超越者









「ぶっ――!?」


不意に閃いたジャブに、

僅かな隙を捉えて唇を叩いた。


そうして生まれた怯みに/隙に、

口元を歪めた女が突っ込んでいく。


慌てて構える切り裂きジャック――

前蹴りを放って相手との距離を空けようとする。


しかし、高槻はそれを体を捩って回避――

強引に肘をねじ込み、ガードを無理矢理こじ開けた。


そこに放たれるジャブ/繋がるワンツー

/さらにフックへと展開していく。


『ボクシングなんて面倒で習うわけねーだろ』という、

素人丸出しな見よう見まねの猛ラッシュ。


けれど、その稚拙な拳でさえ、

ABYSSの膂力が乗れば脅威的な威力に。


肉を弾く音が響き、悲鳴が上がる中、

辛うじて堪えていた龍一が後ろに倒れかける。


が、逃がさない気満々の高槻――

ライディングギアを掴み、龍一の体を引き寄せる。


そうして、満身の力を込めて、

強烈なボディブローを放った。


げ――と、龍一の口から

悲鳴の代わりに吐瀉物が漏れる。


足が地面を離れ、巨躯がくの字に折れ曲がり、

がくがくと痙攣する。


そうして下がった男の顔を目がけて、

さらに高槻が思い切り拳を振り抜き――


壁面で、ごがっと

とんでもない音が聞こえた。


「ぶはぁー! はぁー、はぁー……!

どうしたオラ、それでお終いかぁ!?」


殴りすぎて傷んだ拳をさすりながら、

高槻がげらげらと声を上げて笑う。


だが、本人にも決して余裕があるわけでなく、

膝に手を付かないと立っていられないような有様だった。


それでも倒れないのは、

“五人のABYSS”たる所以か。


「この、野郎……」


対する龍一は、地面に手をついて、

息を吸うのにも全力という様相。


刀を構える余裕もなく、血塗れの顔に虚ろな目で

辛うじて高槻に目を向ける。


「ったく、クッソよえーくせに、

調子こいでアタシに楯突くんじゃねーよバーカ」


「なーにが切り裂きジャックだ。

お前の刀なんてちっとも当たらねーじゃねーか」


「やっぱり、師匠がクソクソクソ雑魚だと、

弟子のレベルもたかが知れてんだなぁ……へへへ」


「こんの……野郎……!」


「お、まだ立ち上がってくんのか?

いいぜ、来いよ。アタシもまだ殴りたんねーんだ」


刀を手にふらふらと立ち上がる龍一に、

高槻が喜々として拳を作る/顔の前に構える。


信じられないタフさと、

戦闘への意欲。


『化け物かこいつは』と龍一が内心で呟く――

負けを認めないことがやっとの自身と比べて。


龍一が消耗しているのは間違いないが、

相手はそれ以上に消耗しているはずだった。


にも関わらず、最初から今に至るまで、

ずっと押されてしまっている。


師匠の仇を討ちたいという気持ちが、

高槻良子にまるで通らない。


犯人がすぐ傍にいるというのに、

何もできずに土を舐めさせられる、この上ない屈辱。


悔しさで体が震えてくるが、

気持ちに体が付いてこない。


ここまでか――


「あとお前よー、さっき気付いたんだけど、

なーんかレイシスのヤツを気にしてねーか?」


そう思っていた気持ちが、

一瞬で頭からぶっ飛んだ。


「つーかそもそも、あいつ怪物だろ?

何でブッ殺さねーで隅っこに転がしてんだよ」


「もしかして、レイシスを庇ってんのか、お前?

つーことは、これは楽しいことになっちゃう?」


「美里に手ぇ出したらブッ殺すぞコラ……!」


ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる高槻を、

龍一が目を見開いて睨み付ける。


立ち上がるのでさえ一杯だった体が、

軋みを上げて動き出す。


「やっぱな。

こいつは最高の憂さ晴らしになりそうだなぁ?」


高槻が舌なめずりをして、

『かかって来いよ』と煽りをくれる。


その舐めた態度を切り伏せんと、

龍一が憤怒の面で刀を構え――


突如、コロシアムに響いた轟音に驚いて、

慌てて飛び退いた。


龍一だけではない。

高槻も同様だった。


崩壊したコロシアムの壁面から

最も離れた位置へ逃げたため、二人並ぶ形に。


そのことに戸惑いを覚えつつも、

異変への警戒が優先して離れる気にはならなかった。


顔を見合わせた後、

互いに崩壊したコロシアムの壁へと視線を移し――


そこに立っていた男の姿を見て、

全身から汗が噴き出した。



「切り裂きジャックの弟子がいると聞いて、

剣を取ってきてみれば――」


匂い立つような圧倒的な強者の気配。


砂煙の中から浮かび上がる、

感情の欠片も見当たらない暗い瞳。


「――もう一人、参加者がいたか」


人の身長はあろうかという大剣を軽々と持ち上げる、

隆々と盛り上がった鉱物じみた肉体。


同じ場所にいるだけで、

猛獣と対峙したかのように震えが走る。


本能が、この生物との造りの違いを

瞬時に認識する。


その恐ろしさに、

龍一が完全に固まっている中――


隣の高槻が、冷や汗を流しながら、

おずおずとその超人の名を呼んだ。


「獅堂さん……まさか、

参加されてたんですか?」


その高槻の問いに答えることなく、

獅堂が壁を破壊しただろう大剣を下ろした。


たったそれだけの動作で、

コロシアムの床に大きな傷が刻まれた。


途轍もない重量/膂力――

その強大さに戦慄する龍一らを獅堂が睥睨する。



「まずは二人か」


……えっ?


