善悪の彼岸








薄暗い迷宮の中に、足音が響く。


頼りなく瞬く明かりに浮かされた影が、

湿った床と壁沿いにのっぺりと伸びていく。


黴と埃の臭いのする冷たい空気を吸い込むと、

体が刃のように鋭く尖ったような気がした。


『準備万端だね』と囁いてくる声を無視して、

甘い香りの漏れてくる扉を開く。


――死と苦しみに満ちた地の底を地獄と呼ぶのなら、

ここがまさにそれだった。


散らばった肉片/死の芳香/赤黒い染み

/鮮烈な破壊の跡――目を覆うような惨劇の現場。


ここで何があったかは明白であり、

あれやそれが誰だということも既に知っている。


けれど、それに心を乱されたり、

悲しむようなことはなかった。


ただ、その光景の中心に立つ悪鬼を、

いかにして仕留めるかだけを考えていた。



「ようやく来たか、ラピス」


巌のような体が揺れて、

獅堂がくつくつという笑いながら振り返る。


が――その暗い瞳と僕の目が合った途端、

男の顔があからさまに曇った。


「……そんなものを連れてきて

どうするつもりだ?」


「もちろん、勝つつもりだよ」


男の眉間に深い皺が刻まれる。


「……随分と舐められたものだ。

それとも、殺されないと高を括ったか」


「う――」


呻いたラピスの視線の先で、

男の筋肉がめりめりと音を立てて隆起していく。


その怒りの発露は、絶望的な“判定”の音を持って、

僕の頭蓋の内側を突き刺してきた。


改めて感じる。


こいつの生物としての規格は、

僕たちとは明らかに別物だ。


僕を連れて来たラピスに獅堂が怒りを感じるのも、

当然のことだった。


僕じゃ、こいつを殺すことはできない。


――今はまだ。


「獅堂天山」


僕如きに名前を口にされたことが不愉快なのか、

獅堂が眼球だけを動かして睨み付けてくる。


それに気後れしないよう足に力を込めて、

真っ直ぐに獅堂を睨み返した。


「お前は、御堂刀を殺したのか?」


「何を言ってくるかと思えば……

殺したが、なんだ?」


「いや……やっぱりそうだったかと思っただけだ」


黒塚さんに鬼塚の事情を訊ねに行った際、

僕の経歴が真っ白だったことは聞いていた。


どうして父さんがそれを隠蔽しなかったのか、

ずっと疑問だったけれど……。


僕の経歴を弄る前に、ABYSSの前代表に報復して、

その後に獅堂に殺されてしまったんだろう。


暗殺においてタイミングは極めて重要な要素だから、

報復を急がなきゃいけない理由があったに違いない。


「父親の仇討ちでもしようと思ったか?」


「……別にそんなんじゃない」


「だろうな。お前は御堂刀にも遠く及ばない。

返り討ちに遭うのが関の山だ」


「御堂刀は強かった。

俺に傷を残してくれた優秀な戦士だが……」


「どうやら、後継者には恵まれなかったようだな。

最後の御堂がこの出来損ないでは、奴も浮かばれまい」


視線に軽蔑を滲ませて、

獅堂が目を細める。


出来損ない……か。

何回言われてきた言葉だろうな。


まあ、獅堂の目に映っているのが

公園でやり合った時の僕なら、間違っていない。


御堂の記憶を忘れてしまっていた頃は、

家族からも同じように出来損ないと言われて来た。


でも――


「御堂刀のためにも、

この出来損ないは俺が処分してやる」


今はもう、出来損ないじゃない。


「……お前は確か、

“逃れ得ぬ運命”と戦いたがっていたな?」


こちらに斬りかかってこようとしていた

獅堂の足が、ぴたりと止まる。


暗い瞳がじろりと僕の目を見据えてくる。


「命乞いの嘘……ではないな。

それともまさか、ラピスとは言わんよな?」


「……私だって、呼ばれたくて

