深淵










――僕は、幽霊を見たことはない。


だから、その姿は想像するしかないのだけれど、

その元となるのは他の人の創作になる。


一つ目小僧だとか、唐傘お化けだとか、

火の玉だとか、足のない人だとか。


逆に言えば、そういうのを見た時に、

僕は『ああ、これが幽霊なんだ』と認識するんだろう。


じゃあ――これは何だ?


この目の前にいる男は、

一体何なんだ?


一見すると、人間に見える。


けれど――“判定”を聞けば聞くほど、

同じ生き物とは到底思えない。


あの金属のような無機質な瞳に、

一体僕はどのように映っているんだろうか。


あの削りだした岩石のような体の中には、

本当に僕と同じ赤い血が流れているんだろうか。


果たして、僕らと同じような

感情というものを持っているんだろうか――


同じ感想を黒塚さんと爽も抱いたのか、

二人とも完全に固まっていた。


身じろぎもせず、息を潜めるように、

ただただ闖入者の挙動を窺う。


「……ふん」


そんな僕らのことを、

男が憚ることなくじろじろと見回してきた。


蛇に睨まれた蛙ではないけれど、

見られているだけで脂汗が噴き出てくる。


一体、こいつは何者なんだろうか?


儀式の最中の学園に、仮面を従えて入ってきた以上、

ABYSSの人間なのは間違いない。


向こうの援軍か?


でも、爽と高槻の勝負なのに、

援軍なんて来るはずは……。


そう思っていたところで、

高槻が、男の前へと歩み出た。


「あの、獅堂さん……」


その顔と声音は、

この女からは想像もできないほどに恐縮していた。


そんな高槻を、獅堂と呼ばれた男が

鉱石じみた表情で見下ろす。


「何だ?」


「いえ……すみません」


小さくなって頭を下げる高槻。


そんな高槻へ、獅堂が無造作に右手を伸ばし、

その髪の毛を掴み取った。


「っ……!?」


苦痛に高槻の顔が歪む中、

さらに獅堂が掴んだ手を持ち上げていく。


「す、すみませんっ……すみませんっ!!」


それは、高槻の踵が浮き始めても続き、

爪先立ちになってもまだ続き――


爽や黒塚さんが息を呑んでも、

止まるようなことはなく――


高槻が謝罪を繰り返すのも関係ないまま、

ついには足が床を離れた。


そうして、自身の目の高さに持ってきた高槻の顔を、

獅堂が冷然と見つめる。


「言うことがあるならさっさと言え」


「う……あのっ……!

すみませんでしたっ!!」


「それだけか」


「っ……か、必ず、不始末は取り返します!

ですから、あいつらは私にやらせて下さい!」


お願いします、お願いしますと、

必死に繰り返される高槻の懇願は――


しかし、男の眉一つさえ動かせなかった。


それどころか、高槻の体が幾ら揺れようとも、

獅堂の体は微動だにしていなかった。


機械じみた驚異的な膂力。

本当に同じ人間か?


