決着










温子が眼鏡の下で大きく目を見開いていた。


爽が大きく開いた口を手で覆っていた。


羽犬塚はおろおろとみんなの顔を見回し、

龍一と幽は周囲の警戒を忘れ、顔を見合わせていた。


打ち合わせにも全く出て来なかった、

完全に予定外の行動。


いや――それ以前に、佐倉那美が

こんな暴挙に出ることを誰も想像できなかった。


「みんな、動かないで」


静まったカジノエリアに、

那美の震えの混じった声が響く。


「私は本気です。葉さんが勝った瞬間に、

このまま引き金を引きます」


「もちろん、ルール違反で私は死にますけど、

葉さんも確実に殺します」


幾ら“審判”のカードに葉が守られてるといっても、

別に物理的に無敵になるわけではない。


『手を出せば他の参加者は死ぬ』という条件で、

擬似的に無敵になっているだけだ。


死を覚悟で手を出してくる参加者がいれば、

葉は為す術なく殺されるしかない。


「だから、お願いです。

負けて下さい」


静かな/一方的な宣告。


一切の余分を含まないその言葉は、

那美の本気を端的に表していた。


「何を言ってるんだ、佐倉さん!」


そんな那美に対して

真っ先に反応したのは、温子だった。


「余計なことはしなくていい!

私たちが勝ってみせるから、銃を下ろすんだ!」


「温ちゃんの言う通りだよ!

あたしたち、絶対に勝つから大丈夫だって!」


「……ううん、絶対じゃないよ。

爽ちゃんたちも、分かってるよね?」


「それは……でも……」


「温子さんも、勝ち負けは半々くらいだって、

始まる前に言ってたよね?」


「……始まる前の話だよ。

今はちゃんと必勝法を思いついた」


「それは必勝法じゃないって教えてくれたのは、

温子さんじゃない」


「ジャンケン大会の話、覚えてるでしょ?

あれと同じだよ」




「えーと、例えば、

ジャンケン大会があったとしよう」


「優勝しなければ絶対に殺されてしまう、

命のかかった大会だ」


「もし、それに参加させられていたとしたら、

佐倉さんは運に任せて手を出していくのかな?」


「ううん、まさか――」


首は振ったものの、

結局は運任せの案しか思い浮かばなかった那美。


どうすればいいのか。


訊ねると、温子はごく当然とばかりに、

こう答えたのだった。


「簡単な話だよ。

対戦相手を皆殺しにすればいい」


「だって、考えてもみなよ。

優勝しなければ、自分が死ぬんだよ?」


「死んだら何もかもお終いなんだし、

手段を選んでなんかいられないさ」




「佐倉さん……」


「ありがとう、温子さん。

私、温子さんのおかげで強くなれたよ」


那美が屈託のない笑顔を温子へと向ける。


その顔を見てしまったら、

温子はもう、何も言葉が出て来なかった。


「……撃てば死ぬのよ、那美。

ちゃんと分かってるの?」


「大丈夫、分かってるよ。

でもこうしないと、みんな死んじゃうから」


「ほんでも、佐倉さんかて

死んでいいわけないやろっ?」


「そうだよぉ!