そんな声が聞こえた後――


絶叫が、コロシアムの中に響き渡った。







“お願いだから、

私が行くまで頑張ってて下さい”


相方の無事を祈りながら、

聖が迷宮を大急ぎで駆け抜ける。


目指す先はコロシアム――

そこに現れたらしい聖の標的である高槻良子。


先の電話の雰囲気では襲われたことは確実で、

龍一と高槻の実力差を考えれば敗北は必至だろう。


しかし、彼の性格上、

逃げを打つことは考えられない。


律儀にも聖が到着するまでの時間を稼ぐべく、

殺される寸前まで粘るはずだった。


それを遠くからでは止められない以上、

聖にできることは、一刻も早く駆けつけることだけ。


なのに――


「っ……邪魔だってば!」


またもや角の向こうから飛び出してきた怪物に、

聖が苛立ちを拳に乗せてぶつけていく。


もう、こんなことが

何度あったか分からない。


三日目半ばまでは一度もなかった怪物との遭遇が、

四日目からは他参加者の倍以上の頻度になっていた。


その理由は、

彼女に配布された大アルカナ“太陽”。


怪物避けだったはずのそれが、

三日目途中から怪物寄せへと変化していたのだ。


確かに、途中で効果が変わる旨の説明文はあったが、

こんな効果になるのは完全に予想外だった。


しかも、カードは実体のないデータなため、

捨てることができない。


携帯の電源を切ることも試してみたが、

それでも作動するらしく、怪物の出現頻度は変化なし。


捨てることもできず、無効にもできず、

延々と敵を引き寄せ続ける。


聖はそれを嫌がらせのようだと思ったが、

あながち間違いではなかった。


序盤は怪物避けで、

所持者の小アルカナの収集速度を落とす。


小アルカナが尽きる中盤以降は、

怪物寄せに転じて所持者を消耗させる。


大アルカナは参加者の事情/能力を考慮して、

それぞれに適したものが配布されるが――


裏切り者に託されるカードとしては、

これ以上のものはないだろう。


ただ、聖にとって幸いだったのは、

寄ってくる怪物がそこまで多くないことだった。


集団で一気に来られては困るが、

個別で、しかも間を空けてならばどうにかなる。


もちろん、ダイアログは使えないため、

どうにかなるだけで決して楽とは言えないのだが。



ともあれ――


目の前の怪物の胸元にナイフを埋め込んで、

再びコロシアムへの道を急ぐ。


じきに訪れる仇敵との対峙に、

胸の奥がどくどくと疼くのが分かった。


これまでじっと堪えてきた様々なものが、

一挙に噴き出す予感。


右手が自然と拳を作り、

そこにじわりと力が滲んでいく。


空気がより冷たく静かに感じられ、

相対的に自身の高ぶりを意識する。


角を曲がり、十字路を抜ける。

見たことのある壁の染みを横に道なりに進む。


そうして、コロシアムの分厚い扉に辿り着き、

その前で息を整えつつ耳を澄ました。


不思議と、中から音は聞こえて来なかった。


もしかして、間に合わなかった?

それとも、戦いの場所を移した?


