物語の始まり3

風になびく白い服。


何度も高く飛び上がっては

光の雫を振りまく体。


一心に空を目指す、宝石みたいな瞳。


木漏れ日の輝きを纏い、踊るように羽ばたくその子を

目で追いかけながら、ぼんやりと思った。


ああ、白鳥みたいだ、って――



その美しい踊りに目を奪われてから、

どれだけ経っただろうか。


「ちょっとーっ! おーいっ!」


いつの間にか、

白鳥が僕のほうへと大きく手を振っていた。


「あ、やっと気付いた!

そこの……多分、男の子!」


たぶんおとこのこ?


「聞こえてないの? 君だよ、君!」


「ええと……僕かな?」


「そうそう、きみきみっ!

こっち来て!」


力一杯頷く少女の元へと、

吸い込まれるような気分で歩み寄る。


「あー……ちょっと背、低い?」


「……そうかな?」


確かに、この子よりは

ちょっとだけ低いけれど……。


「んー、肩車すれば届くと思ったんだけど、

私たちじゃ無理かなぁ」


「届くって、何に?」


「私の帽子」


女の子が、視線を空へと向ける。


それに習って僕も顔を上げてみると、

笹の枝に引っかかっている鍔広つばひろの帽子が見えた。


「お母さんに買ってもらった帽子なんだけど、

うっかり飛ばされちゃったんだよね……」


「ジャンプしても届かないし、石を投げても駄目で、

どうしようって思ってたの」


ああ……さっきのは、

踊っていたんじゃなかったんだ。


まあ、さっきのが全力のジャンプだったなら、

届かないのは当然だと思う。


「それで、肩車?」


「うん。ただ、君と私じゃ、

それでも届きそうにないよね……」


「肩車じゃなくて、

笹をのぼってジャンプすれば届くよ」


「あのねー。

笹とか竹って、昇るの凄く難しいんだよ?」


「普通の木なら昇って取っちゃうけど、

それができないから困ってるの」


……そんなに難しくないと思うけれど。


というか、それ以前に、

どうしてこの子は僕に声をかけてきたんだろうか。


白鳥このこ雛鳥ぼくじゃ、

住む世界からして違うっていうのに。


「ねっ、何かいいアイディアない?」


「アイディア?」


「だから、帽子を取る方法」


「一人より二人のほうがいっぱい思いつくし、

一緒に考えてよ。ねっ?」


「え? あっ……」


ぱっと、手を握られて。


木陰のほうへと、手を引かれた。


「……うそ」


事象として認識はできているけれど――

何が起こったのかは、理解できなかった。


「あれ、どうしたの?」


「あの、これ……」


「あ。手、握っちゃダメだった?」


「駄目っていうか……」


理解できなくて、言葉が出て来ない。

上手く頭が回らない。


僕は。


僕は、普通とは違う。


僕は、出来損ないとはいえ、

暗殺者として育てられてきた人間だ。


不意打ちに対する訓練なんてものは、

それこそ飽きるほどやっている。


訓練もしていない人間に、

自分の手を気安く掴ませるなんて絶対にあり得ない。


なのに――


今、右手の中には、

小さな手が収まっていた。


訓練されていない人間の、しかも子供で女の子の、

小さくて柔らかい、手。


「うっ……!」


それを明確に意識した途端に、

顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。


“普通の人”に、

まさか不意を突かれただなんて――


家族にもしも知られたなら、

一生物笑いの種にされてもおかしくない。


「あれ、どうしたの? 顔真っ赤だよ?」


「べ、別に何もっ!」


顔を見られたくなくて、

女の子から慌てて目を背ける。


顔が熱い。動悸が収まらない。


信じられないくらい動揺しているのが

自分でも分かる。


けれど、上手く気持ちを静められない。


木陰にいるはずなのに、

顔が熱くて、汗が噴き出てくる。


何だこれ。

頭がどうにかなったとしか思えない。


握手される致命的な隙を晒してしまったことも。


自分が今、あり得ないぐらい動揺してることも。


――何故か、この子の手を振り払えないことも。


逃げ出してしまいたいくらい恥ずかしいのに、

磁石でくっついたみたいに、手を離せない。


変だ。ただ、とにかく、変だ。

きっとそうだ間違いなく。


でも、何で変なのか考えようとしても、

足し算すら間違えそうなくらい頭が働いてくれない。


「何で……」


「ん?」


だから――


「何で、僕に話しかけたの?」


暴風警報発令中みたいな頭の中で、

嵐のど真ん中にあった質問を口に出した。


「何でって……」


女の子が、きょとんとした顔で、

目線を斜め上に持って行く。


それから少女は、

考え込むように『うーん』と唸って、


「君が必要だと思ったから、かな?」


「――」


「あと君、三組の転校生だよね?

