那美と温子






次に二人が向かったのは、

物理室の階下にある化学室だった。


「何の薬品を持って行くの?

硫酸とか?」


「それもあるけれど、

一番は次亜塩素酸ナトリウムと塩酸だね」


「えっ……あ!

それってまさか……」


那美の驚きに、

温子がニヤリ笑顔で返す。


「本当にそんなことするつもりなの?」


「本気じゃなかったら、

わざわざこうして回収しないよ」


相手はABYSS“らしい”し、

これくらいはしないと――


そう楽しげに話ながら、

温子が棚のエタノールを手に取る。


「ホントは硫化鉄辺りもあるとよかったんだけれど、

さすがにそこまでは贅沢だったね」


「硫化鉄って……」


冗談で言っているのかとも思ったが、

棚を漁る横顔を見て、その考えはすぐに吹き飛んだ。


先のジャンケン大会の例え話はあったが――


ようやく那美は、朝霧温子という人間を

本当の意味で理解できた気がした。


「あ。佐倉さんは今の内にガスバーナーの元栓を開けて、

ガス管を外しておいてくれないかな? 机全部ね」


「う、うん……」


一抹の不安と恐怖を覚えながらも、

指示に従う那美。


が、地下室で実際に死体を見ている以上、

自分がそうなりかねないことは既に理解していた。


自分たちの行為が相手を脅かすことは承知の上で、

生き残るための策に奔走する。


「開けたよ、朝霧さん」


「こっちも回収できた。

ちょうどいい袋も見つけたしね」


じゃあ次に行こうかと、

教卓の下にある、教室内全てのガスの大本を開く温子。


すると間もなく、シューという音を立てながら、

ガスが教室に噴き出し始めた。


もちろん、予め全ての窓は閉じてある。

ガスの警報器も、見える範囲のものは全て外した。


そして、最後に温子があるものに触れ、

次の教室へ――





次に二人が向かったのは、家庭科室。


那美がゲーム前に考えていた包丁と、

温子の案で洗剤、そしてキッチンタイマーを確保した。


「後はどこで何を集めてくるの?」


「いや、集めるのはこれで終わりだ」


「時間もそろそろ半分になりそうだし、

今後は仕掛けていく作業だね」


「……これで、足りる?」


那美が手元の材料を見つめ、

不安に顔を曇らせる。


包丁/ブラックジャック/エタノール/アルコールランプ

/硫酸/塩酸/次亜塩素酸ナトリウム/中性洗剤/工具少々。


たったこれだけで、二十人もの人間を、

本当に撃退できるとは思えない。


相手が噂通りの超人なのだとすれば、

なおさらだろう。


「もっと集めたほうがいいんじゃない?」


「大丈夫、足りるよ。

というか、これ以上は持ったら走れないし」


「それは……でも、始まってから

足りなくなったらどうするの?」


「持ちきれないぶんだって、今のうちに

どこかに隠しておいたほうがいいんじゃ……」


「佐倉さんの心配も分かるよ」


「でもね、始まってから物資が不足する状況になったら、

その時点で負けなんだ」


「というか、やり合おうっていう発想から、

負けていると言っていいね」


「……そうなの?」


「だってそうだろう?

捕まったら負けになるんだし」


「向こうの統制次第だけれど、

常に五人以上で飛びかかれって指示が出ていたら?」


「それは……」


具体的に想像しなくても分かる。

包丁等の武器が幾らあっても止められないだろう。


捕まれば負けの勝負で持ち歩くのは、

一対一を打開できる程度の武器でいい。


それを理解し、那美が顔を俯ける。


「いやいや、そう落ち込むことはないよ。

物資を多く確保するのは、普通の状況なら大正解だし」


「ただ、今回はそもそも相手に色々負けているから、

そういうやり方は厳しいっていう話」


「じゃあ……どうするの?