色々な想像が浮かぶも、

どれも違う気がした。


覚悟を決めて扉へと手をかけ、

ゆっくりとそれを押し開く。





――そこは、惨劇の現場だった。


味がするほど濃厚な血の臭い。

耳が痛むような死の静寂。


冷たく降り注ぐ清潔な光に照らされて、

あちこちの赤い水溜まりが目映く輝く。


その傍には肉と思しきものが散らばっており、

壁面や床にも破壊の跡が深く刻まれていた。


一目で、凄絶な殺戮があったのだと分かった。


だが、あまりに異様な破壊の具合に、

聖が困惑する/眉間に皺を結ぶ。


特に、人間の死体の損壊具合が

尋常ではなかった。


残っている部分はそのまま残っていても、

無い部分はそのまま消滅してしまったかのようだ。


一番近いと思えるのは、

快速電車に飛び込んだ死体だろうか。


どう考えても、人間の仕業ではない。


これをやってのけたのは、

果たして誰なのか。


それは分からなかったが――

やられた人間は、辛うじて分かった。


「今川くん……」


腹部から腰、それと不揃いの足が着ていたのは、

黒のライディングギア。


恐らく、今川龍一で間違いないだろう。


そして――もう一人。


こちらは逆に、胸から上が半壊しながらも残っており、

恐らくではなく確実に判別ができた。


「高槻良子まで……」


龍一は高槻に襲われたとしても、

何故この女がここで死んでいるのか。


この女は、断じて、

簡単に殺されるような女ではない。


一体、誰が――



「新しい参加者か」


そう思っていたところで、

扉の開く音と共に、重く硬い声が届いた。


次いで訪れる息の詰まるような圧迫感に、

聖が慌てて飛び退く/身構える。


そうして見つめた先には、

巌のような大男の冷然とした顔があった。


その手に担ぐのは、

人に身長もあろうかという血塗れの大剣。


即座に、目の前の男が

この場の惨状を作り出したのだと理解した。


「……森本聖か。

中々いい相手を見つけた」


男――獅堂天山が、

口元を僅かに歪める。


それだけで、聖の喉が鳴った。

体が総毛立ち、心臓が跳ね上がった。


かつて、タカツキリョウコとして

惨劇の夜を彷徨った聖だったが――


初めて副長と遭遇した時のように、

べっとりと心を覆う死を意識した。


それでも、辛うじて恐慌をきたさず踏み止まる聖に、

怪物がさらに喜悦を零す。


「目的は達成できなんだが、

色々食えるのは悪くない」


それだけ言って、

獅堂が大剣を振り上げ――


その一秒後に、

聖の背後の壁が轟音と共に崩壊した。


何たる速度。何たる破壊力。


先の痕跡から予想はしていたものの、

実際に目の当たりにすると血の気が引いた。


だが、恐怖で足を止めている暇はない。


目の前に回り込んでいる獅堂から飛び退り、

追い縋ってくる一撃を回避する。


超重量の大剣を持ってなお、

自身よりも速い異常な相手に逃走は不可と悟る。


覚悟を決めて距離を取りつつ、

ダイアログを口腔へ――噛み砕いて効果発現。


「っ……!」


瞬間――絶望した。


全身を稲妻の如き恐怖が貫き、

強張った手足が痺れたように痙攣した。


だが、そんな恐怖から目を背けたくとも、

聖の能力がそれを許さなかった。


対象の血流をすら知覚できる、

ダイアログを使用した聖の状態把握能力――


それが暴き出した目の前の男の性能は、

正真正銘の“超人”だった。


強靱に伸縮を繰り返す膨れ上がった筋肉。

鋼じみた強度がありそうな高密度の骨。


神がデザインをしたかのような、

常人と異なる戦闘に特化した骨格。


熊どころの話ではない。


まるで恐竜――

それが高度な知能を持って攻め立ててくるのだ。


そんな化け物に、勝てるわけがない。


全て終わりだ。


これまで歯を食いしばって頑張ってきたことも、

何もかも、ここで無に帰す。


逃げだそうにも、この化け物の前では、

それすら許されない。


なまじそれが分かってしまうだけに、

恐怖で涙が溢れてくる。狂いそうになる。


だが――


晶がまだこの迷宮に残っていることが、

聖の心をすんでの所で繋ぎ止めていた。


天山は言った。

『色々食えるのは悪くない』と。


ここで自分が死ねば、晶の元へと行かれる。


彼のクラスメイトと共に、

容易く皆殺しにされてしまう。


それは、嫌だった。


弟の前に立てずに生き長らえておいて、

何も果たせずに終わるのは嫌だった。


弟のように思っていた彼のことを、

またみすみす殺させてしまうのは嫌だった。


聖の瞳に、光が戻る。


逃げ回るだけだった彼女が、

獅堂の刀の前で紙一重で踏み止まる。


そんな聖へと、獅堂が肉薄――


大剣をまるで木の棒のように振り回し、

斬撃を次々繰り出していく。


触れれば粉々に吹き飛びかねない

/触れずとも殺されかねない激烈な暴風。


その圧力を前に、しかし聖は、

冷静に獅堂の状態を把握――


ダイアログによる感知を全開にしたまま、

吹き荒れる暴力をすり抜けて獅堂に殴りかかった。


「ふん」


