幼馴染み










「ひっ!?」


「あー、何だこりゃ?」


羽犬塚に連れられてやってきた先では、

大量の血液が床にぶちまけられていた。


「まさか、佐倉さんのじゃ……」


「……いや、違うな。

多分、この血はこいつのだ」


血溜まりの傍で横たわる怪物を、

藤崎が躊躇いなく足蹴にする。


腕の辺りに巻かれていた包帯を見て、

羽犬塚はそれが丸沢なのだと気付いた。


「深夜さんがやったの……?」


「ここにあるってことは、多分な。

女を食う前に襲われたとかじゃねぇのか?」


「死体作家が怪物を始末してる間に、

女は逃げて……今はそれを追ってますって感じか」


血溜まりから点々と続く男の足跡を、

藤崎が目を細めて睨み付ける。


これを辿っていけば、

間違いなく殺人鬼に遭遇できるだろう。


だが、問題はその後だ。


怪物を苦もなく殺すような相手であれば、

本気の殺し合いになるのは確実。


そうした時に、羽犬塚が傍にいると、

人質に取られてしまう可能性があった。


となれば――


「……おいチビ。

お前はここでちょっと待ってろ」


「えっ? でも、藤崎くんだけだと、

那美ちゃんは逃げちゃうと思うよぉ?」


「分かってんだよ、そんなこと。

だから、女はお前が助けろ」


「俺様が先に行って、引きずってでも

死体作家と女を引き離してやる」


「……大丈夫?」


「バーカ、俺様がその辺の殺人鬼に負けるわけねぇだろ。

一応、作戦もあるしな」


だから、お前は自分のやることをやれ――


そう、藤崎が羽犬塚の頭に手を置いたものの、

羽犬塚は不安げに藤崎を見つめたまま黙っていた。


「お前な……俺様を信用してねぇのか?」


「ううん、そういうわけじゃないよ。

信じてるから、助けてってお願いしたんだもん」


「でも、深夜さんって凄く強いし、

ともくん一人じゃ無理するんじゃって……あっ」


間違えて『ともくん』と言ってしまったことに気付き、

羽犬塚が怒られるのではと身を竦める。


が、意外にも藤崎から雷が落ちることはなく、

腰を落として、羽犬塚と目の高さを合わせてきた。


そして、戸惑いに揺れる羽犬塚の瞳を、

真っ正面から見つめる。


「俺様は強ぇ。

お前もそれは知ってるよな?」


「うん……知ってる」


「でも、不安か?」


「……うん」


強さを知っていて、なお不安――


もちろん、深夜と比して、

藤崎を下に見ているわけではない。


その不安は、修羅場へと赴く藤崎に対しての、

羽犬塚による純粋な心配だった。


「ったくよぉ……」


藤崎が空いている手で、

自身の頭髪をぐしぐしと掻き回す。


それから、今にも泣きそうな羽犬塚を見て、

持て余すように口をへの字に曲げた後――


『仕方ねぇな』とポケットを漁り、

取り出した懐中時計を羽犬塚の手に握らせた。


「えっと……これって?」


「お守りだよ。こいつを持っとけ。

効き目は保証しねぇけどな」


「でも、お守りが必要なのは私じゃなくて、

ともくんのほうなんじゃ……」


「いいから黙って持っとけっつってんだろ!!」


「ごめんなさいぃぃ!!」


怯えきった目に涙を溜める羽犬塚

/それに盛大に溜め息をつく藤崎。


ぽつりと零した『お前さぁ……』という言葉に、

彼の苦労が滲み出ていた。


「……まあいい。とりあえずそれ持っとけ。

多少は不安も紛れんだろ」


「でも、こんな高そうなもの、

もらってもいいの……?」


「はぁ? 誰がやるっつったよ?

