あなたはかけがえのない人になる
「パトリシア・ヴァン・フレンティアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げて挨拶をしたのは、同じ学年の人たちである。
人数も多くはない学園の生徒たちは、年齢別に分けられているらしい。
パトリシアは現在十五歳の生徒たちと共に学ぶこととなる。
一クラスの生徒数は十五人程度。
通常は十三歳から十八歳の約五年間ここに通うことになっており、パトリシアのように途中入学というのは珍しいのだろう。
女性たちからは訝しげな視線を、男子生徒からは複雑な視線を受けている。
女性たちの多くは平民であり、パトリシアという人間がどういった経緯でここにきたのか、知らない人ばかりだろう。
しかし男子生徒たちは違う。
彼らは貴族であるため、フレンティアの名前を知らないはずがないのだ。
だから今でも小さな声で噂されている。
『あれが元皇太子の婚約者か』と。
「では、席についてください」
そう言ってきたのはこのクラスの担当だった。
歳は二十代前半の厳しそうな見た目の男性だ。
グレーの長い髪を一つに結い、グリーンの瞳は縁のない眼鏡の奥に隠されている。
そんな彼に諭されて、パトリシアは一番後ろの一番端っこに座った。
「では、昨日の続きから」
ページを捲る音、なにかを書く音、そして教師の声が聞こえる。
なるほど授業とはこういうものなのかと喜びと期待で胸を膨らませながら教科書を開いて、はたと気づく。
昨日の続きとはどこからだろうか。
教師に質問しようかとも思ったが、こんなことで授業を止めるのも忍びない。
顔見知りであるクライヴ、ハイネは前の方の席で距離があり聞けそうにない。
どうしたものか……とちらりと隣を見る。
そこには女生徒が一人座っていた。
黒に近い緑色の長い髪は後ろで一つに編まれており、腰の辺りまである。
目元には黒縁のメガネがかけられていて、授業の内容をなかなかの勢いでノートに書き綴っていた。
多分だけれど教師の言ったこと全てを書いている気がする。
またしても聞くのは憚られる雰囲気があったのだけれど、こればかりは致し方ないと声をかけた。
「すみません。今やっているところは教科書の何ページでしょうか?」
「――」
女性はものすごい勢いでこちらへと振り向くと、なにやら怪訝そうな顔をしてきた。
まるでなんでそんなことを聞くのだと言いたげな顔に、慌てて弁解をする。
「あの、私今日から転入してきまして」
「知ってる。さっき聞いた。…………一六五ページ」
「あ、ありがとうございます」
これでやっと授業を受けられるとわくわくしながらページをめくった。
今は歴史の授業らしく、ローレラン帝国の生い立ちを学んでいるらしい。
そのページを読んでふと、懐かしいなと思う。
歴史の勉強は、皇太子妃として必ずやらねばならぬものであったため、幼い頃のパトリシアは寝物語として歴史の書物を読み漁っていた。
普通なら見れないような歴史的重要文化財である本も読むことができたし、そういった意味では皇太子妃候補も悪くはなかったなと思う。
「九八二年花の二月、当時皇太子であったアーサー殿下が率いた軍の総数は五千。対して当時まだわが国ではなかった北東に位置するトゥラン軍九千との戦いは熾烈を極めた。約三ヶ月の睨み合いと小競り合いの末、夏の二月アーサー殿下はある戦術を用いてトゥラン軍との戦争に勝利したのだが、この戦術がどういったものか知っている者は?」
この国は季節を四つに分け、さらに月を三ずつ分けている。
花の三ヶ月、陽の三ヶ月、実の三ヶ月、氷の三ヶ月。一年を十二月として数えている。
まだ寒さも残る花の三ヶ月を超え、日差しが照りつく陽の三ヶ月で皇太子は行動に移した。
有名な話だが手を挙げるものはなかなかいない。
勝利をしたということは教科書に記載されているが、戦術までは詳しく調べないと出てこないはずだ。