その動きを予測していたのか、

獅堂が即座に大剣を投げ捨てる/聖の打撃を回避する。


“嘘でしょ!?”――聖が驚愕/戦慄。


とんでもない判断力と判断の速さに、

続けて見舞おうと思っていた攻撃を取りやめる。


さらに、反撃に動き出していた相手を知覚――

獅堂の正面を外すように移動を開始する。


が、今度はその動きを見て、

獅堂が聖を追いかけ始めた。


敵の膂力は高槻ですら比ではない。

恐らく、触れられればその時点で勝負が決まる。


命がけの鬼ごっこの中、

聖が必死になって相手の情報をかき集める。


そうして、次なる動作を予測し――


飛んできた獅堂の腕に、

思い切り吹き飛ばされた。


壁面に叩き付けられた聖が、

苦痛に喘ぐ/身悶えする。


受けたはずだった。

きちんとガードも間に合っていた。


衝撃を殺すために飛ぶことだってした。


なのに――このダメージ。


つくづく、この相手が

人間ではないことを思い知らされる。


もっとも、相手の強大さは

元々理解していた。


万に一つも勝ち目は無いと

分かりきっていた。


それでも――


「まだ立つか」


それでも、姉というものは、

弟の前に立って守らなければならないというだけの話だ。


例え自己満足だろうと、

それで何かが起きる可能性はある。


最後まで足掻き続けることで、

晶の脱出が間に合うかもしれない。


そんな気持ちが、

聖の体を支えていた。


既に満身創痍の様相だが、

弟のような晶のために寝てはいられない。


ありったけの勇気を握り締めて、

正面に立つ怪物を睨み付ける。


そうして、聖は拳を構え――


数日前に鬼塚がそうしたように、

絶望へと決死の覚悟で立ち向かっていった。







「おい、ちょっと待て」


室内で今後の方針を話し合っていると、

スマートフォンを見ていた須賀さんが声を上げた。


「何かあったの?」


「いや……“悪魔”を見てみたら、

残りのプレイヤーの数が四人に減ってる」


四人ってことは、僕らの他には、

もう一人しか生きていないっていうことか?


つまり、龍一か聖先輩のどちらかが、

もう既に死んでいる……。


「晶くん、深く考えないようにしよう。

気にしていたら、本当に全滅だ」


「……うん、そうだね」


元々、一人しか助けられないんだから、

仕方ないってことは分かる。


でも……聖先輩、龍一……。


二人に何も言えないまま、

もう二度と会えなくなってしまったのか……。


「でも、幾ら何でも急に死にすぎでしょ。

二時間前までは、七人生き残ってたのに」


「……獅堂が殺して回ってるんだと思うよ。

タイミング的にも出て来た直後だし」


「その可能性は高いですが、

カウント切れもあり得ると思います」


「脱出の線もゼロではないですけれど、

小アルカナの残り枚数的に、ほぼないでしょう」


「朝霧さんの携帯から連絡して、

誰が死んだのかは確かめられない?」


「それができればいいんだけれど、

持ち主の死亡と携帯の機能停止は連動してないんだ」


「実際に会ってみるまで、

誰がどうなったかは分からないってことか」


「そうなるね。でもその代わりに、

携帯を回収できればカードも回収できる」


「それが今後の目的だね。

獅堂に敵う武器を集めつつ、携帯も回収する」


「それも、確実なクリアを目指すなら、

できるだけ多く集める必要があります」


……温子さんの言っていた、

田西って参加者の件か。


田西はクリアの際に、1~14のカードを

一通り持っていったという話だ。


現状でクリアを目指すなら、同じ数字を四枚ではなく、

任意のカードを十枚集める方を目指さなきゃいけない。


今、僕らの手元にあるのは、クラブの3、ダイヤの3、

ハートの12、スペードの3、8、13。


合計六枚のため、

あと四枚があれば十枚に届き、一人ぶんになる。


でも――もしかするとだけれど、あと七枚。

小アルカナが、あと七枚見つかってくれたなら。


僕の大アルカナで、

もう一人助けられるかもしれない。


ただ……このことは、

温子さんには伏せておくべきだろう。


温子さんは、

僕が獅堂と戦うことを快く思っていない。


もしバレでもしたら、

僕を強制的に脱出させてくる可能性もある。


「……晶くん、聞いてた?」


「えっ? ああごめん、

ぼーっとして聞いてなかった」


「もしかして、薬の副作用とか?」


その言葉が出た途端――

場にいる全員が、一斉に僕の顔を覗き込んできた。


それに若干の圧力を感じながら、

とりあえず手を振って問題ないことをアピールする。


そう、今のところは問題ない。


自覚症状としてあるのは、身体能力が上がると共に、

体が内側からめくれていくような疼痛。


それと――僕の背中に、

ひたりと何かが張り付くような感覚だけだ。


徐々にそれらが強まってはいるものの、

思考はクリアだし、精神も安定している。


想定していた副作用よりずっとマシだし、

この程度なら行動にも支障はないだろう。


「……もし何か異常を感じたら、すぐに言ってよ?