後でちゃんと返せ。汚すなよ」


藤崎が立ち上がって、

羽犬塚の頭をぐしぐしと掻き回す。


その乱暴なやり方に、羽犬塚が抵抗しようとするも、

藤崎は伸びてくる手を躱しながらそれを続行。


満足するまでひとしきり撫でてから、

ようやく羽犬塚の頭を離した。


「ひどいよ、ともくん……」


「お前がウザいのが悪いんだよ。

っていうか、ともくんって呼ぶんじゃねぇ」


「でも……本当に、ともくんじゃないの?」


「……余計なこと考えてんじゃねぇよバカ。

お前は友達の女を助けることだけ考えてろ」


「ともくん!」


「じゃあな」


羽犬塚に背を向けて、

藤崎が血の足跡の追跡を開始する。


羽犬塚は何か言おうとしたものの――

藤崎はあっという間に遠くへと行ってしまった。



「……ったく、何が“ともくん”だよ」


羽犬塚から遠く離れたところで、

藤崎が独りごちる。


調子が狂っているという自覚はあった。


持ち込むほど大切だった懐中時計を渡したり、

あんなに馴れ合う気もなかった。


いや――それ以前の問題として、

何故、未だに羽犬塚を裏切らずにいるのか。


那美を助けることが決まった後、

それを報告した高槻との通話を思い出す。


「お前さー、それってののかのこと

人質に取っちまえば早いんじゃねーの?」


「那美は見捨てて、ののかを人質に、

温子からカードを全部巻き上げりゃいいじゃん」


「ヤるヤらないにしてもよー、

別に力尽くで行けるだろお前なら」


「とりあえず捕まえてヤっちまえって。

今、隣にいるんだろ?」


言われてみて、藤崎は、

自分にそういう発想がなかったことに愕然とした。


高槻の言うことは正しい。

裏切れば、協力する以上の収穫がある。


わざわざ労力を割いてまで

羽犬塚に協力する理由などない。


なのに、ABYSSであるはずの自分が、

どうしてそれを思いつかなかったのか。


高槻にそういう手段を与えられた後に、

どうしてそれを実行しなかったのか。


それを考えた時――

ふっと、在りし日の少女の笑顔が思い浮かんだ。


「……あいつがいつまでも

チビのまんまなのが悪い」


脳裏に焼き付いている記憶と大差ない姿は、

どうにもぶち壊す気にはなれなかった。


懐中時計もそうだ。


後生大事に持っている自分に腹が立ちながら、

結局は捨てることができないまま。


もしかすると、一時的に手放したのでさえ、

さっきのが初めてかもしれない。


「……いっそ、あいつにあのまま

あげちまうか?」


考えてみて――

『それも悪くないな』と藤崎は思った。


そうすることで、ずっと心に抱えてたものが

無くなってくれるかもという期待があった。


それにきっと、

羽犬塚も諸手を挙げて喜ぶだろう。


「……おっと」


そんな余分な思考を、

話し声が聞こえてきたところで断ち切った。


相手の実力は部長級。

ここから先は、間違いなく修羅場だろう。


しかも、今回はただ勝てばいいわけではなく、

那美と深夜を引き剥がさなければならない。


相手を動かすことを前提に行く――と、

藤崎が懐から確保しておいた特殊警棒を取り出す。


それで壁面をガリガリと引っ掻きながら、

今まさに惨劇が起きんとする現場へと踏み込んだ。


「よぉ――随分とお楽しみじゃねぇか。

お絵かきだけじゃなくて、そういう手順もあんのか?」


少女に笛を銜えさせんとしていた殺人鬼を見て、

藤崎が嘲笑を浮かべる。


「藤崎さん……」


「……あなた誰です?」


「あー……誰ですか、か」


藤崎の頭にパッと思い浮かんだ単語――

“正義の味方”。


しかし、柄にもなさ過ぎて、

さすがにそれを名乗ることはできなかった。


「通りすがりのブッ殺し屋だよ。

そういうテメェは死体作家で間違いねぇな?」


「死体作家……? やだなぁ、違いますよ。

僕は好きな人に会いたいだけの絵描きです」


深夜がにっこりと微笑み――


藤崎はその笑顔を睨み付けながら、

不意を打って飛んできたナイフを横っ飛びで回避した。


「……怪物よりは手強そうですね」


「本性出しやがったな、殺人鬼」


今度は藤崎が好戦的な笑みを浮かべて、

深夜へと突っ込んだ。


深夜が素早く飛び退く/続く警棒の打撃を躱しつつ、

予備のナイフを取り出す。


始まる打ち合い――力がほぼ拮抗しているのか、

一方的な打ち負けはなし/武器による優劣もなし。


ただ、手数は圧倒的に藤崎のほうが多く、

深夜が必然的に防御に回ることに。


「うっ……!?」


その防御をこじ開けんと、

さらに藤崎が蹴りや拳も交えた攻撃を展開。


その動きのあまりの苛烈さに目を見開く深夜――

仕方なく大きく後退する/那美から離れる。


それでもなお間断なく追い立てる藤崎に、

深夜が不愉快を顕わにしつつどんどん退いていく。


藤崎の自得――ここまでは想定通り。


しかし、深夜の実力は予想以上で、

未だにまともに打撃を与えられていなかった。


次期エースと目される藤崎とまともに勝負できる、

一介の殺人鬼とは思えないほどの驚異的な性能。


“まさか、コイツもABYSSなのか?”


年齢的に、先代のエースという可能性はあったが、

死体作家がABYSSという話は聞いたことがない。


羽犬塚から聞いた

記憶喪失が関係している?


だとしてもABYSSの管理下にない理由は?