「高槻」


そんな疑問の先で、

雨音よりも冷たく低い声が響く。


「余計な手間を増やすな」


「……えっ?」


「お前はここに必要ない」


高槻が目を見開く。

何か言おうと口を開ける。


が、それが成る前に高槻の体は宙を舞い、

凄まじい水音を立てて、地面へと叩きつけられた。


さらにその上へ、

鉄柱のような足が振り下ろされ――


獣じみた悲鳴が、上がった。


「っ……!」


目の前の凶行に、爽が口元を覆う。

飛んできた水飛沫に、黒塚さんが眉をひそめる。


二人の視線の先にある男の手には、

まるで[鬘'かつら]のように、高槻の頭髪が束で握られていた。


「愚図が。退き際を弁えろ」


もはや虫の息となった高槻の上に、

獅堂が皮付きの髪を投げ捨てる。


その様子を息を殺して窺いながら、

ようやく僕は、片山の話を思い出した。


獅堂――


どこかで聞いた名前と思っていたけれど、

片山から聞いたABYSSのトップと同じ名前だ。


まさか、とは思わなかった。


逆に、ABYSSのような組織なら、

こんな人間が統べていても不思議ではないと思った。


疑問に思うとすれば、ただ一つ。


どうしてそんな人間が、

僕の前に立っているんだろうかということだ。


「う――」


そんな思考が、

ただ獅堂が振り返ってきただけで消し飛んだ。


視線を向けられただけで、全身が粟立つ。

今すぐにでも逃げ出したい気持ちに駆られる。


けれど、本能がそれをさせてくれない。


下手に動けば死ぬという予感が、

足を強張らせて地面に縫い付けてくる。


息をするのでさえ、

音を立てないようにと苦労するような有様だ。


そんな、張り詰めた空気の中――


「あれか」


無機質な瞳が、

ふいに爽のところでぴたりと止まった。


爽がびくりと体を震わせる。

男が腕を持ち上げる。


って、まさか……。


「――おいっ!」


叫ぶと同時に――走った。


直後に、息の詰まるような威圧感が、

爽に向かって滑り出したのが分かった。


リノリウムを踏み砕くかのような脚力で、

巨体がぐんぐん加速を始める。


速い。


速い!


速すぎる!!


「嘘だろっ!?」


あの巨体で……僕よりもずっと速い!


やばい――間に合うか!?


僕のほうが、

一瞬だけ走り出すのは早かった。


あの男よりも、

二十メートル近く爽に近い位置にいた。


けれど、今じゃ僕よりも、

向こうのほうがずっと爽に近い気すらしてくる!


「くっ……!」


獅堂の目的は分かった。

高槻の制裁と、僕らの始末だ。


そして今、獅堂は生け贄かつ騒動の張本人でもある、

爽を第一に狙ってきた。


そうはさせないと、

男から視線を切って、体を前傾させる。


とにかく速くと前だけを見る。


目指す場所には、

戸惑いと怯えが混じった爽の顔。


恐怖からか、

壁にもたれて尻餅をつく姿。


大丈夫。僕が守る。

守ってみせる。


だから、待っててくれ――


心の中で呟きながら、

ひしひしと迫る気配に肝を冷しつつ加速する。


ブレーキをかける余裕はない。

このタイミングだと迎撃も無理だ。


とにかく、男と爽を結ぶ軌道上に入って、

繰り出されるだろう攻撃の前に立ちはだかれればいい。


初撃さえ止めれば、

きっとどうにかなる。


初撃さえ止めれば――


そうして、爽のギリギリ手前、本当に鼻先の位置で、

男と爽を結ぶ軌道上に入った。


やった。何とか間に合った。


あとは――急制動。


「ぎっ!!」


ボロボロの体が軋むのを感じながら旋回し、

爽を背中に庇って前に立つ。


同時に、男が来た。


大きく後ろに引いた腕から、

今まさに渾身の一撃を放たんとしていた。


やはり迎撃は間に合わない。


止めるしかない。


止めてみせる!


腕を構え、とにかく、

被弾すると思われる場所のガードを固める。


そこに、宙を漂う雨粒を切り裂きながら、

男の一撃が到来し――


その腕が、僕の体を貫くのを感じた。


「……えっ?」


その感覚が信じられなくて、

顔を下げて腹を見る。


そこに、男の腕が深々と埋まっていた。


嘘……だろ?


ちゃんと、ガードしたはずなのに。


「けほっ、けほっ」


現実感がなかった。


それくらい、

信じられないことだった。


自分の中に何かが入っていることを、

上手く受け入れられなかった。


これは……死ぬんだろうか?


急所は外れているけれど、

恐らく、腕を抜かれたら大量に出血する。


というか、

こいつの腕は、こんなに太いのか。


肩の辺りまで僕のお腹に刺さってるけれど、

押し退けられた内臓はどうなってるんだろう。


「一石二鳥か」


ふいに、頭の上で男の抑揚のない声が響いた。


一石二鳥。


……イッセキニチョウ?