那美ちゃんが死んじゃったら、私、やだよ……」


「……ごめんね、今川くん。ののちゃん」


必死で止めてくる仲間たちの顔を見て、

那美の心がちくりと痛む。


このゲームで――いや、それ以前から、

周囲に散々迷惑をかけてきた自覚が那美にはあった。


きっと、ほんの僅かだけ勇気を出せたのであれば、

もっと色んなことが変わっていただろう。


晶と早く和解することができていれば、

彼を傷つけずに済んだ。


片山に騙されるようなこともなくなり、

ABYSSに巻き込まずに済む人もいたはずだった。


そのことを思うといつも、那美の心は、

申し訳なさで押し潰されそうになる。


けれど、誰もそのことで

那美を責めてこようとはしなかった。


那美が突き放し/傷つけたにも関わらず、

友達はみんな受け入れてくれた。


そんな友人たちに、深い感謝と感動を覚えると共に、

『何とか報いなければ』と思った。


だから、那美は銃を握った。


そうしなければ、みんなの友達として

傍にいられないと思っていた。


死は怖かったが、既に笹山晶と深夜拝――御堂数多に

二度も殺されかけている身だ。


そして、自身の病のこともある。


死ぬ気はなくとも、

いざそれが訪れた時の覚悟はできていた。


逆に、大切な人が死ぬのを見過ごすほうが、

その先を生きていける自信がなかった。


そういった諸々が、

那美の手の震えを止める。


決死の思いで輝く瞳を、

葉の後頭部にぴたりと据える。


「私は、みんなが死ぬのは嫌なの。

だから、こうしなきゃいけないの」


「死んじゃったら、

何もかもがお終いだから」


ですよね――と、

那美が葉に向かって声を投げる。


『そうね』という短い言葉が返ってきた。


「それじゃあ今から振り向くけど、

構わない?」


「……どうぞ」


那美が銃を持つ手に力を込める。


振り返ってきた葉の顔は、

何の色も宿していなかった。


その無生物じみたポーカーフェイスで、

自分の命を狙う那美あいてをじっと見つめてくる。


「そうね。

まずは形式通りに行きましょうか」


「というわけで質問だけど、本気なの?」


「もちろん本気です」


「あなたが私を撃てば、あなたは死ぬ。

それもちゃんと知ってるのよね?」


「さっき言った通りです」


「ふーん……じゃあ、どうしようかなぁ」


葉が頬に手を当てて溜め息をつく

/そのまま目を瞑って黙考を始める。


「もし日付が変わるまで時間を稼ごうとしているなら、

今すぐ撃ちます」


「カジノエリアの暴力が解禁されたら、

数多さんにきっと邪魔されますから」


ぴくりと、葉の瞼が動いた。


「もし、数多さんに拳銃を奪わせても無駄です。

予備は幾つも用意してきてます」


「それから、数多さんに私を押さえさせるのも、

無駄に終わります」


「……どうして?」


「今川くんと黒塚さんがいますから」


龍一と幽が目を見開く。


「二人なら、

絶対に私を守ってくれるって信じてます」


「私がもし取り押さえられたとしても、

すぐに自由にしてくれるはずです」


「――だよね?」


「お……おお、そりゃもう当然ですよ。

師匠に誓って全力で守ったる」


「指一本触れさせるつもりもないから、

安心しなさい」


即座に那美の両隣へと歩み寄り、

得物を抜いて全力で警戒に当たる二人。


そんな二人に『ありがとう』と微笑んで、

那美が葉へと視線を戻した。


「そういうわけです。

今すぐに決めて下さい」


「……うーん、なるほど」


何食わぬ顔で呟いたものの――

葉の内心は、あまり穏やかではなかった。


銃を構えた腕を震えさせて、

鬼気迫った顔で葉を見つめてくる那美。


その様子と彼女の病気、これまでの言動を考えても、

要求は脅しではなく本気と見て間違いない。


率直に言って、驚きだった。


葉の見立てでは、出会った頃の那美は、

無害な人間でしかなかったはずだ。


他者を蹴落とすこともできず、

かといって自分で生きる力も持たず――


急流に浮かぶ小舟ように、他者の波涛に大きく揺られ、

迷宮にただ沈んでいく。そんな人間だった。


しかし、今現在のこの状況を見ればどうだ。


むしろ、沈没させられそうになっているのは、

葉のほうではないか。


一体どうして、

こんなことになったのだろう。


少女を侮っていたのだろうか。


それとも、単に笹山晶と仲違いする以前の少女が、

他者を蹴落とすことに躊躇のない人間だったのだろうか。


考えてみて――

葉は、どちらも違うという結論に至った。


少女を侮ったわけではなく、

昔の少女を資料から読み違えたわけでもない。


この少女が、

葉の想像以上に成長したのだ。


片山信二の儀式の夜から今に至るまでに、

命を賭けてきたことで。


あるいは、

温子や羽犬塚と行動を共にすることで。


笹山晶と、

再び仲直りをすることで。


「佐倉さんは凄いわね」


感嘆の息をつきつつ、

那美に向かって笑顔を見せる葉。


純粋な賞賛のつもりだったが、

那美はそれに首を横に振った。


「凄いのは私じゃないです。

私は、凄い友達と一緒にいるだけですから」


「その友達のために、自分が何をできるか考えたら、

こうして葉さんに負けてもらうことでした」


自分が周囲に助けられっぱなしだったことへの

引け目もあるのか――と葉は理解した。


となれば、幾ら周囲が説得したところで、

那美を止めることはできないだろう。


死を覚悟した者が利他的に行動する時ほど、

手に負えないものはない。


だが、単純に負けるのは、

納得できなかった。


「それじゃあ、

お互いの妥協点を探しましょう」


「妥協点も何もないです。

私は負けて欲しいだけですから」


