妹の名前1

早く横になりたくて、

ベッドに体を投げ出して、仰向けになった。


見つめる天井の白さが、

どことなく遠く感じる。


天井なんて毎日見ているはずなのに、

まるで見慣れない他人の家みたいだった。


「他人の家、か……」


思えば、

ここは最初から他人の家だった。


自分の家はここじゃない。


ここは、僕が父さんに捨てられてから

預けられた家だ。


自分の家は……今はもうない。


だからこそ、

ここを自分の家と偽ってきたんじゃないのか?


――自分の家だと思っていいからね?


白々しい、

叔父さんと叔母さんの言葉。


その目が酷く怯えていたのを覚えている。

疎んでいたのを覚えている。


その視線に、僕は、

ここにいちゃいけないのかと子供心に何度も思った。


だからこそ、外に出た。

外にこそ落ち着ける場所があった。


そう思い返してみると、

やっぱりここは僕の家じゃなかった。


じゃあ……僕の家はどこだろうか?


ここは、琴子の家だ。

叔父さんと叔母さんと琴子の家だ。


僕の居場所はない――のに、どうして僕はここを、

自分の部屋だと呼んでいたんだろうか?


「おかしいよ……」


今までの自分が信じられない。


どうしてこうも、

他人の家に厚顔無恥にも居座っているんだ?


悩んで、頭を抱えて――

それも愚問だったことに気付く。


なるほど、簡単じゃないか。


叔父さんと叔母さんが

いなくなったからだ。


僕を疎む人間がいなくなったからだ。


誰もいなくなったから――


虚空に掻き消える呟きも、

どこか遠くに聞こえた。


目尻が濡れていた。


死んだ。

みんないなくなった。


本当の家族も。


僕を疎んでいた叔父と叔母も。


そして……僕のせいで、琴子も。


みんないなくなったら、

どうなるんだろう……?


ここ、は、誰の家になるんだろう……?


僕がここにいる、り、ゆ……う……。





「……ちゃん、……て」


ん……?


「……いちゃん、起きてよぉ」


なん、だ……?


うるさいな……。


「……にいちゃん。

早く起きないと、遅刻しちゃうよ?」


僕は眠いんだ。放っておいてくれよ……。


声から逃げるために体を転がす。

巻き込む布団の感覚が気持ちいい。


本当にこのまま、

ずっと布団に包まっていたいくらいだ。


「もう……!」


あぁ、眠い……。


もういっそ、このまま目覚めなくても――


「お兄ちゃん!!」


「――っ!?」


飛び起きて――布団を跳ね除ける音と、

誰かの名前を叫んだらしい自身の声で、我に返った。


首を振って、周囲を見渡す。


けれど、当然あるのは

見慣れた景色だけ。


そこには、

誰一人として人間は存在していない。


汗が額から頬へと流れていく。


心臓が、早鐘のように鳴っている。


どくんどくんと、身体が鼓動に揺らされる。

目の前が揺れる。


その揺れる視界の中で、

時計の針は午後の二時を指していた。


夢……だよな?


汗に濡れた前髪をかきあげながら、

呼吸を整えて、今し方見ていた夢の内容を思い出す。


『遅刻するよ』と、

誰かに起こされている夢。


でも、僕のこれまでの人生の中で、

そういう経緯で誰かに起こされた記憶はない。


なのに何故、

あんな夢を見たんだろうか。


僕を起こしてきたのは、

一体誰だったんだろうか。


場所は僕のベッドだったんだから、

恐らくは家族なんだろうけれど……。


僕を起こしに来る人か……。


それで、あの声……。


……。


……。


「お兄ちゃん!!」


――あ。


そうだ……やっと思い出した。


琴子だ。


僕の妹だ。


こんな当たり前のことを思い出すのに、

どれだけ時間がかかってるんだ、僕は。


別に物忘れが激しいなんてことはなかったはずなのに。


何かおかしい。何かが。


「……そうだ。昨日からだ」


思えば、

昨日から何かがおかしかった。


あのー…………………………あれだ、爽だ。

爽がいなくなっていたり。


琴子もそうだ。


琴子も、僕の知らないうちに、

どこかへ行ってしまっている。


琴子が僕に黙っていなくなるなんてこと、

今まで一度もなかったのに。


……もしかして、

危ない目に遭ってるのか?