「えっ?」


どういう意味か分からなくて――

分かりたくなくて、顔を上げた。


けれど、男は僕を見ていなかった。


僕の背後を見下ろしていた。


嫌な予感がした。


「っ……この野郎ォおおッ!!」


その予感が伝播したかのように、

黒塚さんが絶叫して男へと飛びかかった。


が――


「!?」


その必殺を期した一撃は、

男に片腕で、表情一つ変えずに止められた。


「プレイヤーか」


「お前は殺さない。

プレイヤーはABYSSの資産だからな」


「後でまた別の学園に送り込んでやる。

今は寝てろ」



「あ――」


男が平手で、黒塚さんの顎を軽く叩いた。


それだけで、黒塚さんの目が反転し、

ぐらりと体が傾いで昏倒した。


その間も、僕の腹の中にある男の腕は、

微動だにしなかった。


「はぁ……はぁ……」


呼吸が荒げる。咳が込み上げてくる。


目眩がして、焦点が定まらない。


そのぼやけた視界の中で、

男がつまらなそうに息をついていた。


まるで、

仕事を全て終えたかのように――


「はぁー、はぁー……」


ずりずりと、腹の中で腕が動く感覚があった。


途端に、頭がひんやりとし始める。

嫌な汗が浮いてくるのを感じる。


きっと、僕の腹から、

男の腕が出ていくんだろう。


けれど、そんなのはどうでもよかった。


嫌な予感がしていた。


「うそだ……」


その予感を振り払いたくて、

否定の言葉を口にした。


何故か、目の端から涙が零れた。


けれど、

誰も僕の言葉に答えてくれなかった。


腹から男の腕が抜ける。


支えを失った体が崩れて、

廊下の水溜まりへと膝をつき手をつく。


そうして、

四つん這いになったところで――


「うっ……」


僕の足の間から、

力なく投げ出された白い足が見えた。


「うそっ、だ」


信じない。


だって、僕は間に合ったんだ。


きちんと爽の前に出て、男の攻撃を受けた。


だから――そんなはずはない。


「うそだっ」


そんなはずはない。


はずはない、のに――


「!?」


足の間から見える爽の体が、

ぐらりと傾き始めた。


それを、反射的に受け止めようと思って、

這うようにして振り返った。


そうして、左胸を真っ赤に染めた爽を

目の当たりにして、


「爽ぉおおおおーーーーっ!!」


僕は、爽を守れなかったのだと理解した。


「爽!? 爽っ!?」


取り付いて呼びかける。


抱き留めた体を揺すって、何とか反応を求める。


けれど、爽は聞こえていないのか、

ぼんやりと宙を見ていた。


その目にスプリンクラーの水が入っても、

まばたくことすらしない。


ただ、涙のように、

目の横から水が滑り落ちていく。


「そ、爽っ……」


男の腕が、僕を貫通し、

爽の左胸に突き刺さったのか――


爽の左胸には、大きな穴が開いていた。


「お願いだよ……何か、言ってよ」


その穴を必死の思いで押さえて、

何度も爽に呼びかける。


けれど、爽からは何もない。


あの、いつもうるさくて仕方なかった爽が、

何も話してくれない。


胸を押さえる手にも、

何も伝わってこない。


それが、とにかく悲しくて。


とても大切だったものが、

もうすぐ消えてしまうことを実感して。


涙が、ぼろぼろと溢れてきた。


「やだ……爽、やめてよ……」


しとしとと降る雨に濡れ、

爽の体がどんどん冷たくなっていく。


爽が、どこかへ行ってしまう。


それを何とか行かせたくなくて、

爽の手を握った。


けれど、その小さな手も冷たくて。


もう、どうしようもなかった。


ならせめて、

何か言わなきゃと思ったのに――


「……ごめん」


出て来たのは、謝罪の言葉だった。


「ごめん、爽……」


「ホントごめん……」


何に対して謝っているのかは、

自分でもよく分からなかった。


温子さんを助けられなかったことかもしれない。


爽に酷いことをしてしまったことかもしれない。


爽のことを守れなかったことかもしれない。


他にも色々あって――

きっと、その全部なんだと思う。


「ごめん……ごめんっ……」


許されないことは理解していても。


爽には届かないと理解していても。


