惨状1

温子さんの言う通り、

校舎の中は、すっかり静まり返っていた。


悲鳴はおろか、足音も、息遣いでさえも、

僕らのもの以外はどこにもない。


こんな、急に水を打ったように静かになると、

世界に取り残されたかのような気分になってくる。


そのせいか――

僕も、温子さんも、ずっと無言だった。


ただ、できるだけ音を立てて、

化学準備室へと走った。


敵地で何て馬鹿げた行為だとは思ったものの、

それでも、静かなのは不安だった。


そんな歪な沈黙を先に破ったのは、

目的の化学準備室の扉が開く音だった。


中から出て来たのは、黒ずくめの男。


ただし、その男の顔を覆っていたのは、

狂喜の白面ではなくフルフェイスのヘルメット――


「切り裂きジャック……!」


「あれが?」


『うん』と短く答えて、

温子さんの前に出る。


高槻先輩は違うと言っていたけれど、この場にいる以上、

ジャックはABYSSと見て間違いないだろう。


仮に違っていたとしても、

僕らの道を塞ぐつもりなら、倒さないわけにはいかない。


来るなら来い――


そんな気迫をジャックに向けるも、

当のジャックの反応は鈍いものだった。


うっそりとした動作でこちらに振り向いたかと思うと、

じっと僕らの様子を見てくるだけ。


手にした刀を構える様子もない。

睨み合いにすらならない。


……一体、何なんだ?


もしかして、

ABYSSじゃないのか?


そう思っていたところで、ふいにジャックが背を向けて、

どこかへと走って行った。


「……また撤退? アーチェリーの仮面みたいに

武器を壊されたわけでもないのに」


温子さんには悪いけれど、

その予想は多分外れだ。


アーチェリーのABYSSは、

武器を壊されたから撤退したわけじゃない。


むしろ、あそこからが本番の気配さえあった。


あの仮面の少女が引いた理由は、

直前に鳴った電子音が理由と考えるべきだろう。


もし、それが呼び出しや、

稼ぐべき時間の経過によるものだとすれば――


「何かの工作が終わったとか?

例えば、罠みたいな」


「……あり得るね。

まあ、何にしても行くしかないんだけれど」


爽たちを助けるためには、

どのみち化学準備室を避けて通れない。


何があろうと、

対処するだけだ。


そんな覚悟を決めて、

準備室の扉をくぐった。





化学準備室に入ると、

めくれ上がった床材が目に飛び込んできた。


その下に、床下収納のような扉が大きな口を開けており、

そこから深く掘られた階段が見えた。


何度か来たことのあるこの部屋に、

こんなものがあったこと自体が驚きだ。


もしかすると、

この地下室がABYSSの根城なのかもしれない。


「じゃあ、下りるよ」


緊張に強張った温子さんの首肯を確認して、

一歩、階段を下りる。


――瞬間、気付いてしまった。


「……晶くん?」


濃厚でねっとりとした臭いが鼻の奥に触れて、

思わず息を止めた。


この学園自体、そういった臭いを帯びているのは、

日頃から理解していたけれど。


ここまで鮮やかで、ここまで強烈で、

ここまで濃厚な臭いは――ここ最近は嗅いだことがない。


こんな、吐き気を覚えるような

舌触りは――あり得ない。


「晶くん、どうした?

早く進んでくれ」


これを――この先を、

温子さんに見せていいのか?


この先に爽がいるとは限らない。


いや、恐らくはいない。


だって、ここは――


「ちょっと、晶くん」


「……温子さん、

ここに爽はいないよ」


「何を言ってるんだ?

