予期せぬ遭遇1








そんなの、できるわけないだろ――


「琴子!」


騒ぎの中心へ駆けよって、

琴子の手を引き鬼塚から剥がした。


さらに、空いた隙間に滑り込んで、

琴子を背後に二人の間に立つ。


「あ? 何だテメェは?」


「お、お兄ちゃん……!?」


「……琴子。先生呼んできて」


「え?」


「早く」


「う……うんっ!」


背後の琴子の足音が遠ざかっていく。


さて。これで、

とりあえずの目的は果たしたけれど……。


「テメェ、何勝手なことしてんだ、あぁ!?」


この状況をどうするか――



「――っと!」


伸びてきた手を躱して、

二、三歩後退する。


危ない危ない。いきなり胸ぐらを掴まれてたら、

逃げるとか以前の問題だった。


「ん……?」


と、先ほどまで獣のように吠えていた相手が

急に黙ったことに気付いた。


目の前で歪んでいく眉――敵意につり上がるのではなく、

眉根のみが持ち上がる疑問型。


「テメェ、まさか……」


……まあ、気付かないでやり過ごせればっていうのは、

さすがに淡い期待だよな。


「ハハハッ!

やっぱそうだ、やっと見つけた!」


「この前の借り、

ここで返させてもらおうじゃねーか!」


鬼塚が吼える/目に歓喜の光が灯る。


これで、鬼塚が

あの夜の仮面であることは確定した。


ただ……この状況が

僕にとって好ましいとはとても言いがたい。


どうする?


鬼塚を叩き伏せるか、逃げるか――


そうこうしている間に、

鬼塚が右腕を大きく後ろへ引くのが見えた。


素人丸出しのテレフォンパンチ。


あの夜と同じく、相手を倒すという意思が先行していて、

右腕を出して来るのを隠そうともしていない。


幾らパンチが早かったとしても、

その動作モーションが大きくて遅いんじゃ、相手に当たるわけが――


「……え?」


回避行動を取ろうとしたその時、

どうしてか膝が抜けた。


強烈な浮遊感に、

一瞬、足場が崩れたのかと思った。


けれど、その傾いだ視界の中の鬼塚は、

平然と拳を振りかぶっていて――



わけが分からなくなった。


目の前が、ぐるぐる回っていた。


地面を掻いている手足に気づき、

ようやく自分が床に転がっているのだと理解した。


「が、ぎっ……」


口を開く――涎が零れて変な声が出る。

吐き気がする。


何があったかは考えるまでもなかった。


恐らく、鬼塚の拳が、

僕の下顎に突き刺さったんだろう。


でなきゃ、こんな風になるはずがない。


「おいおい、クリーンヒットかぁ?

手ぇ抜いてんじゃねぇぞクソが!」


頭の上から降ってくる鬼塚の声。

早く起き上がらなければと手足に力を込める。


が、まるで自分のものじゃないみたいに、

全然力が入ってくれない。


目の前に光がチラつく。

上体を起こすのでさえ辛い。


気が付けば体は汗だくで、地面を手で押しても、

その部分が溶けてしまっているように感覚がない。


まるで水溜りに落ちた泥人形の気分だった。


「おうコラ、いつまでも寝てんだ、あぁ?」


「さっさと起きねぇと、

テメェの頭、思いっきり蹴り飛ばすぞ」


「ぐっ……!」


鬼塚の力でそんなことされたら、

首が折れるどころか千切れかねない。


早く、何でもいいから逃げ出さないと……!


吐き気を噛み殺しながら、

這いずって鬼塚との距離を取る。


一体、どうしてこうなったのか。


最初の一撃さえ食らわなければ、

こんなことにはなっていなかったのに。


避けようとした瞬間の、あの、

足下が崩れ落ちたような感覚は何だったのか――


『……お兄ちゃん、もしかして体調悪い?』


『今日は昨日に増して体調悪そうですし、

あんまり無理しないで下さいね』


ああ……そうだ。

今日は朝から体調がよくなかったんだ。


戦闘をしなければどうにかなるとか思っていたけれど、

その認識の甘さを今さらになって痛感する。


ただ、後悔は後だ。


とにかく、今は逃げないと……。


「寝てんじゃねぇぞオラァ!」


脇腹を蹴られる――

勢いのまま廊下を転がされる。


痛みはいつも通り感じるのに、

体は相変わらず自由が利かない。


回復する時間が欲しい。


ただ――果たして鬼塚が、

それを与えてくれるのか?


