予期せぬ遭遇2








――つい最近になって、初めて知った。


病院の廊下というものが、

こんなにまで暗くて長いものなのだと。



「……はい、どうぞ」


白いばかりのドアをノックすると、

向こうから萎れた声が返ってきた。


扉を開けないほうがいいのではと、

一瞬の躊躇。


けれど、ここまで来て引き返すわけにもいかず、

ゆっくりと時間をかけて扉を開いた。



「……なーんだ、晶ちゃんか」


「『何だ』はちょっと酷いんじゃないかな」


「あはは、ごめんね。つい本音が出ちゃった」


「もう……またそういうこと言う」


「嘘だってば。

ホントは来てくれてすっごく嬉しいよ」


「ありがとう、晶ちゃん」


「……どういたしまして」


見舞いの品を机に置く――

畳まれたパイプ椅子を広げる。


それから、彼女の横に、

いつものように腰を下ろした。


「体は大丈夫?」


「んー、ベッドに寝てるぶんには大丈夫かな。

でも、起き上がるとちょっと怖いかも」


「ホント、私の体ってポンコツなんだもん。

まいっちゃうよね」


「……まあ、那美ちゃんはこれまで、

何でも頑張りすぎてたしね」


「たまには休みなさいって、

神様が言ってるんじゃないかな」


「……そっか。

私、休むの嫌いなんだけどなぁ」


「よく言うよ。

いつも金曜日になると元気になるくせに」


「あ、あれは休むのが好きなんじゃなくて、

遊ぶのが好きなのっ」


「だからほら、

私、皆勤賞だったでしょ?」


「……そうだね」


皆勤賞――だった。


つい、半月ほど前までは。


「……あーもう、神様なんて大っ嫌い。

ふざけんなーって、怒鳴り込んでやりたいくらい」


「那美ちゃんなら、

本当にやりかねないから怖いよ」


「もーね、私はやっちゃうよ。

いつだったか、隣のクラスに怒鳴り込んだ時みたいに」


「あー、あったね。そんなこと」


あれは酷かったねーと、

どちらからともなく笑いが漏れる。


……那美ちゃんのお母さんおばさんの話によると、

最近はこんなことも珍しいらしい。


那美ちゃんを知っている人間からすると、

とても信じられない話だ。


けれど、彼女の病について聞いている人間としては、

今ここで笑顔を浮かべているほうが信じられなかった。


那美ちゃんとは違うクラスだから、

何があったのか、詳しいことは分からない。


ただ、おばさんから聞いたのは、

彼女が体育の授業中に突然倒れたということ。


そして――その原因が、

心臓にあるということだった。


「どうしたの、晶ちゃん?

急に黙って」


「……いや。せっかく来たんだから、

リンゴでも剥こうかなと思って」


「じゃあ、お願いしよっかな。

果物食べないと悪くなっちゃうしね」


「オッケー。

じゃあ、ちょっとナイフ借りてくるね」





「へー……本当にできるんだぁ」


「まあ、これくらいはね」


左手の中でリンゴを回転させて、

皮を途切れさせないようにひたすら剥いていく。


「……なんか微妙に悔しい感じ」


「でも、那美ちゃんだって

できるでしょ?」


「それはそうだけど……何ていうか、

晶ちゃんにはできないで欲しかったというか」


……よく分からないけれど、

まあ那美ちゃんの謎発言は昔からか。


「――はい、剥き終わり。六つに割るね」


「……今思ったんだけど、

普通は剥く前に割っておかない?」


「あ……そういえばそうかも」


皮むきの話をしようと思って、すっかり忘れてた。


でもまあ、リンゴは元々素手でも割れるし、

まな板なしでも大丈夫か。


「よっと」


「……」


まずは二分割。

それからさらに二分割。


……む。これ以上はちょっと無理だな。


「ごめん、四分割になっちゃった」


「ん……いいよ、大丈夫」


「じゃあ、芯を取ってくね。

終わったのから食べてっていいから」


「……うん。ありがと」


借りてきた小皿に、

芯を取ったリンゴを乗せていく。


一つ。


二つ。


三つ――と終えたところで、


「……あれ?」


リンゴの数が減っていないことに気付いた。


「那美ちゃん?」


「ん……なに?」


那美ちゃんが首を傾げる。


さっきまで見ていたのと同じ笑顔。


唯一違うのは、その頬に伝う一筋の汗――


「食べる、ね……」


どこか、何かおかしい?


そう思った瞬間、


「――!」


リンゴが音を立てて床に落ちた。


「那美ちゃん!!」


胸を押さえて丸まる那美ちゃんに、

慌てて取り付く。


「那美ちゃん、痛むの!? 胸!?」


「っ――は、だ、い、じょう、ぶ……!」


「っ……!」


そんな震えた声で言われて、

大丈夫だなんて信じられるわけがない。


こんな……無理して、僕と喋ってたのか?


「待ってて、すぐに誰か呼んで来るから!」


「待って……」


「えっ?」


「余計なこと、しないで……」


「でも……!」


「いいからっ!」


苦しいだろうにも関わらず、

那美ちゃんは大きな声を張り上げた。


「那美ちゃん……」


「……いいの。

これく、らい、いつもの……ことだから……」


狭い部屋の中、喉に絡まる呼吸音が、

短い間隔で木霊する。


その嫌に規則正しいリズムが、

白く明るいはずの部屋を暗い色へと染めていく。


そんな中で、自分の無力さを味わいながら、

ふとおばさんの話を思い出した。


そう――


彼女のそれは、不治の病であると。





五分ほど経ってから、

ようやく那美ちゃんは平静を取り戻した。


「……びっくりした?

