屋上の戦い1

「……もう朝か」


疲れていたせいか、

いつ寝たのかさえ記憶にない。


ただ、おかげで体調はいつも通り。

昨日辛かったのは何だったのかという感じだ。


これなら、

今日はしっかり動いていけるだろう。





「おーい琴子、おはよー」


いつも通りの儀礼的なノック。


どうせ返事はないんだから、

もう一回やったら部屋に入って――



……ん?


何か今、聞こえてきたか?


「琴子……?」


もう一度、控えめに呼びかけてノックする。


反応はない。


「……琴子、入るよ」



「うっ……!?」


入った途端、

一目で異常だと分かった。


苦しげな表情/額に浮いた汗/乱れた髪/乱れた寝間着

/そして――強い運動をした後のような激しい呼吸。


さっき聞こえてきていたのは、この音か……!


「琴子! おい、琴子っ!」


琴子の肩に手を置いて、

呼びかけながら揺さぶる。


「大丈夫か、おい!?」


「あ……お兄ちゃん……?」


よかった、起きて――


「っ……お兄ちゃん!」


「うわっ!?」


琴子に抱き付かれた。

というより、縋り付かれた。


「怖かった……!

怖かったよぉぉっ!」


「ちょ……どうしたの琴子?

何かあったの?」


「ゆ、ゆめっ……」


「怖いゆめっ、見たのっ」


……病気か何かかと心配したけれど、夢か。


でも、夢であそこまでうなされるって、

そんなに怖い夢だったのか?


「琴子……どんな夢を見たの?」


「思い出すのは辛いかもしれないけれど、

誰かに話すと楽になることもあるよ」


「もし、覚えてるなら、

お兄ちゃんに聞かせてみて?」


「……みんな、死んじゃってる夢」


……死んでる夢?


「周りで、色んな人が死んでるの」


「誰かは……よく分からない。

ぼやけて、顔が分からなかったから」


「でも、みんな死んじゃってるの。

生きてるのは琴子だけなの」


「……それで?」


「それで……琴子は、

その中でずっと立ってて……」


「怖くて、逃げようと思って走るんだけど、

どこまで走っても、誰もいなくて……」


「お兄ちゃんも、いなくなって……」


ぶるりと、琴子が身震いする。


その小さな肩を、ぐっと抱き寄せた。


「大丈夫だよ。

僕はどこにもいかないから」


「……うん」


「そんな悪い夢は、早く忘れよう。ねっ?」


琴子が、腕の中で頷く。


それから程なくして、

小さなすすり泣きが胸に響いてきた。


……こんな風に琴子が泣くなんて、

いつ以来だ?


まるで、叔父さんと叔母さんが

消えた時みたいだ。


しかも、死体が周りに

転がっている夢だなんて……。


どうして、

いきなりそんな夢を見たんだ?


昨日の鬼塚の件か?


滅多に触れることのない暴力に晒されたからだと思えば、

納得できなくもないけれど……。


……ひとまずは様子見か。


この不安定な状態がたまたまというなら、

それでいい。


でも、今後もこの状態が続くようなら、

原因になりそうなものを排除していかないと……。


とりわけ、僕らの平穏を乱す――ABYSSを。





琴子と別れ、黒塚さんの視線を

今日もひしひしと感じつつ、下駄箱へ――





……ん?