まだ最初の一錠だけだし、何とかなると思うから」


「そうします。僕だけで済むならともかく、

周りに被害があったら嫌なんで」


「周りの害だけじゃなくて、

晶くんに害があるのもダメだ」


じろりと睨んでくる温子さん――

さっきからずっと『不機嫌です』と顔に貼り付けたまま。


……僕がアビスを勝手に飲んだのが、

よっぽど気に入らないんだろうな。


でも、幾ら温子さんが不満に思おうと、

僕はみんなを助けるだけだ。


「……まあ、笹山くんは言っても無駄そうだし、

みんなで監視すればいいんじゃないの?」


いや、言っても無駄って……。


「由香里ちゃんの言う通りだね。

晶くんは本当に勝手に行動しちゃうから」


「うわ……先輩がそれ言います?」


「いや、二人の言う通りだ。

これ以上、無茶をしないように監視しないと」


咎めるような鋭さを伴って、

じっくり三人に見つめられる。


……これは当分、

大人しくしてたほうがよさそうだな。


「ま、窮屈に感じると思うけど、

それだけ油断できないってことだよ」


「幽だって……ああなったんだから」


目を伏せる須賀さん。


その様子を見て、どうしてみんなが

過剰に心配してきたのか納得した。


知り合いでも問答無用で殺しにきた黒塚さんを見たら、

不安になるのは当然だろう。


……僕も、ああならないようにしないと。



「まあ、今後の行動に関しては、

晶くんの監視も含めて二人一組がいいでしょうね」


「組み合わせは、携帯のないラピスさんと晶くん、

“悪魔”を持つ須賀さんと私ですかね」


「そうしないと、

お互いに連絡を取り合えなくなりますから」


「その辺はさすがに公私混同しないんだ。

安心したよ」


「さすがにそこは舐めないで下さい。

私だって、時と場合はきちんと弁えてます」


冷やかしと感心の混じった須賀さんの言葉に、

温子さんが毅然と言い返して咳払いをする。


それと同時に、

温子さんの携帯が鳴った。


全員で顔を見合わせる。


まさか、最後の生き残りからの

連絡だろうか――?


「……森本先輩の携帯からメールですね」


「聖ちゃんのっ?」


先輩の質問に頷く温子さん――

メールを開く。


瞬間、その顔が固まった。


何かあったと判断し、

脇から携帯の画面を覗き込む。



『コロシアムにて待ち受ける。

死亡者の携帯が必要ならば取りに来い』


聖先輩の携帯からの連絡だったけれど、

送り主は明らかだった。


獅堂天山――最後の怪物が、

先輩を殺してその携帯で連絡をしてきたに違いない。


「私にだけ届いたってことは、多分、

携帯に登録されてた連絡先に送ってるんだな」


「……予想できてたことだけど、

やっぱり獅堂は参加者を皆殺しにするつもりだね」


「どうせこっちは殺るつもりだったし、

望むところだろ」


「逆に、居場所が分かってありがたいね。

怪物は“悪魔”で探知できないしな」


「まあ……そうだね。

予定変更にはなっちゃうけど」


携帯を集めるのは諦めて、

武器だけ集めて回る方向ってことか。


「……直接戦うのを

避けることはできないんですか?」


「どういう意味?