「……おいおい、

まさかマジで立てねぇのかよ?」


鬼塚が不満げに舌打ちする。


それからさらに降ってくる攻撃に身構えていると――

意外にも、鬼塚が背を向けた。


……え、もしかして見逃してもらえるのか?


まさか『コイツはあの夜の男じゃない』

とでも思ってくれた?


なんてことを思った矢先、


「演技でも何でも、

ブッ殺しちまえば同じか」


鬼塚が無造作に掴んだそれを見て、

血の気が一気に引いた。


――消化器。


鬼に金棒とは言うけれど、

冗談じゃない。


あんなもので手加減なしに殴りつけたら、

どんな結果になるのか分かってないのかコイツ……?


こんな真っ昼間から人殺しなんか、

どうやっても隠蔽できるわけがないんだぞ!?


「くっ……!」


変に脅すこともなく、

無言で平然と近づいてくる鬼塚。


コイツ、予想以上にイカレてる……!


ダメだ。これはダメだ。

逃げないと殺される。


何でもいい、とにかく、

這って少しでも逃げないと。


けれど――


力の入らない体が、

歩いて迫ってくる鬼塚から逃げ切れるわけもなくて。


「死ねよ」


鬼塚が消化器を振り上げる。


もう、覚悟を決めるしかない。



万に一つの確率とは理解しつつも、

受けきれることを祈りながら、急所を庇って目を瞑る。


くそ、来るなら来い――!



……あれ?


何で殴ってこないんだ?


「あ――」


目を開けると、そこには、


「弱い者苛めたらアカンって、

子供の頃に教わらへんかったんか? 鬼塚」


消化器を振り上げた鬼塚の手首をがっちりと掴んでいる、

龍一の姿があった。


「テメェ……!」


「龍一……」


「だから言うたやろー晶。

コイツあかんやつやって」


「どうしてここに……?」


「購買行った帰りに、琴子ちゃんから事情を聞いたんだ。

みんなで飛んできたんだよ」


「温子さんまで……」


「ストップ。

そのまま起きないでじっとしてて」


こちらの動きを制止しつつ、

温子さんが僕の傍に屈み込む。


それから、未だに自由の利かない僕の体を抱き起こして、

ハンカチで額の汗を拭ってくれた。


「……顔色が悪いね。唇も切れてる。

すぐに保健室に運ぶから」


「ありがとう、温子さん……」


「へいへーい!

あたしを忘れてもらっちゃ困るぜー!」


聞こえてきた声に目を向ければ、

階段の傍で爽が仁王立ちをしていた。


爽も来てくれたのか……。


「というわけで、

一番、朝霧爽行きます!」


「キャー! 誰か助けてー!

殺されるー!!」


爽の悲鳴が、辺り一帯に響き渡る。


さすが合唱部部長、普段から声を出しているだけあって、

かなりよく通る声だった。


あれならきっと、

他の階の教室まで声が届いているはずだ。


「……クソが」


「さー、これですぐにセンセが来るで。

チンタラしとったらアカンのとちゃうん?」


「ッ、いつまでも触ってんじゃねぇ!」


鬼塚が龍一の手を振りほどく――

勢い余って消化器が投げ出される。


その消化器が音を立てて床を転がる中、

龍一と鬼塚が睨み合う。


「おい……鬼塚。

悪いことは言わん。ここは引いとけや」


「んだとコラ?

