懐かしい音が聞こえてくる

「で、なんで別れたんですか?」


 クライヴからの質問に、アレックスは口を閉ざす。

 言いにくいことなのだろう。

 しばしの沈黙ののち、彼はゆっくりと言葉を紡いだ。


「……最初は彼女が私の恋人として、いろいろな場所へパートナーとして出席していたんだ」


 話はこうだ。

 アレックスのパートナーとしてミーアがパーティーに出席した。

 もちろん付け焼き刃とはいえ、その前にレッスンなどは受けさせて最低限の礼儀作法などは覚えさせたらしい。

 共にパーティーに出席して、彼女は大層喜んだ。

 はじめてのパーティーで浮かれていたのだろう。

 持っていたワインをとある令嬢のドレスに溢してしまったのだ。

 ミーアは最初謝ったらしい。

 手が滑ってしまったのだと、わざとではないのだと伝えたが令嬢は中々許してくれなかった。

 今日という日に合わせて作った大切なドレスだったのにどうしてくれるのだと詰められ、それを聞いていた周りの令嬢たちも、口々に彼女の行動の不自然さや所作の甘さを言い出して会場は騒然となってしまう。

 多分だけれど、アレックスのパートナーであるミーアを元奴隷だからと辱めることはできず、別の手を考えていたのだろうなとパトリシアは考えた。

 そんな時にミーアがヘマをしてくれたから、これ幸いと言い出したのだろう。

 流石にまずいと思ったのかアレックスが仲裁に入った時、彼女が泣きついてきたらしい。


『彼女たちはアレックス様に愛される私が憎いんです! だからいじめてくるんです。私がまだ完璧にできないのなんて当たり前なのに……。ひどいですっ!』


 そんなことが一度や二度、三度四度と続けば流石のアレックスも気づく。

 彼女にこの世界は向いていない、と。

 純粋すぎるが故に、こういう裏の顔がある世界には連れてくるべきではないと思い始めたらしい。


「いや純粋とかそういうことの前に、もう少し勉強させたほうがいいと思いますけど」


「クライヴ様」


「……兄上も脳内お花畑すぎる」


「…………その通りだな」


 ぼそりとつぶやかれたクライヴの言葉が聞こえたのか、彼は自嘲の笑みを浮かべた。


「どちらにしてもミーアが皇后になることはない。……新しい皇太子妃を見つけなくてはならないと、その選考をしていた」


 目の前にパトリシアがいたからか、皇太子妃選びの件は少しだけ言いづらそうだった。

 もう気にしなくていいのに、と思いながらもそれを口にすることはない。

 彼が気にするしないは、彼自身の問題だからだ。

 アレックスは両の手を強く握ると、眉間に皺を寄せた。


「けれどそれを知ったミーアは、自分が皇后になれるのではないのかと騒ぎ出したんだ」


「…………なんでそうなるんだ」


 クライヴが過去彼女に言ったはずだ。

 血筋が大切なのだと。

 だから彼女がなれたとしても側室であり、その子供はまず皇帝にはなれない。

 クライヴがきちんとした相手と結婚して子を成した場合、その子供が皇太子になるからである。

 そうでなくても彼女の子供より血筋が高い皇族はたくさんいる。

 そういう人の中から選ばれるのだから、彼女が皇后になる必要はないというのに。

 なるほどあの時の話を理解していなかったのかと、呆れてため息をついてしまう。


「今までの騒ぎもあり父上が激怒されてな。それまでは一応皇宮の隅でも暮らしていられたんだが、下女にまで落とされてしまったんだ。……そこからは、会えていない」


 なるほど彼女との間に起こったことは理解できた。

 ミーアの考え方は地位のあるものとは根本的に違っていると思う。

 ある意味彼女は自由であり、しがらみがない。

 しがらみとは確かに行動を制限するようなものではあるが、同時に正しき道に進めるようにする道標のようなものでもあるとパトリシアは思っている。

 それがないミーアとは、そもそも道が交わることがないのだ。

 彼女が己の道を、変えない限りは。