「あら? 佐倉さんは別に、

私を負かすことが目的じゃないでしょう?」


「佐倉さんたち全員が

生還することが目的なんじゃないの?」


「それは……」


那美が即答できなくなったのを見て、

葉が『言わなくても分かってるよ』とばかりに頷く。


「そこを佐倉さんは妥協する気がない。

じゃあ、そこまでは私が譲ってあげる」


「その代わり、

ゲームは続けさせて欲しいの」


「つまり、ホールデムの継続を条件に、

その勝敗に関わらず全員の命と安全を保証するの」


「全員っていうのは、もちろん私も含まれるし、

ここにいない数多や笹山くんたちも、全部よ」


「こんな条件だったら、

佐倉さんも銃を下ろせるんじゃない?」


「それは……そうですけど」


「――幾ら何でも、

こっちに条件が良すぎるんじゃないか?」


横から口を挟んできた温子が、

那美の不安を代わりに口にしてくれた。


「そこまで妥協して、

わざわざホールデムを続ける意味は何だ?」


「んー……そうねぇ。

逆から説明するほうが分かりやすいかな?」


訝しがって眉を寄せる温子に、

葉がにっこりと微笑みかける。


「まず、あなたたちの命に関してだけど、

私は別にどうでもいいの」


「一位で脱出して確実に生還することが目的であって、

あなたたちからカードを奪うのはその手段でしかない」


「カードを奪った結果として、

あなたたちが条件を満たせずに死んでしまうだけ」


「ゼロサムゲームだからな。

片方に資産が寄ればもう片方は当然なくなる」


「そう。だから別に、

あなたたちを殺したいわけじゃないの」


「だから、自分の命を使ってまで、

佐倉さんの脅しに逆らう意味がないのよね」


「私を撃てば、賭けてる携帯と朝霧さんも

動かせなくなるぞーとか脅す余地はあったんだけど」


那美がもしもこの場で葉を撃てば、

田西と勝負をした時の再現となる。


つまり、あと二十二時間ほど、

携帯と温子がカジノエリアから動かせなくなる。


その間に持ち時間が切れれば、

携帯を賭けている龍一と温子の死亡は確定。


携帯が手元にある者も、新たにカードを見つけない限り、

持ち時間が切れ次第死んでいくことになっただろう。


「それを交渉の材料に使わなかった理由が、

私たちを殺すつもりがなかったから……か」


「それもあるんだけど、

一番の理由は別かな」


「どういう理由なんですか?」


その問いに、葉は困ったように微笑んで、

ポーカーテーブルに手をかけながら答えた。


「――朝霧さんたちとのゲームを、

こんな負けかたで終わらせたくなかったから」


「そんな理由で……ですか?」


「だって、久し振りに楽しかったんだもの。

本気で勝とうとしてきてくれてるし」


「まさか、あんなイカサマまで用意してくるなんて、

思ってもみなかったけどね」


「……さて、何のことやら。

爽はどういう意味か分かるか?」


「んーん、全然しらなーい」


頬を掻きしらばっくれる双子の姉妹に、

葉が本当に楽しそうに肩を揺らした。


「これで私の考えてたことは全部。

これ以上は何もなし。本当よ」


「というところで話を戻して。

――私の条件、佐倉さんは受けてくれる?」


葉が那美へと視線を戻し、

先の条件での合意を促してくる。


「あの、一つだけ。葉さんがそれでOKでも、

数多さんは従ってくれるんですか?」


「ええ。私は数多のクライアントだもの。

暗殺者は約束を違えないから大丈夫よ」


「もちろん、この契約も文書にする。

カジノエリアでの取り決めは絶対だから安心して」


ホールデムの継続を条件に、

その勝敗に関わらず全員の命と安全を保証する。


そんな好条件を断る理由など、

那美たちにあるはずがなかった。


「分かりました。それでお願いします」


那美が頷き――交渉は成立。


葉がその場で契約書をしたため、

那美と葉の双方が拇印を押した。


「那美ちゃん!」


取引が全てが終わったところで、

羽犬塚が那美へと抱き付いていった。


「えっと……どうしたの、ののちゃん?」


「那美ちゃん、ダメだよぉ!

あんなのもうしちゃダメ!」


「ののちゃん……」


「羽犬塚さんの言う通りだよ。

上手く行ったからまだいいけど、全くもう……」


本気で怒っているらしい温子に、

那美が嬉しく思いながらごめんなさいと頭を下げる。


「でも、佐倉さんって意外と無茶苦茶やるんだねー。

あたしとすっげー気ぃ合いそう!」


「ほんでも、次やる時は事前に相談してーや。

俺ら信じてくれとったんやろうけど」


「勝ったのに何でみんな文句言ってるわけ?

ちゃんと褒めてあげなさいよ」


『よくやったわよ』と幽が那美の肩を叩く。


それに、那美はありがとうと笑顔を返して、

改めて朝霧姉妹へと向き直った。


「後は二人と葉さんの勝負だよ。

ちゃんと勝てるよね?」


「……ああ。勝ってみせるよ」


「任せといてよ。

もー何も気にしないで暴れてくるから」


意気揚々と、

二人がポーカーテーブルへと戻る。


それから、身を乗り出すように葉と目を合わせ、

準備完了とばかりに頷いた。


「ああそうだ。

一つ提案があるんだけど、いい?」


「……ゲームに関することだよな? 何だ?」


「ここからはブラインドを上げたいの。

早く決着を付けないと、獅堂が来そうだから」


「ああ……確かにな」


時刻は既に、

四日目の二十三時半に近い。


あと三十分ほども経過すれば、

獅堂がこの迷宮に出てくることになるだろう。


晶たちが獅堂を仕留める手筈になっていたが、

万が一を考えれば勝負は終えておきたかった。


「分かった、それでいい。

どれくらいまで上げるんだ?」


「10倍でどう?

