遺書1

「さて……」


地面に転がったカメラの残骸を踏みつけながら、

鬼塚が少女へ見返る。


瞬間、少女が机にぶつかりながら、

後方へ大きくよろけた。


「何やってんだお前?」


呆れた風に鼻を鳴らす鬼塚。


だがすぐに、蒼白した顔を強張らせ、

肩で息をする少女の様子に気付いた。


「……おい?」


鬼塚の腕が、少女へと伸びる。


「ヒッ――!?」


その腕から、逃げた。


半ば転ぶようにして隆々とした腕を躱しながら、

少女は鬼塚に背を向けて全速で駆け出した。


「おい、待て! どこ行くんだよっ!」


少女の背中に鬼塚の怒鳴り声が刺さる。


その野蛮な響きに身を竦ませながらも、

少女は必死になって足だけは動かした。


ABYSSとまともに対峙しても、

待つのは死だ。


隠れてやり過ごす以外に、

生き残る道はない。


だが――狭い図書室では、

逃げることすらままならない。


行く手を阻む岩壁のような本棚へ、

少女が絶望的な思いで張り付く。


迫る足音にかちかちと歯を鳴らす。


逃げ場はない。隠れる場所すらない。


殺される。


「ハァ、ハァ――!」


それでも、残されたなけなしの時間/なけなしの理性で、

自らを助けるものを探すべく視線を走らせる。


足音が近づく。

少女に残された手段は一つだけ。


だが、いい武器が見つからない。


衣擦れの音が届く。

あるのは本ばかり。


そんなものでは、

鬼塚に――ABYSSに勝てやしない。


死が迫る。

何か、何か武器になるものは――


「あ……!」


暗がりの中、

ようやく見つけたパイプ椅子を手に取る。


そして、


「おい、ちょっと話を――」


「うあぁあああっ!」


少女が振り向きざまに、

歩み寄ってくる鬼塚へパイプ椅子を振り上げた。


「何すんだよっ?」


が――繰り出した渾身の一撃を、

鬼塚はあっさりと受け止めてのけた。


ダメージを負うどころか、よろけさえしない。

怯むこともない。


少女に残された、生き延びるための最後の賭けは、

期待すら抱かせることなく終わった。


部長でも、副長でも、鬼塚でも変わらない。

少女はあまりにも無力だった。


先ほどの副長に相対した時と同じ絶望に襲われて、

少女の膝から力が抜けていく。


何もできない。

嫌でも分かった。


泣いている場合ではないのに、

涙が止まらなかった。


「離してっ!」


「いや、離したらお前また……」


「いすっ、はな、してよっ……」


「おねがいっ、だから……」


「……分かったよ」


少女の涙混じりの求めに、

鬼塚はあっさりと応じた。


支えを失ったパイプ椅子が、

小さな手の中から床へと滑り落ちる。


それが、緊張の糸を切る合図だったのか。


少女は、繰り糸のなくなった人形のように、

力なく尻餅をついた。


「ふぇ……」


もう、どうしようもない。


「う……ぅ、ああああああぁぁんっ!!」


どうしようもなかった。


少女の目尻から零れる涙は止め処なく、

引きつる喉の喘ぎも途切れることはなかった。


無力さが悔しくて、受け入れるしかない運命が怖くて、

子供みたいに小さくなって震えていた。


本当にどうしようもない。


彼女は自らの出来ることを全てやったのに、

それでも現実は非情だったのだ。


その様子を黙って見つめている、

鬼塚のように。


「うぅ……っく、

うぇ……りょ、りょうとっ!」


「助けようとっ、したのにっ」


「わたし、負けないって、思った、のにっ」


「あなたたちに、なんかっ、まけない、って……」


弟を絶対に助ける――


そんな彼女の願いも、

もはや、叶わない。


「ルールだけは、守るって……

守って、くれるって、おもって、たのにっ」


「……いや、あのなぁ」


近づいてくる鬼塚に、

少女が身を竦ませる。


変なことしたら、舌噛んで死んでやる――


そんな悲壮な決意を胸に鬼塚を見上げると、

彼は何故か頭を掻きながら少女のことを見つめていた。


まるで困ったようなその様子が、無性に腹立たしくて、

少女は僅かながらも気丈さを取り戻した。


「なによっ!」


「いや……どうしたもんかと」


頭を振って、大きな溜め息をつく鬼塚。


その仕草が酷く場違いなものに見えて、

また少女のかんに障った。


「こないでよ!

変なことしたら舌噛んで、死んでやるんだからっ!」


「何もしねぇっつーの」


「ってか、何でいきなり暴れ出してんだよお前?

意味分かんねぇんだけど」


「あっ、あなたが私に、

変なことしようとしたからじゃないですか!」


「……したっけ?」


「えっ?」


顎に手を当てながら、首を傾げる鬼塚。


その気の抜けた姿を見て、少女はようやく、

場の空気が想像していたものと違うことに気付いた。


そうして思い返してみれば――


「されて……ない?」


「だろ?」


確かに、鬼塚はカメラを壊した。


ただ、それだけ。


そこから先は、

少女が勝手に想像しただけのことだった。


「何か勘違いしたんだろうけどさ、

俺は別にあんたに危害を加えるつもりはないよ」


鬼塚が、少女へと手を差し伸べる。


少女は、その大きな手を呆然と眺め――


「……あ」


それが、自分を引き起こすためのものだと理解するのに

たっぷりと時間をかけてから、慌てて手を取った。


「あの……カメラ、何で壊したんですか?」


「ああ……それ説明しようとしたらさ、

あんたがいきなり襲いかかってきたんだよ」


「実は、マジで怖かったんだぞ?

別にいーけどさ」


冗談めかした風の鬼塚に、

少女が『はぁ』と曖昧に返す。


中身が入れ替わったかのような突然の親しさに、

訝しむ以前に感覚がついていかなかった。


「で……俺がカメラを壊した理由だけど、

部長に知られないようにあんたと話すためだな」


「……どういうことですか?」


「今からやばい話をするからだよ。

バレたら多分、俺、殺されるからな」


「えっ……」

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