声をかける以外、何もしてやれない相手に

一体何をしたらいいのか――僕には分からなかった。


「ごめん……」


脱力した爽を抱き締める。


濡れた髪に顔を押しつけて、

ごめんなさいと繰り返す。


「……えっ?」


その時、声が聞こえたような気がした。


抱き締めていた腕の力を緩めて、

爽の顔を見る。


そこには、爽の淡い笑顔があった。


「そ、爽っ……」


「いいよ」


「……えっ?」


「今回だけは、許したげる」


うっすらと目を開けて――口の端を持ち上げて。


爽は、にひひっと笑った。


「あ、ああっ……」


何か、言わなきゃと思って、口を開ける。


けれど、上手く言葉が出て来ない。


その代わりに、涙だけが余計にぼろぼろ落ちて、

爽の顔にかかった。


「うっ……ふぐっ、ううぅうぅ……」


もう、何か言おうと思っても、

泣き声にしかならなかった。


涙ばっかり零れて、

爽の顔が見えなくなった。


目元を拭う。

そのたびに零れて、また拭う。


『泣き虫だな』と聞こえた気がした。


はっとして、

涙を拭いて爽の顔を見る。


けれど、そこに爽はいなかった。


さっきまでのことが、まるで夢だったみたいに、

爽の顔から魂がなくなっていた。


それで、僕はもう、

二度と爽に会えないんだと分かった。


辛くて、悲しくて、

また涙が零れたけれど――


最後に『もう泣かないから』とだけ囁いて、

爽の体を廊下に横たえた。


それから、爽の手の中から落ちたらしい、

ドライバーを拾った。


もう一度目元を拭って立ち上がり、

倒れる高槻の傍で仮面と話している男の姿を捉えた。


聞こえてきた言葉は“笹山琴子”。


なら、このまま黙って、

死ぬのを待っているわけにはいかない。


「まだ死んでいなかったか」


すぐさまこちらに気付いたらしく、

獅堂が鬱陶しそうな目を向けてくる。


相変わらずの、

大気が重さを持つような威圧感。


それに負けないように、ぐっと背筋を伸ばした。

力の入らない足で地面を掴んだ。


腹から命が零れるのを実感しながら、

真っ直ぐに相手を見つめた。


「琴子をどうするつもりだ」


「……」


「答えろ」


「確実に首を刎ねておくべきだったな」


『殺せ』と、仮面の一人に命じる獅堂。


直後、その仮面が、

軍用のナイフを手にこちらへ突っ込んできて――


――もんどり打って、地面へと倒れた。


すれ違いざまに、

彼の[喉頸'のどくび]をドライバーを切り裂いてやったためだ。


血が随分と流れたからか、

フォールによる高揚感は消えてなくなっていた。


その代わりに、

天啓のように仕組みの理解を得ていた。


そう――


出すのではなく色を付けるのだという感覚。


必要なのは、

それを流す扉を開けておくこと。


それさえ分かれば、

何も難しいことはない。


かつて、爽が屋上で歌っていたように、

僕も上手に声を出すだけだ。


今、向かってきた仮面にそうしたように。


「もう一度聞くぞ」


澄んだ声で/意識で、

目の前のABYSSへと問いただす。


「琴子をどうするつもりだ」


「死に損ないが……」


「……答えないなら、いい」


「僕が、琴子を助けに行くから」


ドライバーを逆手に持ち直して、

前傾姿勢を取る。


……僕とこいつの、

生物としての差は歴然だ。


例えテルミット爆弾を使ったとしても、

こいつを殺せる気がしない。


実際は死ぬにしても――

試すまでは殺せるイメージが全く湧かない。


父さんに続いて二人目の、

殺せない“判定”の相手だからだろうか。


自分の中のもう一人の自分も、

今すぐ逃げろと警告してくる。


さっさと忘れろと忠告してくる。


気を抜けば、

フッと意識が消えてしまいそうになる。


でも――逃げない。


仇討ちじゃない。

せめて琴子だけは、何としてでも助けたい。


そのためには、無理だろうと何だろうと、

獅堂を殺す必要がある。


覚悟を胸に、前を見た。


そこには、さっき爽にしたように、

腕を持ち上げて突進してくる獅堂の姿。


その迫り来る死を、

僕の中に残っている全てでもって迎え撃つ。


そうして――扉を開け放った。


途端に溢れ出す深淵/記憶の奔流。