獅堂を殺さないで脱出はないけど」


「いや、須賀さんたちの目的は理解してるよ。

そこは私が口を出すところじゃない」


「そうじゃなくて、相手がコロシアムにいるなら、

外から爆弾を投げ込むとかできないのかと思って」


「あんまり現実的じゃないかな。

この迷宮には地形を変えられるほどの火器はないし」


「それじゃあ、獅堂を倒せる可能性のある

大アルカナを探すとか」


「獅堂が参加者ならできたけれど、怪物役だからね。

大アルカナは効果がないよ」


「……結局、正攻法で行くしかないんですね」


肩を落とす温子さん――

その様子に、須賀さんが溜め息をつく。


「役に立ちたい気持ちは分かるけど、

もう後は、獅堂を殺すかどうかだから」


「……じゃあ、私も殺すのを手伝う」


「邪魔だから要らない。

っていうか、もうちょっと落ち着けってば」


「勘違いされると嫌だから直球で言うけど、

朝霧さんがもし銃を持ってたとして、藤崎に勝てる?」


「それは……」


「勝てないだろ? 相手はそれよりずっと強いんだよ。

朝霧さんがいたところで何にもならないんだって」


「素人の撃つ銃なんて動くまとに当たるわけないし、

逆に流れ弾が味方に当たる可能性だってある」


「獅堂が朝霧さんを狙いに行けば、

笹山くんは庇うしかなくなって人手も減る」


「みんなそれを分かってるから、

朝霧さんが働かなくても何も言わないよ」


「別に無能って言ってるわけじゃない。

朝霧さんが片山のゲームをクリアしたのは事実だしね」


「でも、今回は残念だけど役目がない。

料理に必要なのは包丁で、百科事典じゃないだろ?」


「だから、武器探しまで協力してくれればいい。

それ以上は期待してないから」


淡々と数式を並べるような須賀さんの言葉に、

温子さんが項垂れる/口ごもる。


……多少、キツいような気もするけれど、

真剣に言ってるのは聞いていれば分かる。


温子さんは頭のいい人だし、もう少し時間があれば、

きっと納得してくれるだろう。


「それじゃあ、さっきの組み合わせで武器の回収だね。

三時間探して、三時間休んで、それから挑戦かな」


「オッケー。あと、藤崎の話で思い出したんだけど、

ラピスはあいつの携帯を持っていけよ」


「それなら笹山くんと別行動できるから、

回収効率上がるだろ?」


先輩が回答の代わりに微笑。


それから、カードを調べた後に放置されていた

藤崎の携帯へと手を伸ばす。


その時――


『よくも殺しやがったな』


――そんな藤崎の声が、

後ろから聞こえてきたような気がした。



慌てて振り返ってみるも、

もちろん誰もいない。


というより、藤崎の死体は部屋の外にあるんだから、

僕の後ろにいるわけがない。


「晶くん? どうかした?」


「ああ、いや……何でもないです。

ちょっとすそが引っかかった気がして」


集まってくる視線に笑って答える。


……まあ、気のせいか。


初めて人を殺しても記憶が残っていたり、

アビスを飲んだりで、落ち着いていないんだろう。


決戦は六時間後だ。

まだ焦るな。心を静めろ。


そう心の中で呟いて、

大きく深呼吸をした。


左肩の筋肉が引きつって、

軽い痛みが走った。








「朝霧さんってさ――」


部屋を出て、武器を探すために分かれてから、

およそ十分ほど。


「やっぱり笹山くんのことが好きなの?」


ずっと黙っている温子に、

由香里が興味なさげに声をかけた。


「……いきなり何の話?」


「別に。ずっと黙ってるのも

気持ち悪いかなって思ったから」


実際、話の内容自体はどうでもよかった。


思い詰めた温子が何かをしでかすことを懸念して、

適当にコミュニケーションを取ろうと思っただけだ。


「好きなの?」


「……好きだよ。

だから、晶くんは絶対に死なせたくない」


「ふーん。やっぱりそうなんだ」


「悪い?」


「別にそんなこと思ってないよ。

逆に羨ましいくらいかな。本音を言えばね」


「……須賀さんは、

そういうのはないの?」


「ないよ。ABYSSと関わってると、

そういうのには縁がないし」


「っていうか、そもそも割くリソースがないかな。

いつ死ぬかも分からないから」


「そっちも大変そうだね」


「まあそうだね。

だから、今回は何としてでもって感じだよ」


「……例え、死ぬとしても?」


「プレイヤーってそういうもんだしね」


「……私には分からないな。

自分の命より優先する使命があるなんて」


「そんな命を賭けてまで獅堂を殺して、

須賀さんは何をしたいんだ?」


流れで飛んできたデリケートな質問に、

由香里がどう答えるか思案する。


ごまかすかな――と、目を向けた先の温子は、

どうやら興味本位ではなさそうだった。


仕方なしに、温子の事情と由香里の事情、

差し迫った現状を天秤にかけて熟考する。


「分かりやすく言うと、復讐だと思うよ」


その結果『まあいいか』と割り切って、

由香里は他人事のように本音を口にした。


自分の両親が、ABYSSの創設者であること。

母親は未だに組織のナンバー2であること。


最初は正義の組織だったABYSSが、

徐々に悪の組織に変わっていったこと。


父の感じた絶望/それ故の逃走/放浪――

そして、惨めな気持ちで迎えただろう最期。


「別に、親だって人っていうか個人なわけだし、

生き方に私が口出しする気はないんだ」


「でも……私がずっと嫌な思いをしてきた原因も、

