ辛いことなんだろうか。


「……何かさ、難しいよな。

人間関係ってよ」


「一発で関係が切れたヤツもいるし、

今でもギリギリ繋がってるヤツもいる」


「かと思えば、同じような目的を持って、

一緒にいるヤツもいる」


「後はまあ、皮肉っちゃ皮肉だが、

ABYSSの連中も俺とまだ繋がってるか」


「そういうのを考えると……繋がりって、

同じものを持ってなきゃダメなんだろうな」


「ジャンケンでグーしか出せないヤツが、

ジャンケンに入れてもらえねぇみたいな感じっつーか」


「どうしようもねぇんだから、

そういうものだと思うしかねぇんだけどよ」


「どうして……」


「ん?」


「どうして、

そんな思いをしてまでフォールを?」


「……助けたかったんだよ」


助ける……?


「前にな、助けるって

約束したヤツがいるんだ」


「そいつには、俺しかいなかった。

他に誰も味方がいなくて、俺に頼る以外になかったんだ」


「けれど俺には、力が足りなかった」


鬼塚が、手の中の缶を

ぐしゃぐしゃと握り潰す。


冷たくなったコーヒーが鬼塚の手を濡らしたものの、

その手に鬼塚は一瞥もくれず、ただ前を見ていた。


「結局……俺は、そいつの期待を裏切った。

約束を守ることができなかったんだ」


「なのによぉ、そいつは俺を責めねぇんだよ。

俺のせいで、色んなものを無くしてるはずなのに」


「それが、とにかくムカついた。

ブッ殺してぇくらい頭に来た」


「頭に来たって言っても、そいつにじゃねぇ。

そいつに色んなものを諦めさせた、自分自身にな」


「だから――次こそは約束を守れるように、

強くなりたかった」


「……そういうことですか」


僕が女の子を見捨てたことを怒ったり、

次の機会に備えてフォールを渡してくれたり。


この人の行動は、全部、

自分の経験に基づいたものだったんだ。


「……ま、俺が力を付けたところで、

自己満足にしかならねぇのかもしれねぇけどな」


「そいつはもう、俺よりずっと強くなっちまった。

俺の助けなんて、もう必要ないくらいにな」


じゃあ、どうしてまだ

薬を飲み続けるんですか――


そんな疑問が頭を過ぎったものの、

口に出すことはできなかった。


だって、この人の寂しそうな横顔を見て、

どうしてそんなことを言えるだろうか?


