妹の名前2

また、嫌な夢を見た。


何の夢だか思い出せないけれど――

身を刻まれるくらい辛い夢。


寝汗が酷い。

心臓が早鐘のように鳴っている。


朝の目覚めと似たような状態に、

もしかしてまたかと背筋が冷たくなる。


「……嘘だろ?」


その心配は、現実のものになった。


爽と琴子の顔が、

また思い出せない。


それどころか、二人の関係を考えれば考えるほど、

酷くぼんやりとしたものに感じられた。


恐らく、あれが一番近い。

小学生の頃のクラスメイト。


小学三年生のクラスメイトの名前を挙げていった際に、

名前が出るか出ないかくらいの子と同じだ。


辛うじて指先にひっかかっている程度で、

ともすれば無くなっていることにすら気付かない。


絶対に手放しちゃいけない大切なもの、

っていう実感だけはあるのに。


もう、気のせいじゃない。


確実に、僕は、

二人のことを思い出せなくなってきてる。


一昨日の朝食でさえ覚えているのに、二人のことだけ、

もやがかかったみたいに思い出せない。


琴子と爽の顔が、

また思い出せない。


嘘だろう?


どうして、どうして、

そこだけ消えてるんだよ?


人間は機械じゃないのに、こんな、

欠け落ちるみたいに忘れるなんて、普通じゃない。


ど忘れとか、そういうのに似てるけれど、

妹の顔を忘れるなんて絶対におかしい。


いや、覚えてる。

絶対に僕は覚えてる。はずだ。


爽の顔だって、覚えてる。絶対だ。


「思い出せ、思い出せ、思い出せ……!」


爽の顔だ、爽の顔。


さっき、温子さんと会った時には、

思い出せたはずなんだ。


今、思い出せないはずがない。


琴子の顔だ、琴子の顔。


毎日一緒に暮らしてた――るんだ、

思い出せないはずがない。


思い出せ、琴子の顔、爽の顔、琴子の顔、爽の顔……。


「くっ……ぐうぅぅぅううぅ……!」


思い出せない!


くそ、どうしてだ!?


おかしい、そんなはずはない!


そうだ、刺激が足りてないんだ!


爽にも言われてただろ、

晶はニブいって。そうだ!


「おオおォ思い出せぇえェェェ!!」


思い切り壁に頭を打ち付ける。


痛みに慣れてるせいか、

ほとんど頭が痛くない。


ホントにニブいな、僕ってヤツは!


なら、何度も打ち付けてやる!


何回でも、何十回でも、何百回でも、何千回でも、

とにかくとにかく打ち付けてやる!


思い出せ、思い出せよ!

僕ってヤツはァアあああああ!!


「ッ、ハァ、ハ――!」


くそ……全然思い出せない!


なんで、

こんな思い出せないんだよ……!


爽の顔も、琴子の顔も、なんで。

こんな、こんな、こんなの――


「おかし過ぎるにも程があるだろ……!」


声が震える。涙が出てくる。


性質が悪いなんてもんじゃない。


悪い夢でも見てるような気分だ。


「くそっ!!」


頭を振って、

寝ぼけた頭に活を入れる。


落ち着け……琴子の顔を見れば、

絶対にすぐに思い出す。


顔を見れば、

絶対に今度は忘れない。


くそ……琴子、

早く帰ってこないかな……。


早く顔を見て、安心したいのに。


早く、早く。琴子を……。


「――っ、っと」


危ない……

一瞬、意識が飛びそうになった。


今は何時だ?


よく分からないけれど、

周りが暗いってことは夜なんだろう。


最近は疲れてたから、

眠気が来てるみたいだ。


……あれ?


ちょっと待て。

最近、どうして疲れてるんだ?


いやいや、それこそ待て。


僕は、疲れてて当たり前なんじゃないのか?


思い出せ。何か、おかしい。


僕は、昨日帰ってきて、

まず何をした?


……おかしい。


やっぱり、おかしい。

覚えてない。


昨日帰ってきた時点から、

何かしらの記憶がない。


そして、恐らくもう一つ。

恐るべきはもう一つ。


昨日帰ってきた時から、

僕の物忘れが加速している!


「くっ……そ」


寝るのが怖い。


今寝たら、

きっと僕は琴子のことを忘れる。


爽のことを忘れる。


理由は分からないけれど、

そんな確信がある。


それだけは――絶対に嫌だ!


そうなっている自分を想像するだけで、

恐ろしすぎる……!


「いや、僕は絶対に忘れない……!」


忘れてなんかやらない。


忘れてなんか。


寝なければ忘れないのなら、寝なければいい。


琴子、爽、ことこ、そう、コトコ、ソウ、

笹山琴子、朝霧爽。


とりあえずとにかく何度も何度でも

ずっとひたすらに同じく繰り返して。


その名前を呟いていれば――

忘れないはずだ。


二人に会うまでの辛抱だ。


やれ、やり続けろ笹山晶!


「琴子、爽、ことこ、そう、コトコ、ソウ……」


今は……何時かよく分からないけれど、

とりあえず朝までだ。


朝になったら、きっとコトコは帰ってくる。


朝になったら、きっとソウとも会えるはず。


だから、ずっと繰り返せ。


二人の、名前を――





……二人の名前を呼んだ回数が、

三千を超えた。


けれど、回数を数えることに終始している

自分がいたりして、それがまた腹が立つ。


僕は、別に回数をこなしたいから、

二人の名前を呼んでいるんじゃない。


二人のことを、

忘れないようにしているだけだ。


だから、この回数は副産物でしかないんだ。


本当は、数えるのをやめてもいい。


でも……三千と、二十六。


やめてもいいのに、

回数を数えるのをやめられない。


数えないと、自分が今、

何をしているのか分からなくなる。


琴子と爽が、

単なる言葉の響きに堕ちてしまう。


だからきっと、腹は立つけれど、

これは正しいことなんだろう。


「琴子、爽……コトコ、ソウ……」


三千と、二十八。


三千と、二十九。


三千と……。





……朝日に目が焼かれるような感覚を覚えつつ、

名前を繰り返す。


もしも吸血鬼がいたとして、太陽の光を浴びたのなら、

きっとこんな気分なんだろう。


暑くて、眩しくて、痛くて、だるくて……。


けれど、二人の名前を口にし続けてるおかげで、

まだちゃんと覚えてる。


「これなら……二人と会うまで、」


持つな、と思った一瞬に、

意識が飛びかけた。


っと……危ない。

寝たら終わりだ。


寝るな。寝るな。


ひたすらに名前を紡げ。

ひたすらに数えろ。


朝日が昇ったんだ。


あと、丸一日くらい、

名前を言い続けるなんて簡単だろう?


一万四千七百二十四、

一万四千七百二十五……。


あと何万回で、

次の夜明けが来るんだろうか……。


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