テメェ誰に向かって口きいてんだ、オイ?」


「お前、忘れたんか?」


「あぁ!?」


「ん?」


鬼塚が火を噴くような目で龍一を睨み付ける。


「引けや」


その誰もが逃げ出したくなるような視線を、

龍一が怯むことなく真正面から受ける。


ともすれば殺し合いが始まりそうな、

一触即発の雰囲気に。


龍一と鬼塚がどういう関係かは知らないけれど、

鬼塚が引いてくれるのを祈るしかない。


「……チッ」


結局――


二人の睨み合いは、

鬼塚が背を向けたことで終わりを迎えた。


去り際に蹴りつけられた消化器が、

壁にぶつかって鈍い音を立てる。


それが合図だったかのように、

野次馬の人垣がサッと割れる。


そうして出来た道を通り、

鬼塚が姿を消したところで、


「ふぃ~、メッチャびびったわぁ!」


ようやく龍一の肩から力が抜けた。


「何やねんアイツ、ちょっと迫力ありすぎやろー。

しょんべんチビるかと思ったわ」


「……よく言うよ。

あの怖い人を相手に、一歩も引かなかっただろ」


「アホ、あんなん内心びくびくやで?

パンツとか汗びっしょりの濡れ濡れ家庭教師やし」


「誰だよその家庭教師……」


「お、ボケに突っ込める程度には元気みたいやな」


「……そうだね。少し顔色は良くなったかな?

まだ安静にしていたほうがいいだろうけれど」


「うん……まだ、

一人じゃ立てそうにないや」


さっきよりはだいぶマシになったものの、

頭を上げようとすると吐き気が酷い。


「まー、鬼塚のをまともにもらったんなら、

当分は立てんやろな」


「そういえば龍一って、

鬼塚……さん、と知り合いだったの……?」


「ん……まあな。

仲良かったわけやないけど」


「前にアイツがうんこ漏らしよった時に、

ファブリーズ貸してやったくらいやな」


「絶対嘘だろそれ……」


……この調子だと、

聞いてもまともな答えは返ってきそうにないか。


それより、ずっと褒めてオーラを出してる誰かさんに、

そろそろ声をかけたほうがよさそうだ。


「あー……爽もありがとう。

おかげで助かったよ」


「え、あたしー?

いやー、そんな大したことしてないんだけどなー」


「いや、爽が人を呼んでくれたから、

鬼塚先輩も帰ってくれたんだと思うし」


「もーそんなー、

あたしが鬼塚を倒したなんて言い過ぎだってばー」


……実際言い過ぎなんだけれど、

まあ敢えて突っ込むまい。


「よっしゃ。

ほんなら、ぼちぼち保健室に連れてこか」


「そろそろ移動しとかんと、

うるさいのが集まってきよるし」


「……そういえば、琴子は?」


「琴子ちゃんは教室に帰しておいたよ。

部活の後輩に頼んでおいたから、まず間違いない」


そっか……それなら、

琴子に余計な心配をかけなくて済む。


暗殺者時代の経験上、

体調もこの感じなら少し休めばよくなるだろう。


「それじゃあ龍一くん。

晶くんを運ぶの、頼んでもいいかな?」


「ほいきた」


「私は先生に事情を説明した後に追いつくから」


温子さんが親指で示す先には、

騒ぎを聞きつけた先生方の姿。


体育会系の男性教諭が揃っている辺り、

犯人は鬼塚と目星を付けてきたのかもしれない。


まあ、どんな先生が来ても、

温子さんなら上手く応対してくれるだろう。


「うっし!

それじゃあ行くぞー龍一!」


「よっしゃ! 行ったるでー!」


「……ちょっ!?」


ほとんど全速力で駆け出す龍一&爽。


た、確かに、

急いでくれるのはありがたいんだけれど――


これ、保健室まで吐かずに行けるかな……。





「やー、すまんすまん。

ついつい飛ばしすぎたわ」


「ホントギリギリだったよ……」


ベッドの上に辿り着くまで、

何度吐きそうになったことか。


「まあ細かいこと気にすんなや。

結果的に吐かなかったんやし、オッケーやろ」


「そうだね……ありがと、龍一」


「……で、何してるの爽は?