私が、あんなになるんだって」


那美ちゃんが自嘲的な笑みを浮かべる。


「……びっくりって言うよりは、

怖かったかな」


「怖い?」


「何て言うか……今までは、

人間って簡単には殺せしなないと思ってたんだ」


「でも、さっきの那美ちゃんは、

すぐにでも消えてしまいそうで……怖かった」


元暗殺者で、いつも死が身近にあった人間の癖に――

とは僕自身でも思う。


それでも、那美ちゃんの様子を見ているだけで、

心臓をヤスリで削られるような不安を覚えた。


「……そっか」


「あと、那美ちゃんが苦しんでるのに何もできないのが、

とにかく歯がゆかった」


「もし、僕に知識があれば、

少しでも那美ちゃんを楽にしてあげられたのにって」


「……ごめんね、晶ちゃん」


「えっ?」


「ごめん……」


「……どうしたのさ、急に?」


「別に、『心配かけちゃって』とかだったら、

全然気にしてないよ」


「ううん、そうじゃないの」


そうじゃない……?


「……僕、那美ちゃんに謝られるようなこと、

された覚えがないんだけれど」


むしろ、那美ちゃんからもらったのは、

こっちが感謝してやまないことばかりだ。


仮に謝るとしても、

それは僕のほうだと思う。


なのに――


那美ちゃんは項垂うなだれたまま、

小さく首を横に振った。


「そうじゃない……そうじゃないの」


「那美ちゃん……?」


「私……」


ベッドの上で――膝の上で作られた、

小さな拳が震える。


呼吸のか細い音が、

静寂しじまに沈む二人だけの部屋に微かに波立たせる。


その、アメンボが作るような小さな波紋が、

どれだけ消えていっただろうか。


「もう、晶ちゃんに何もしてあげられない……」


「……えっ?」


「私、もう……晶ちゃんを守れない……」


その告白に、

一瞬、言葉を失った。


けれど、すぐに、

色んな考えが溢れてきた。


なんだ、そんなことかと。


その程度のことかと。


そんな――そんなの、僕はずっと、もう、

十分すぎる程に那美ちゃんから貰ってる。


これ以上なんて望んでない。


逆に、返していかなくちゃって

思っているくらいだ。


「那美ちゃん」


呼びかけるも、那美ちゃんは顔を上げずに、

ただじっと固まっていた。


怒られるのを待つ子供みたいに、

肩を震わせて小さくなっている。


その様を見ていたくない――それだけを思って、

今の気持ちをそのまま伝えることにした。


「僕はね、那美ちゃんから、

色んなものをいっぱいもらったんだよ」


「いっぱいもらって、いっぱい学んで、

信じられないくらい楽しいことを知ることができたんだ」


「那美ちゃんがいたから、

今の僕がいるんだよ」


「晶ちゃん……」


「僕は那美ちゃんのおかげで強くなれた。

もう、那美ちゃんに守ってもらう必要はないんだ」


僕を守れないことなんか、

気にする必要ないんだよと教えたくて。


「……だから、これももう返すね」


いつかの日以来、バッグの中にずっと仕舞っていた笛を、

彼女にそっと差し出した。


彼女はそれを見つめて――

一つ、小さくすすり上げた。


掛け布団の上に、

ぽつりと小さな染みができた。


「……そう、だよね」


「那美ちゃん?」


「ううん、そうなの。分かってたの」


首を振る那美ちゃん。


その口元から震える声が、

細く、糸のようにほつれ落ちていく。


「私ね、分かってたの」


「晶ちゃんは、

どんどん大きくなっちゃったでしょ?」


「私なんか、

すぐに追い越しちゃったでしょう?」


「分かってたの。晶ちゃんは、私なんて必要ないこと。

とっくの昔に分かってたの」


「那美ちゃん、それは違うよ」


「いいよ、言わないで。分かってるから」


「だから――」


「分かってるの」


彼女の濡れた瞳が、

すがるように僕を見つめてくる。


「だから……そんなに私をいじめないで? ね?」


乾いた唇が不安げにまたたいて、

気を抜けば今にも涙声が溢れそうだった。


そんな彼女をもう、見ていられなかった。


いじめないで、と。


そんなことを言われて、

我慢できるはずがなかった。


だから――


「――あ」


顔を見なくても済むように、

その体を抱きしめた。


「いじめるわけないだろ、バカ……!」


「晶、ちゃん……」


「那美ちゃんは、何も分かってない」


「どうして僕が、

那美ちゃんを必要ないとか言えるんだよ」


「どこをどう考えたら、

僕が那美ちゃんをいじめるんだよ」


ふざけないでよと、強く、力を込める。


「あ、晶ちゃん、痛い……!」


「放さない」


「晶ちゃ……」


「痛くても放さない」


「な……何でこんな、急に……」


「那美ちゃんは、

僕にとって必要な人だから」


「えっ……?」


「ホント、那美ちゃんはバカだ」


何も言わせたくなくて――僕の話を聞いて欲しくて、

さらにきつく締め付ける。


「僕はただ、那美ちゃんを守りたいんだ。

だから、笛を返したんだよ」


「那美ちゃんはもう、

僕を守れないかもしれないけれど……」


「今度は、これからは、ずっと僕が守るから。

今まで、僕が那美ちゃんにそうしてもらったみたいに」


「晶ちゃん……」


「那美ちゃんが困った時は、

僕がいつでも、どこにいても必ず助けるから」


「僕はずっと、那美ちゃんの傍にいるから」


彼女の体温を感じる。


彼女の呼吸を感じる。


彼女の鼓動を感じる。


僕が守ると決めたもの――その尊さを、

存分に確かめていると、


笑っているような泣いているような、

よく分からない幼馴染みの声が、耳元をくすぐってきた。


「……うん。ありがとう、晶ちゃん」


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