変わるための一歩を

「――え?」


「奥歯です奥歯。わかりますか? こう、ぐっと噛み締めるんです。できますか? できましたか? いいですね?」


「いや、パトリシア、なにを――!」


 ――ゴッ!


 といい音がしたと思う。

 骨と骨が当たる音というか、痛々しい音というか。

 アレックスは崩れ落ちるように床へと倒れ込んだ。

 それを上から見下しつつ、パトリシアはそっと己の傷ついた拳に触れる。

 人を殴るというのは思ったよりもダメージを受けるのだな、と赤く腫れる手の甲を見た。

 今は頭に血が上っているからか、あまり痛みを感じないが、明日あたりには涙を流しているかもしれない。

 だが今はそんなことどうでもいいと、驚愕に目を見開くアレックスへ生まれて初めて声を荒げた。


「いい加減、自分に甘いだけではどうすることもできないのだと理解しなさい!」


「…………」


 ぽかんと口を開けたままのアレックスへ、パトリシアはさらに言葉を続ける。


「辛いのはあなただけですか? 奪われたのはあなただけですか? 被害者でいるだけはやめなさい!」


「ぱ、パトリシア……?」


「あなたの行動によって傷ついた人たちがいます。そんな人たちから目を背けていて、幸せになんてなれるはずがないでしょう!」


 真っ赤に腫れている頬が痛いのか、彼は涙目になりながら押さえている。

 こんなアレックスの表情ははじめて見たな、と思いつつも決して攻めの手は緩めない。

 ここで優しくしてしまっては、彼は今後変わることはできないだろうと、そう思うからだ。


「ちゃんと向き合いなさい。ミーアさんとも、己の過去や未来とも。逃げるだけでは先になんて進めません」


「…………」


「返事は!」


「――はいっ!」


 びくっと肩を震わした彼は、反射的に返事をしていた。

 それによし、と頷けばそれを見ていたアレックスがなんども瞬きを繰り返す。

 まるで今見ている光景が夢であるかのように、痛む頰をずっとさする。


「…………パトリシア」


「はい?」


「――君は、変わったな」


「…………そうですね」


 昔までのパトリシアなら、少なくとも彼に声を荒げて説教なんてしなかっただろう。

 アレックスの言う通り、変わることができたのだ。

 それはひとえに、クライヴやハイネ、そしてシェリーのおかげだろう。

 パトリシアは穏やかに微笑む。


「友人ができたんです。彼女からアレックス様のような人はぶん殴れと教わりました」


「……そうか」


「素敵な友人なんです。大切で、大好きな、特別な人です」


『拳よ拳。こう、頰を穿つようにやってやるのよ』


 そういいながら拳を振るシェリーの姿を思い出す。

 彼女のように上手くはできなかったけれど、なかなかいい具合だったのではないだろうか。

 だがこの手を見たら心配するだろうなと、彼女の優しさを思い出し口端が上がる。


「アレックス様のおっしゃるように、私は変われました。人は変わることができるんです」


 仮面のような笑顔をつけていた皇太子の婚約者はもういない。

 ここにいるのは自分のやりたいことをやる、公爵令嬢だ。


「アレックス様も変わってください。最後に自分を救うことができるのは、自分自身でしかないのですから」


「…………」


 返事はないけれど、彼の表情的にいろいろ考えているのだろう。

 それだけでもいい変化だと、ゆっくりと膝を折り彼と目線を合わせる。


「けれど自ら変わることのできない人もいます。誰かの手助けがないと不可能な人。多分ミーアさんや……アレックス様のお母様がそうなんだと思います」

 

「……母上?」


「…………ずっと、見て見ぬふりをし続けるわけにはいかないでしょう?」


「…………」


 未だ塔の上で夢を見続けている女性。

 彼女を救うことができるのは、きっとアレックスだけなのだ。

 彼にとっては苦しいことかもしれないが、いつまでも目を背けていられる問題でもない。

 ある意味当事者であるパトリシアからの言葉に、彼は顔をこわばらせる。


「……私に、できるだろうか? ずっとあの人から逃げていたのに」


「できるかできないかではありません。やるかやらないかです。あなたが変わろうとするのなら、避けては通れない道です」


「…………」


 この後どうするかは彼次第だ。

 ミーアとのこと。

 母親のこと。

 皇太子の座のこと。

 パトリシアができるのはここまでだと、立ち上がった。


「あなたが変われることを願っています」


「――パトリシア、君は」


「ちなみに私は許していませんからね? いつか必ず謝罪しにきてください。許すかはわかりませんが」


「あ、はい」


 一瞬救われたかのような表情でパトリシアを見上げてきたので、そっと落としてあげた。

 彼はまだ変わっていないし謝ってもいない。

 まあ正直な話もう済んだことだから別にいいのだが、彼が変わった証拠として謝罪を要求することにしたのだ。

 さてこれで話は終わりだとクライヴの方を振り返れば、彼はソファーに座りながら口元を抑えて震えていた。


「……クライヴ様?」


「ご、ごめっ。――っ、やっぱりパティが好きだなぁって思ってさ」


「と、突然なんですか!?」


「うん、ごめんね。さて、兄上はとりあえず頰を冷やして落ち着いたら、あの女のところにでも行ってください。変わるための第一歩だと思って」


「…………ああ」


 頷いたアレックスを見つつ、クライヴはパトリシアの手をとると踵を返す。


「それじゃあ兄上。あとの面倒ごとはどうぞご自由に」


 それじゃあと声をかけて、クライヴは早足でパトリシアを連れていく。

 最初は会場に戻るのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。

 向かった先はパトリシアが好きな庭園だった。

 彼はそこまでいくとやっと足を止めて振り返る。


「こんなところまでごめんね。パティに言いたいことがあるんだ」

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