そんなの、見ないと分からないじゃないか」


「別に爽がいなかったとしても、

いないことを確認することが大事なんだ」


「そうじゃないと、

遠回りすることになるかもしれない。だろう?」


「……そうだけれど」


「分かったら、早く進んでくれ。

このままじゃ爽を助けられない」


……温子さんの言う通りだ。

それは凄く正しい。


でも、爽を探して回るにしても、

ここは僕らが探すべきところじゃない。


「晶くん!」


僕らが探すべき場所は、

どの可能性を考えようとここじゃない。


ここであるはずがない。


だって、ここは――


ここはきっと――


十中八九、死体置き場だから。


「もういい!」


止めようと思うよりも早く、

温子さんが僕の横をすり抜けた。


しまったと振り向く僅かな間にも、

温子さんは二段飛ばしで階段を駆け下りていく。


慌てて追いかけるも、

たかだか二十段程度の階段では追いつけるはずもない。


僕が後悔するよりも先に、

温子さんはその先にある扉に手をかけ、そして――


悲鳴が上がった。





そこは、予想通り終わっていた。


血の海という表現があるけれど、

まさにこれがそうだ。


赤く生臭い液体が一面に広がり――

その上に、幾つもの身体があった。


懐かしい臭い/懐かしい光景。


でも、この胸に湧いてきたのは郷愁ではなく、

後悔と恐怖だった。


嫌な予感はしていた。


嫌な予感はずっとしていた。


それは、覚悟でもあったはずだった。


なのに。


――ばちゃりばちゃりと音を立てて、

温子さんが走る。


なのに、この光景をいざ前にしてみたら。


――血溜まり落ちていた、

見覚えのある後ろ姿に取り付く。


どうしても、どうしても、信じられなくて。


――その体を抱き上げて/だらりと、

首が垂れ下がって。


「いやぁああああああっっ!!」


僕は、温子さんが叫ぶのを、

ただ見ていることしかできなかった。


「爽! 爽っ!! 爽ぉおっ!!」


温子さんが、

泣きながら爽を揺さぶる。


そのたびに爽の首が、

ぐらんぐらんと弧を描く。


その光景が、凄く怖くて。


友達なのに――爽なのに、凄く怖くて。


「やめてよ……」


自然と、そんな言葉が口から出ていた。


「爽……そおぉっ……」


「温子さん、もうやめて……」


「だ、だって、爽がっ……!

