屋上の戦い2



屋上の扉を開けると、

朝の強い日差しが目の中に飛び込んできた。


地上と違って遮蔽物が少ないせいか、

視界が凄く明るい。


その眩しさに目を細めながら、

黒塚さんを探してゆっくりと歩を進めていく。


そうして、

身体がようやく光に順応してくれた頃、


「どうしたの?

ここは教室じゃないわよ」


微笑を浮かべた黒塚さんが、

フェンスを背に僕と正対していた。


「……おはよう、黒塚さん。

聞きたいことがあるんだけれど、いいよね?」


「どうぞお好きに」


微笑を維持したまま、

スッと、黒塚さんの瞳に影が落ちる。


警戒と自信……それと僅かな期待もありそう。

準備万端って感じだな。


まあ、まずは一番気にかかる事案から。


「今朝の手紙、どういう意味なのかな?」


「……手紙?」


「うん。――これ、書いたの黒塚さんでしょ?」


下駄箱に入っていた手紙を広げて、

右手で見えるように掲げる。


その中央にあるのは『人殺し』の文字。


「……ふぅん。誰だか知らないけど、

面白いことするじゃない」


「誰だか……知らない?」


「えぇ、私じゃないわ。

残念だけど、そんなに暇じゃないの」


「でも、別に誰だっていいでしょう?

そこに書いてあることは事実なんだし」


……手紙とは関係なしに、

僕を人殺しだって断定してくるのか。


僕が元暗殺者だと知るのは、

ABYSS関係者以外にはあり得ない。


つまり、黒塚さんはABYSSで確定――


僕があの夜の闖入者ということも、

もう既にバレてるんだろう。


手紙に関わってないのは意外だったけれど、

そこまでは予想していたし驚くことじゃない。


「とりあえず、僕は人殺しじゃないよ」


「あら、今さらとぼけるつもり?」


「とぼけるっていうか、本当のことだからね。

僕は生まれてこの方、人を殺したことなんてないし」


冗談キツイよと笑いかけると、

侮蔑に満ちた瞳が刺すように僕を見つめてきた。


でも、人を殺したことがないのは事実だし、

元暗殺者の過去も僕から認めてやる必要はない。


それより、黒塚さんが手紙に関係ないなら、

他に僕の事情を知っている人物がいるはずだ。


「正直、こんな噂を広められると困るんだよね。

他にもこんな勘違いをしてる人はいるの?」


ABYSS同士の横の繋がりが薄いなら、

まだ勘違いで押し切れる可能性はある。


「他の人とか、

余計な心配しなくていいわよ」


そんな僕の内心を見透かしたかのように、

黒塚さんは鼻で笑った。


「あなたを殺す競争が始まる前に、

私が殺ってあげるから」


……真実はどうあれ、

黒塚さんは僕を殺す気でいるんだな。


ごまかすのは不可能、と。

それならそれで、話はずっとシンプルになる。


「言っておくけど、命乞いは無駄だから。

交渉の余地なんてないわ」


「……喜んでやってるって感じだね。

そんなに人殺しが好きなんだ」


そう口にした瞬間、

空気がぴんと張り詰めたのが分かった。


「……否定はしないわ」


「私は、私のために人を殺しているんだもの。

喜んでかどうかは、また別の話だけど」


……喜んでじゃない?


何かの事情があって殺ってるってことか?

例えば、ABYSSの義務的な何かで。


「なら――」


どうにかなるかもしれない。


「こうしない? 僕はもうABYSSに関わらないから、

黒塚さんも僕と一切関わらないようにする」


「……舐めてるの?」


あ、なんか凄い顔してる。


でも、ここで引き下がるわけにはいかない。


「僕も黒塚さんと一緒で、

喜んで人を殺したいわけじゃないんだ」


「色々としんどいし、

現状から早く抜け出したいとも思ってる」


「つまり、交換条件ってわけ。どうかな?」


「馬鹿じゃないの?」


「そう? 割と真面目に

検討に値すると思うけれど」


「黒塚さんとしても、

リスクを取らなくて済むでしょ?」


「あのねぇ……冗談はいい加減にして!