そう呼ばれてたわけじゃないんだけど」


「安心しろよ。

今度はちゃんと思い出した」


そう、思い出した。


御堂の積み上げてきた人殺しの記憶も、

僕の封じられていた記憶も、何もかも思い出した。


後は、僕の今ある全てを使って、

扉を開くだけだ。


「今、教えてやる」


アビスの最後の一錠を噛み砕き、舌の上で溶かす

/無味の液体を飲み下す。


途端に溢れ出す深淵。


同時に、もう引き返せない場所に

足を踏み込んだ感覚があった。


けれど、一人じゃない。

僕の後ろには、みんなが付いている。


那美ちゃんも、龍一も、聖先輩も、羽犬塚さんも、

須賀さんも、藤崎も、琴子姉さんも、母さんたちも。


これまで吸い上げてきた死が、

一斉に声を上げ始める。


それに呼応して、胸の奥のざわつきが、

自然と喉元を昇ってくる。


誘われるがままに喉を開いた。

そして僕も、一緒に声を出した。


絶叫や歌、ささやき、泣き声、言葉遊びのような、

多種多様な声の中に自分も溶け込んでいく。


幼い頃の自分がいつも感じていた

『あの中に混ざりたい』という思いが叶う。


渦巻く声音――出鱈目な旋律/ばらばらの律動

/不安定な拍子とテンポ/耳をつんざく不協和音。


まさに混沌そのもの。

渦の中にいるだけで気が狂いそうになる。


けれど、その中に突如として秩序が生まれ、

混沌が整然へと組み替えられ始めた。


出鱈目だった旋律は退廃的な色を持ち、

ばらばらだった律動は厳かな落ち着きを得て。


思いのまま口走っていた呪いに歌詞が生まれ、

不協和音が協和音へと変わっていく。


そうして、みんなの声が束ねられて――

やがて一つの歌になった。


破滅の願いを込めた滅びの歌。

吸い上げた死が織り成す終末への共鳴リヴァケイル


さあ、声を上げろ。

高らかに歌え。


絶対零度の瞳の中に灼熱の殺意を秘めて、

滅すべき標的を血眼で見据えろ。


“判定”は相変わらず殺害不可能。

けれど、アビスで差は縮まった。


この差の“判定”ならば、覆した記録は過去にもある。

臆する必要はどこにもない。


何より、御堂晶は、

人を殺すために生まれた装置だ。


その機能だけに絞って言えば、

僕に敵う奴なんているわけがない。


「さあ、喜べよ獅堂天山」


お前が聞きたがっていた――

琴子姉さんを殺して奪い取った僕の称号だ。


「――僕がお前の、逃れ得ぬ運命だ」


ぎぃんと、刃の弾ける音が響いた。


飛び散った火花の向こうに見える獅堂の驚愕――

その口が何かを言う前にさらに跳んだ。


血肉の染み込んだ砂を巻き上げ、

獅堂の裏へ回る/獅堂の背中へ刃を突き込む。


が、鋭く反応する獅堂――

その場から即座に飛び退き射程外に。


巨体にも関わらず凄まじい反応速度/瞬発力。

そして何より、呆れるほどの適応力。


奇襲に驚きはしても、

迷わずに最善の対応をしてのけた。


納得――これがラピスの言っていた、

傷で遺伝した耐性というやつか。


もっとも、だからといって、

奇襲が効いていないわけじゃない。


奴の対応が一手遅れているうちに、

素早く距離を詰める/死角へと回り込む。


そして、今度は獅堂が反応することを見越した上で、

さらに一歩を詰めた――斬った。


「……!?」


首を庇った獅堂の腕に、

一文字の傷が走り鮮血が飛び散る。


が、想像以上に浅い。

皮膚より僅かに深くしかナイフが通らなかった。


改めて鉱石じみた肉体の強度と耐性を実感――

しているところで、獅堂の顔が歓喜に歪むのを見た。


「素晴らしい……」


獅堂の瞳に悪魔めいた輝きが灯る。


こちらの放った攻撃を往なしながら、

筋肉を隆起させ殺意を剥き出しにしていく。