靴箱の扉を開くと、

中から一枚の紙がひらひらと躍り出てきた。


その紙を拾い上げて、目を落とす。


どくんと、

心臓の音が聞こえたような気がした。


眉間に手を置き、

早まる鼓動を抑えるために目を瞑る。


そうして少し待ってから、もう一度改めて、

目の前の文字を見た。


『人殺し』


この手紙は、

僕の抹消したはずの過去を簡潔に体現していた。


「どうして……」


僕の覚えてる父さんは、

仕事をしくじったことがない。


暗殺でも――情報操作でも。


だから、僕がこっちの世界に来るに当たって、

父さんは僕を完璧な形で捨てたはずだ。


姓も、戸籍も、名前も、住処も家族も過去も、

全てを全て抹消した末にここにいるはずなんだ。


なのに。

それなのに。


まさか、その粉々になっているはずの過去まで、

こんな短い時間で掘り出されるとは。


ABYSSを舐めているつもりはなかった。

十分に知っているつもりだった。


けれどABYSSは、完璧なはずの父さんを、

あっさりと超越してみせた。


「嘘だろ……」


心の中に、

暗い影が差すのを感じる。


ABYSSという組織の持つ力を/その恐ろしさを、

初めて本当の意味で怖いと思った。


こんな組織を敵に回した時点で、

僕みたいな落ち零れに生きる目なんてあるわけがない。


恐らく、今日中に殺される――


「お、何だそりゃ?」


背後から声が聞こえてきて――

口から内蔵が飛び出しそうな思いで振り返る。


と、肩越しにメモを覗き込んでいた三橋くんが、

『よっ』と笑顔で右手を挙げた。



「み、三橋くんっ?」


「真面目な顔してなーに見てんのかと思ったら、

ラブレターじゃなくてイタズラかよ」


「あ……うん。そうみたい」


「くだらねー。

今時小学生でもやんねーだろ、そんなの」


……まあ、確かに。


「だいたいよぉ、やるにしても普通笹山か?

俺ならもっと反応が面白そうにやるっつーの」


例えば宇治家とかな、と笑いながら、

上履きに履き替える三橋くん。


「あん? 何だよ、人の顔じっと見てきて」


「あ、いや……

宇治家くんにやっちゃダメだよ?」


「バカ、やんねーよ。んな暇なこと」


「だいたい、野郎に構ってどーすんだっつーの。

ホモじゃねぇんだからさ」


……確かに、その通りだ。


その正論かつ“普通”な反応に、

さっきまでの強張りが一気に引いていくのを感じた。


「だからまあ、あんま気にすんなよ。

どうせ暇な奴がやってんだから」


「うん、そうする」


頷きを返して、上履きに履き替える。


「ん? 教室行かねーのか?」


「ああ、ちょっと生徒会室に用事があるんだ。

三橋くん、先に行っててよ」


「ふーん。んじゃ、また後でな」



「……ふぅ」


少し落ち着いた。

三橋くんのおかげだ。


三橋くんの言う通り、冷静に考えてみれば、

これがイタズラの可能性だってある。


何より、厳密に言えば、

僕は人殺しじゃないわけだし。


あくまで、暗殺者の家系で育っただけの、

人を殺せない落ちこぼれ――それが僕だ。


細部に関して、

僕が変に補完する必要はない。


感情に任せてパニクるよりも先に、

この手紙から手掛かりを探していこう。





さて……というわけで、

まずは情報収集。


改めて手紙を検証する。


「綺麗な字だな」


筆圧は弱めで、書体はナール系に近い感じ。

そして大小には微妙な差異。


紙はメモ帳を破いたものか?

見た感じ、同世代の女の子っぽい。


ただ『人殺し』の三文字だけじゃ

さすがにこれ以上は無理だな。


他には何か書いてないか?


「おっ」


『放課後に十七時に中庭で』


さっきは焦って気付かなかったものの、

四つ折すると目立つ位置に来るように書いてあった。


筆跡も同じに見える。

後で、別の誰かが書き足したということはないだろう。


呼び出しとなると……

考えられるのは二つ。


一つは、この手紙自体が

誰かのイタズラであるケース。


もちろん、『人殺し』の文字にも、

呼び出しにも、何も意味がない。


ただ、イタズラとして無視するのは、

さすがにリスクが高すぎるから除外だな。


そしてもう一つは、

この手紙をABYSSが出しているケース。


この場合は、何らかの意図があって

呼び出していると見ていい。


罠か、交渉か、それとも果たし合いか。


筆跡で絞るのであれば、

犯人は女の子のABYSS。


となれば――

真っ先に顔が浮かぶのは、あの人だろう。


「黒塚幽か……」


毎日、遠巻きながら僕を監視している彼女なら、

確かにこういった手紙を出してきてもおかしくはない。


それに、先日の図書室での、

あのやり取り……。


『あなたはそう遠くないうちに殺されるわ』


あれは予言であり、予告だった。


“遠くないうち”が今日やってきたのだと考えれば、

この手紙の狙いと犯人はそれらしく噛み合う。


「……いっそ、こっちから行ってみるか」


まだ、黒塚さんは屋上にいるはずだ。


これ以上は、下手に考えるよりも、

本人に直接会って確かめるほうが早い。


どうせ、今日の昼にでも

会いに行こうと思っていたところだ。


多少予定が早まったところで、

問題はない。


「よし、行こう」


手紙を制服のポケットに押し込んで、席を立つ。


それから、鞄や携帯といった邪魔になりそうなものを

全てロッカーに押し込んで――


ふと、その隣にある、

開かずのロッカーの存在を思い出した。



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