何その条件? 条件になってないわよ」


「そんなの無視して、

あなたを殺してしまったほうが早いでしょ!」


「でも黒塚さんは、

好んで人殺しをしたいわけじゃないんだよね?」


黒塚さんが押し黙る。


「だったら別に、必要もないのに

僕を殺すことはないんじゃないかな?」


「だってほら、

僕にやる気はないんだから」


両手を顔の高さに上げて、手の平を見せて、

自身の無害さを体で示す。


そのアピールを、

黒塚さんが訝しむように睨んでくる。


「……そうね」


落ち着いた声が届いたのは、

風が二、三度頬を撫でた後だった。


「確かに、必要もないのに、

笹山くん殺す意味はないと思うわ」


「黒塚さん……」


「でも、それってつまり、

笹山くんを殺す必要があればいいんでしょう?」


――は?


ちょっと待て。

今、なんて言った?


「カモネギね」


クスリという微笑。

ついで、黒塚さんが足下の鞄を開ける。


中から出て来たのは――


「ちょっ……!」


二振りの、無骨なナイフ。


刃渡りが三十センチはあろうかという

幅広のあからさまな凶器。


というより、

まさか――今からここで!?


「私のために、死んでちょうだい」


「くっ――!」


いきなり飛んできた斬撃を、

咄嗟にポケットから引き出した警棒で受け止めた。


「ほらっ! どこが“やる気はない”のよ!」


「そんなものを隠し持っている時点で、

殺る気満々じゃないっ!」


「違う! 話を――っぶない!」


点の軌跡で飛んできたナイフを、

済んでのところで回避する。


が、息つく間もなく次々と刃が襲来――

斬撃を止め突きを躱し、何とか体勢を整える。


一撃の鋭さと型の多さから、

二刀流が伊達じゃないことを理解。


身体能力任せの鬼塚とは違う、

完全に誰かに師事した“剣術”だ。


……真ヶ瀬先輩の開かずのロッカーから、

警棒を持ってきておいてよかった。


こいつがなかったら、ナイフ相手に素手なんていう、

酷い勝負になってたところだ。


まあ、武器があろうとなかろうと、

相手の間合いに居続けるのはまずい。


まずはとにかく距離を稼ごうと

相手の斬撃に合わせて、思い切り後ろに跳ぶ。


着地と同時に、さらに一歩――二歩。

呼吸三つの間に、相手との距離を一気に離す。


すかさず追いすがってくる黒塚さん。


が、斬撃と比べてこちらは人並みといった印象。

身体能力はそう高くない。


やっぱりABYSSでも男女差があるのか?


何にしても、これなら――


「話を聞いてくれ!」


「今更なんの話をするつもり?