危機感知による凄まじい警鐘――

まるで初めて“判定”を聞いた時のよう。


凄まじい頭痛と吐き気が込み上げてくるものの、

感知を閉ざすわけにもいかず、苦痛に耐えることを選択。


早く体が慣れてくれることを祈りながら、

獅堂をなます切りにするべく刃の雨を降らせる。


その全てを、

獅堂の鋼と化した腕が防いできた。


正確には腕に細かな傷は幾つも走ったが、

素肌で草藪を走るよりも遥かに浅く血すら出ない。


むしろ、ナイフを握る手に伝わる感覚からすると、

こちらのほうが刃毀れしかねない。


信じられない硬さ――

ますますもって化け物だと認識。


斬撃では場所を選ばずというわけにはいかない。

こいつに傷を付けるには、刺突だ。


ならば――と試す前に、

獅堂の振り抜いた大剣を回避した。


烈風を伴って飛んできたその一撃必殺が、

奇襲で得ていた有利の消失を告げる。


一方的な展開はここまで。

後はもう、文字通りの殺し合いだ。


後ろへと跳ぶ/着地と同時に直角に跳ねる

/前方へ再び距離を詰めて首を狙う。


それにすぐさま反応した獅堂が、

走り出しながらこちらの進路へ剣を突き出してくる。


その動きには体を捻って対応――

蛇が如く剣に絡みつくようにして獅堂へ迫る。


が、強烈な“声”を聞き取って、

現状のプランを迷わず破棄。


必死に地面に伏せたところで、

獅堂の大剣が直上の空間を薙ぎ払った。


その回避に安堵せずに跳ね起きる

/再び獅堂の死角を目指して足を動かす。


それを相手も分かっているのか、

こちらとほとんど遜色ない速度で移動を再開。


お互いで駆け回りながら牽制を振り、

コロシアムの中で火花を散らす。


見る見る削れていく刃と体力。

それでも動かなければと歯を食いしばる。


舞い上がる砂を掻き分けるような斬撃の応酬――

繰り返される突撃と離脱と迂回。


四肢を使って地面と壁を噛み、

相手が二回動く間にこちらは三度四度と跳ね回る。


その間に横たわる幾つもの駆け引き――

フェイント/攻撃の誘い/不意の突撃/エトセトラ。


危機感知で見破れるものとそうでないものがあり、

隙を見ても迂闊に飛び込むことができない。


逆に相手は、こちらのそういった動きを

一つ一つ丁寧に咎めてくる。


ラピスの暗器が通用しない理由を理解――


恐らく、この男の戦闘経験は、

僕やラピスでは及びも付かないほど膨大だ。


傷の遺伝や恵まれた肉体はもちろんあるけれど、

例えそれがなくても、獅堂天山は――強い。


結局、決め手がないまま、

さらに消耗が続く。


地面を蹴るたび体が燃えるような熱を帯び、

心臓が口から飛び出してきそうなほど暴れ回る。


それだけ必死に動いても、

獅堂は難なく僕に付いてくる。


どれだけ崩そうとしても崩れる気配はなし。

負っているのも後にも残らないような傷ばかり。


どうしたものか――


そう思っていたところで、

ラピスの援護が横から飛んできた。


どこに隠し持っていたのかも分からない、

飛び道具と中距離用の暗器の雨あられ。


それらに迷わず大剣を振るう獅堂――

大半を叩き落とす/撃ち漏らしを素早く回避する。


事前に聞いていた透明な針も含めて、

射出された全ての暗器が無に。


けれど、おかげで

僕が侵入する隙間が生まれた。


大剣が再始動する前にナイフを逆手に持ち替え、

急所を穿つべく獅堂の足下へ滑り込む。


そして、制動の際の旋回を利用して、

勢いをナイフに乗せ――


――そこに、獅堂の掌が伸びてきた。


音なのか物理的衝撃なのかも定かでない

危機感知の絶叫。


けれど、今さら引くわけにも行かず、

“声”の導きに任せてナイフを突き出す。


どこかの肉を突き抜ける感触――