100‐200のノーリミットで」


「随分と大きく上げてきたけれど、

そうじゃないと終わらないか」


念のため温子が爽へと意思確認――YES。


「じゃあ決まりね。

――ディーラーさん、カラーアップをお願い」


「カラーアップ……って何ですか?」


「ブラインドが上がると、

小さなチップは使わなくなるでしょう?」


「だから、これまでのチップを集めて、

大きな数のものに両替してもらうの」


「端数は三人しかいないし、

切り上げで処理してもらいましょうか」


「なるほど。問題ない」


程なくカラーアップを終えて、

三人のチップの山が一段と低くなって戻って来た。


その新たなチップに手をかけながら、

ディーラーの配るカードを待つ三人。


もう身の安全が確保されたからか、

ギャラリーもテーブルの周囲にまで詰めてきていた。








そうしてゲームが再開――


配られたホールカードを眺めながら、

葉はこの先の戦術を考えていた。


まず、先ほどまでのレイズで下ろす戦術は、

今後通用しないはずだった。


彼女たちを確実に下ろせたのは、

命がかかった勝負であればこそ。


今後は負けても痛みがないため、

ショーダウンまで居座る可能性は十分にある。


また、ブラインドが上がったことで、

レイズで積む額もぐんと跳ね上がるだろう。


大枚が飛び交う大味な勝負になるのだから、

相手も大損を抱えて引くことは考えづらい。


相手のイカサマは、

ブラインドを上げたことで多少は牽制できる。


少なくとも、これまでのように

イカサマが有効な手札が来るまで待たれることはない。


カード運でイカサマが有効にばかり働いたら、

その時はそれまでだ。


また、長期戦になり試行回数が増えれば増えるほど、

情報の少ない葉の側としては苦しくなる。


トータルで不利は間違いない。


それでも、全ての不利を飲み込んだ上で、

相手の手を読み切って勝つ――


そんな決意を固める葉を横目に、

温子は現状の差をどう埋めるか思案していた。


チップの合計は、爽と合わせて約2500枚。

葉とは1000枚ほどの差がある。


ブラインドが上がったため、勝てば一瞬で埋まるが、

負ければ即座に温子らが消し飛ぶ状況でもあった。


また、同じ理由で

都合のいい状況を待つわけにはいかない。


プリフロップ即下りでも、

ブラインドだけで爽と合わせて一周600枚。


負けることも考えれば、

勝たないままなら二周も持たないだろう。


となれば、

必然的に挑むのは短期決戦だ。


イカサマは当然使っていくが、

自分たちのカードだけを気にしていては負ける。


これまで以上に、葉が何を持っているのか、

きちんと予想しなければならない。


身の安全が保証されたとはいえ、

負ける気はさらさらなかった。


手を抜くのは葉に失礼というのもあったが、

それ以上に温子が勝ちたかったからだ。


そしてそれは、

爽も同じ気持ちだった。


だからこそ、二人は躊躇なく、

このゲームでもイカサマで情報を共有した。


温子がハートのA、クラブの9。

爽がクラブの6、ダイヤの9。


爽は勝負にならないカードだったが、

温子はガチガチの勝負手だ。


葉のレイズに対して、

温子の選択も当然レイズ。


お互いが400枚を積んで、

フロップへ向かう。


出て来たコミュニティカードは、

クラブの10、スペードの10、ハートの10。


いきなり出て来たスリーオブアカインドに、

周囲が色めき立つ。


そんな中で、アクションを控えた二人が、

お互いの顔を見やる。


この状況は、ターン/リバーフェイズにもよるが、

普通は役以外のカードの強さキッカーでの勝負となる。


温子はAを所持しているため、

キッカー勝負になれば圧倒的に有利で間違いない。


そのため、ここでの温子の読みは、

葉がワンペアを持っているか否かの一点のみ。


そのワンペアとなる確率も6%であり、

温子のAはほぼ確実に勝てるカードだった。


だが――誰が想像できようか。

葉が10の最後の一枚を持っていると。


彼女のホールカードは、クラブのK、ダイヤの10。

合わせて成立する10のフォーオブアカインド。


出現率0.168%という、

まずお目にかかれない役が彼女の手の中にあった。


これより上の役は、ストレートフラッシュと、

ロイヤルフラッシュの二つのみ。


それらの役ができる確率は、

合計でも0.0342%しかない。