命乞いなら受け付けないわよ!」


「違う! そうじゃなくて、やり合う以外に

別な方法があるんじゃないのかってこと!」


「無いわね! だってあなた、さっき、

必要な限りは人を殺してもいいって言ったじゃない」


っ、それは……。


「つまり、心の奥底ではあなたも、

理由のある殺人を認めているのよ」


「自分のことなんだから、分かるわよね?」


横に縦にと振るわれるナイフを回避しながら、

黒塚さんの言葉を反芻する。


僕は、殺人を肯定していると。


その必要性次第では、

誰を殺しても構わないと。


「否定する? してもいいわよ、別に」


「幾ら否定したところで、

どうせあなたはここで死ぬんだから!」


ダン、と地面を踏み鳴らし、

黒塚さんがナイフで喉元を狙ってくる。


それを仰け反って回避――続く連携を警棒で捌く

/接近に機先して側面に回り込む。


なおも追いすがってくるナイフ。


『お前は逃げられない』とでも言っているような

執拗な追撃。


まるで自分の過去のようだと思いながら、

その一閃を受け止める。


……黒塚さんの言う通りだ。


僕の人生は人殺しの上に成り立っていたわけだし、

どの道そこから目を逸らすことはできないだろう。


でも、だからこそ僕は、

その必要性を議論したい。


人殺しを否定できないからこそ、

ありとあらゆる代替手段を考えたい。


僕の大事なものを守るにしても、

みんなの大事なものを守るにしても。


行為に釣り合うものが得られるかどうかを考えて、

それから力を行使していく。


それが、佐倉さん――那美ちゃんから教わった、

僕のこの世界での生き方だ。


エゴでもいい。

詭弁でも構わない。


それに従ってきたことで、暗殺者だった僕は、

こんなにまで救われたんだから。


後ろに跳躍――間合いを大きく離して、

ABYSSの少女を見据える。


もうさすがに、

話し合いの余地はないだろう。


彼女は僕を忌み嫌い――そしてABYSSであるが故に、

逃がすつもりはないはずだ。


だから、加減はしない。


彼女が僕を殺そうと言うのであれば、


「この、チョコマカと……!」


僕は、殺さずに黒塚さんを叩き伏せる。


「――えっ?」


黒塚さんの驚く顔が、

一瞬で僕の眼前に広がった。


一足で詰められると思ってなかった?

僕が逃げ回るだけだと踏んでいた?


さすがにそれは、

幾らなんでも僕を舐めすぎだ。


右の掌底で思い切り、

彼女の腹を打ち抜いた。


が、思ったより手応えはなし

/恐らく命中の瞬間に後ろに跳ばれた。


まあいい。

どうせ一撃で終わると思っていないし。


「こ、コイツっ……!?」


苦痛に顔を歪める黒塚さんの上から、

警棒を縦に振り下ろす。


それをナイフで受け止められる――

回避を予想していただけに少し意外。


もしかすると、

さっきのはそれなりに効いているのか?


それなら――


ッ……」


続けざまに踏み込みながら、

警棒を縦に横にと力任せに振るう。


当然、ナイフに防がれはするものの、

それ自体を弾き飛ばすのが目的だから全然構わない。


「悪いけれど、僕が勝つよ」


黒塚さんは非力だ。


いつぞやの夜の鬼塚と比べると、

体重差を外しても力の差は歴然としている。


その差を、技術と肉厚のあるナイフで補っているから、

まだ勝負にはなっているだけの話。


それさえ欠けてしまえば、

彼女は僕の敵じゃない。


“判定”も――問題なし!


「よっと!」


“判定”に混じって金属がかち合う音が響き、

それに隠れて彼女の手首が軋みを上げる。


「っく! ぐ、うぅっ!」


一撃ごとに、

黒塚さんの顔と声が苦痛に染まっていく。


手首は受ける度に大きくぶれて、

ともすればナイフで自傷してしまいそうなほど。


よし。これならもう少し。


一気に勝負を畳みかけるべく、

特殊警棒を振りかぶる。


「――あぁあッ!!」


が、黒塚さんは地面を転がり、

僕との距離をなりふり構わず離してみせた。


「くそぁっ!」


叫びと共に即座に跳ね起きる

/こちらを睨んでくる。


けれど、そんなのはなんの効果もない。


彼女が僕に向かってきたところで、さっきの調子なら、

接触すればするほど僕が有利になるだけだ。


「笹山、晶ぁ……!」


「……もう、僕に向かってこないでよ。

僕に君を殺すつもりはないんだから」


ただ、色々と喋ってもらうけれどね。


それだけ言って、

体の前に構えていた警棒を下ろしてみせた。


「ッ! バカにしてるの!?」


「別にしてないよ。

でも、これ以上やりあったところで、結果は見えてる」


忌々しそうに僕を睨み付けてくる黒塚さん。


ただ、申し訳ないことに、

今やってるのは睨めっこじゃない。


「僕はね、黒塚さん。

君を無駄に傷つけたり、殺したりしたくないんだ」


例えABYSSだろうと、

自分よりもか弱い女の子をいたぶるつもりは毛頭ない。


「まあ、さっきも言った通り、

どうしても必要であればやるけれどね」


だから、大人しく僕の言うことを聞いて欲しい――


そんな僕の説得に、

黒塚さんは自虐っぽく笑った。


「……舐められたものね」


そして、おもむろに

ポケットへと手を突っ込んだ。


……どうして、

わざわざ不器用そうにナイフを持ったまま?