 どうやら彼はそれをわかっていなかったらしい。

 考えが甘いなと、パトリシアは疲れた顔をする彼を見つめる。


「会えてないって……会いに行かなかったんですか?」


「止められていた」


「止められてたって……」


 だから会いに行かなかったのか。

 事情も知らせずに、ただ放置したのか。

 彼女も驚いたことだろう。

 突然住んでいた場所から追い出されて、下女として働かされて。

 それでもきっと、アレックスを信じていたのだ。

 いつか必ず助けてくれると。

 会いに来てくれると。

 けれど待てど暮らせど彼は現れず。

 縋る思いで地を這いボロボロになりながらあのパーティー会場まできたのだろう。

 そこでパトリシアを見つけ、あの行動に出たというわけだ。

 美しく着飾ったパトリシアを見て、全てを奪われたと思ったのだろう。

 因果はめぐるのだなと、深くため息をつく。

 パトリシアは一度ミーアに全てを奪われた。

 そのミーアが今は全てを無くした気分になっているのだ。

 そしてそうなったのは全て――。


「……パトリシアは知っているかわからないが、私は今、皇太子の座を降ろされそうになっている」


「――そう、なのですね」


「いや、降ろされそうではないな。時期がきたら降ろされる。……そういうごたつきもあって、ミーアに構っていられなかったんだ」


 彼にとって皇太子の座を降ろされるというのはきっと、なによりも辛いものなのだろう。

 だがしかし、それを免罪符にしていいわけではない。

 彼は頭を抱えると、悲痛な声を上げた。


「私はどうしたらいい。全てを失うのか。また、奪われるのか!」


「……兄上」


 きっと彼の頭の中には幼き日の思い出がよぎっているのだろう。

 どれほど壊れようとも、どれほど恐ろしくとも、彼にとっては唯一の存在であった母親がいなくなった日。

 あの日から彼は緩やかに、壊れていったように思える。


「どうしてみんな、私から奪っていくのだっ! 私は、私はただ――っ!」


 かわいそうな人。

 こうして全てを失っていくのだ。

 どれほど嘆こうともそれは変えようのない事実で、けれどそうしたのは自分自身の行いによる結果だ。

 だが彼はそれを、理解していない。

 奪われたのは自分だけだと、かわいそうなのは自分だけだときっとそう思っているのだ。


「…………」


 パトリシアはそっと瞳を閉じる。

 頭の中にはまるで走馬灯のように過去の出来事が流れていく。

 アレックスに会った日、皇太子の婚約者になった日、はじめて一緒にパーティーに参加した日。

 勉強をしている途中でサボって、共に怒られた日。

 幸せな日々は、あの日を境に変わった。

 彼の目がパトリシアを映さなくなって、会える時間も減っていって、そしてミーアが現れて全てが終わる。

 パトリシアの夢も、未来も、愛も。


「――、」

 

 ゆっくりと瞳を開ける。

 目の前にいるアレックスの傷つき悲しんでいる顔を見て、パトリシアは立ち上がった。


「……クライヴ様。この場だけは、皇族への御無礼をお許しいただけますか?」


「え? ……うん、わかった。見なかったことにするよ」


 それはよかったとパトリシアは歩いてアレックスの元へと向かう。

 彼の前に立てば、こちらを見上げてくる瞳はどこか助けを求めているように思えた。

 そんな目を見つつも、もう一度瞼を閉じる。

 どうしたらいいのか。

 どうするべきなのか。

 理性的な考えが頭を巡りそうになるのを意図的に止める。

 パトリシアはどうしたいのか。

 ただ、それだけを考えた。


「――アレックス様」


 力強く拳を握り締める。

 頭の中にあったのはただ一つ。


「奥歯、噛み締めてくださいますか?」


 ただただ懐かしい、あのぷちっという音だけだった。

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