けれど、獅堂の腕は止まらない。


ぶちり、という音と共に、

急激に体の力が抜けていく。


それでも、何とかして続く大剣を躱し、

地を這って離脱――


それと同時に、ラピスが火炎放射を起動し、

獅堂に向かって思い切り炎を浴びせかけた。


液体燃料の臭いが一気に鼻先に広がる中、

獅堂が低く呻いて大きく飛び退る。


そうして間ができたところで、傷口を確かめてみたら、

左腕の前腕部の肉がごっそり毟られていた。


「晶くん、大丈夫!?」


「……大丈夫」


派手に血は出ているけれど、

これくらいなら動けなくはない。


一応、機能も損失してはいないし、

短い間ならきちんと用も為すだろう。


問題は、獅堂。


「――まさか、

ここまでの力を秘めているとはな」


炎の向こうから、歓喜の声。


それから一拍の後に

大剣が薙ぎ払われ――


「一度は落胆させられただけに驚いたぞ」


余炎を纏いながら、

獅堂がゆっくりとその姿を現した。


皮膚の表面が多少は変色しているものの、

業火の前でさえほぼ無傷。


ただ、先ほど僕が突き刺した脇腹に関しては、

きっちりと出血していた。


その傷を獅堂が嬉しそうに撫で、

指先に付いた自身の血をべろりと舐める。


「先の無礼を訂正しよう。

御堂刀はいい後継者を残した」


……それなりに深く刺したつもりなのに、

臓器までは届いていないか。


“判定”通り、戦闘に臨んでいる時のこいつは、

僕じゃどうやっても殺しきれない。


「まだ動けるな?

もう少し愉しませてもらうぞ」


獅堂が大剣を持ち上げる。


……もう、やるしかないか。


「ラピス。作戦は覚えてるよね?」


「……例の、晶くんが前衛を続けるってやつ?」


「そう。援護はもういいから、

僕が作った隙に、最大火力をぶつけて」


「援護はもういい……?

って、そんなの無茶だよ!」


「無茶じゃない」


呟いて――前へ。


同時に、獅堂が大剣を振りかざして、

一直線に突っ込んできた。


それの回避ついでに、

地面を強く蹴った/宙に舞い上がった。


眼下で喫驚する獅堂――

そこに、ナイフを突き込む。


が、大剣で受けられる

/その大剣を蹴って跳ぶ/即座に着地。


同時に地面を削りながら膝下の高さで走り、

獅堂の背後へと回り込み――刺した。


自動で発動するような獅堂の瞬時の反撃を躱す

/再び跳ねて獅堂の背後を取りに行く。


今度は反応する獅堂――その場から離脱

/こちらに死角を取らせないよう再び走り始める。


けれど、今度はそうはいかない。


「ッ……おおォっ!?」


獅堂が移動する先に回り込む

/その周囲を絶え間なく跳躍する。


まるで溶岩から噴き出す火柱のように、

地を蹴るたびに跳ね上がる砂塵。


その砂煙に紛れて、獅堂に肉薄――

すれ違いざまにひたすらナイフで切り付けていく。


攻撃箇所は肉の付きづらい末端や関節。

予想通り多少は傷がついた。


それを二度三度繰り返したところで、

ようやく獅堂の反撃が到来。


大剣での薙ぎ払い/豪腕による打撃

/当たれば即死しかねない体当たり――


その全てを伏せて/跳んで/すれ違って回避しつつ、

獅堂の全身を切り刻んでいく。


怪物の反応と動体視力を

完全に上回れているという確信。


恐らく、僕の中でまた一つ

何かが変わったに違いない。


アビスが、ようやく馴染み始めたか。


「っ!?」


そんな時に、いきなりナイフが折れた。


まさかという驚愕――

これまでの戦いであっという間に金属が疲労した?


まさかという困惑――

それ以外には考えられないが、幾ら何でも速すぎる。


まさかという推測――


獅堂が、この短期間で耐性を獲得した?


