運命のリヴァケイル ~落ちこぼれの元暗殺者は殺人クラブに狙われている~

Lose

共通篇

悪夢の始まり1

「ちょっと……やめてよ、もう……」


少女が歩く足を止め、

哀訴を漏らす。


だが、肩息混じりの呟きには、

神様はもちろん足音の主からさえも返答はなかった。


薄暗い路地裏に響くのは、

ただ少女の荒げる呼吸音だけ。


「いい加減にしてよ……何なの……?」


祈るように呟きながら、

少女が背後へと振り返る。


誰もいない。


念入りに辺りへと目を配る。


影も形もない。


あるのは、いつ捨てられたかも分からない自転車など、

誰も目を向けないようなゴミばかり。


足音を立てるような生き物は、

獣一匹/誰一人としていなかった。


が――誰もいないことを確認してもなお、

少女は暗い顔のまま。


何もないはずの背後を何度も振り返りながら、

逃げるように先を急ぐ。


その不思議な行動の理由は、

ごく単純なものだった。


『誰もいないにも関わらず、足音がずっとついてくる』


いつからかは分からない。


繁華街に入った時からなのか、

その前に近道として公園を通ったからなのか。


それとも学園を出た時さいしょからなのか――


ただ、気付けばいつの間にか、

立ち止まる度に一歩、足音が増えていた。


一歩だけ。

それ以上は増えもしないし減りもしない。


少女が立ち止まるごとに一歩多く、

そして直前のそれより大きく、足音が聞こえてくる。


「もう……止めてよ、本当に……」


少女の肩が竦まり、心細げに震える。


疑いや苛立ちといった感情は、

とうに燃え尽きていた。


一方で、代わりに燻り始めた不安は、

今にも焔を噴き出しそうだった。


その熱に焼かれる前に、

少女が走り出す。


手に持つ鞄を胸に抱え、叫び出す代わりに唇を噛み締め、

闇の中を突っ切るように頭を低くして走る。



追跡を意識し始めた頃より既に、

帰宅ルートからは大きく外れていた。


自宅を特定させないための彼女なりの配慮だったが、

今となっては後悔しかない。


どうやっても足音以外の存在を掴めないこの相手は、

幽霊か何かとしか思えなかった。


となればもはや、

自宅を特定されることなど躊躇していられない。


一歩ずつ近づいてくるこの“足音”に追いつかれる前に、

早く自宅へと辿り着かなければ――


息を切らし/額に汗を浮かせて、

少女がひた走る。


立ち止まってはいけない。

立ち止まれば、その分だけ近付かれる。


実害は今のところなくとも、

決して追いつかせてはならないという予感があった。



力ない足音と喘ぐような呼吸音が、

人気のない道に消えていく。


苦しい。

もうどれだけ走ってるのかも分からない。


得体の知れないものから逃げ回る行為に、

馬鹿らしさと虚しさとが込み上げてくる。


立ち止まってしまえば楽になるが、

どうしてもそれはできない。


一体どうして、

こんなことになってしまったのだろうか。


担任に頼まれて、

余計な雑務を引き受けてしまったから?


甘い物好きな弟のために、

鯛焼きを買っていってやろうと寄り道したから?