大きな歴史の道筋には不要なものだから。
誰もわからないのならと手を上げようとして、しかしそれよりも早く隣の女性が手を上げた。
「ロックス。答えてみなさい」
「はい。皇太子殿下はヤエの木を使われました。ヤエの木はトゥランにのみ生えていた木ですが、ある日夜営のため枯れ木を燃やしていたところ自軍から中毒症状の兵士が出たのです。あるものは呼吸困難、あるものは視力低下、あるものは手足の痺れなど。それに気がついた皇太子殿下は風が強く敵軍側に向けて吹いている夜、木々を燃やし煙をトゥラン軍兵士たちに嗅がせました」
「その通り。ヤエの木は木を燃やさない限りは有害な物質は出ず、葉っぱは医療に使われることもある。トゥランの兵士はこの煙を嗅ぎ、中毒症状を発症しまともに戦うこともできずに敗北した。皇太子殿下は戦力差がありながらも、兵士役五百の被害で済んだと言われている」
よくできた、と女生徒を褒めつつ座るように教師は諭した。
彼女は表情を大きく変えないようにしつつも座った後、小さく何度もガッツポーズを繰り返している。
よほど嬉しかったのだろう。
わかる、わかるなぁ、とその姿を見て小さく頷いた。
パトリシアも幼い頃皇室からやってきた家庭教師からの質問に答えられた時、同じように何度も隠れて喜んだものだ。
なんだか自分と似ているな、なんて思っていると黒板を書き終わった教師がもう一度こちらへと視線を向ける。
「ちなみにこの敗北が原因でトゥランは攻め入られ国を失ったわけだが、その時トゥラン側がこちらに向けて条件を出してきた。それがなんだかわかるものはいるか?」
「……」
なんだか、さきほどからかなりマニアックな内容を含んでいるな、とパトリシアは小首を傾げた。
先ほどの内容も歴史という大まかな流れには必要のないものだった。
今彼がしてくる質問は、全て個人でその先を学んだことがあるものしかわからないことばかりだ。
「いないか?」
「はい」
誰もいないのならと手を上げれば、教師の視線がこちらを射抜く。
目があって気がついたけれど、とても力のある瞳をしている。
視線が合うとなにがあるわけでもないのに、少しだけドキッとしてしまう。
「……フレンティア。答えてみなさい」
「はい。トゥランの要求は伝統的な歌舞を絶やさないことです。独自性のあるトゥランの歌舞は彼らにとっての歴史であり財産であるため、舞手の一族とローレランの貴族が婚姻関係を結びました。我が国に伝わる伝統的な舞の一部は、トゥランの歌舞からきているとも言われています」
「その通りだ。座りなさい」
軽く頭を下げて腰を下ろした。
舞の意味などほとんどの人はわからないだろう。
だがパトリシアはその成り立ちから伝えたいメッセージまで、しっかりと理解していた。
やはり勉強はいい。知識は増えていけばいくだけ己の助けになるな、とやりきった満足感でにっこり口角をあげていると、不意に隣から視線を感じる。
「……?」
「――っ」
先ほどの女性の方へ顔を向ければ一瞬視線が合わさり、しかし瞬時に逸らされた。
逸らされはしたけれど、ちらちらとこちらを見てきている。
なんだかおかしな行動を不思議に思いつつも今は勉強が優先だと、ノートに書き記していく。
なんて楽しい時間なのだろうか。
わからないことがあったら教師に聞きにいくのも可能らしい。
担任の教師はマニアックなところまで知っているようなので、もしかしたらパトリシアが知らないことも聞けるかもしれない。
ああ、にやにやが止まらないと、ペンを持ちながら上がりまくっている頬を抑える。
こんなに楽しい日々がこれから続くなんて、なんて最高なのだろうか。
そんな思いでほわほわと喜びを噛み締めているパトリシアを、どこか怪訝そうな表情で隣の女子生徒が見ていたのだが、当のパトリシアは浮かれ過ぎていて気付くことはなかった。
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