様々な疑問が浮かぶも――

藤崎は、考えるのをやめた。


相手が何者であろうと、

やることは変わらない。


相手が強敵だった場合に想定していた、

確実に殺す作戦に移るのみ。


「オラオラどうした、

逃げてんじゃねぇぞテメェ!!」


煽る言葉とは裏腹に、

深夜を逃がす目的でガンガン警棒を振るっていく。


そうして迷宮の奥へと消えていく二人を、

那美はしばし呆然と眺めていた。


が、音が遠ざかったところで我に返り、

転がって遠くへ行った笛の元へと這いずっていく。


どうして藤崎が助けに来たのかは理解不能だったが、

チャンスがここしかないのは理解していた。


「お願い、届いて……!」


口を使って笛を銜え込み、

祈りながら目一杯息を吹き込む。


その息吹によって、

管内に何年ぶりかの空気の共振が発生――


リコーダーの語源とされる

鳥の歌声のような甲高い音色が、迷宮内に響き渡った。









「どうしたの?

いきなり立ち止まって」


「いや……今、聞こえたんだ」


「聞こえた?

何が? どこから?」


耳に手を当てて、

音を拾おうとする須賀さん。


……本当に聞こえなかったのか?

あの、リコーダーの音が。


じゃあ、僕の勘違い?


「いや……そんなわけない」


僕があの笛の音を聞き違えるわけが――

聞き漏らすわけがない。


だって、それは約束だから。


那美ちゃんはもう覚えていないだろうけれど、

僕がいつでも駆けつけるって約束の、あの笛だから。


「……ごめん、僕行かなきゃ!」


「あっ、ちょっと!

行くってどこに!?」


どこに?

そんなの、決まってる!


「僕の助けを求めてる人のところだよ!!」





「那美ちゃん!」


「ののちゃん!?」


途中ではぐれたと思っていた羽犬塚との再会に、

那美は思わず大声を上げた。


「大丈夫だったのっ?

怪物に襲われたりしてなかった?」


「うん。ごめんね那美ちゃん、

勝手にいなくなったりして……」


「私、ともくんに助けて欲しいってお願いしてたの。

深夜さんが危ないって気付いたから」


「それで、近くで待ってたら、

こっちから笛の音が聞こえてきて……」


そこまで聞いて、

那美はやっと全てを把握できた。


そして、ようやく訪れた安堵が、

じわりと那美の視界を滲ませた。


「……ありがとう、ののちゃん

私、もうダメかと思ってた。もう殺されるんだなって」


「ごめんね、遅くなって」


「ううん、凄く嬉しいの。

本当に――」


――ありがとう、と言おうとしたところで、

那美の顔が凍り付いた。


「ののちゃん、後ろっ!!」


『えっ……?』と、羽犬塚が振り返る。


その先にあったのは、

迷宮に棲む意思なき怪物の姿。


そのおぞましき異形が、通路の向こうで、

鋼線を編み上げたような腕を振りかぶり――


「ヒッ――!?」


怪物の持っていた斧が、羽犬塚のすぐ頭の上を、

音を立てて薙ぎ払っていった。


すぐ後ろの壁に突き立つほどに

力の篭もった投擲。


すんでの所で羽犬塚が這いつくばっていなければ、

今ごろは頭と体が離れていたのは確実だった。


だが、怪物の使命はその仮定を現実にすること。

たった一撃で終わるはずがない。


二人の生存を確認した怪物が、

どすどすと足音を立てて二人へ近づいていく。


その破滅の到来から逃げるべく、

羽犬塚が立ち上がる。


しかし、逃げようとしたところで、

縛られて動けない那美が視界に入った、


「う、ううううううぅぅ……!」


数秒の逡巡――その末に、

羽犬塚は那美の傍に再び座り込んだ。


そして、那美の逃走を妨げる縄を、

必死で手で引っ張って千切りにかかる。


「ののちゃん、いいから逃げてっ!」


「やだっ!」


「ののちゃん!!」


「や゛た゛っ!!」


怒鳴り返してきた羽犬塚に驚き、

那美が口にしかけた言葉を引っ込める。


思わずそうしてしまうほどに、

羽犬塚は必死だった。


以前、怪物が襲ってきた時に、

那美の言うことに従って逃げていた彼女とは違う。


那美を何としてでも助けたいという一心で、

自身の危険を顧みずに縄と戦っていた。


問題は、羽犬塚が冷静でなかったことだ。


縄は丸沢の服で作られたボロとはいえ、

那美を拘束するには十分なもの。


非力な羽犬塚がそれを素手で千切れるわけもなく、

手が擦り切れるほど力を入れてもびくともしない。


しかし、羽犬塚はそれに気付かない。

必ず切れると根拠なく信じて作業を繰り返す。


助けたいという思いが前に出すぎて、

僅かな猶予をいたずらに消費し続ける。


「ののちゃん……」


そんな無謀な作業を、

那美は絶望的な思いで眺めていた。


何とか彼女だけでも逃げて欲しいと思っているのに、

どれだけ伝えても全く届いてくれなかった。


そうこうしている間に、

近づいてくる怪物の足音。


丸沢の時とは違い、

今度は助かる保証はどこにもないだろう。


「お願い、ののちゃん! 逃げて!