爽がっ、まだ、目を覚まさないからっ……」


必死に爽を揺する

温子さんの姿を見て――


内蔵を思い切り鷲掴みにされたみたいに、

胸がぎゅっと締め付けられた。


温子さんの顔を見ているだけで、

辛くて、後悔で、泣きたくて、死にたくなった。


全部僕のせいだ。


僕がABYSSに関わらなければ、

こんなことにならなかった。


僕が温子さんを巻き込まなければ、

こんなことにならなかった。


爽の隣で横たわっている、

加鳥さんもそうだ。


僕が加鳥さんと同じクラスの人間じゃなかったら、

彼女だって巻き込まれることはなかった。


赤の他人なのに。

ただ、僕と関わっただけなのに。


二人とも、死なせてしまった。


それどころか、このまま僕と関わっていれば、

温子さんだって――


「――あ」


そうだ……。


まだ、終わってないんだ。


むしろ、ここにいたら本当に終わってしまう。


「爽、目を開けろっ。

お願いだから、なっ?」


「温子さん……」


「起きろ、爽……こ、ここは、

寝てていい場所じゃないぞ?」


「温子さん!」


「い……きゃっ!」


爽に縋り付く温子さんを、

無理やり引き剥がす。


と、温子さんは涙の溜まった目で

こちらを見上げてきた。


その涙の玉が、ほろりと頬を伝った。


「あきら、くん……」


「温子さん……行こう。ここにいちゃダメだ」


「だ、め? どうして……?」


「多分、ここにいると、

ABYSSの後始末をする連中が来る」


そうなれば、僕らは終わりだ。


逃げる場所もないまま、

仲間を呼ばれて殺される。


もしくは、この地下室を閉鎖された上で、

毒ガスのようなものを投げ込まれる。


温子さんはまだ生きているんだから、

それだけは避けなきゃいけない。


「だから、行こう」


「い、いや……」


「行かないと殺されるよ」


「嫌だっ……爽を置いていくなんて、

絶対にイヤだッ!!」


「こんなところに置いていくなんて、

そんなのっ……酷すぎるよ……」


血塗れた姿の温子さんが、

爽の体を強く強く抱きしめる。


その温子さんの肩の傍で、

爽がぶらぶらと頭を遊ばせていた。


……もう、とっくに息はないはずだ。

加鳥さんも同じだろう。


「温子さん……もう、爽は……」


「ち、違う……」


「……そうやって、直接触れてる温子さんが、

一番よく分かってるよね?」


諭すように語りかけるも、

温子さんはふるふると首を横に振った。


「どうしてそんな、あ……晶くんは、

私にいじわるを言うんだ?」


「何で、爽を仲間はずれにしたがるんだっ?」


温子さん……。


「――何の騒ぎ?」


突然の声に、

慌てて地下室の入り口へ見返る。


「酷い有様ね」


そこには、目の前の惨状に顔をしかめる、

黒塚さんの姿があった。


「黒塚さん……どうしてここに?」


「今日、ABYSSのゲームがあるって聞いて、

プレイヤーとして来たのよ」


「でも……よりにもよって、

生け贄があなたたちだったとはね」


躊躇もせず、

血の海の中へ入ってくる黒塚さん。


そして、すぐ傍にあった男の死体の脇で屈み、

軽く触れてから僕の方を見上げてきた。


「かなり鋭くて大きな切り口だけど、

やったのはあなた?」


「……いや、僕じゃない。

ここを見つけた時は、既にそうなってた」


「ふぅん……まあ、信じてあげるわ。

大型の刃物を隠してるようにも見えないし」


それに――と、黒塚さんが立ち上がり、

温子さんの抱える爽へ目を向ける。


「あなたは、

身内の人間を殺すようには思えないしね」


「爽と、あなたのクラスメイトか……。

気の毒したわね」


黒塚さんが目を閉じ、

小さく溜め息をつく。


けれど、すぐに目を開き、

僕にいつも通りの鋭い視線を向けてきた。


「ちょっと聞きたいんだけど、

生け贄は笹山くんと朝霧さんの二人なの?」


「……それで合ってると思う」


頷き返すも、黒塚さんは『ホントに?』と、

眉根を寄せて難しい顔を作った。


「爽が朝霧さんの人質っていうのは分かるけど……

このクラスメイトは、あなたと深い関係があるの?」


「あ、いや。

僕の人質は、本当は妹なんだ」


「ただ、片山ってABYSSが言うには、

妹はここじゃなくて別の場所に監禁してるって……」


「……何それ? 監禁場所が別なイベントなんて、

今まで聞いたことないわよ」


「っていうか、生贄が二人なんてパターンもなかったし、

儀式の日の学園に六人以上いることもなかった」


「まあ、こいつらに関しては、

その片山ってヤツの手下なんでしょうけど」


調べた限りじゃ取り巻きが沢山いたみたいだし――と、

足元の死体を足蹴にする黒塚さん。


「これ……った人間が気になるけど、

ひとまずはここを離れるのが先ね」


「……証拠隠滅のために、

ABYSSの人間が来るから?」


「そういうこと。だから――」


ぱちゃりと、

黒塚さんが血の海に波紋を立てる。


それから、爽を固く抱きしめたまま、

怯えたようにかたかたと震える温子さんの前に立った。


「悪いけど朝霧さん、

さっさと爽を離してくれない?」


「っ……」


「温子さん……行こう?」


「い……嫌だ。

わ、私はっ、ここにいるっ」


「死ぬわよ」


「死んでもいいっ。何があっても、私は絶対、

ぜったいに、爽と離れないぞ!」


爽の体をキツく抱きしめ、

髪を振り乱してかぶりを振る温子さん。


その度に、抜け殻のような爽の首ががくがくと揺れ、

ねじれて、裏返しにまでなっていた。


……多分それさえも、

温子さんは気付いていないんだろう。


だから、それが酷く辛かった。


こんな爽と温子さんの姿は、

とても見ていられなかった。


「……黒塚さん。

爽の遺体だけでも運び出せない?」


「無理ね。そんなことをしても、後で処分されるわ。

あなたたち二人もろともね」


じゃあ……やっぱり、

この二人を引き剥がすしかないのか。


でも――


「う、うぅうぅうううぅぅっ……!」


温子さんが泣きじゃくる。


鼻と涙をぼろぼろに零しながら、

爽の折れた首を揺らしている。


……こんなの、

引き剥がせるわけないじゃないか。


「黒塚さん、やっぱり爽を……」


「やる気がないなら下がってて。

私がやってあげるわ」


僕の言葉を遮って、

黒塚さんが温子さんの肩を掴んだ。


「さあ朝霧さん、立ちなさい。

泣いてる時間はお終いよ」


「い、嫌だ……!