そんなことはと思う間に、

獅堂がナイフの損失を見て大剣を振りかぶってきた。


そこから放たれた一撃が地面を割る

/からがら逃げなければ自分が真っ二つに。


ホッと息をつく間もなく、

さらなる追撃を回避/回避――


なおも続く凄まじい攻撃を掻い潜る

/合間にせめてもの抵抗で殴り返す。


が、硬い石を殴っているような感触は、

まさに焼け石に水。


逆にこちらの拳が痛みかねない。

目潰しの砂を投げても同様で効果がない。


いよいよ打つ手なし。

つまり――そろそろ頃合いだろう。


この戦いは、

元々勝てるとは思っていなかった。


“判定”で殺せないと出ている以上、

普通にやって勝てるわけがない。


となれば、勝つためにすることは、

普通にやらないことだ。


そのための下準備として、

全力で殺し合ってきた。


もし、殺せるならばそれで良し。

ダメでも、獅堂に隙を作り出せる。


後は、作った隙に最大火力をぶつけるだけ。


吹き荒れる暴力の中で生き長らえながら、

タイミングを計る。


が、体力の限界が訪れるにつれて、

基本スペックの差が顕著に出始めた。


再確認――獅堂は、怪物だ。


僕とはとんでもない体重差があるだろうに、

同じ時間/同じ量を動き回っても動きが落ちない。


膂力はアビスを使ってなお段違いだし、

耐性獲得も込みであれば、こいつは世界最硬だろう。


こいつと真正面から勝負して

勝てる人間はいない。


にも関わらず、さらなる強さを求めて、

傷を欲し、子供を欲している。


楽しさを追求するために、

強敵を欲している。


まさに“強さ”の化身――

獅堂を止めるのは死だけしかない。


『じゃあ、晶ちゃんが殺るしかないよね』


ふいに背後から

那美ちゃんの声が聞こえて来た。


『私を殺そうとしたみたいに、

早くこいつも殺そうよ。そして――』


それに呼応するように、背後の歌声も高まる

/熱となって体を覆ってくる。


『晶ちゃんも早く来てよ』


体力が尽きかけ動きの鈍っていた体が、

めりめりと音を立てて動き出す。


被弾覚悟で突撃し、それでもなお猛攻を潜り抜け、

獅堂の鉱石のような肉体へと拳を見舞う。


要所要所で飛んでくる打撃を回避し、

徹底的に張り付いて殴る/蹴る/殴る――


と、完全なインファイトに移行したと見て、

獅堂も大剣を放棄――凄絶な殴り合いへと移行。


攻撃に回した拳が痛む

/防御に回した腕が傷む。


それでも怯まず、背中の歌に押されるまま

/獅堂の“声”に導かれるままに打撃を放ち続け――


ここだ、というタイミングがやってきた。


必勝を期して、

獅堂へと真っ直ぐ突っ込む。


全身全霊を込めた特攻。

危機感知の掻き鳴らす警鐘は全て無視。


満身創痍の体を振り絞り、右手を刃と化して、

獅堂の首を取りに行く。


「おぉおおおおぉっっ!!」


その瞬間、

“判定”が殺害不可能から可能に変化。


それで、絶対の成功を確信し――


――獅堂の腕に、体の中心を貫かれた。







ラピスの蒼い瞳には、

化け物の姿しか映っていなかった。


自身を縛り付けていた最強の怪物。

そして、その怪物を共に倒そうと誓っていた少年。


そのどちらもが、

少女の理解を超えた戦いを繰り広げていた。


すぐに無理が出ると思っていた。


その前に援護に入り、考え直してもらった上で、

改めて二人で立ち向かおうと思っていた。


なのに――

この目の前にある光景は何だ。


獅堂天山と一対一でここまで戦える人間を、

未だかつてラピスは見たことがない。


信じられない気持ちと喜び、嫉妬、畏敬とで

心の中がごた混ぜになる。


そして何より、

アビスという薬の効用にも不安を感じていた。


ここまでの力を引き出して、

果たして、笹山晶は大丈夫なのか――


心配の最中、晶のナイフが折れ飛び、

ラピスが『あっ』と声を上げた。


幾ら晶が強くなったとはいえ、

もうここが限界だ。


武器がなくなっては勝負ができない。

加勢に行かねば殺される。


「――うっ」