私のことはもういいから!!」


那美が悲痛な叫びを上げる

/羽犬塚の作業を止めようと暴れる。


が、もう遅い。


那美らに影を落とす距離までやってきた怪物が、

動けない二人をじっと見下ろしてきた。


「い、いやっ……」


程なく軋みを上げる怪物の腕。


それが今、二人を縊り殺さんと、

ゆらり伸びてきて――


「助けて晶ちゃんっ!!」


――疾風はやてのように駆けつけた男が、

怪物の掌を真一文字に切り裂いていた。


信じられない光景だった。


夢でも見ているのかと思った。


けれど、現実に那美らは未だ生きていて、

怪物は血の滴る腕を抱えて後退していた。


那美の涙で滲んだ視界に映るのは、

肩を上下させる傷だらけの男の姿。


「……笛の音が聞こえたんだ。

間に合ってよかった」


見慣れた朱雀学園の制服と、

記憶よりも僅かに大きい背中。


その向こうに見える彼の顔は――


那美が小さな頃からずっとずっと見てきた、

大切な幼馴染みのそれだった。



「約束、ちゃんと守れたよ。

那美ちゃん」


「あっ、あきらっ、ちゃん……!」


約束をちゃんと覚えていてくれた。

ちゃんと守ってくれた。


そして、昔のままの名前で呼んでくれた。


喜びが、那美の目から

止め処なく溢れ出す。


訪れた様々なものに対する安堵が、

彼の名前を何度も口にさせる。


それに、晶ちゃんはにっこりと微笑んで――


「もう大丈夫だよ。

待ってて。今、終わらせるから」


襲い来る怪物へと、

ナイフを構えて向かい合った。


そこからは、一瞬だった。


怪物と対峙した深夜が見せた動きのように、

常軌を逸した動きで怪物を制圧してのけた。


ただし、より華麗に滑らかに。

そして――怪物を殺すことなく。


その鳥が舞うような美しい一連の動作に、

思わず那美も羽犬塚も見惚れてしまった。


二人の視線の先で、危機を退けた晶が、

ナイフに付いた血を振るって落とす/懐に仕舞う。


それから、

那美のほうへと改めて向き直る。


「あっ……あの……」


「那美ちゃん、泣いてる」


「う……うん。怖くて、嬉しくて」


そして、安心して――


これまでずっと胸の奥に詰まっていた思いが、

ぼろぼろと目から零れていく。


感極まって、

今すぐ抱き付きたい衝動に駆られる。


けれど、その前にどうしても、

彼にちゃんと言わなければならないことが――


「笹山くぅわぁぁあああああああん!!」


――とか何とか思っている間に、

羽犬塚が晶へと飛びついていた。


「は、羽犬塚さん!?

どうしたのっ?」


「怖がっだぁあああ!!

うああぁぁぁああぁぁっ!!」


羽犬塚もまた、堪えていた思いが、

危機が去ったことで噴き出していた。


晶の懐の中で盛大に泣き喚いて、

制服をべしょべしょに濡らしていく。


「えっとね、もう大丈夫だよ羽犬塚さん?