「……ああ、そうだ」


早く帰って、

良都にご飯作ってあげないと――


お腹を空かしてるだろう弟のことを思い出し、

少女の足が少しだけ元気を取り戻す。


春先に進学したばかりの少女の弟は、

まだ変声期すら迎えていないあどけない少年だった。


歳相応の華奢な体、女の子のような声に、

可愛らしい顔立ち――


男らしさより中性的な造形を好む少女にとっては、

そんな弟が可愛らしくて仕方がなかった。


あまりにも可愛いがりすぎて、

最近は弟から『姉ちゃん邪魔』と邪険に扱われるほどだ。


もちろん、どう扱われようが、

少女から弟へのスキンシップは止まないのだが。


当然、そんな彼女を

友人たちは“ブラコン”とからかう。


少女が男子の目を惹きつつも彼氏を作らない理由は、

弟を愛しているからだと、冗談で何度も言われていた。


酷い時には、告白を断った相手にまで、

目の前で『弟がいるからダメなの?』と泣かれたほどだ。


そういった周囲の反応に、

もちろん少女は憮然としながら否定していた。


が、内心では、

そう言われるのも当たり前だとも思っていた。


それほどの、

自他共に認めるほどの溺愛ぶり。


そんな弟に早く会いたくて――


この酷い悪夢のような状況から早く現実に戻りたくて、

少女はひたすらに足を動かす。


脇腹の痛みを堪え、迫り上がってくる吐き気を飲み込み、

もう少しにまで迫った自宅を真っ直ぐに目指す。



「――ッ!?」


そんな彼女の鼻先を、

トラックが猛スピードで掠めていった。


角を曲がった直後の出会い頭だった。


慌てて踏み止まったため、

どうにか大事には至らなかった。


それでも、叩きつけられた風の冷たさと排ガスの臭いに、

冷や汗が噴き出してくる。


もう少しだけ気付くのが遅れていれば、

トラックに轢かれてしまっていただろう。


「あっぶなかった……」


街灯の下、間一髪にも危機を免れたことに、

少女が胸を撫で下ろす。



――じゃり、と。


背後で、足音が鳴った。


少女の目が見開かれる。


喉が鳴る。こめかみを汗が伝う。


体は、膝に手を置いた体勢のまま、

声をかけられた瞬間から固まっていた。


そういえば――と思い出す。


私は、立ち止まってはいけないのではなかったか――


「ヒッ!?」


突然肩を叩かれ、悲鳴が漏れた。

体が跳ね上がった。


しかし、動いたのはそこまで。


急に立ち止まったのが悪かったのか、

それとも恐怖で身が竦んでいるのか――


肩に手を置かれただけにも関わらず、

まるで地面に縫い付けられたように動けない。


逃げ出したくても――逃げられない。


「う……あ……」


トラックに轢かれかけた時よりも、

ずっとずっと黒い恐怖が少女の内に広がっていく。


胃の腑がぐっと縮まるようなその感触に、

吐き気が込み上げてくる。呼吸が浅く速くなる。


気を抜けば意識が飛んでしまいそうだったが、

それだけはまずいと緊張に耐えた。


肩に置かれた手は、

そのまま退かされる気配もない。


まさか、猫や何かが肩に乗っているというような、

そんな都合のいいことはないだろう。


これまで足音でしかアプローチしてこなかった何者かが、

ついに、少女へと触れてきたのだ。


だが――振り向いてはいけない。


ちまたに数ある怪談では、振り向く者こそ、

この世ではない場所へと連れ去られているではないか。


振り向いてはいけない。


振り向けば、きっと戻れなくなる。


確かにそう、少女は思っていた。


しかし――


どうしても、我慢できなかった。


敵意を持つかもしれない何者かに背後を取られて、

肩まで叩かれて。


それを見過ごせる人間が、

どれだけいるだろうか。


振り返れば地獄を見るかもしれない。


だが、振り向かなければ、

地獄すら見ることができなくなる可能性がある。


そういった前提の上で改めて考えてみれば、

この状況ではそもそも選択肢が存在していなかった。


少女が、口腔に溜まった唾液を嚥下する。


高鳴る心臓が震わせる指先を、

手の平に強く握りこむ。


それから、深呼吸を一つして、

ぐっと息を止めた。


これ以上何かをすれば、

もっと時間を稼ぎたい思いが出てくる。


辛うじて覚悟が内に生まれてくれた今こそ、

背後を確認しなければならない。


そんな思いを胸に、

少女が恐る恐る“誰か”へと首を回して振り返る。


最初に見えたのは、

自身の肩に乗った白手袋。


続いて視界に入る、

闇に溶けるような出で立ち。


黒い腕/黒い外套/黒い頭巾。

そして――


白い仮面がそこにあり、



――その光景を最後に、少女は意識を失った。







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