さっきからあちこち漁って」


「んー、あたし保健室なんて全然来ないからさー、

何か面白いものないかなーって思って」


「お、無水エタノール発見」


「変なことしてないで、

大人しくしようよ……」


「せやで爽。

保健室は授業サボって寝るとこなんやから」


「あ、じゃあ次の授業サボっちゃおっかなー」


「あのね……」


二人ともサボっちゃ駄目だよ――

そう言おうとしたところで、保健室の扉が開いた。


「ん……先生はいないのか」


「あ、温ちゃん。どだった?」


「鬼塚先輩が呼び出されることになったよ。

あと、何かあったらすぐ連絡しろだとさ」


「何か普通だねー」


「これでも晶くんへの事情聴取を先送りにしたり、

きちんと仕事はしてきたんだぞ?」


「それより、もうすぐ授業が始まるのに、

どうして二人とも教室に戻らないんだ?」


「いやー、さっき鬼塚に睨まれた後遺症で、

俺も保健室で休まなあかんなー思ってな……」


「あたしも叫びすぎたから、喉の調子が……」


「……ほう? なるほどなるほど、体調不良。

それは仕方がないな」


だが――と、温子さんの眼鏡が光る。


「二人が授業に出られないというのなら、

私が後で補習授業をしてやる必要があるな……」


「はい大丈夫元気です」


「あたしの喉は無敵でした」


再度、温子さんに退室を促される前に、

自ら保健室を後にする爽と龍一。



そうして二人が部屋から出たところで、

温子さんがはぁと深いため息をついた。


「ったく、あの二人は……」


「いや、きっと僕が暗くならないようにって、

明るく振る舞ってくれてたんだと思うよ」


「サボりたいのも

本音だったと思うけれどね」


「それより晶くん、もう傷口は洗った?」


「ああ、保健室に来てすぐに一応。

血は滲んでるけれど、それもじきに止まると思う」


「顔色が悪いままだけれど、体調は?」


「あー……ちょっと、

しんどいかもしれない」


「まあ、ゆっくり休むといいよ。

寝てても誰も文句は言わないだろうしね」


「私は授業に戻るけれど、

携帯で呼んでくれればすぐ来るから」


……そうだ。

温子さんにもちゃんと言っておかないと。


「ありがとうね、温子さん。

鬼塚先輩から助けてくれて」


「ああ……別に、

お礼を言われるようなことじゃないよ」


「友達だから……というか、

友達じゃなくても、あの状況なら助けるのは当然だし」


友達じゃなくても、助けるのは当然……。


「……うん、そうだね。ごめん」


「謝られるのも困るんだけれどね」


「ごめん」


もう一度謝ると、

温子さんは何かを言いたそうに口を開いて――


結局、何も言わなかった。


温子さんは優しい。


温子さんだけじゃない。

爽も、龍一も、僕なんかと比べたらずっとずっと優しい。


みんなは僕と違って、

困っている人を見捨てずに助けられる。


でも僕は、自分にできることしかできない。


それが悪いこととは思わないけれど――


久し振りに、何だか自分が違う生き物のような気がした。



「……まあ、晶が今考えるべきことは、

早く元気になることだよ」


「うん……そうだね」


「帰りには元気な顔を見られるのを期待してるから、

何も考えないでゆっくり休むといい」


温子さんが丸椅子から立ち上がる。


そして、真っ直ぐにドアへと歩き出して――


何かを思い出したように、

ふと立ち止まった。


「晶くん」


「……なに?」


「何か悩み事があるなら、相談に乗るからね」


そう言い残した後、温子さんは軽く手を振って、

今度は振り返らずに部屋から出て行った。


「……ホント、温子さんは優しいなぁ」


ベッドに背中から倒れ込む/目元を腕で覆う。


きっと温子さんは、

ABYSSについて気付いているわけじゃない。


ただ、ちゃんと僕の悩みことを見てくれていたんだろう。


もしかすると――爽と龍一も。


凄く嬉しい。

みんな、凄くいい友達だ。


僕も、みんなと同じになりたい。


「……もっと頑張らないと」


そのためには、

まず体調を戻すところからだ。


みんなを巻き込まないようにって幾ら思っても、

こうして助けられる側になっていたら世話がない。


今後は体調にも気を遣って、

二度とこんなことにならないようにしよう。


そう決めて、頭から布団を被った。


やがて訪れるだろうまどろみを待ちながら、

友達について考える。


初めての友達の顔が、

閉じた瞼の裏に浮かんだ――

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