とりあえず落ち着こう、ねっ?」


あまりの勢いに度肝を抜かれた晶が、

何度も羽犬塚の頭を撫でる。


それでも中々泣き止まない羽犬塚に困り果て、

那美に助けを求める視線を投げる。


「えっと……どうしよう?」


「いや、どうするとか以前に、

まず佐倉さんの縄を解いてやれよ……」


「うわぁ!?」


ようやく晶に追いついた由香里が、

飛び上がる晶の横を抜けて那美へと歩み寄る。


「す、須賀さん……いつの間に?」


「ついさっき。君がいきなり走り出したから、

頑張って追いかけてきたところ」


「こっちはまだお腹痛くて、

すっごいしんどかったんだけどな」


幽に蹴られ痛みの退かない腹を押さえて、

由香里が晶を視線で咎める。


「う……ごめん」


「まあいいよ。

そのおかげで間に合ったみたいだしな」


「……うん。本当によかった」


噛み締めるように安堵を浮かべる晶に、

由香里が微笑を向ける。


それから、目をしばたたかせている那美の隣に座り、

そのいましめをナイフで切り離した。


「あ、ありがとう、須藤さん……」


「須藤じゃなくて須賀。

説明会で教えた名前は偽名だったんだ」


「あと、お礼なら私じゃなくて、

笹山くんにちゃんと言ってやりなよ」


「あ、うん。そうだね。

それじゃあ……」


那美が立ち上がり、晶へ向き直る。


そうして目が合った途端――


「うぅ……」


どうしてか、

顔も動きも引きつったまま硬直した。


それは程なく晶にも伝染し、

赤くした顔を俯けて同じように黙り込む。


会いたい会いたいと思い続けていて、

さっきも自然と向かい合っていた二人だったが――


いざ、落ち着いて対面してみると、

那美も晶も上手く言葉が出て来なかった。


いや、それどころか、

どんな顔をしていいのかさえ分からない始末。


結果、気まずい空気が沈黙となって、

二人の間に横たわる。


それでも、何か言わなきゃと勇気を振り絞って、

深呼吸の後に頭を下げる。


「あのっ……

助けてくれて、ありがとう」


「あ、いえ……どういたしまして」


「えっと……晶ちゃんが来てくれて、

凄く嬉しかったです」


「あ、はい。

間に合ってよかったです……」


どうしてか、

ぺこぺこと頭を下げ合う二人。


「おいおーい。

あれだけ会いたい助けたいって言ってた相手だろ」


「そんな他人行儀じゃなくて、

もっと何かあるんじゃないのか?」


「そ、それはそうだけれどっ。

でも、想定と現実は違うっていうか、何ていうか……」


「さっきは私に偉そうに言ってたのに、

いざとなると情けないやつだなぁ」


冷やかすような由香里の言葉に、

晶が反論できず苦い顔をする。


「そういえば、須賀さんと晶ちゃんって、

一緒に行動していたんですか?」


「ああ、まあね。

説明会の後に、部屋で寝てるこいつを見つけて」


「……ちょっと待って。

もしかして二人って会ったことあるの?」


自己紹介もなくスムーズに話す二人を見て、

晶が素朴な疑問をぶつける。


「うん。私とののちゃんと須賀さんは、

説明会で一緒だったから」


「いや、それ初耳なんだけれど……」


『どうして教えてくれなかったの?』と、

晶が由香里へ眉根を寄せる。


「だって、言ったら笹山くんは、

絶対しつこく聞いてきただろ」


「う……それは間違いないです」


「それに、会場が一緒だったってだけで、

連絡先を交換してたわけでもないしな」


「あ、そういえばそうでしたね。

あの時、連絡先のことに気付いてればなぁ」


「いや、本当は知ってたんだ。

でも、あの場で教え合うのは嫌だったから」


「えっ、どうしてですか?」


「あの場には

ABYSSが二人いたからだよ」


「もし、連絡先で居場所を探知する方法があれば、

ABYSSにずっと狙われることになるだろ」


「そんなことまで考えてたんですか……」


「まあ、転ばぬ先の杖ってところだよ。

実際にそんな大アルカナがあるかは分からないし」


「それより、二人はもう、

朝霧温子とは会ったのか?」


「あ、はい。一緒にみんなでカードを集めてます。

――ねっ、ののちゃん?」


「うん。今は三人で一緒」


「なら、笹山くんの守りたい相手は、

これで全員見つかった感じか」


『よかったな』という由香里の視線に、

晶が頷く/ホッと息をつく。


「でも、温子さんはどこにいるの?」


「それが……連絡が取れないの。

携帯はもう戻って来たはずなんだけど」


「……携帯が戻って来た?」


「あ、カジノエリアで田西さんと温子さんが、

携帯を賭けて勝負したんです」


「でも、途中で田西さんが

仲間のはずの藤崎さんに殺されちゃって……」


「それで、賭けてた携帯と温子さんが、

二十四時間カジノエリアに閉じ込められてたんです」


「ふーん、なるほどね……。

でも、田西が藤崎に殺されたか」


「きっと、飼い慣らせると思ってたんだろうな。

相手を選べばよかったのに」


やれやれとばかりに

溜め息をつく由香里。


その隣で、羽犬塚が口元を押さえて

『あっ』と声を上げた。


「そうだ……

ともくんにちゃんとお礼をしないと」


「ともくん……って、まさか藤崎?」

お礼ってどういうことだ?」


「えっと、ともくんにね、

那美ちゃんを助けて下さいってお願いしたの」


「あーっと……私が縛られてたのって、

深夜さんって人に殺されかけてたからなんです」


「その時に助けに来てくれたのが、

羽犬塚さんが連れてきてくれた藤崎さんで」


「――じゃあ、もうすぐ藤崎が

ここに戻ってくるんだな?」


由香里の目が瞬時に鋭さを帯びる。


その意味に気付いた羽犬塚が、

慌てて身振りも交えながら『待って!』と声を上げた。


「違うの。ともくんは、

ちゃんと話せば分かる人なの」


「こっちが約束を守れば、

ともくんもきっと何もしないよぉ」


「その約束っていうのは?

守ってもらうための対価とか?」


「うん。えっとね、“恋人たち”の大アルカナと、

元々田西さんが持ってた小アルカナと……」


そこまで言ったところで、

羽犬塚が顔を赤くして俯けた。


“一発やらせろ”が報酬であることは、

さすがに口にするのを憚られた。


「えっと……あと、

預かってた懐中時計を返すこと、かな」


「……結構な要求をされたんだな。

まあ、命と引き替えだし高くはないけど」


「うん。だから、ちゃんと約束を守れば、

きっとともくんも何もしないよ」


「でも、藤崎は田西を殺したんだろ?