両親にあることは間違いないんだよ」


「自分の両親の創った組織で、

色んな人が泣いたり壊れたりさ……」


「私がどういう気持ちでそれを眺めてたか、

多分、どっちも知らないんだろうな」


「もちろんお父さんも、何とか止めようとして、

必死だったんだろうけどね」


母親はどうだか知らないけど――と、

由香里が投げやりに呟く。


「……その嫌な思いの根源がABYSSだから、

潰そうとしてるってこと?」


「一番分かりやすく理由を付けると、だね。

でも多分、正確に言語化できてないと思う」


「普段、人に理由をあんまり言いたくないのも、

その辺なんだよね。自分でも整理できてなくてさ」


「私が復讐したいのは両親なのか、組織なのか。

それ以前に、私は本当に復讐したいのか」


「考えれば考えるほどぐちゃぐちゃで……

一つじゃないんだろうなってことで今は落ち着いてる」


「ただ、私の中にある理由が何だったとしても、

ABYSSを潰すことで解消されるのは疑ってないよ」


「両親とか、不幸になった人への申し訳ない気持ちとか、

色んなものの中心にABYSSがあるのは確実だから」


「……だとすると、自分が恥ずかしいな。

私ばっかり不幸になってるみたいに勘違いしてて」


「朝霧さんは百パーセント被害者なんだし、

別にそれでいいと思うけどね」


「私も始まりはそうだけど、

今の道は自分で選んだ道なんだから」


「っていうか、案外プレイヤーも悪くないよ。

鍛えて強くなる実感はあるし、目的に一直線だし」


「でも、そのために

諦めてきたものだってあるんだよね?」


「まあね。でも、私一人だけじゃないから。

ラピスだってきっとそうだと思うし」


「あと、私はパートナーもやってるから、

他のプレイヤーとも仲良くなったりするしね」


そう笑った由香里の脳裏には、

あるプレイヤーの顔が浮かんでいた。


黒塚幽――復讐を誓いプレイヤーとなった、

ひとりぼっちの少女。


彼女の兄の死は、師弟関係にあった

由香里の父に遠因があり――


それが切っ掛けで幽の家族が崩壊し、

幽はプレイヤーになった。


その一方で、由香里の父もその一件が原因で放浪し、

由香里はプレイヤーになった。


お互いが同じ事件を切っ掛けに、

プレイヤーへの道を歩むこととなったのだ。


父の失踪を調べるうちに、そんな一連の記録を知って、

由香里は彼女に親近感を覚えていた。


だから、由香里がパートナーとして

幽を担当することになった際は、奇縁を感じた。


幽は決して

優秀なプレイヤーではなかった。


最初の学園の段階で、

死にそうになった回数は実に三度。


いずれも、由香里の言うことを無視して

/あるいは忘れて、敵に突っ込んだ結果だった。


もちろん、由香里は怒った。

どうしようもないバカだと思った。


けれど――


その頭の悪い行動の裏に潜む憎しみの深さは、

似た境遇の由香里も十分に理解できていた。


だから、幽の意思をなるべく尊重した上で、

足りない部分を補う方針で動いた。


危なっかしくて目は離せなかったが、

彼女の喜んでくれる姿は、嬉しかった。


そうしているうちに、プレイヤーとしてだけでなく、

黒塚幽という個人の幸せも願うようになった。


復讐だけでいいという幽に、食事の美味さや、

人付き合いの良さを知って欲しくなった。


もっと周りに目を向ければ、

色鮮やかな世界が広がっているのだと教えたかった。


手間がかかるほど、生意気だと思う反面、

愛しい気持ちも強くなった。


それは、姉が妹に向ける感情のような

ものだったのかもしれない。


ABYSSの打倒のみが目的だった由香里の中で、

幽は、復讐と同じくらい大切なものになっていた。


由香里のABYSS打倒という目標は、

同時に幽の復讐の達成という意味も持つようになった。


だからこそ、今回の機会は、

由香里にとっても絶対に逃すわけにはいかないのだ。


「……まあ、朝霧さんには申し訳ないけど、

そのために笹山くんにも協力してもらうよ」


そんな由香里の言葉に、

温子は目を閉じ、溜め息をついた。


けれど、ダメだとは言わなかった。


その、人間らしさを保ちつつも理性的なところは、

由香里から見てとても好ましく見えた。


「こういう状況じゃなければ、

朝霧さんともう少し仲良くなりたかったかな」


「別にまだ遅くないよ。逆に、今から仲良くなって、

晶くんを諦めさせたいくらいだ」


「あはは、本当にそうなったら困るな」


本気なんだか冗談だか分からない温子に、

由香里がさらに感心を深める。


適当に済ませる予定だったコミュニケーションが、

随分と楽しいものになっていた。


陥落されるつもりはないけど、

回収までの道中は楽しめそうだ――


そうほくそ笑みながら、定時の警戒のために、

携帯の“悪魔”で周囲を探知する。


――その画面に、自分たちへと近づいてくる、

参加者の光点を発見した。


「どうかした?」


「いや……私たち以外の生き残りの参加者が、

こっちに近づいて来てるみたいだ」


「……龍一くんとか?

それとも、高槻先輩?」


「いや……多分どっちも違うな」


知ったような物言いをする由香里に、

温子が不思議な顔をする。


それに笑いかけながら、

由香里は持っていた携帯を温子へ押しつけた。


「朝霧さんは、笹山くんとラピスに連絡を取って、

“悪魔”を使って合流して」


「朝霧さんはって……須賀さんは?