そのストレートフラッシュに関しても、

温子には成立のチャンスすら残されていなかった。


つまり、この時点で既に、

温子の負けは確定していた。


このまま突っ込んでいけば、

大火傷を負うことになる。


当然、温子はそれを知らない。

それがポーカーだからだ。


唯一の助かるチャンスとして、

推測材料となる対戦相手の挙動があるのだが――


「レイズよ。200枚」


この歴戦のクイーンは、

温子に対して何一つとしてヒントを出さなかった。


レイズも/表情も/視線も/仕草も、

何もかもがいつも通りのまま。


恐ろしいまでの隠蔽具合――

まるきり都市伝説たるABYSSのそれ。


相手の全てを奪い尽くさんと、

伏して飛び込んでくるのをじっと待つ。


その女が待ち受けている場所へ、

温子がずるずると引き込まれる。


勝利を確信してたまま、

敗北が確定している沼へと深入りしていく。


そうして――


「オールインだ」


ついには、

全てのチップを自分の目の前へと差し出した。


「じゃあコールで」


淡々と受け入れる女。


その顔は、全てを奪うことが決まってなお、

仮面を被っているかのように変化することはなかった。


彼女の表情が変わったのは、

ショーダウンで自身のカードをめくってから。


ポーカーテーブルに突っ伏すように項垂れる温子を、

晴れ晴れとした顔で見下ろしながらだった。


「惜しかったわね、朝霧さん」


温子のものだったチップを全て手繰り寄せて、

女が敗者に賞賛の言葉をかける。


勝利は多分に運が絡んでいたが、

それもまた勝負というもの。


笑顔の葉と下を向いた温子という結果が、

この時の全てだった。


そのことをようやく受け入れられたのか、

温子が顔を上げてゆっくりと立ち上がる。


「温ちゃん……」


「……やられたよ。あそこで10を持ってくる引きにも、

それを全然悟らせない立ち回りにも」


「でも、まだ私たちが負けたわけじゃない。

特にうちの爽は手強いぞ?」


「そうね、期待してるわ」


本当に期待をしていそうな葉の無邪気な顔に、

温子が引きつった笑みを返す。


それでも、立つ鳥跡を濁さずとばかりに、

潔くテーブルへと背を向けて――


「はーい、ちょっと待ったー」


その手を、爽にがっちりと掴まれた。


「何で温ちゃんがやめることになってんの?

勝手に二人で決めないでよねー」


「何でって……チップがなくなったのに、

席に着いてるわけにはいかないだろ」


「あたしのチップがあるじゃん。

ほら、半分あげるから座んなよ」


「いや、座れって言われても……」


「一度チップがなくなったら席に着けないなんて、

そんなルール決めてなかったでしょ?」


「だから、別にもっかい温ちゃんが座ったって、

誰にも何も文句なんて言えないんだよ」


「だよねっ、ディーラーさん?」


その問いに、ディーラーはおかしそうに肩を揺らして、

ゆっくりと首を縦に振った。


「ほら、全然オッケー。

だから座んなってば温ちゃん。ほら早く」


温子の座っていた椅子をべちべち叩いて、

爽が着席を促す。


「ったく、お前ってやつは何でこう、

おかしなことを考えるのかな……」


「そりゃもー、

温ちゃんの妹だからっしょ」


「……そうだな。

私の妹だったら変なことを思いついて当然だ」


自信満々に言う妹に苦笑を返して、

温子は観念して席に戻った。


それから、押しつけられたチップを手に、

再び葉を鋭く睨み付けた。


「というわけで、恥ずかしながらもう一度、

敗者復活戦をさせてもらおうか」


「……困ったわねぇ」


それは、葉の本音だった。


温子らのイカサマは人数依存。

人が減れば当然、使えなくなる。


それ故に、勝利は確実と喜んでいたのだが、

まさかまた舞い戻ってくるとは。


それでも、温子らのチップ数は、

爽を連れてきた開始時点の1500枚をすら割った。


あと一撃。


あと一撃を加えることさえできれば、

まず間違いなく勝利できる。


しかし――その一撃が遠い。


「はいレイズー。

っていうかオールインね」


どかどかとチップを積んでくる爽に、

撤退を余儀なくされる。


「あ、これは無理だな。フォールドで」


無理に突っ込むことをやめた温子を、

削りきれずに取り逃がす。


そして、葉が苦しい時を目敏く見極めてきては、

容赦なく踏み込んでくる。


「ここはレイズだな。200枚」


「じゃーこっちもレイズいきまっす!