話せば分かる相手が、仲間にそんなことするのか?」


「それは……そうだけど……」


「しかも、藤崎はABYSSだ。

喜んで人を殺してるやつなんだよ」


「そんな奴と接触すること自体、リスクが大きい。

戻って来た時に仕留めるのが確実だ」


「ちょっと待って!

そんなのダメだよぉ!」


またもや泣きそうになって抗議する羽犬塚を、

由香里が冷徹な目で見返す。


それに羽犬塚が怯んだところで――

少女の小さな肩に、晶が手を置いた。


「えーっと……須賀さん、

ちょっと判断早くないかな?」


「私もそう思います。

いきなり殺すなんて、幾ら何でも……」


「みんな悠長なこと言ってるけどさ、

藤崎は森本聖と同等って評価なんだよ」


「それに、利用はできても協力はできない相手だ。

殺れるうちに殺っておいたほうがいい」


「でも、仮に奇襲を仕掛けたとしても、

聖先輩と同等ならハイリスクだと思うよ」


「僕の体調も徐々に戻ってきてるけれど、

それでもまだまだ辛いし」


「須賀さんだって、

万全には程遠い感じでしょ?」


「……だからって、ここで藤崎が来るのを、

四人で待ってろっていうのか?」


「あいつが羽犬塚さんや佐倉さんを人質に取ったら、

君はどうするつもりなんだ?」


「……それは困るね」


困るものの――由香里の提案が正しいとは、

晶には思えなかった。


羽犬塚ほど甘い考えでもないが、

争いはできるだけないほうがいい。


それに、理由はどうあれ那美を助けてくれた人を、

奇襲で問答無用に殺す気にはなれなかった。


「それじゃあ、折衷案として、

とりあえずみんなで近くの部屋に移動しない?」


「藤崎とはその部屋で交渉をする。

これなら、暴力禁止だからまず大丈夫だと思うよ」


「……藤崎が逃げたと勘違いして

殺しに来る可能性は?」


「そこは、羽犬塚さんからメールを送っておけばいい。

さすがに交渉場所の変更で文句は言わないでしょ」


「それで交渉が決裂するようであれば、

その時は僕と須賀さんでどうにかしよう」


「奇襲の好機は失われるけれど、ここは迷宮だし、

何度でも機会は用意できるでしょ」


「……筋は通ってるな」


分かったよ――と、

由香里が溜め息をついて首を振る。


「いったん、みんなで部屋に移動しよう。

カードとか情報の共有もしたいしな」










そうして、晶らが

近くの部屋へと移動を開始した頃――


迷宮の袋小路に複数存在する怪物の巣の一つでは、

常軌を逸した戦いが繰り広げられていた。


「大人しく死んでろカスがぁ!!」


「ぐっ……!?」


藤崎の放った斬撃が、

深夜を後方の壁へと叩き付ける。


そこに追撃――しようとする前に、

殴りかかってきていた怪物を蹴り飛ばした。


そうこうしている間に起き上がる深夜――

藤崎同様に周囲の怪物を追い払う/蹴散らす。


だが、先の一撃はそれなりに効いていたらしく、

撃ち漏らした怪物の一匹から脇腹に被弾。


その怪物は武器を持っていなかったが、

蓄積したダメージが深夜に逃げを選択させた。


しかし、そこには既に、

笑みを浮かべた藤崎が回り込んでいて――


「うぉおおらあぁああああ!!」


振りかざした鉈を

頭上から足下まで一気に振り下ろした。


が――


「!?」


その渾身の力を込めた必殺の一撃が、

またしても深夜に受け止められた。


受け止めた槍の柄はへし曲がっているものの、

肝心の刃が深夜に届いていない。


ABYSSであるはずの藤崎の力が、

深夜のガードを貫通しきれない。


その事実に舌打ちしながら、藤崎が飛び退く

/飛んできていた怪物の攻撃を躱す/殴り返す。


だが、怪物の対処をしつつも、

彼の目は深夜に向けられたままだった。


その視線に篭もる感情は、困惑。


そう――ABYSSであるはずの彼が、

深夜拝という一介の殺人鬼を殺しきれずにいた。


事前に見つけていた怪物の巣に誘い込むという

作戦に関しては、一定の成果を認めていた。


怪物は一対一であれば楽勝でも、複数同時はキツく、

まともにやれば藤崎でも苦戦は必至。


そのため、那美の救出の時間を稼ぐには、

複数の怪物がいるこの場所での戦闘が最適となる。


実際、袋小路の出口に藤崎が立ちはだかることで、

上手く深夜を閉じ込めることには成功していた。


彼がまだ那美の救出を知らないだけで、

ノルマは既に達成済み。


後は、深夜を殺して携帯を奪った後に、

羽犬塚の元へ戻り報酬を頂けば任務完了となる。


プランとしては完璧だったが、

誤算は深夜拝の強さ。


事前に理解した上で作戦に移ったはずなのに、

深夜はなおその理解の上を行っていた。


技能面ではともかく、

単純な身体能力であれば、確実に藤崎以上。