どうやって片山くんたちに勝つの?」


温子の話はそのまま、

現状では勝ち目がないということになる。


それなのに、物資を集めようとしないまま、

一体どのようにして勝つというのか。


「なに、簡単だよ。

やり合うっていうところを構想から外す」


「……どういうこと?」


「負けてる側には、

負けている側の戦い方があるってこと」


ちょっと耳を貸してくれるかなと、温子が手招きする

/那美が髪の毛を耳にかき上げて従う。


と、疑問を帯びたその顔が、

あっという間に驚きへと変わっていった。


「何それ……!」


「ね? これなら行けるだろう?」


「うん! 行けるいける!」


「だから、これからやる作業が、

物凄く重要になるんだ」


「佐倉さんにも結構走ってもらうけれど、

もし途中で危ないと感じたらすぐに言って欲しい」


「うん。でも大丈夫、頑張るからっ」


「それは頼もしいね」


「それじゃあ、私はこっちを回っていくから、

佐倉さんはあっちをお願い」


アバウトな温子の指示ながら、

那美が待ち望んでいたように首肯する。


「全て終わったら、

一度この場所に戻ってくること」


「その時、私がまだ戻ってきてなければ、

適当な場所に罠でも仕掛けておいて」


「階段とか廊下に

洗剤でも撒いててくれればそれでいいから」


「うん、分かった」


「よし。それじゃあ、作業開始だ」











一仕事を終えたところで、

那美は大きく息をついた。


この場所で、

那美のすべき役目は半分ほどが終了。


あと恐らく十分じゅっぷんほどで、

那美に与えられた役目は終わるだろう。


だが、指示された“近場”以外の場所にも、

那美は仕掛けをするつもりだった。


何故、那美がそれを

独断で行おうとしているのか。


それは、この作業が、

楽しくて仕方ないからだ。


「凄いなぁ」


先の温子の話を思い出すだけで、

那美の顔が綻ぶ。


片山たちに捕まった時は絶望しかなく、

それ以降は現実感すら喪失していたものの――


今となっては、

そんな気持ちが嘘のように吹き飛んでしまった。


逆に、温子の立てた作戦が、

どれだけの効果を上げるのかが楽しみになっていた。


那美自身、それを不真面目だとは思ったものの、

気持ちに嘘はつけない。


命のかかったゲームだというのに、

童心が胸を弾ませる。


真面目だと思っていた副委員長が

この気持ちをくれたのだと思うと、何とも不思議だった。


同時に、思う。


もったいなかったな――と。


その思考は、“何か”に監視されていた那美にとって、

周囲を巻き込む恐れのあるタブーと言っていい。


だが、朝霧温子の面白さを知ってしまった今、

那美は現状の学園生活を悔いずにはいられなかった。


もっと他人に頼る道もあったのではと、

思わずにはいられなかった。


いや、それとも――


「……まだ遅くないのかな?」


学園生活は、もう一年半が経過している。


だが、まだ一年半――半分も残っている。


先のことを考えるにはまだ早い、

無事生還できるかも不明な土壇場だが――


『明日や明後日に、

自分はどういう生き方をするべきか』


それを少しずつ考えながら、

那美は、残る箇所へ足を急がせた。





「佐倉さん!」


集合場所に戻ると、先に待っていた温子が

怖いほどに真剣な顔で詰め寄ってきた。


「ど、どうしたの?」


「それはこっちの台詞だよ」


「思っていたよりずっと時間がかかっていたけれど、

もしかして心臓に何かあったのかい?」


「……」


「もし、痛くて走れないとかなら、

嘘を言わずに教えてくれ」


「というか、些細な痛みとか違和感でもだ。

心臓じゃなくてもいい」


「佐倉さんに何かあったら、

ゲームの勝ち負け関係なしに、困るから」


「……大丈夫だよ、朝霧さん」


「遠くのやつまで作業しに行ったら、

遅くなっただけだから」


「本当に?

