高い高い鼻をもぐ
場の空気が一瞬で凍った。
空間に亀裂が入ったような感覚もあった。
この場にいる人二人が呼吸を止めた気もする。
けれどそんなの知ったことではないと、パトリシアは朗らかに微笑み続ける。
「……えっ、と」
そんな笑顔を見たロイドは、己の耳がおかしくなったのかと疑っているようだった。
まあ、こんなににこやかに拒絶せる人もなかなか珍しいのかもしれない。
そんな様子だから諦めきれなかったのか、ロイドは拳を強く握りしめてもう一度誘ってきた。
「あの……もしよろしければお話を」
「お断り申し上げます」
「…………なぜ?」
「なぜ? なぜとは?」
「いえ、だから……」
不思議なことを聞くなと、パトリシアはそばにある本へと視線を向ける。
もはやまともに話を聞く必要はないと、今日借りていくものを物色し始めた。
「不要なことはしたくはありません」
「不要だなんて……。僕は常々奴隷解放の件を考えていました。いろいろまとめたものもあります! きっとお役に立てると思うのです」
向上心は素晴らしい。
もしかしたら彼はいい政治を行えるようになるかもしれない。
伯爵家の三男では家は継げないが、才能次第ではどこかの家の養子としてその才能を発揮する機会にも恵まれる可能性は大いにある。
だがしかし。
「不要でしょう? 私はあなたの言う【無駄なことをする女】ですから」
「――そ、それは……」
口ごもる様子を見つつ、パトリシアは懐かしい本を手にする。
子供の頃よく読んだ本だ。
ローレラン帝国として巨大な土地を手に入れる前にあった、亡国の話。敵国の王子との禁断のラブストーリー。
久しぶりに読んでみようと小脇に抱えた。
「ああ、それから」
今日はこれだけでじゅうぶんなので、そろそろ図書室を離れようと思った時思い出したことがあった。
だからそれを、ロイドへと伝える。
「女、女と呼ぶのはおやめになった方がよろしいですよ。とても知性のある人には思えませんから」
「――ふっ、」
隣でシェリーが声を殺して笑っている。
だがそれを一旦無視して、ロイドへと軽く頭を下げた。
「ではごきげんよう」
「……」
硬直しているロイドを置いて、二人は本を借りるため係の人のところへと向かう。
簡単な手続きをしてから図書室を出ると、我慢ならないとシェリーが笑った。
「いやぁ、パティはすごいな! あいつのあんな顔はじめて見た!」
「……あの方はいつもああなのですか?」
「うん。女は勉強なんてしている時間があるなら刺繍の一つでも学べ! ってよく言ってる」
まあ確かに一般常識的には、女性はそうなのだろうけれど。
あそこまで見下すように言われたのははじめてだったなと思う。
家柄的なものもあるのだろうが、パトリシアに勉強をするなと言ってきた人はいなかった。
自分は本当に恵まれていたのだなと再確認する。
「それにしてもあいつ、パティのこと知ってたね?」
「――一応これでも公爵令嬢ですから」
「やっぱり昔から頭いいの有名だったんだね。……というか、今こうやって公爵令嬢と話してるの奇跡に近いよね……?」
「ここは学園ですし、シェリーは友達なので」
「……友達…………へへっ。うん、そうだね!」
嬉しそうな顔をするシェリーを見て、パトリシアまでへにゃっとした笑顔になってしまう。
お互い友人というものに憧れがあったからか、今この状況がとても嬉しいのだ。
「はじめて見た時はあのような方だとは思わなかったんですが……」
「カフェテリアの時の? あれは完全に猫被ってたよ。マリーが理想なんだって。可愛くて、刺繍が上手いからって。本当に上手なのかは知らないけど……」
「刺繍ですか」
淑女の嗜みとしてやったことはあるが、あまり好きな方ではない。
周りはみんな褒めてくれたけれどパトリシア本人は自分のものより、侍女のエマが縫う花柄や動物のほうが愛らしくて好きだった。
「あとマリーの方も猫かぶってるから。文句の言わないおとなしい子だって」
「あぁ……」
なんとなく彼の理想とする姿がわかったような気がした。
まあパトリシアには関係ないので、すぐに頭の片隅へと追いやった。
「まあもう関わることもないでしょう」
「そうだね。あれだけ鼻高々だったのにポキッと折られて……。いや、もうあれはもぎ取られてたね。そんな状況になってまで、プライドの高い男が顔出すとは思えないよ」
ならばもうこの話は終わりだと、借りてきた本の話をしながら寮へと戻る。
シグルドもそうだったけれど、ロイドもなかなかに癖のある人だった。
どちらもパトリシアからの印象は最悪なので、できれば関わり合いたくない。
いや、関わらないようにしよう。
そう心に決めたパトリシアだったが、縁とは不思議なもので。
関わり合いたくないと思えば思うほど、その絆は強く濃くなっていく。
結局また会うことになるのだが、それはまた後日のこと――。
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