ふと考えついたものの――


それ以外にないように思えた。


何しろ、黒塚さんの話だと、

ABYSSが人質として狙うのは身近な人だって話だ。


爽はともかく、

妹の琴子は十分に可能性がある。


「くそっ……!」


あまりの鈍さに、

自分を殴りたい衝動に駆られる。


僕がABYSSに狙われている以上、

いつこういうことがあっても不思議じゃなかったのに。


どうして、

もっと気を遣ってなかったのか。


「……いや待て。まずは電話だ」


まだ決まったわけじゃない。

早とちりするのはまずい。


まずは二人に電話をかけて、

安否を確認しないと。



『……様のおかけになった電話は、ただいま、

電波の届かないところにあるか、電源が……』


これは……

本格的にやばいかもしれない。


早く、探しに行かないと――





「晶くん……?」


琴子と爽――二人の行きそうな場所を

歩き回っている最中に、温子さんに声をかけられた。


「晶くん、出てきて大丈夫なのかい?

てっきり今日は家で休んでると思ってたんだけれど」


今日は家で休んでる……?


「……ああ、

今日は日曜日だからか」


「いや、辛いなら、別に学園を休んでもいいと思うよ。

私だってそうしたんだし」


「大丈夫だよ。

そんなに疲れてないから」


「そう? ならいいんだけれど……」


と言いつつも、

僕の顔をじっと見つめてくる温子さん。


……そんなに疲れてるように見えるのかな?


「まさか晶くん、

復讐なんて考えてないだろうね?」


……復讐?


「別に、それ自体はいいと思うんだ。

私だって……本当は、悔しくて仕方ないし」


「でも、何をするにしても、

ここまで来て一人で決めるのは無しにして欲しい」


「今、お互いに一人で考えてしまうと、

正常な判断を下せない可能性があるから」


「えーと……ちょっと待って温子さん。

誰に復讐するの?」


「ABYSSに決まってるじゃないか」


「ABYSSって……いやいや、

そんなのに復讐なんてする気ないよ」


「今は仕方なく巻き込まれてるだけで、僕としては、

できればあんなのに関わりたくないし」


「……そうなのかい?」


「うん。手を切るチャンスがあれば、

すぐに終わりにしようと思ってる」


「そうか……晶くんはそういう結論か」


「私はまだ決められないけれど、

それはそれで正しいのかも知れないね」


「爽と琴子ちゃんのことは残念だけれど」


「ああ。そういえば、

爽と琴子を探してるんだった」



「……えっ?」


「あの二人、どこに行ったか知らない?

さっきから電話してるんだけれど、出ないんだよね」


……って、あれ?


何で温子さんの顔が

いきなり曇ったんだろう?


「……ごめん。

もう一度言ってくれるかい?」


「えーっと……

爽と琴子がどこに行ったか知らない?」


「いやいや、

笑えないよ晶くん……」


「いや、当然笑うところじゃないし」


「……ちょっと!

ふざけるのもいい加減にしてよ!」


「爽と琴子ちゃんがABYSSに何をされたのか、

晶くんだって分かってるだろう!?」


「え、ちょっと待ってよ。

あの二人はABYSSと何も関係ないでしょ?」


「……は?」


「黒塚さんの話だと、

ABYSSが人質として狙うのは身近な人だよね?」


「だったら、

狙われるわけがないと思うんだけれど……」


そう答えると、温子さんがいきなり

怖い顔になった。


「……晶くん。質問に答えて欲しい。

今、琴子ちゃんはどうしてるかな?」


「どうしてるって……どこかに行っちゃって、

今探してる最中なんだけれど」


「なら……爽は?

爽とは最後にいつ会った?」


爽……?


爽と最後に会ったのは……

ええと、いつだったかな?


お昼休みだっけ?

いや、帰り際も顔を合わせてるか。


となると、いつだ?