僕が言うべき言葉は、

それじゃない。


贖罪とか、意地とかで後戻りができないなら、

せめてその気持ちを後押しするべきだ。


「きっと……その人は、

先輩の力を必要としてくれますよ」


「……そうだといいな」


そう、寂しそうな顔のまま笑って――


鬼塚は、今さら困ったように、

コーヒー塗れになった手の平をぶんぶんと振った。


見かねてポケットティッシュを差し出すと、

一袋丸ごと持って行かれた。


「マシになったみたいだな」


「えっ?」


「俺に気を遣えるくらいには、

周りが見えるようになったんだろ?」


「つまんねぇ昔話でも、

多少は効果はあってよかったよ」


「いえ……つまらなくなんてないです。

ありがとうございました」


この人も同じことで悩んでたのだと分かったら、

気持ちはだいぶ落ち着いた。


ただ……幾らか冷静になった頭だからこそ、

自分のしでかした事の重さを改めて実感する。


本当に何で、

あんなことをしてしまったんだろうか――


「……改めて聞くけどよ、

原因はフォールか?」


「それは……

薬のせいには、したくないです」


「気持ちは分かる。

けど、心情と原因は切り分けて考えろ」


「今回が初めてのやらかしだっつーなら、

フォールが原因の可能性が高い。違うか?」


「……はい」


嫌だとは言いつつも、

その言葉にどこかホッとしてる自分が憎い。


そんな僕の内心を余所に、

鬼塚は難しい顔で小さく唸った。


「……おかしいな。

そんな強ぇ副作用が出る時期じゃねーはずなのに」


「そうなんですか?」


「ああ。俺が友達に初めてやらかした時は、

服用から三ヶ月くらい経ってからだった」


「それでも、規定量を超えて飲んでたから、

だいぶ早かったはずなんだがな」


「お前、どれくらい飲んだ?」


「一回一錠で、

三日に一度くらいのペースです」


「そのペースで二週間しか経ってないのに、

副作用が出るはずがねぇな」


「となると、体質的によく効くって可能性が高い。

フォールを飲んで、何か変わったことはなかったか?」


「そういえば、飲んでからしばらくの間は、

筋肉痛が続いてました」


「それと、食欲と……性欲が、

凄いことになってました」


「それが、いきなり来たのか?」


「……そうですね。

初めて飲んでから、何時間か後にはもう」


「となると、体質の問題だろうな」


「体質、ですか……」


著しい能力上昇を感じていたのも、

その体質が原因ってことか。


確かに、変化が急すぎるとは思った。


くそ、もっと慎重に飲んでおけば……。


「……悪かった」


「えっ?」


ふと横を見れば、

鬼塚が神妙な顔を僕に向けてきていた。


「俺がフォールなんて勧めなければ、

お前が友達とトラブることもなかったんだ」


「自分の知ってる範囲だけで、

重い副作用が出ないと判断した俺が迂闊だった」


「本当に、申し訳ない」


「いや、そんな……」


フォールを渡してきた鬼塚が悪い――


そんなことを、思わなかったわけじゃない。


何かを呪いたい気持ちが向くとすれば、

そこが標的として浮かぶのは自然な発想だろう。


けれど……最後の最後での判断は、自分だ。


あの時、やめろという声が聞こえたのに、

構わず凶行に突き進んだのは僕だった。


例え、それが薬に影響された決断だとしても、

他の何かに罪を転嫁することはできない。


「……先輩と同じです」


「俺と……同じ?」


「先輩だって、友達にやらかしたことを、

仕方ないって飲み込んできたんですよね?」


「僕も、自分で薬を飲むことを選択して、

自分の判断で悪いことをしたんです」


「その結果として生じたものは、

僕が自分で受け止めなきゃいけないと思います」


「それに……やられた側からしたら、

理由はどうあれ、やったのは僕でしょうから」


「……そうか」


目を閉じて呟いて――

鬼塚は、大きな溜め息をついた。


「何にしても、お前はもう、

フォールを飲むのはやめとけ」


「その様子だと、あと一ヶ月も飲み続けたら、

俺みたいになりかねねぇ」


「お前がフォールを飲んだのも、

誰かを守るためなんだろ?」


「このまま行けば、その誰かを殺したり、

人殺しにしたりすることになる」


「そうなる前に、やめておけ。

お前ならまだ引き返せるからな」


「お前なら……?」


「……何でもねぇよ。忘れろ」


がりがりと頭を掻く鬼塚。


それから、はぁと息をついて、

ベンチから立ち上がった。


「お前の今の状態は、

俺から部長に相談してやる」


「次の儀式までに退部って聞いてたが、

場合によっちゃもう少し早くできるかもしれねぇ」


「これ以上、何かが起きる前に、

ABYSSからは離れろ。いいな?」


「……はい」


「それじゃあ、今日はもう帰って寝ろ。

やらかした友達には、メールでもしておけ」


「直接謝るのは、お互いが落ち着いてからのほうが、

関係が切れにくいからな」


「分かりました。

ありがとうございます」


「じゃあな。……頑張れよ」


手の中のゴミをゴミ箱に投げ込んで、

鬼塚はどこかへと歩いて行った。


「……はぁ」


不思議な浮遊感が/奇妙なやるせなさが、

溜め息となって零れる。


「鬼塚……」


様々な思いが押し寄せては消えていくも、

上手く言語化できそうになかった。


言葉にしてしまったら、余計なものが混じって、

今の僕の気持ちと違うものになってしまいそうだった。


ただ、警告と助言に関してだけは、

感謝と共に受け止めようと思った。


そうすることが、

彼が僕に一番望んでいるものでもあると思った。


「……帰るか」


手の中の缶コーヒーを飲み干して、

ベンチから立ち上がる。


――携帯が鳴ったのは、その時だった。


途端に頭が冷えた。

浮遊感が現実感へとすり替わた。


着信があったのは、ABYSSの支給品。


発信者はG――[卒業生'graduate]。


心当たりは、一人しかいない。


コール音が繰り返される中、

慌てずに深呼吸をして、通話ボタンを押下する。


それから、電話をゆっくりと耳に当てると、

『おー出た出た』と予想通りの声が聞こえてきた。


「……高槻先輩ですか」


「そそ。つーか早く出ろよなお前このヤロー。

危うく切っちまうところだったじゃねーか」


「すみません。

いきなりだったもので」


「ふーん、まあいいや。

晶は今は出先か? 家にいねーだろ」


「……はい。ちょっと公園に」


「ああ、遠くじゃないなら問題ねーな」


……どうして、家にいないって分かるんだ?

後ろの虫の音で判断したのか?


「あの……何か用ですか?」


「今から儀式始めんだ。

準備できたから、晶も来いよ」


「儀式って……ABYSSのですよね?」


「もちろんそうに決まってんだろ。

怪しい宗教の勧誘だとでも思ったのか?」


「いや、そういうわけじゃ

ないですけれど……」


「んじゃ、心の準備も万端だな。

朱雀学園に二十二時までに来いよー」


「……あの」


「あん? どした?」


「ちょっと今は、

とてもそういう気分になれないんです」


「おいおーい、気分で休む気か?

そんなの通ると思ってんのかよ」


「いや、すみません。

でも、本当に今はちょっと色々キツくて」


「ふーん。へー。色々キツい。

色々とキツいんですね笹山晶サマは」


「……はい」


正直、今は何もする気になれない。


人を弄んで殺すなんて、尚更だ。


「んじゃ、休んでいいぜー。

乗り気じゃないやつ入れてもつまんねーからな」


「えっ?」


「いや、何だよ『えっ』って。

休みたいんじゃないの?」


「あ……いえ、もちろんそうです。

ありがとうございます」


「あーあー、いいってことよ。

誰にでも気が向く時とそうでない時があるもんだ」


……やけにあっさり引き下がったな?


もっと、粘られることを

覚悟していたんだけれど。


「しっかし、残念だなー。

今日の生け贄と人質は、晶が気に入りそうなのによー」


「僕が気に入る……ですか?」


「そうそう。間違いねーよ」


けたけたと、

電話の向こうから笑い声が聞こえて来る。


嫌な予感がした。


「……誰なんですか?」


「聞きたい? ん、聞きたい?」


「だから、誰なんですかっ?」


苛立ちが募って、

大きな声で回答を求めた。


すると、ABYSSの元部長は、

ぎゃははははと一際高く哄笑して――


「――生け贄は朝霧爽、

人質は笹山琴子だよ」


絶望の言葉を、

さも嬉しそうに吐き出した。



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