ああ――今、全てを理解した。


そうだ。

僕は、謝らないといけなかった。


爽だけじゃない。

那美ちゃんにも――琴子姉さんにも、ミコにも。


でも、もう遅い。


世界が暗転し、

闇が命を/運命を/全てを飲み込んでいく。


その中で僕は、


「獅堂天山――」


初めて、澄みきった自分の声を聞いた。


「――お前だけは、必ず殺す」









……気付けば、

屋内に降り続いていた雨は止んでいた。


思い返しても、酷い嵐だった。


床も壁も傷だらけで、

無事なものなど、どこにも見当たらない。


周囲の水は赤く染まり、

幾つもの死体が散らばっている。


吹き荒れた暴力の風は、

ありとあらゆるものを切り裂いていた。


そう――そこにただ一人立っていた、

獅堂天山でさえも。


「――素晴らしい」


血を流す自身の腕を眺めながら、

獅堂が一人、嘆息する。


信じられなかった。

期待など欠片もしていなかった。


高槻に重傷を負わせた男と言っても、

腹に穴が開いて死にかけの状態。


そこからどう頑張ったところで、

ただの一撃で終わるに違いない。


そんな予想を、あの笹山晶という男は、

あっさりと覆してくれた。


「実に、素晴らしい動きを見せてくれた」


「いや――見えなかったのだから、

見せてくれたというのはおかしいか」


くつくつと、獅堂が笑う。


この男が、これほどまで上機嫌になったことは、

久しくなかった。


「しかしまあ……全滅か」


改めて周囲を見返すと、

死屍累々といった状況だった。


彼が連れてきた処理班の連中は、

全員が瞬く間に殺されていた。


誰もが、自分の死ぬ瞬間を認識していなかったし、

誰もが、死んでいく仲間に気付くこともなかった。


気がつく前に、死んでいた。


戦闘訓練をしっかりと積み、

部長レベルはあるだろう処理班だというのにだ。


暗殺のレベルとしては、

最上位と言っても過言ではない。


それを、たかが末端のABYSSが――

たかが一学生如きがやってのけたのだ。


あまつさえ、

自身に傷まで付けている。


それは、獅堂からしても、

驚愕に値する事実だった。


「……もったいないことをしたな」


対等の状態でやり始めれば、

血湧き肉躍る戦いになったに違いない。


これほどの手練れに出会えるのは、

次は何年後の話になるだろうか。


いや、一生会えないかもしれない――


そんな思いが、好敵手の死体を見下ろす獅堂の目に、

未練の光を滲ませた。


そして、同時に思った。


この少年は、一体何者だったのだろう――と。


「……ああ」


そこまで考えたところで、あることに思い当たって、

獅堂は携帯を取り出した。


かける先は、もちろん決まっている。


「――はい」


「俺だ。笹山琴子はどうした?」


「現在、確保に動いています。

連れて逃げていた丸沢は既に確保しました」


「それは殺せ。

ただし、笹山琴子は殺すな」


「無傷で捕まえろということでしょうか?」


「口さえ利ければ何でもいい」


「何を聞き出すんでしょうか?」


察しのいい電話先の相手が、

その目的を獅堂に尋ねる。


と――


「笹山晶が何者だったかだ」


男の石のようだった顔が、

獰猛な笑みに変わった。


「恐らくは、裏の世界に

笹山晶の家系の人間がいるはずだ」


「必ず聞き出せ。

どんな手段を使ってもだ」


「かしこまりました」


「それから、事後処理の連中に言っておけ。

笹山晶と朝霧爽は、丁重に弔えとな」


それだけ告げて、

獅堂は通話を終了した。


そして、晶の死体の傍に屈み込み、

見開いたままの骸の目をそっと閉じてやった。


「できれば、もう一度会いたいものだな」


語りかけるように呟いて、獅堂が立ち上がる。


ぱちゃぱちゃと水音を立てて、

惨劇の夜から退場する。


東の空が、白み始めていた――



■another start






「――ABYSSに、なります」


「……はい?」


少女のその答えに、金髪碧眼の死神――ラピスは、

思い切り眉根を寄せた。


不機嫌に歪むも、

それでもまだまだ可愛らしい整った顔。


しかし、その内にある心は、

顔ほど穏やかなものではなかった。


「本当にそれでいいの?