「いいわ。朝からどうかとは思ったけど、

特別にヤってあげる」


「? それは、どういう……」


「――お願いだから」


艶めかしい声。


ゾッとするような、その音が響く口腔に、


「この後も、同じことを言ってみせてね」


黒塚さんは、

ポケットから取り出した何かを放り込んだ。


なん……だ?


今、何をした?


「くろ――」


僕が声をかけるのと同時。


彼女が、開けた口を強く閉じた瞬間――


強烈な野獣の雄叫びに、身体が竦み上がった。


痙攣ともつかない震えが走る。


皮膚の表面を無数の虫が這い回るように、

全身の毛が逆立っていく。


「っ……!」


な……。


何なんだ、これ……。


咆哮さっきのは……まさか、


“判定”なのか……?


「笹山くん」


呼びかけに、慌てて顔を上げる。


そうして見つめた先で、

黒塚さんの艶やかな唇が、小さく動いた。



『死んで』


「――え?」


それはまるっきり、

さっきの焼き直しだった。


気付いた時にはもう、

彼女の顔が視界一杯に広がっていて、


気付いた時にはもう、

腕に衝撃が走り始めていた。


そう。

僕が意を決して、彼女に攻め入った時と全く同じ。


ただ、彼女が一足で詰めた距離が

僕の二倍近くであり、


攻め攻められの立場が

真逆であることを除いては――


「嘘だろっ……!?」


猛烈に後ろに引っ張られるような感覚と共に、

体が宙に浮き上がる。


何をされたかは、考えるまでもなかった。


ただ、力一杯ナイフを振り抜かれた。


それだけなのに――


「この威力か……!」


一足飛びの加速が乗っていたとはいえ、男の僕が、

まさかこうも軽々と吹っ飛ばされるとは。


信じられない思いを抱きながらも、

体勢を繕いつつ何とか着地。


相手の姿を捉えようと、顔を上げる。


「っ!?」


そこに見えたのは彼女の姿ではなく、

顔面に捻り込むように伸びてくる青色のナイフだった。


回避する余裕など微塵もない、

ほぼゼロ距離からの一突き。


それに夢中で警棒をぶつけて、

無理やりに軌道を逸らす。


直後、線の軌道の第二撃が頭上から飛んできた。


「は――」


やい、なんて言ってる余裕すらなく、

両手で警棒を突き上げてその一撃を受け止める。


「いぎっ……!」


強烈な衝撃が掌に染みる/肉も骨も軋む

/肩が外れそうになる。


それでも、どうにか勢いは殺しきれたらしく、

刃は目の先二十センチの位置で停止した。


が、力の拮抗したその位置で、

今度は押し合いの攻防が開幕。


縫い止められた膝立ちの姿勢のまま、

上からの圧力に必死になって耐える。


力の篭もった腕が、ぶるぶると震える。


こんな力、振るっている側にだって、

相当な反動があるはずなのに――


「何だ、これ……!?」


眼前には、ギリギリと押し込まれるのに伴って

警棒がひしゃげていくという、ふざけた光景があった。


何なんだ、この強烈な豹変は……!?


黒塚さんは一体何をした?

どうすれば、こんなに変わる?


「笹山くん」


頭上から、冷たい声が降ってくる。


「さっき、何て言ったのかしら?