なのに、晶にそれを目で制された。


その意味はもちろん、作戦の遂行――

『晶が作った隙に、ラピスが最大火力をぶつける』だ。


しかし、このままでは隙を作る前に

殺されるのではないか。


せめて、晶が回収しやすい位置に

ナイフを投げ入れる程度の援護は必要なのではないか。


逡巡するラピスの前で、

戦いが殴り合いへと変貌――


もう力なんて残っていないはずの晶が、

なおも踏み止まって獅堂と削り合う。


明らかに勝ち目なんてないにも関わらず、

引くこともない。助けすら求めてこない。


その様子を見て、

ラピスは覚悟を決めた。


ここまで頑張ってくれている晶を

裏切るわけにはいかない。


彼が傷つくのを見ているだけで、

自分が傷つくような痛みを感じる。


それでも、唇を噛み、助けに行きたい気持ちを堪えて、

与えられた役目を果たす時をじっと待つ。


身を焼かれる思いで見つめる先で、

二人の化け物が凄絶な削り合いを続ける。


その果てに、笹山晶が獅堂に突進――


止めなければと手が伸びかけた。

唇を噛んでなければ、声が出ていた。


心の中では、それはダメだと叫んでいた。


それでも、使命感が体を押し止めた。


そして――体が動けない代わりに、

目から熱い涙が零れた。


その滲んだ視界の中、

彼の体が獅堂に貫かれ――


獅堂に、決定的な隙が生じた。


その瞬間を待ち受けていたラピスが、

涙を振り払う/クリアな視界で獅堂を見据える。


同時に、高速で暗器の展開を開始。


最も複雑かつ厳密な起動手順を経て、

右手を思い切り前へ突き出す。


それで、前腕に潜んでいた機構が、

皮膚を突き破って腕と並行にせり出してきた。


それは、ラピスの正真正銘の奥の手。

一発限りの仕込みライフル。


.460ウェザビー・マグナム弾という

大型獣狩猟用のライフル弾を撃ち出す狂気の逸品。


当初のそれは小口径の拳銃弾を撃ち出す

暗殺専用のものだった。


しかし、対獅堂を想定すると、

どうしても火力不足が浮き彫りになる。


そのため、機構を一から作り直し、

ライフル弾を撃ち出せるように改造――


どうにか右手の生体機能を維持したまま、

極限まで無駄をそぎ落としたライフルが完成した。


確保できなかったバレル長に関しては、

火薬の燃焼速度を調整して解決。


命中精度はそもそも頭になく、

近づいて叩き込む。


反動は度外視。一発撃ったら壊れるが、

一発撃てれば十分過ぎる。


そんな暗器とはとても呼べない兵器を携えて、

ラピスが獅堂へと疾走――


一歩遅れて気付いた獅堂が、

だらりと手足を垂れた晶を投げ捨てる。


ラピスへと向き直り、

迎え撃とうと身構える。


しかし、もう遅い。


ラピスは突き出した右手を獅堂へと向け、

仕込んだ引き金を引き――


コロシアムの中が、

轟音で大きく震えた。


体が吹っ飛んだ。


ラピスも獅堂も、

お互いが逆方向に倒れ込んだ。


撃てればいいだけの銃は、発砲の反動で半壊し、

ラピスの腕からほとんどもげているような状態。


台座となっていたラピスの腕も引き裂かれ、

肩や肘が脱臼と骨折に見舞われていた。


その苦痛に呻きながら、

ラピスが体を起こす。


自身の奥の手が生み出した

結果を求めて前を見る。


――愕然とした。


「やるじゃないか、ラピス……」


硝煙の臭いが漂う向こうで、

鉱石のような男が薄笑いを浮かべていた。


「そんな……」


もちろん、無傷ではない。


そのラピスの胴ほどはあろうかという腕は千切れかけ、

分厚い胸板が血で真っ赤に染まっている。


恐らく、腕で受けて防ぎきれずに、

胸まで貫通したのだろう。


だが、通ったのはそこまで。


結局はその腕と胸板で、

象をも殺すライフル弾を受けきった。


貧相な発射機構で威力低下していたとはいえ、

人知を越えた怪物であることは疑いようもなかった。


銃を腕に仕込む際、反動を考慮して

ライフル弾は過剰かと悩んだものの――とんでもない。


獅堂天山を仕留めきるには、