ならいいんだけれど……」


「でも、遠くのやつまでってことは、

指定した範囲外のまでやってくれたのかい?」


「うん。絶対に成功させるぞって思ったら、

そっちまで必要かなって」


「あと、やってて面白いって思ったから」


「全くもう……

まあ、ありがたいんだけれどね」


「それに、この状況が面白いなんて、

思ったより余裕があるんだ」


「うん……自分でも変だって思うかな」


「でも、自信満々のいたずらを仕掛けてる感じで、

驚くところを想像するだけでわくわくするっていうか」


「その気持ち、私も分かるよ」


「学園がテロリストに襲われた時の想定を、

今、思いっきり試しているようなものだし」


「あー、みんなが一度は通る道だね」


「ふふ。いい年して何を考えてるのかって話だけれど、

想像するだけなら自由だろう?」


「……ふふっ」


「うん? どうしかした?」


「ううん。朝霧さんとこんなに気が合うなんて、

思ってなかったから」


「それは私もだよ。

佐倉さんとは全然話したことなかったしね」


「それに、自分で言うのもアレだけれど、

私と合う人ってあんまりいないし」


「怖がられることも多いからね。

別に気にしてはいないけれど」


「あ……」


誰かと話したわけではないが、那美も、

温子の悪い噂に関しては耳にしたことがあった。


その時は何とも思わなかったものの、

今ならその噂が立った理由も、少し分かる。


これだけ切れ味の鋭い人間であれば、

対峙した相手が恐れを抱くこともあるだろう。


ついさっきまでの那美が、

そうだったように。


ただ、今は違う。


今は、温子という人間を、

那美なりに理解できている。


だから――


「朝霧さん、あのね」


その申し出は、必然だった。


「これが終わったらでいいから……」


少しだけ震える声で、

悪い想像から来る怯えに視線を外しながら。


そして、ままごとのような気恥ずかしさに、

はにかみながら――


「私と……友達になってくれる?」


佐倉那美は、

何年かぶりの言葉を口にした。


予想外の申し出に、

軽く目を見開く温子。


けれどすぐに、いつも通りの笑顔に戻り、

返答を怯え待つ那美へと手を差し出した。


「もちろん。

ただ、二つほど条件があるけれどね」


「え……なに?」


「一つは、これが終わったらじゃなく、

今すぐにということ」


「もう一つは強制じゃないけれど、

苗字じゃなくて名前で呼ぶこと」


「ほら、同じクラスに爽もいるから、

名字で呼ばれると間違う時があるんだよね」


「あー、そっか」


「そういうわけだから、

名前のほうで呼んでもらえると助かるね」


「佐倉さんも希望する呼び方があるなら、

言ってくれればそうするよ」


「えっ? 私は……」


「……私は、何でもいいかな」


ふいに昔の呼び名が頭に浮かんだものの、

那美は、敢えてそれを口にはしなかった。


「それじゃあ、

改めてよろしくだ。佐倉さん」


「こちらこそよろしくお願いします。

――温子さん」


そうして友達になったところで、

温子は持って来たキッチンタイマーへと目を落とした。


開始まであと五分。

間に合ってよかった、と息をつく。


少なくとも、ここまではほぼ完璧だった。


ゲーム開始までの待機時間に想定していた内容の、

およそ八割は達成。


さらに細かい罠が大量にあれば文句なしだが、

一時間という制限の中では欲張りが過ぎるだろう。


那美と打ち解けることもできたのだから、

これ以上ないほどの成果だったと言える。


だが、それでも温子は、

勝率を五割ほどと踏んでいた。


あまり分のいい勝負とは言えないが、

勝つにはこれしかない以上、賭ける以外に手はない。


胸中に渦巻くのはただ一つ。


頼むから出て来ないでくれ――


「温子さん、そろそろ……」


那美に言われて時計を見ると、

あと三分だった。


もうじき、運命の時間が始まる。


「……今のうちに、

ゲームの注意を確認しておこうか」


「隠れる場所のない状態でABYSSと遭ったら、

まず間違いなくゲームオーバーだと思って」


「それでも、どちらかが囮になって、

近距離でやりあう機会があるかもしれない」


「その時は、迷わず相手の急所か

頭を狙って欲しい」


「大丈夫。

ケンカはよくやってたから」


「あと、基本的に走るのは厳禁ね。

音を立てずに動くこと」


力強く頷く那美。


このぶんなら実戦でも問題はないだろうと、

温子は軽く安堵した。