400億枚をどどーん!」


「……フォールドね」


情報量の差で負けている上に、

明らかに成長してきている二人。


いや、葉に慣れて来ているというべきか。


可能性の塊のようなこの姉妹が、

イカサマと成長を武器に葉へと立ち向かってくる。


その勢いに押し込まれつつ、

しかし葉も実力と経験で踏み止まり――


勝ち負けを繰り返した末に、

チップは三人とも同程度というラインで均衡していた。


そうしているうちに、

時刻は獅堂天山が降臨する零時のすぐ前に。


次の一戦が終わる頃には、

日付が変わっているだろう。


早く決着を付けなければならない。


そんな葉の願いを神様が聞き遂げたのか、

この土壇場でいい手が入ってきた。


もちろん、

葉はその喜びをおくびにも出さない。


無表情でいつも通りに、

爽と温子の具合を窺うべく目を向ける。


表情を敢えて消すような硬い顔。


どうやら、爽と温子もまた、

いい手が入っているようだった。


そんな二人がイカサマで情報を共有した後に、

プリフロップのアクションが始まる。


UTGの葉がまずはレイズを選択。

ブラインド込みで300枚のチップを積み上げる。


温子がすかさずレイズ。

さらには爽もレイズを宣言。


プリフロップから火が出るような殴り合い――

あっという間に500枚のチップがそれぞれの前に。


そうしてフロップに入り、

コミュニティカードが開示される。


ハートの2、ダイヤの10、ダイヤのQ。


それらのカードを見ても、

三人の勢いは衰えない。


「はい、ベットね。200枚」


「こっちもレイズ。600枚」


「んじゃあたしもレイズで。1000枚」


示し合わせたように連なるレイズの嵐に、

ギャラリーが困惑を浮かべる。


さすがに次順の葉/温子共にコールを選択したが、

これでそれぞれの賭けた額は1500枚ずつ。


爽と温子は残り900枚強、

葉が何とか1000枚を残す程度だ。


各々どんなカードを持っているのかは分からないが、

これが最後だということは全員が肌で感じていた。


そして、リバーフェイズ――


出て来た新たなコミュニティカードは、

クラブの7。


戦況に影響しないと思われるカードの出現。


しかし、それでもなお、

葉は果敢にチップを積んでいく。


勝利への疑いなど微塵も見えないその賭け方に、

温子と爽が不安に揺らぐ。


これで本当に勝てるのか。


今からでも引いて硬く立ち回れば、

別な機会で勝ちが見えるのではないか――


「……レイズだ!」


そんな敗北の恐怖を、

温子が思考を止めて飲み干した。


それは見る人が見れば、

無謀にも見えただろう。


温子自身でも、後になって振り返れば、

あれは無謀だったと評するかもしれない。


だが、今この瞬間において

彼女のそれは勇気以外の何者でもなかった。


人事は全て尽くした。

後は、天命を待つだけ。


そのために勝負から逃げず踏み止まることを、

勇気以外の何と言えようか?