だって、ABYSSだよ?」


「こう言っちゃアレだけど、

タカツキさんには絶対に向かないと思うよ?」


「それならまだ、同じ日常に戻らないでも、

プレイヤーになったほうがいいんじゃ……」


誘導するのは悪いと分かりつつも、

現実的な選択を提示するラピス。


が、少女は凛としたとした声音で、

再度同じ言葉を繰り返した。


――それは、ABYSSのゲームの勝利者が得る、

賞品の話だった。


賞金を手に日常へと戻るのか。

プレイヤーとしてABYSSに復讐するのか。

それともABYSSに与するのか。


好きなものを選ぶといい――


そんなラピスの説明の後に、

タカツキリョウコの返した答えが、先のものだった。


『ABYSSになる』


弟を殺され、自身も酷い目に遭わされた経緯を見れば、

確かにその答えは理解できなかった。


最初は、聞き間違えかと思った。


しかし、幾ら聞き直してみても、

タカツキリョウコの答えは変わらない。


弟が死に、自身もまた命のかかっていたゲームを

終えたばかりで、混乱しているのだろうか。


「別に、今すぐじゃなくてもいいんだよ?

一週間くらいなら、別に待ってあげるし」


「待ったとしても、変わりません。

私はABYSSになります」


「いや、冷静になろうよタカツキさん。

その選択は、絶対に後で後悔すると思うよ?」


「しません」


きっぱりと言い切る少女。


それに、ラピスは困惑し――

同じくらい失望した。


この少女には、見所があった。


ダイアログの適合性といい、土壇場での根性といい、

人を容赦なく殺せるところといい。


実に、面白い素材だと思った。


今はまだ無理でも、

将来が楽しみだった。


どう育つか――そこまでは面倒見切れるか分からないが、

少なくとも、ラピスに恩は感じているはずだ。


そんな彼女が、ABYSSに所属するということに、

ラピスは強い不快感があった。


大事にしていたオモチャが、

ある日突然ゴミだったと気付いたような失望があった。


だが――


「……ねえ、タカツキさん。

どうして、ABYSSになろうと思うの?」


そこだけは、どうしても聞いておきたかった。


人生を壊した組織に所属したがる理由が、

どうしても知りたかった。


「……別に、大した理由じゃないですよ」


「それでもいいよ。聞かせて」


その問いに、

少女がふぅと息を吐く。


そして、打たれて腫れ上がった目を見開き、

口の端についた血を吐き捨てながら――


リョウコは強い意思を持って、

ラピスの目を見据えた。


「だって、中から潰さないと

意味がないじゃないですか」


「……え?」


「ABYSSは、私が潰します」


その言葉に、

ラピスは大いに衝撃を受けて――


「――ぷっ」


それから、大いに笑った。


想像の斜め上を行っていた。


これは面白い。


毒の皿を食ったはずなのに、なお毒を要求する人間が、

どこにいるだろうか。


少なくとも、

こんな人間を、ラピスは他に知らない。


「いやー……キミ、凄いね。

久々にこんなに笑ったよ」


「……どうも」


「いやいや、ホントだよ?

お世辞じゃなく、ホントに凄いと思ってるから」


不本意そうに相槌を打つタカツキリョウコに、

ラピスがひらひらと手を振る。


そうして、他意のないことをアピールすると、

生け贄だった少女は面倒臭そうに頷いた。


その、何だかんだで構ってくれる態度がまた、

ラピスにとっては好ましく映った。


「……うん。やっぱり気に入ったかも。

ねえキミ、名前は何て言うの?」


蒼い瞳を大きく見開いて、

ラピスが少女に問いかける。


タカツキリョウコの本当の名を。


知る限りでは、初めて生贄からABYSSへと上がる、

この少女の名を――


「――森本聖」


答えは、単純にして明快だった。


余分なものの一切ない回答。


決意の篭った瞳で伝える、

凛とした声で伝える、その答え。


「いい名前じゃない」


それに、ラピスは

無邪気な笑みを持って応えた。


窓から差し込む月光の中、

金の髪が、楽しそうに揺らいでいた。





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