持っていたキッチンタイマーをポケットに突っ込み、

温子が荷物を背負い直す。


本当は、もう一つ那美に話すことがあったものの、

それは後に回すことにした。


どうせ、負ければ意味のない話だ。

全ては勝ってからでいい。


そう決めて、二人が歩き出す――





「そろそろか……」


朝霧温子から奪った携帯電話を嬉しそうに眺めながら、

片山信二はゆっくりと立ち上がった。


ゲームの開始まで、あと一分。

そろそろお待ちかねの時間だ。


「おいお前ら、用意しとけ」


だらしなくニヤけた顔を隠そうともしないまま、

周囲の仮面たちに指示を出す。


男たちの返答――

色気も何もない仮面越しの加工音声。


しかし、普段は愚図としか思わない有象無象の声も、

今は聖歌隊のゴスペルのように聞こえるから不思議だった。


もうじきこの携帯のように温子が手に入ると思うと、

期待に気持ちがそそり立ってくる。


何しろ、戦力差は圧倒的な上に、

相手の行動も十分に予測できているのだ。


他の生贄と温子のおつむの違いは、

当然考慮に入れるとしても――


せいぜいできることと言えば、

命に届く可能性のある罠を複数仕掛ける程度だろう。


そんなものは、

注意深く行動すれば関係はない。


仮に、上手くやられたとしても、

そもそもの数と力が違いすぎる。


それが一般人である限り、一騎の優れた武将よりも、

二十の雑兵の方が優れるのが世の常なのだ。


圧勝は既に確約済み。


後は、過去に幾度も苦渋を味わわされた温子を、

いかにして料理するかという話だ。


この圧倒的優位を快感と言わずに、

何と言おうか?


「ここまでベターだと笑いが止まらねぇな。

なあ、丸沢?」


話しかけるも、丸沢は聞こえていないかのように、

仮面の下でぶつぶつと独り言を繰り返していた。


反応がないことに舌打ちする片山――

それでも、そのテンションが下がることはなかった。


別の解釈をすれば、

丸沢とて昂ぶっていることには違いないだろう。


周囲の仮面たちも、特上に分類される今回の獲物に、

興奮を隠そうともしない。


既に、誰がどの順番で何をするか、

何回するかを決め始めている者さえもいる。


この場にいる全員が、

まさに“やる気”満々だった。


「さて、お前ら時間だぞ」


その面々が、

片山の指示一つで横一列に並ぶ。


数にして、ちょうど二十。


それぞれが漆黒のマントと白い仮面を身につけ、

全員が片山の言葉を待っている。


「カウントダウンだ。十、九、八……」


さながら指揮者のように、

両手を大きく振って合唱を煽る片山。


秘匿を良しとするABYSSなのだから、

その行為は愚にも付かないと言っていい。


しかし、今の片山に宿る全能感が、

ぐいぐいと力強くその背を押す。


周囲の仮面も引きずられるようにして、

一つ数が減る度にテンションと声を高めていく。


「二ぃ! 一っ!」


そして、そのテンションが最高潮に達し、

最後のカウントで溢れさせようというその時、


耳を劈く爆音が、最後の数字を吹き飛ばした。


「――は!?」


開いた口が塞がらなかった。


二階にある教室――恐らくは化学室の辺りから、

もうもうと煙が上がっているのだ。


その合間にちろちろと見え隠れする炎。

明らかに、あの場で爆発が起きていた。


「……ファック!」


時限爆弾の正体は、至って単純。


マッチ棒を底に敷いた空の電気ポットを、

ガスを巡らせた室内でタイマー予約で沸かしたのだ。


もちろん、

そんな経緯を片山が知るよしもないが――


彼の目の前にある光景を

愛しの彼女が引き起こしたことは、疑う余地もなかった。


そして、今のこの事態が、

非常にまずいということも。


「ファァァァァックッ!!」


つばきを飛ばしながら、

片山が身振りも大きく叫びを上げる。


それは、ボイスチェンジャーを通り越して、

生身の声が漏れるほどの怒りだった。


「お前ら、五人であの教室の消火に向かえ!

他のヤツらは学習棟と部活棟だ! 狩りに行け!」


「見張りは絶対に動かすなよ!?

侵入しようとするヤツは迷わずブチ殺せ! いいな!」


いつになく声を荒げる片山に、

慌てて男たちが駆け出す。


「温子ォ……!」


それを視界の端に捉えながら、

片山信二が頬を引きつらせる。


炎の鱗粉を散らし、

煙に乗った煤の蝶が高く舞い上がる中。


命を賭したゲームが今、幕を開けた。



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