もっと強大な火力が必要だった。


怪物として認識していたにも関わらず、

心のどこかでは人間だと思っていた自身が恨めしい。


だが、選択肢の中で最も強力なものを選んだ上で

この結果なのだから、後悔に意味はないだろう。


「その様子だと、今ので打ち止めだな。

もうこれ以上はあるまい」


『それともまだ何かあるのか?』と、

獅堂がラピスに身構える。


右腕を負傷していても、なお変わらぬ威圧感――

恐らく左腕だけでも余裕でラピスを殺害可能。


あれだけ手筈を整えて、想像以上に晶が善戦して、

その結果がこれという信じがたい悪夢。


その絶望的な現実を前に、

ラピスは膝を付き、へたり込んだ。


これから何が起ころうとも、

もはや抵抗する気力が失われていた。


そんな少女を見て、

獅堂がつまらなそうに息をつく。


それから、構えていた腕を下げ、

ラピスへ罰を与えるべくゆっくりと足を踏み出す。


が――


その足が地を離れる直前に、

獅堂の首から血が噴き出した。


ラピスも、獅堂も、

何が起きたのか理解できなかった。


いつ、そうされたかも分からなかった。


ただ、鮮血が降り注ぐ中――


獅堂が背後へ投げ捨てたはずの骸が、

何故かラピスと獅堂の間へ立っていた。


すれ違いざまに獅堂の首を掻ききった、

その右手を真っ赤に染めて。


「ギッ――!」


獅堂が声にならない声で叫ぶ。


今度こそは確実に仕留めんと、

逃れ得ぬ運命へ真っ直ぐに向かっていく。


地獄の鬼さえ逃げ出すような怪物の猛撃。


しかし、絶対零度の瞳は、

その“声”を冷徹に見据えたまま動かなかった。


獅堂から噴き出す血の雨を浴びながら、

吹き荒れる暴力を受け流す。


死の順路を突き進む怪物を、

あるがままに導く。


その果てで――伝説の暗殺者が、

獅堂の心臓を表情一つ変えずに貫いていた。








――逃れ得ぬ運命という現象は、

大袈裟な名前の割りに、やっていることは簡単だ。


『相手に気付かれないように近づいて刺す』


ただこれだけの話でしかない。


もちろん、理屈が簡単なだけで、

誰にでもできるわけじゃない。


そこには様々な技術や能力が介在し、

複合させた上で初めて成り立つ現象ではある。


ただ、ひとたび条件さえ満たしてしまえば、

単純が故に防ぎようがない――そんな技だった。


普通の相手であれば、

その条件を満たすのにそう苦労は要らない。


ただ、獅堂天山だけは別だった。


あの男であれば、刺し殺すまでの間に気付くどころか、

反撃までしてくる可能性すらある。


食事中だろうと何だろうと、ゼロの状態から始めれば、

恐らくは一撃で絶命させるには至らない。


ならばどうするか。


その回答として、獅堂を追い詰めた上で、

警戒を解いたところを狙うことを選んだ。


敢えて奴に殺されることで、

僕という存在を意識の外に追いやる。


その上で、ラピスに仕掛けてもらい、

全てが終わったところで殺し返す。


殺せないという“判定”は、

僕が生還を前提とした場合のみ。


命を賭して隙を作る覚悟があれば、

僕という人殺しに殺せないものなんてない。



その結果が――これだった。


暗い瞳は瞬きも忘れ、

ぼんやりと宙を見つめていた。


鍛え上げた肉体は今は肉の塊に成り果て、

受け継がれてきただろう傷はただの紋様になった。


今はもう、ぴくりとも動かない。


恐らく、何が起こったのかも

分からないまま絶命したはずだった。


「ふぅ……」


終わった。


けれど、勝ったとは思わなかった。


結局、獅堂を仕留めたとはいえ、

僕も殺されてる以上は相打ちでしかない。


それに……結局、助けられたのは

温子さんとラピスだけ。


ABYSSとの勝負で見れば、

大惨敗もいいところだろう。


ただ、自分にできる範囲では、

できる限りのことはやれたんじゃないだろうか。


そう思っていたところで、膝が折れた。

立っていられず、後ろへと倒れ込んだ。


疲労感はあったものの、

不思議と痛みはなかった。