忘れちゃったから、もう一度言ってくれない?」


ナイフと警棒が交差する先に浮かぶ、

黒塚さんの冷笑。


そんな涼しい顔をしながらも、

ナイフはじわじわと圧力を増して、鼻先へと迫ってくる。


何なんだよ、これ……?


この変化はあまりにも異常だ。


さっき、口に放り込んでいた何かのせいか?


いや、思い当たるのはあれしかない。


あれが、ABYSSの力の秘密……!


「ほら、どうしたの? うふふふ……」


ただ……それが分かったところで、

どうするか。


彼女は僕を殺そうと、

その力を余すことなく振るってくるだろう。


このままじゃ、絶対に勝てない。


となれば、鬼塚の時のように、

どうにか“集中”しないと――


「身体がお留守よ」


「ッ!?」


その声が聞こえた瞬間、全ての考えを捨て去って、

もうただひたすらに後ろへ跳んだ。


そこへ、鞭のようにしなった足が飛んでくる。


「――うぶっ!?」


爪先がみぞおちに食い込み、

激痛が腹部に走った。


吐き気が込み上げてきて、

口の中が一瞬で酸っぱくなった。


けれど、そんなのを気にしている暇はない。


僕は無理やり胃液を飲み込み、すぐに――


「あぁあっ!!」


左肩へと向かってきていた彼女のナイフを

警棒で払いのけた。


「ほらぁ、どうしたのよ笹山くん?

そんなにのんびりしてると、危ないんじゃないの!?」


続いて飛んでくる二の太刀。


身体を捻る

/足りない部分は警棒で補って回避する。


警棒がさらに変形したけど、

もうそんなのに構っていられない。


黒塚さんが閃かせる数種の軌道をなさないと、

一秒後には間違いなく殺される。


「ほらほらぁ!

もっと頑張ってよ、ねぇ!?」


「ほらほらほらほらほらほらほらほらぁっ!!」


細かなステップ。二刀の乱舞。


点と線が瞬く間に結合していき、

三次元的な暴力で襲いかかってくる。


もう、黒塚さんの周囲に安全な場所はどこにもない。


そして――その空間から外に逃がしてくれない。


まるで殺人ミキサーにでも放り込まれた気分。


息つく間もないほどの速さ/苛烈さで、

左右の凶器が行動の一つ一つを咎めてくる。


鬼塚を超える猪っぷりに辟易――

こんな綱渡りを、一体いつまで続けろっていうんだ?


「ぐッ……!?」


思ってる傍から、危うい回避に容赦のない王手――

髪の毛を削られる/冷や汗が噴き出る。


けれども反省してる暇もなく、

続く追撃に跳躍を合わせて距離を離す。


なのに離れない/離れてくれない。

――おいおい、ふざけんな!


そんなこっちの内心を読み取ってか、

疲れ知らずの猛烈なラッシュの合間に魔女が微笑。


根に持たれているさっきの発言を

今さらながらに後悔。


というか、完全に退き際を誤った。


鬼塚と同じように叩き伏せられると思っていた、

見通しの甘さを痛感する。


せめて集中さえできれば?


これの一体どこに、

集中する隙間があるっていうんだ?


「ぐ、う、うぅぅっ!!」


アルミ合金製の特殊警棒は、

既に曲がるを通り越して折れかけている。


受け止められる面積も、時間も、

刻一刻と減っていく。


ダメだ。

もう手段は選んでいられない。


とにかく、人を呼ぶために大きな声を――


――出そうと思ったところで、

血の気が引いた。


まともに息を溜められない。


全力でひたすら動き回ってるのはもちろん、

さっき腹にもらった蹴りがここで効いていた。


依然として魔女のラッシュは止まらない。



じわりと。焦りが脂汗のように

心を覆い始めるのを自覚する。


このまま逃げていても、

待つのは死だ。


黒塚さんも、

恐らくそれを知っている。


見逃してくれることはないだろう。


……本当に?


本当に……僕はここで死ぬのか?