最後に爽と会ったのは……。


「……えーと、金曜日の放課後?」


「――」


瞬間、目の前の温子さんの顔が、

怖いを通りこして白んだ。


……何でそんな顔をするんだろう?


僕がまるで、

変なことを言ったみたいじゃないか。


「晶くん……覚えてない、のかい?」


「……爽の最期の顔を、覚えてないのか?」


「最後の顔?」


さよならって笑った時かな?

そんなの、覚えてるに決まってる。


だって爽は、いつも笑顔で――


「……あれ?」


爽の笑顔って……

いや、爽の顔ってどんなだったっけ?


爽の顔、爽の顔……

なんで、思い出せないんだ?


いや、落ち着け。

思い出せないわけがない。


きっと、集中すれば思い出すはずだ。


落ち着け。落ち着いて思い出せ。


爽の顔を――


「晶くん?」


「温子さん、僕……どうして……」


今、ようやく分かった。


分かったというか――気付いた。


「思い出せないんだ。

爽と、琴子の顔が」


「二人の顔はよく見ていたはずなのに、

どんな顔をしてたのか全然思い出せない……」


「何で? 何でこんな……」


「……最近、色々あったから、

忘れてるのかもしれないね」


……えっ?


「爽はね、私の妹だよ」


「いつも屋上で歌ってて、

クラスでもずっと賑やかで……」


「いつも、晶くんの傍にいた子だ。

覚えてない?」


「あ――」


瞬間、爽と初めて出会った時のことが、

頭に浮かんだ。


屋上で一人たたずむ歌姫――


日の光を弾いて輝く髪の毛。


歌う時も食べる時も、

常に全力だった大きな口。


いつもハミングが聞こえて来る高い鼻。


色んな表情を作る、

くりくりっとした丸い大きな目。


縁取るまつ毛は僕よりもずっと長くて、いつか、

黙っていればお人形みたいなのにと思った記憶――


「……そうだ」


「思い出せた?」


「うん……爽は、こんな顔だった」


こんな感じ――と、

自分でもあまり説明になってないと思う説明をする。


それでも、

温子さんはにっこりと笑ってくれた。


「爽は私の妹だけれど、

琴子ちゃんは、晶くんの妹さんだよ」


「僕の……ああ」


思い出した。


どうして忘れていたのか分からないくらい、

呆気なく思い出せた。


頭の中で、ポニーテールがふりふりと揺れて、

琴子がはにかみながら見上げてくる。


いつも、そんな光景を見ていたはずなのに――


「……何で、忘れてたんだろう」


「さっきも言ったけれど、

多分、色々あって疲れているんだと思う」


「色々って……?」


「それは――」



――あれ?


「温子さん?」


「っ……!」


ふっと、眠くなったと思った途端に、

ばたばたと音がして――


気付いたら、

温子さんが数歩後退っていた。


何事かと思って顔を見ると、

温子さんの顔が真っ青になっていた。


「どうしたの、温子さん?」


「どうしたのって、今、晶くんが――」


僕が……?


「……いや。何でもない」


視線を横にずらして、

難しい顔で、口元に手を当てる温子さん。


「……手、どうかしたの?」


どうして、左手首をさすっているんだろうか?


さっきまでは、

そんなことしてなかったのに。


「あー……ちょっと、

ぶつけてしまったんだ。ベルトに」


「それより……晶くん。

君は、本当に晶くんかい?」


「? それは――」


『どういう意味?』と聞こうとしたところで、


ふっと、いつか見た

冬の光景が脳裏を過ぎった。


今と同じように、

女の子と正面から向かい合っている状況。


ただし、相手は温子さんではなく――



「だいぶ疲れてるみたいだね……」


……え?


「一度、家に帰って休んだほうがいいよ。

今の晶くんは辛そうに見えるし」


「あ、うん……」


「それじゃあね、晶くん。

何かあったらお互いに電話しよう」


手を振って、温子さんは早足で行ってしまった。


その後ろ姿を見送っている際に、

温子さんの左手が目に入った。


よほど強く押さえていたのか、

手には指の形であざがついていた。

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