友達になれないかなって思ったんだっ」


「そう……なんだ……」


少女の言葉が耳に触れた途端――


目の前が、光に滲んだ気がした。


嵐のようにぐちゃぐちゃになっていたのが嘘みたいに、

頭の中が凪いでいった。


今なら、この子の手に触れて、

離せなかった理由が分かる。


それは、きっと憧れ。


お父さんに捨てられて。

この世界に馴染めなくて。


不安で。惨めで。居場所がなくて。

当てもなく逃げ出して。


そんな逃避行の先で見た白鳥に、

童話の雛鳥と同じように、一目で憧れていたんだ。


『こんな、目を奪われずにはいられない白鳥に、

僕もなれたらなぁ』って。


分不相応だと分かっていても、

せめて、誰かに必要とされたいって。


なのに、手を伸ばしても届かない場所にいるはずの、

眩しすぎる白鳥は――


こんな僕を“必要だ”って、

手を掴んでくれた。


「ありがとう」


僕の一番欲しかったものをくれて、ありがとう。


ここにいてくれて、本当にありがとう。


「……うん? まあ、何かよく分からないけど、

どーいたしましてっ!」


女の子はあまり気にする様子もなく、

僕の言葉を受け入れてくれた。


けれど、繋いだ手の温かさが、

その包容を無関心からくるものじゃないと教えてくれる。


だから、安心してその手を離した。


「あれ? どこ行くの?」


「取ってくるよ」


僕は、必要とされている。


その期待に応えたくて――飛んだ。


「――えっ?」


手足を使って笹を駆け上がり、

帽子の引っかかっている高さまで跳ねる。


それから、帽子を傷つけないように枝ごともぎ取って、

地面に着地した。


まるで僕から抜け落ちたみたいに、

はらはらと舞い落ちてくる笹の羽。


その向こうで目をまんまるにした女の子に、

笑顔で歩み寄って帽子を差し出す。


「はい、どうぞ」


「……あれ? 君のだよね?」


ぷるぷると震える少女に不安を覚えて、

その顔を覗き込む。


途端、


「すっごーーーーいっ!」


少女の声とか顔とかが、まとめて爆発した。


その勢いに驚いて後退るも、

すぐさま腕を掴まれて引き戻される。


「凄い凄い凄い! 忍者みたいだよ!

君って凄いんだねー!」


「うん……ありがとう」


がらくたになったと思っていた僕の修練これまでも、

やっぱりこの子は褒めてくれる。


この子の傍にいれば、

こんな僕でも、普通になれる気がする。


「ね、君。名前は何て言うの?」


「僕は……晶。笹山晶だよ」


「晶……うん、晶ちゃんだね!」


晶……ちゃん?


「僕、男なんだけれど……」


「でも、女の子みたいに可愛いから、

晶ちゃんでも大丈夫だよ」


大丈夫とか、

そういう問題じゃないと思う……。


ただ、悪い気はしなかった。


今まで呼ばれたことのない“晶ちゃん”で呼ばれるのも、

普通の人になるために必要なことのように思えた。


「私はね、佐倉那美」


「佐倉那美……那美ちゃんだね」


「うんっ。自己紹介も終わったし、

これで私たち友達だね!」


那美ちゃんが、

手を差し出してくる。


僕の居場所を作ってくれた、

魔法みたいなその手を、感謝を込めて握り返す。


「これからよろしくね、晶ちゃん」


「うん、こちらこそよろしくね。――那美ちゃん」



これが、僕と彼女の出会い。


そして、僕が日常の住人になった出来事――



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