差はそう大きくはないものの、

ABYSSが身体能力で負けること自体があり得ない。


なのに、この目の前の死体作家は、

その異常を平然とその身に宿している。


全く持って信じられない話だったが、

現実に殺しきれないのだから否定のしようがなかった。


「こンの野郎……!」


一介の殺人鬼如きが超人を上回っているという事実は、

藤崎のプライドを大いに傷つけた。


とはいえ、発覚が早くて助かったと、

ホッとしている部分もあった。


もしも作戦も何もなしでやり合えば、

決定打を与えられないまま逃がしていたことだろう。


しかし、この藤崎の用意した状況であれば、

怪物を利用しつつ殺しきれる。


怪物用の武器もあるため、

身体能力の差もそうそう気にならない。


いずれ脅威となって立ちはだかる前に、

ここで確実に仕留める。


そんな意思を秘めた瞳で、藤崎が、

槍を杖に荒い呼吸を繰り返す深夜を睨み付ける。


油断はしない。


それを強いられること自体が屈辱ではあるが、

鬱憤は相手を殺すことによって晴らす――








「それじゃ、私たちは今のうちに

新しいカードを探してくるから」


そう言って、須賀さんが

羽犬塚さんを引っ張って出て行ったのが少し前。


それから今に至るまで、

部屋の中は沈黙に支配されていた。


僕も那美ちゃんも、お互いに向かい合って座ったまま、

俯いたり様子を伺ったりの繰り返し。


さっきは話題があったから話せたけれど、

今は本当に何から話していいか分からない。


それくらい、

話したいことが一杯で――


同じくらい、

不安も大きかった。


だって、今の僕はもう、

全部知ってしまっている。


僕が本当は人殺しだってことも、

那美ちゃんにしでかした凶行が事実であることも。


那美ちゃんに毎日話しかけていた頃があったけれど、

色んな意味で信じられない。


那美ちゃんは、

僕のことがどれだけ怖かっただろうか。


今でも那美ちゃんは

僕のことが怖いんじゃないだろうか。


拒絶されないだろうか。

いや、それ以前にちゃんと謝れるだろうか。


答えはすぐ手前にあるのに、

触れるのが怖い。


握り締めた手が汗ばむ。


聞こえて来る衣擦れや息遣いが、

いきなり怒鳴り声に変わるんじゃないかと思えてくる。


僕の変に意識した呼吸とか汗の臭いとかが、

相手に気味悪がられてないかと心配になる。


自意識過剰とは分かっていても、

那美ちゃんに突き放されるのは、想像でさえぞっとする。


でも――


那美ちゃんはそんなことをしないと

信じられない自分は、もっとずっと嫌だった。


許してもらえるとは思っていなかったけれど、

僕の知ってる那美ちゃんなら、きっと話は聞いてくれる。


「あのねっ、晶ちゃん」


「あのっ、那美ちゃん」


そう思って声をかけたら、

全く同じタイミングで声が飛んできた。


「えーと……ごめん。被っちゃった」


「ううん、私こそ。

晶ちゃんが先にいいよ」


「いや、僕も――」


那美ちゃんの後でいいんだけれど――


そう言いかけて、ギリギリで止めた。


……悪いことをしたのは僕だ。

まずは僕が謝って、話をするのはそれからだ。


深呼吸をして、立ち上がる。


それから、深々と頭を下げた。


「えっと……ごめん。ごめんなさい」


心臓は、ばくばくだった。


上手く勇気を出せなくて、

那美ちゃんの顔を見ることはできなかった。


卑怯だと分かっていたけれど、

これだけはと言い訳しつつ、頭を下げたまま続けた。


「那美ちゃんの言ってたことが正しかったんだって、

やっと分かったんだ」


「僕は……那美ちゃんに酷いことをしたのに、

それをずっと忘れてた」


「それだけでも最悪なのに、

ずっとそんな状態で那美ちゃんに付きまとって……」


「那美ちゃんに嫌われて当たり前だし、

許してもらえることだとも思ってない」


「でも、謝らせて欲しいんだ。

本当に申し訳ないことをしたって思ってるから」


「だから……ごめんなさい」


「あと、こんなこと言って図々しいのは、

自分でも分かってるけれど……」


「また、僕と友達になってくれませんか?」


上手く伝わったかどうかは分からない。


けれど、謝りたかったことは、

ちゃんと全部言えた。


怖くて那美ちゃんの顔が見られないけれど、

後はもう、那美ちゃんの判断に任せるだけだ。


「……晶ちゃん、顔上げて?」


「う……はい」


深呼吸して/手を握り締めて、

覚悟を決めて顔を上げる。


那美ちゃんは、泣きそうな、笑いそうな、

よく分からない顔をしていた。


「私もね、最初に謝ろうと思ってたの。

でも、先を越されちゃった」


「謝るって……那美ちゃんが?