ナイフに連れられた風が、首元を撫でる。


あと十センチも前にいたら死んでいた。


……嘘だろう?


こんな朝っぱらから、しかもお日様の下で、

誰かに殺されるだなんて――冗談にしても笑えない。


弾き損なった突きが、

運良く脇腹の下を抜けていく。


運が悪ければ、死んでいた。


心臓が高鳴る。

急に汗が噴き出す。


死ぬ。


違う。


死ぬ。


嘘だ。


だって、こんな……。


こんな、黒塚さんなんか――



“簡単に殺せるだろ”


「誰かいるんですかー?」


「――えっ?」


「なっ……!?」


聞き覚えのある声に、

僕と黒塚さん、両方の動きがぴたりと止まる。


直後、屋上のドアがゆっくりと開き始め、


「――チィッ!」


黒塚さんは、弾かれるように

屋上の陰へと跳んでいった。


入れ替わるようにしてやってきたのは――


「あら、晶くん」


「ひ、聖先輩っ……?」


「朝からこんなところでどうしたんですか?」


「あ、いえ……

聖先輩こそどうしたんですか?」


「屋上で誰かが騒いでいるような声がしてたんで、

ちょっと様子を見に来てみたんです」


「ガシガシ! って感じの音がしていたんですけど、

もしかして晶くんですか?」


「え、あ……まあ、そですね」


「ダメですよー、屋上だからってあんまり騒いじゃ。

廊下まで聞こえてきてたんですからね?」


「す、すみませんっ」


そうか、廊下まで争いが聞こえてたのか……。


でも、正直言って助かった。


聖先輩が来なかったら、

果たしてどうなっていたことか。


黒塚さんが跳んでいったほうに目をやる。


恐らくはもう、屋上にはいないだろう。

窓か何かを伝って、行ってしまったに違いない。


ただ……決着がついていない以上は、

また会うことになるだろう。


十中八九、殺し合いをするために――


「あら、晶くん警棒それは?

真ヶ瀬くんのですよね、確か」


「えっ? あ――そうだったんですか?」


「ですです。保管されてるはずだったんですけど、

持ち出してきたんですか?」


「ああ……いや、生徒会室に行ったら、

たまたま床に転がってたのを見かけて……」


自分でも苦しい言い訳だと思いつつも、

どうにか平然を繕って並べる。


戦ってる間は気付かなかったけれど、

今思うと壊したのもちょっとまずいな……。


「あの……先輩、

真ヶ瀬先輩にはナイショにしててくれますか?」


「ちょっと色々遊んでたら、曲がっちゃいまして、

直そうと逆側に衝撃を与えたら、余計に変に……」


……我ながら言い訳が苦しいなぁ。


「もー。そういうことしちゃダメですよ?」


「すみません……」


「まあ、いいです。男の子ですしね。

そういうのに憧れる気持ちもあるでしょうし」


頭を下げながら、

ごまかせてよかったと胸を撫で下ろす。


聖先輩はもちろん、誰にだって、

ABYSSとのことをバレるわけにはいかない。


「それ、晶くんのほうで

ちゃんと片付けておいて下さいね」


「私からは話しませんけど、

どこから真ヶ瀬くんにバレるか分かりませんから」


「……そうですね」


先輩に返事をしつつ、

手の中にある折れ曲がった警棒へ目を落とす。


改めて考えてみても、

とんでもない力だった。


次にABYSSと接触するまでに、

何か武器を探しておかないとな。


今回は運良く助かったけれど、

こんなのはラッキー以外の何者でもないし。


……そういえば、聖先輩が入って来る前に、

何かちょっと変なこと考えてなかったか僕?


普段思いつかないことというか。


自分でも、よく分からないけれど――


「晶くん、行きますよー?」


「あ、はい!」


ドアの前で待つ先輩のもとへ走りながら、

縮まなくなった警棒をポケットに無理やりねじ込む。


それから、陽光くすぶる屋上を後にした。



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