「んじゃ、あたしもコールで!」


そんな姉と同様に、

爽もこの場に留まることを選択していく。


チーム全体で勝つことだけを考えるのであれば、

どちらかを保険として残しておくのが正しい。


爽がそれを選ばなかった理由は、ただ一つ。


久し振りに心の底から楽しいと思えるゲームで、

姉に/葉に勝ちたかったからだ。


そう。三人とも勝ちたかった。

負けたくなかった。


もはや、全員が余興だということも忘れ、

とにかく相手に勝つためにゲームに興じていた。


意地の張り合いも同然の勝負――

それが帰結する場所は、ホールデムでは一つしかない。


「オールインね」


「こっちもだ。受けて立とう」


「んじゃ、あたしもまーぜてっ!」


三人が共に不退転の意思を固め、

各々がオールインを敢行するに至った。


「それじゃあ、一人ずつ

カードを公開していきましょうか」


「あ、ちょい待って下さい。

三人同時に行きませんか?」


「あら、どうして?」


「だって、そっちのが面白いじゃないですか。

最後のリバーでのカード公開もあるし」


「……爽らしいな。

まあ、私は別にいいけれど」


「私もそれでいいわ。

じゃあ、三人でせーので行きましょう」


三人で目を合わせ/タイミングを計り、

せーのでホールカードを表にする。


温子のカードは、ダイヤの10、ダイヤのJ。

爽のカードは、ハートのQ、クラブのJ。


そして、葉のカードは――


「スペードのAと、ハートのK……?」


ホールカードの質としては一番上ながら、

三人の中で唯一、葉だけが役がなかった。


爽と温子に手が入っていることは明らかだったのに、

何故、オールインまで突っ張ったのか。


「まさか、時間がないからって、

勝負を捨てて来たんじゃないだろうな?」


咎めるように睨む温子に、

葉は心外だとばかりに肩を竦めた。


「もちろん、勝てる自信があったから、

オールインまで引っ張ったのよ」


「でも、AかKかJが来ないと、

勝ち目はないんじゃ……」


AKJは一枚も見えていなかったが、

勝率は46分の10――約22%。


これで勝負をするというには、

些か分が悪すぎるのではないか。


「昔から絶対に来るって信じてるの。

特にJに関してはね」


「でも、Jは二人の手の中にあったみたいね。

私に手を貸してくれてもいいのになぁ」


「……イカサマでもしてたのか?」


発言の意味が分からずに、

温子と爽が首を傾げる。


そんな二人に、

葉はただ、苦笑いを浮かべた。


そうして、規定通りに

最後のコミュニティカードを開示。


「……はぁ。負けちゃったかぁ」


出て来たカードは、スペードの4。


これにより、長かったホールデム勝負は、

志徳院葉の敗北によって幕を閉じた――






「……そういえば、最後に100枚くらい

チップが残ってたのはいいんですか?」


「そのチップがあったとしても、

どうしようもないもの」


「だから、勝負はあなたたちの勝ちよ。

おめでとう」


ゲームの清算を終え――


預けていたものが全部戻って来たところで、

葉が携帯をそのまま温子らへと差し出した。



それを受け取った温子が、中身を確かめた後で、

改めて葉へと目を向けた。


「そういえば、聞きたいことがあるんだが。

御堂数多はどこにやったんだ?」


「佐倉さんが銃口を向けても出て来ないってことは、

違う場所にいるんだろう?」


「ええ、そうね。

ちょっと彼にはおつかいを頼んでるから」


おつかいという言葉が持つ多彩な意味に、

温子が眉をひそめる。


葉本人の身を守る以上に重要な仕事が、

果たして他にあるのだろうか。


「じゃあクイズです。朝霧さんが全員を助けた上で、

ラビリンスゲームで一位を取る方法は何でしょう?」


「……葉にホールデム勝負で勝つことと、

獅堂天山を倒すことだが?」


前者は脱出に十分な小アルカナの確保であり、

後者は一位を取るために必要なポイント確保だ。


カジノエリアに来る前に確認した事項だし、

今さら問われるまでもない。


「ええ、そうね。朝霧さんの立場で考えると、

これってものすごーく難易度が高いことだと思うの」


「私はそもそもホールデムで負けると思ってなかったし、

獅堂天山に勝てる戦力があるとも思えなかったし」


「でも、朝霧さんが妹さんを連れてきたみたいに、

向こうにももう一人、御堂の人間が入ったのよね」


「……何が言いたい?」


「そんな動きを見たら、何も起こらないとは思うけど、

保険はかけておきたいと思うじゃない?」


葉がいたずらっぽい笑顔を浮かべて、

温子らの顔をぐるりと見回す。


「数多はね、今、

私が昔に依頼した仕事を完遂しに行ってるの」


「何のお仕事なのぉ?」


つぶらな瞳をまん丸にして、

葉を見上げる羽犬塚。


その可愛らしい顔に目を細めてから、葉は、

秘密を打ち明けるかのようにもったい付けて呟いた。


「数多へのオーダーはね――」









――その瞬間を待っていた人がいたことに、

突撃の直前でようやく気付いた。


どこから現れたのかは分からない。

最初から傍にいたのかもしれない。


ただ確実に分かるのは、

死神が出てくる条件が整ったということ。


そう――


この人は、事が終わって気が緩んだ人間を、

後ろから刺してくる人だった。


「かっ……!?」


目を見開く獅堂。


暗く濁った眼球に映るのは、

ABYSSの仮面と血塗れのククリナイフ。


その突然の出来事に、

獅堂は何か言おうと口を開く。


けれど、開いた口からは、

何も音が出てくることはなかった。


もう一度、獅堂の顎の下を走ったナイフが、

ばちんと肉を叩く音を立てて首を吹っ飛ばした。


魂を失った傷だらけの巨体が、

首の後を追うようにして傾ぎ倒れた。


僅か数秒の間に遂行された、

突然の凶行――


「うそ……あの獅堂が、死んだ……?」


獅堂の死体を、

先輩が呆然と見下ろす。


そんな先輩と兄さんの間に立って、

ミコが鋭い目をさらに尖らせる。


「数多……何でお前がここにいるっ!?」


その問いに、兄さん――御堂数多は、

うっそりと幽鬼のように振り返ってきた。


「獅堂天山は俺のターゲットだった。

何年も前からな」


「ずっと機会を窺ってき中で、

今日が殺れるチャンスだったから殺っただけだ」


「死神が、獅堂を狙ってた……?

嘘でしょ?」


「獅堂も兄さんも同じABYSSだろう?

なのに、なんで……」


「暗殺者が誰を殺すかは依頼主が決める。

例え身内だろうと関係ない」


兄さんが僕を見下ろしてくる

/血塗れのナイフをげて一歩踏み出してくる。


それに、先輩とミコが素早く反応した。


「晶くんは絶対に殺させない。

それ以上近づいて来るなら、覚悟しなよ」


「お前が何を考えてるのかは知らないけど、

晶を殺そうとするならボクの敵だ」


僕の前に立って、

敵意も顕わに兄さんを睨む二人。


傷んだ体が疼いてくるような張り詰めた空気が、

彼我の間に漂う。


けれど、直接ぶつかるようなことはなく、

兄さんは鬱陶しそうに視線を逸らした。


「さっき、連絡があった」


「連絡……?」


「笹山晶の命を保証しろという話だ。

カジノエリアでそういう契約をしたらしい」


「っていうことは、

もしかして温子さんたちが!?」


ああそうだ――と兄さんの頷き。


……そうか。

温子さんたちは上手くやったのか。


命の保証まで契約したってことは、

全員の脱出は確約されたんだな。


よかった……。


「ちょっと質問なんだけど。

獅堂はどっちが倒したことになるの?」


「その結果次第で、

一位を誰が取るかが変わってくるよね?」


「恐らくは協力して倒したという形になる。

どういう振り分けになるかは不明だ」


っていうことは、一位で脱出したのが誰なのかは、

まだ分からないってことか。


まあ、契約まで勝ち取ってるなら、

さすがに殺されることはないだろう。


後は、みんなと合流して、

大小のアルカナを使って脱出するだけ。


でも――その前に一つ、

聞いておきたいことがある。


「御堂の襲撃を手引きしたのは、

兄さんなの?」


「……ああ」


兄さんは、うっそりと首を縦に振った。


予想はしていたけれど……

やっぱりそうだったのか。


「おい、ちょっと待て!

数多が手引きしたってどういうことだ!?」


「……御堂の住処って、厳重に隠してるでしょ?

