悪夢の始まり2



古来より、人は夜を恐れてきた。


より正確に言うのであれば、

闇を恐れてきた。


その本質は何かといえば――

“未知への恐怖”である。


闇に潜むものが見えないからこそ、

人はそこにある何かを脅威であると思い込む。


そうして、自ら闇に翻弄されるのである。


だが同時に、人は翻弄されるだけでなく、

闇を飼い慣らすこともしてきた。


他人の目の届かぬことをいいことに、

情事に殺人、破壊活動――


光の下では忌避されることが、

闇夜においては平然と行われる。


夜陰に乗じて行われてきた悪辣な行為は、

星の数にも匹敵するに違いない。


獣のように、人間もまた闇の下では牙を研ぎ、

それを躊躇なく行使するのである。


そんな暴悪を孕む闇が、今宵も訪れる――



「ん……」


薄闇の中で少女が小さく呻き、

その瞼をゆっくりと開かした。


トラバーチン模様の天井が、

薄ぼんやりとした視界に映る。


背中と後頭部に当たる

ごつごつとした感触が痛い。


それを嫌って少女が体を起こすと、

空っぽの机が目の高さに現れた。


「あれ……教室……?」


暗い室内には、飽きるほど見慣れた学習机が

規則正しく並んでいた。


右手には廊下、正面には黒板、左手側には窓。

“これ以外には知らない”という配置。


その窓から見える空には、

黒い雲と合間に幾つか星が見えた。


星はともかく、この目の前にある光景は、

少女がこれまでの人生でずっと付き合ってきたものだ。


ここが学舎まなびやであり教室であることは、

疑う余地もないだろう。


だからこそ――

少女には、理解できなかった。


「えっ、ちょっと待って。

何これ……何なの?」


「何で私、教室ここにいるの……?」


帰宅したにも関わらず、未だに学園にいる不思議に、

少女が困惑の声を漏らす。


謎の足音に追われながら帰宅していた記憶があるのに、

また教室に戻って来ている理由が分からない。


それとも、まさかさっきの白い仮面は、

夢か何かだったのだろうか。


本当は学園から下校せずに、

教室で眠りこけてしまっていたのだろうか――


「って、十一時!?」


黒板の上にある壁掛け時計を、

少女は思わず二度見した。


担任の雑務を終えたのは夜の八時前。

それから三時間ほど経過していた。


弟はお腹を空かせて待っているだろうし、

母親も疲れて帰ってくる頃だろう。


あるいは、もうとっくに帰っていて、

自分のことを心配しているかもしれない。


本格的に寝てしまっていたのだと判断して、

少女が帰宅すべく机脇の鞄かけに手を伸ばす。


「……あれ?」


しかし、そこにあるはずの鞄は、

どういうわけか無くなっていた。


机の逆側にも目をやるも見当たらず、

教室後方のロッカーへと目線を移す。


そこで、少女はようやく

“おかしい”ことに気付いた。


「違う……」


ロッカーの大きさが。


「よく見るとあれも、これも……」


壁にある掲示物が。

机の数が。


全部が全部――言うなれば教室そのものが、

全て少女の知るものと違っていた。


よく似てはいるものの、

似て非なる空間だった。


「嘘でしょ……。

っていうか、ここってどこ?」


隣のクラスだろうか?

それとも、別な学年のクラス?


まさか、別な学園だなんてことは――

言いかけて、少女は口を噤んだ。


あり得ないとは思っていても、いざ想像してみると、

にわかに胸の内から不安が湧き出してきた。


焦燥に駆られるがまま、教室名を確かめるべく、

少女が教室前方のドアへと走る。



だが、開かない。


力を込めて引いてみても、

引き戸はがたがたと揺れるだけで開いてくれない。


「何で!?

鍵だってかかってないのに!」


どうにかして開けようと、取っ手に手をかけ、

後方へ倒れ込むように勢いを付けてドアを引っ張る。


が、何度やっても、

ドアはがたがたと音を立てるだけだった。


教室の後方にあるドアで試してみても、

結果は同じ。


普段であれば教室と廊下の境でしかないドアが、

今や檻の如く完璧に少女を教室へと閉じ込めていた。


その檻の扉を、

少女の両手が何度も叩く。


「なに……何なのこれっ?」


何故自分は閉じ込められているのか。

どんな理由でこんな状況になっているのか。


現状が自分にとって安全なのかさえ、

少女自身では判断ができない。


「そうだ、窓は!?」


廊下が駄目でも窓なら行けるかもしれない。


そんな淡い期待を抱きつつ、

少女が教室を横断し、窓の鍵へと手を伸ばす。


が、クレセント錠を外したところで、

少女の動きがぴたりと止まった。


「……うそ」


開かない窓の向こうを見て――

少女の口から、自然とそんな言葉が漏れた。



目を焼く月光。


いつの間にか雲は飛んだのだろう、

眼前の景色は闇ではなく、群青に沈んでいる。


その群青――彼女の俯瞰ふかんする湖底のようなそこには、

彼女の知らない景色が広がっていた。


校庭。校門。校舎。

何一つとして、見覚えがない。


「ここ……どこ?」


その呟きに、答える声はない。


少女でさえ、二の句を継げない。


ドアも窓も開かない教室で、少女はしばし呆然と、

眼下に広がる知らない光景を眺めるしかなかった。



……どれほどの間、

そうしていただろうか。


「帰ろう……」


少女が口元にやった指を唇で挟みながら、

ぼそりと呟いた。


現実感のない状況に思考はついていけなかったが、

ここが自分のいるべき場所ではないことだけは分かった。


「そうだ……お母さんに連絡しないと。

遅くなっちゃったし」


真顔でズレた言葉を口にしながら、

少女がブレザーの内ポケットに手を入れる。


瞬間、その表情が一変した。


「……は?」


ない。


携帯電話がない。


「ちょっ……何で!?」


慌てて体中のポケットを探してみたものの、

どこにも携帯はなかった。


どころか、財布までがなくなっている。


「本当に? 本当にない?」


焦って服の上からあちこちを叩いてみるが、

どこかに何かが入っている感触はない。


ならばと席に戻って鞄を探そうとしたところで、

この教室に少女の席はないということを思い出した。


「何なのこれ……勘弁してよ……」


電話に、財布。


家族や知人の連絡先と身分証が入っているだけに、

単純になくしたと割り切ることはできない。


次々と発覚していく悪い状況に、

少女は思わず頭を抱えた。



開かないはずのドアが開いたのは、

その時だった。


「……えっ?」


何事かと顔を上げる。


途端――


「きゃあああぁっ!?」


背後にあった机に腰をぶつけながら、

悲鳴と共に少女が後ずさった。


彼女が怯えた瞳を向ける先――

黒板側の教室入り口。


そこに、見覚えのある仮面をつけた

怪人が立っていた。


怪人。

そう、それはまさに怪人である。


薄暗い室内にぼうっと浮かび上がる白い仮面。


全身を覆う、

闇より黒い大きなマント。


歌劇の中から飛び出してきたようなその出で立ちは、

あまりにも現実離れし過ぎていた。


「な、なに!? 何なのこれっ!?」


得体の知れない存在の乱入に、半ば狂乱しかけた少女が、

さらに机を倒しながら教室の対角へと移動する。


怪人は、そんな少女の反応に小さく肩を揺すり、

身構える少女へと大仰にお辞儀をしてみせた。


「さて、まずは初めましてですね。

――タカツキリョウコさん」

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