目映いコロシアムの天井を見上げて、

終わっていく自分を意識する。


アビスが僕を生かそうとしているのを感じるけれど、

さすがにこれは無理だろう。


……これでようやく、

落ち着くことができそうだ。


もう、誰を殺すこともないし、

誰かに殺されることもない。


嫌な夢を見ることもない――


「晶くん……」


そうして目を閉じようとしたところで、

よく見た顔が視界の中に入ってきた。


そのお人形さんみたいに整った顔が、

僕の顔を見て強張ったのが分かった。


それに気付かない振りをして、

微笑みかける。


「……やりましたね先輩。

これでもう自由ですよ」


「うん……ありがとう」


押し黙る先輩。

けれど、何を言いたいのかはよく分かる。


そして――

それを口にしない理由も、よく分かる。


……気を遣う必要なんてないのになぁ。


僕は死ぬのが当たり前で、

こうなるのも全部織り込み済みだったのに。


それに、もし仮に無傷で勝てたとしても、

迷宮から脱出する目なんてほぼないだろう。


死ぬのはもう、とっくに決まってたのに、

それでもこの人は気にしちゃうのか。


「やっぱり、先輩っていい人ですね」


「そんな……私、全然いい人なんかじゃないよ。

晶くんを利用して、こんなことに巻き込んで……」


「でも、先輩はちゃんと選択肢をくれたじゃないですか。

僕を逃がしてくれるって」


「だから、先輩が気にする必要なんてないですよ。

……って、また先輩って言っちゃいましたね」


「何か落ち着いたら、

また呼び方が戻っちゃいました」


「……生徒会で過ごした時間のほうが、

ずっと長かったからね」


「そうですね……一年半、かな?

長いようで、あっという間でしたね」


「そうだね。

楽しい時間は、ホントに……あっという間だ」


「先輩に振り回されるのも、

これで最後ですね」


「嬉しいような、名残惜しいような……

もう、よく分からないです」


「な……何言ってるのさ。

まだまだ晶くんには振り回されてもらうよ」


「そうしたいのも山々なんですけれどね。

さすがにもう、疲れてきちゃいました」


「晶くん……」


「……琴子のこと、

お願いしてもいいですか?」


「多分、ミコって子も一緒になるでしょうけれど、

ちゃんと話せば分かってくれると思うんで」


「うん……大丈夫。

私もその子と会ったことあるから」


「そっか……なら安心ですね」


と、僕の中のアビスもようやく諦めたのか、

体の機能が急速に低下し始めた。


途端に押し寄せてくる寒気。

息を吸うと、ごほごほと噎せた。


目がかすんで、

急に先輩の声が聞き取りづらくなった。


そうして感覚が遠ざかるにつれて、

代わりとばかりにどっと眠気が押し寄せてきた。


きっと、このまま目を閉じれば、

全てが終わるんだろう。


それでいいと思った。


琴子のことを任せられるなら、

もう後は思い残すことはない。


「……ああ、いや」


もう一つだけ、

気になってたことがあったか。


「ねえ、先輩……

約束って、覚えてますか?」


「約束……?」


「本当の名前、

教えてもらえるんですよね?」


獅堂との決戦前に交わした約束。


獅堂に付けられたラピスでもなく、

朱雀学園の真ヶ瀬優一でもない、本当の先輩の名前。


最後に、それだけは聞きたかった。


「教えてください……せんぱい」


「……晶くんっ? 晶くんっ!?」


先輩がゆすってくる。


けれど、それがなんだか心地よくて、

どんどんねむくなってくる。


けれど……その泣きそうな顔がもうしわけなくて、

なんとかがんばって目をあける。


せんぱい、おねがい。


さいごに、名前、を――


「晶くんっ……私……

私の、本当の名前は……」


「鬼堂宵月……だよ」


「……そっか」


きどう、よいづき――か。


「きれいな……なまえ、だなぁ……」

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