なに、なにをす、っ、あ、痛いいたいっ!」


「立ち上がれないなら、私が立たせてあげる。

ほら、自分の足で立ちなさい!」


「い、嫌だぁ!

離せ……離してくれ!」


「あ、晶くん、助けて! 助けてっ!

黒塚さんが、わ、私と爽にいじわるするっ!」


「……っ」


耳を塞ぎ目を背けたい気持ちを、

必死で堪える。


黒塚さんは、僕ができないことを――汚れ役を、

敢えてやってくれているんだ。


それなのに、

僕がそこから逃げることは許されない。


「意地悪ねぇ……ま、別にそれでいいわ。

どうせ何を言われてもやるんだし」


「ほら、早く起き上がりなさい朝霧温子。

昼間のあなたはどこに行ったの?」


「ひ、いや、うぐ、

うあぁああぁぁぁっ……!」


「黙れ泣き止め自分で立てぇッ!!」


普段冷静な黒塚さんからは想像も付かないような大声が、

地下室に響き渡った。


同時に、首を締め上げるようにして、

黒塚さんが温子さんの体を無理やり引き起こした。


「一人で泣いてて恥ずかしくないの?

ワガママが許されるとでも思ってるのっ?」


「この場にいる人間で、爽が身近にいたのは、

あなただけじゃないのよ!?」


「うう、ぅ……!」


「……身近にいる人間が死ぬのはね、

当たり前に堪えるのよ」


「例えそれが、一方的に付きまとわれて、

会話未満の会話をしただけの関係でもね」


「でも、泣かない。

どうしてか分かる?」


「そんな暇があったら、

するべきことをやらなきゃいけないからよ」


「ねえ、あなたにもあるんじゃないの?

やらなきゃいけないことが!」


「ひ、ぐ……」


「それが分かったなら、立ちなさい。

自分の足で、今すぐに」


黒塚さんが、温子さんの首を締め上げていた手を――

温子さんの体を支えていた手を解放する。


温子さんは、しゃくりあげながらも、

きちんと自分の足で立っていた。


「……やればできるじゃない。

泣き止めば完璧だけど」


「まあいいわ。

立てるならさっさと行くわよ」


子供みたいに素直に頷く温子さん。


それに、黒塚さんはふんと鼻を鳴らして目を逸らし、

『お前でいいや』とばかりに僕に視線を向けてきた。


「笹山くん。今日はさっさと帰って寝なさい。

あなたの妹さんのことは、また明日に話しましょう」


「朝霧さんは、

私のほうで預かるから」


「……温子さんをどこに連れて行くの?」


「私の家。血塗れのまま

家に帰すわけにはいかないでしょう?」


ああ……それはそうか。


「いったんうちに連れて帰って、

落ち着いたら家まで送ってあげるわ」


「……うん。ありがとう、黒塚さん」


「やめてよね。何もしてないのにお礼を言われるなんて、

気持ち悪いったらないわ」


「ええと、じゃあ……おやすみ」


「ええ、おやすみなさい――」


柔らかい声で言い残して、

黒塚さんと温子さんは、階段を上っていった。


そうして、一人になって――

ようやく僕も、溜め息と涙が出て来た。


黒塚さんは否定していたけれど……

本当に、ありがとうだ。


黒塚さんが来なかったら、僕らはここで、

いつまでも動けなかったかも知れない。


元暗殺者なんて言っていても――

やっぱり僕は、落ちこぼれの役立たずだ。


でも、その落ちこぼれにだって、

できることはある。


「……守らないと」


温子さんと、琴子。


まだ二人は生きているのだから、

今度こそは後悔しないようにしないといけない。


仮に、僕が関わることで、

周りの人を巻き込んでしまったとしても――


逆に、その周りの人を守ることだって、

僕にはできるはずだ。


もう二度と、

温子さんを泣かせない。


もう二度と、

こんな光景を作り出さない。


そう誓って、

地下室の階段に足をかける。


それから、もう一度振り返り、

目を閉じ横たわった二人の顔を見た。


「さよなら……加鳥さん。爽」



そうして僕は、

地下室の扉を閉めた。


途端に、もう一度顔を見たくなったけれど――

その気持ちをぐっと堪えて、階段を上った。

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