普通は余所に所在が漏れたりしないんだ」


「だから、どうして余所の人間が

大挙して攻めてきたのか気になってたんだ」


「身内の人間が手引きしない限り、

あんなことは起こり得ないのにって」


「……なるほどな。

それなら確かに一番怪しいのは数多だ」


「それに、さっきの兄さんの言葉を聞いて、

きっとそうなんじゃないかなって」


“暗殺者が誰を殺すかは依頼主が決める。

例え身内だろうと関係ない――”


一番の障壁になる身内殺しができるなら、

里に人を誘導するくらいは簡単だろう。


……襲撃隊の中に兄さんがいたとは、

さすがに思いたくない。


「俺を恨むか?」


「……そんなことのために聞いたんじゃないよ。

ただ聞いておきたかっただけ」


「自分の家が滅ぼされた原因を知らないなんて、

やっぱり嫌だから」


「……」


『そうか』という兄さんの呟き。


それを踏み潰すように、

ミコが大きな音を立てて右足を前に出した。


それから、

兄さんを冷たい瞳で睨み付ける。


「ボクの質問にも答えろ。

ボクは晶と違って納得してない」


「返答次第では殺す」


「無理だ。やめておけ」


兄さんの即答に、

ミコが『黙れ!』と短く叫んだ。


「答えろ。どうして家を裏切った?」


「……御堂が琴子を殺したからだ」


「は? 仇討ちのつもりか?

琴子ちゃんが死んだのは……」


「……琴子ちゃんが死んだのは、

事故だったんだぞ」


「ミコ……」


歯を噛み締め、

堪えるようにして俯くミコ。


そんなミコに、

兄さんは平坦な声で『ああ』と呟いた。


「そうだな、事故だった。

親父から聞いた」


「だったらどうして!?」


「目的が必要だったからだ」


要領を得ない兄さんの返事に、

ミコが眉間に深い皺を刻む。


そんなミコを前にしながら、

兄さんは遠くを見るようにして空を仰いだ。


「俺の人生で、俺の居場所は、

どこにもなかった」


「俺は使い捨ての道具で、

置き場所は使う奴が決めただけだ」


「俺を必要とする奴は、みんな、

俺の機能にしか興味がなかった」


薄汚れたコンクリートの天井を見上げながら、

深く息をつく兄さん。


……そういえば、兄さんは、

父さんが余所から連れてきた養子だったっけ。


うちに来る前にしていたことは、

確か、どこかの戦場の少年兵。


当時のことは何も話してくれなかったけれど、

きっと、口にしたくないような生活だったんだろう。


「そんな俺に、

居場所を与えてくれたのが琴子だ」


「あいつは俺を負かすたびに、

何度でも来いと言ってくれた」


「俺に晶の面倒を看るように言ってくれたし、

絵を教えてくれたりもした」


「琴子だけが、俺の機能に見向きもしないで、

違うことをくれた」


「琴子の傍にいる時だけは、

俺が、俺でいられた」


「兄さん……」


その気持ちは、よく分かる。


僕も、御堂を失ってからしばらくの間は、

ずっと街を彷徨っていた。


那美ちゃんに出会わなければ、

きっと今もそうしていたかもしれない。


そして……何でもいいからやることを探して、

その善悪を問わずにやっていた可能性はある。


目的が必要っていうのは、

そういうことだ。


それがないと、何で心の隙間を埋めていいのか、

分からなかっただろうから。


「……好きだったのか、琴子ちゃんが?」


「居場所だ」


「だが……それも、もうない。

御堂の家ごとなくなった」


兄さんが天井を見上げていた首を戻し、

僕たちのほうへ目を向けてくる。


その顔を隠す仮面の奥には、

まるで何もないかのように、闇が詰まっていた。


きっと、この人はもう、

手元の目的を全部消化してしまったんだろう。


「葉の依頼を完遂して……

次はどうするの?」


「どうしても目的が欲しいなら、

僕のところに来てもいいよ」


「……お前に復讐するつもりはない」


「弟の人生を台無しにしてまで

復讐を求める姉は、いるはずがないらしいからな」


「……そういう意味じゃないんだけれどね」


単純に、過去は過去として受け止めた上で、

僕と一緒に住もうって言ったつもりだった。


でも……この人が僕の提案に

知らない振りをするっていうなら、仕方ない。


僕と兄さんは、これからずっと、

違う道を歩んでいくんだろう。


恐らくは、一生。


「なあ、晶」


それを向こうも分かっているのか、

珍しく兄さんから質問が飛んできた。


「お前は、俺に復讐するか?」


「しないよ。するわけない」


即答すると、

兄さんは『そうか』と呟いた。


僕は『そうだよ』と返した。


会話はそれきり。


兄さんは、何かを噛み締めるように俯いて、

僕らに背を向けて歩き出した。


「さようなら、兄さん……」


答えは返ってこなかった。


その姿は、あっという間に闇に溶けて、

どこにも見えなくなった――





「――たった今、全参加者が死亡、

もしくは脱出条件を達成しました」


「ただいまをもって、

ラビリンスゲームは終了となります」


「五日間に渡る長い戦い、

皆様、大変お疲れさまでございました」


「それでは、これより、

死亡者と脱出成功者の名前を発表いたします」


「まずは死亡者です。明夜正吉、芳賀鉄男、田西成輝、

藤崎朋久、高槻良子、立神雲雀」


「続いて、脱出成功者です。森本聖、須賀由香里、

羽犬塚愛美、佐倉那美、朝霧温子、黒塚幽――」


「今川龍一、笹山晶、志徳院葉、深夜拝。

以上となっております」


「それでは、最後に、

最も優秀な成績を収めた方の発表です」


「栄えある第一位を獲得した、

褒賞を手にする方の名前は――」



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