二人で晶くんたちに合流すればいいだろう?」


「敵と戦うなら、晶くんや先輩と合流して、

人数を確保したほうがいいだろう?」


「いや、敵じゃないんだ」


だから行って――と、

由香里が温子の目を見つめる。


その落ち着いた様子に、

温子の口にしかけていた反論が引っ込んだ。


「……須賀さん一人で、大丈夫なんだね?」


「もちろん。だから朝霧さんは心配しないで、

笹山くんとデートしに行きなよ」


ひらひらと手を振ってやると、

温子は非難するように由香里を睨んできた。


それでも何も言わずにいると、

今度は携帯を手に、一目散に迷宮を駆けていった。


恐らく、すぐさま笹山晶に連絡をして、

こちらへ戻ってくるだろう。


その真面目さに苦笑しつつ、

由香里は銃を取り出した。


……生き残った最後の参加者が誰なのかは、

確信があった。


温子に言ったことに嘘はない。

これから会う相手は、断じて敵ではない。


だからこそ、止めるのはラピスでも晶でもなく、

自分しかないと由香里は思っていた。


だが、最後に会った様子では、

話が通じるかどうか。


「あいつは言っても聞かないんだよなぁ」


まだ痛みの残る、

思い切り蹴られたお腹をさする由香里。


あの願望が剥き出しになったような狂戦士ぶりは、

十中八九、アビスの影響だろう。


笹山晶はまだ理性はあったものの、

彼女が言葉で止まることは期待できない。


止めるなら実力しかないだろう。


ただ……ラピスですら入手困難なはずのアビスを、

一体誰から入手したのか。


もし無理矢理飲ませたやつがいるなら、

そいつのことは許せない。


けれど、恐らくは誰かからもらって、

自分の意思で飲んだんだろう。


復讐を成し遂げるために、

必要な力を得ようとして。


「……あいつは本当にバカだからなぁ」


笑えてきて――泣けてきた。


けれど、それが彼女なのだから

どうしようもない。


復讐をしなければ、

前に進めないのだから仕方ない。


そんな少女を、

どうしても止めたいと思うなら――


「……命を賭けるしかないよね、幽」


そう、曲がり角の向こうから出て来た

相方に呼びかけた。



同時に、敵を発見した幽が喜々とした表情を浮かべる

/血で黒ずんだナイフを掲げて突っ込んでくる。


その勢いを射撃で止めつつ、

由香里がダイアログを口の中に放り込んだ。


噛み締めて効果発現――

幽から距離を取りつつ、ひとまず弾倉マガジン一つを撃ち尽くす。


が、以前と比べてさらに幽の性能が上昇しているらしく、

壁どころか天井まで走りそうな脚力で全弾回避。


もはやほとんど怪物の領域――

動きが奇想天外過ぎて追従できない。


だが、最初から当たるとも予想しておらず、

即座に由香里が退避を開始。


幽に背を向け迷宮を疾走しながら、

職人芸のような手捌きで弾倉を交換する。


――そこに、血塗られた刃が降ってきた。


まさかこんなに速く追いつかれると思っておらず、

由香里が大慌てで地面を転がる。


さらに飛んでくるナイフを転げて回避

/跳ね起きつつもう一つ回避/回避――


勢い余って壁にぶつかる

/飛び幅を見誤って転倒しかける。


が、猛烈なラッシュの前には息つく暇もなく、

痛みに耐え無様に転びながらも何とか生き長らえる。


ぐちゃぐちゃの乱戦――

幽の能力が上がりすぎていて、もはや制御不能に。


それでも何とかごまかしながら、

隙間を縫って狙いを定めず引き金を絞る。


当然のように反応して飛び退く幽――

さらに生まれた隙間を使って、由香里が何とか立て直す。


「幽ぁあああっ!!」


そうして、まともに狙える状況を作って、

今度はきちんと跳ね回る幽に三連射を見舞った。


吹っ飛ぶ幽――心臓に近い位置に麻酔弾が命中し、

普通ならこれで勝ちは確定という状況。


なのに、幽は即座に跳ね起き、

狂喜に満ちた笑顔を浮かべて再び突進してきた。


それに鋭く反応した由香里が、

さらに引き金を絞る。


久し振りのダイアログは、身体能力は持て余しても、

急上昇した動体視力は違和感なく馴染んでいた。


幾つか回避はされたものの、

弾倉一つを撃ち尽くして追加で五発。


いずれも命中箇所は胴体部であり、

これで眠らないわけがない。


が――それでも倒れない。


丸沢が実弾を被弾しつつも立ち上がってきたように、

幽も機能を維持したまま由香里へと向かってくる。


これで、麻酔弾の効果がないことは確定。


あとはもう、実弾を使って、

幽を傷つけるなり殺すなりで止めるしかない。


そう思うと、躊躇が生まれた。


覚悟はできていたはずなのに、

いつもは滑らかな指先が急にぎこちなくなった。


集中力が乱れ、回避まで疎かになる。

刃が由香里の肌に赤い筋を刻んでいく。


その痛みを堪えながら、前を見た。


先にあるのは幽の笑顔。


同性の由香里でさえ綺麗だと思ったそれは、

今は腫れと血とでボロボロだった。


多くの人が見とれただろう足も今は、

鈍色の筋肉が鋼線を束ねたように盛り上がっていた。


あんなに綺麗だった幽が、

どうしようもないくらい汚れきっていた。


これが、幽の求めていた

復讐のなれの果てなのだと思うと、涙が零れた。


何てもったいないんだと思った。

まるで自分のことみたいに痛かった。


もっと違う道があったはずなのに。

幽ならもっと、幸せになれたはずなのに。


その輝かしい未来を、

幽は自らの手で捨ててしまったのだ。


それが、どうしようもなく悲しかった。


幽に気付かせてあげられなかったことが、

後悔となって由香里の頬を流れていた。


「お前も、私も、大馬鹿だよ……」


滲む視界の中で、

血塗られた幽の刃を避ける。


断腸の思いで実弾を装填する。

震える手で銃を構える。


そうして、撃った。


幽の体がもんどり打つのを眺めながら、

何度も何度も引き金を引いた。


由香里の目の前で赤い花が咲く。

大切にしたかった少女の体が斜めに傾いでいく。


終わった――


頬を濡らす雫に胸を締め付けられながら、

硝煙の臭いの向こうでふわり広がる黒髪を見る。


「……えっ?」


――だん、と床を蹴る音がして。


振り乱れた髪の奥に覗く嬌笑が、

起き上がってきた。



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