どうして?」


「晶ちゃんのことを一番分かってるはずなのに、

信じることができなかったから」


「晶ちゃんが理由もなく

人を傷つけるわけなんてないのにね」


「いや、それは違うよ。

僕は……本当に人殺しなんだ」


「っていうか、僕の生まれた家が、

人殺しをして生活してたくらいだから……」


「でも、さっき私を助けてくれた時は、

怪物を殺さなかったでしょ?」


「それは……」


「晶ちゃんの生まれた家とかは関係ないよ。

私の知ってる晶ちゃんは、優しい人だもの」


だから――と、那美ちゃんが、

首の辺りをぎゅっと握り締める。


「晶ちゃんに首を絞められただけで、

全部拒絶しちゃった私が悪いの」


「晶ちゃんは、あの日、

片山くんのお兄さんから私を守ってくれてたのに……」


「片山のお兄さんって……ああ。

あれってABYSSだったのか」


……あの日、僕は、

那美ちゃんが呼び出されたのが気になっていた。


どんな相手なのか知りたくて、

その会話を失礼を承知で盗み聞きして――


那美ちゃんを浚ってどうこうするって聞こえたから、

本気なのかと男たちに問い質した。


そうして襲いかかってきたのを、

返り討ちにしたのがあの日の真相だ。


その時は気付かなかったけれど、

まさか、当時からABYSSと接触してたのか。


「……その後に私の首を絞めたのも、

ちゃんと理由があったんでしょ?」


「それは……でも、

言い訳にしかならないし……」


「……晶ちゃんの

別な人格がやったことだから?」


「どうして、那美ちゃんがそれを……?」


「ラピスって子に聞いたの。

それと、温子さんもそういう予想をしてたから」


やっぱり当たりなんだ――と、

那美ちゃんが溜め息をつく。


「私もね、晶ちゃんがずっと、

“誰か”に入れ替わってたと思ってたの」


「晶ちゃんが人を殺すはずなんてない、

酷いことするはずがない。じゃあ入れ替わりだって」


「でもね、今思うとそれは逃げてただけ。

本当の晶ちゃんと向き合えなかっただけなの」


「いや、それは違う。だって那美ちゃんは、

あの後に僕のところに来たんでしょう?」


「それを、もう一人の僕が脅して、

那美ちゃんに忘れろって強く言ったんでしょう?」


「だから那美ちゃんは、

僕のことを怖がって遠ざけてたんだ」


「那美ちゃんは何も悪くない。

悪いのは、僕ともう一人の僕だ」


「……でも、晶ちゃんはずっと、

私のところに来てくれてたじゃない」


「その時にきちんと話してれば、

もっと早く解決してたんだよ」


「この迷宮に来てからそれに気付いて……

私も、ずっと謝りたかったの」


さっき僕がそうしたみたいに、

那美ちゃんが深々と頭を下げる。


「ごめんなさい、晶ちゃん。

本当にごめんなさい」


「晶ちゃんは許されないかもって言ってたけど、

私こそ許されないと思う」


「だって私は、自分の都合だけで、

晶ちゃんのことをずっと遠ざけてたんだから」


「それで、晶ちゃんがどれだけ辛い思いをしたのか、

考えるだけで……怖いくらいで」


「だから……」


「もういいよ」


「……えっ?」


「もういいよ、那美ちゃん。

もう十分伝わったから」


辛いのは、僕だけじゃなかった。


那美ちゃんも、

同じように辛い思いをして――


同じように、

僕のことを考えていてくれた。


それだけで十分だ。


十分過ぎて、

目を開けてられなくなりそうになるくらいだ。


「僕は……那美ちゃんが悪いだなんて、

これっぽっちも思ってないけれど……」


「それでもそれが必要なら、許すよ。

もう悩む必要なんてどこにもない」


「晶ちゃん……」


那美ちゃんの目に溜まっていた涙が、

ほろりと落ちる。


「那美ちゃんは……

僕のことを許してくれる?」


「……そんなの、当たり前でしょう?」


ぼろぼろと涙を零しながら――


那美ちゃんは、

子供みたいな笑顔を浮かべた。


その笑顔を見た途端に、

僕の中の熱が頬を伝っていくのを感じた。


……僕はどうしようもない人殺しで、

なのにそれを忘れていた最悪の人間で。


生きている価値なんて、

どこにもないないと思っていた。


決して、赦されないと思っていた。


けれど――


「また、友達になろう」


こんな僕にも、

那美ちゃんはまた、手を差し伸べてくれた。


尊い、優しさに満ち溢れた手。


僕がずっと求めていた、

触れるだけで世界が開ける魔法みたいな手。


「……うん。よろしくお願いします」


その手を、

しっかりと握りしめた。


二人でぼろぼろと泣きながら、

手を繋いだ。


とても温かくてやわらかな感触は、

まるで心に沁みてくるみたいで――


初めて会ったあの日に、

また戻れたような気がした。




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