お別れは続く
クロエと別れてから数日後、パトリシアはアレックスに呼ばれていた。
ちょうどカーティスの認証を得て、平民向けの国が認証した学校を作ろうと資料を集めていたところなのに。
若干むすっとしながらも案内されるがまま歩みを進めていく。
その学校では男女や地域関係なく学べるようにしたい。
パトリシアがやりたいことの一つに、こんなに早く手をつけられるなんて思ってもいなかった。
快諾してくれたカーティスや、資料集めを一緒にしてくれているノアに感謝しながら頑張っていたのに。
なんのようなのだとむすりとしつつ足を進めれば、案内された場所は彼の私室だった。
「……ここですか?」
「はい。お一人で入るようにとのことです」
婚約者だったころは何度かこの部屋に来たことがあった。
思い出の場所ではあるが、今のパトリシアには少し荷が重い。
一応元婚約者とはいえ、年頃の男女なのだが……。
まあもう関係ないかと、ドアをノックした。
「パトリシア・ヴァン・フレンティアです」
「……どうぞ」
がちゃりと音を立てて部屋へと入れば、中は懐かしい様子から一変していた。
花瓶や絵画などが飾られていたところにはなにもなく、いつも彼が寝ているベッドの上に大きなトランクが一つ置かれている。
ずいぶん物悲しくなったのだなと、パトリシアは少しだけ視線を下げた。
「……準備、終わりそうですか?」
「ああ。もう少しだ」
彼はあと数日後にはここを旅立つ。
身の回りのものの整理をしているのだろう。
その少しだけ寂しそうな背中に、パトリシアはゆったりと声をかけた。
「ミーアさんは、どうなさるのですか?」
「共に行く。セシリー嬢の件でいろいろ思ったようだ。……実は彼女が捕まってもなお、まだ完璧には決めかねていたんだが、投獄後の彼女に会いに行ったらしい」
「え、地下牢にいったのですか?」
「もちろんクライヴの了承は得てな」
知らなかった。
クライヴはどうもパトリシアの耳にセシリーの名前を入れるのを嫌がっているらしく、できればもう関わってほしくないのだろう。
しかし流石にそこは教えて欲しかったなと思っていると、荷造りを終えたのかそっとトランクの蓋を閉めた。
「ひどい有様だったらしい。髪をかきむしり叫びをあげて。爪は折れ、肌は傷だらけ。……それを見て覚悟を決めたようだ」
「……使用人の一人として連れていくのですか?」
「…………ああ。私は結婚しない。これ以上、君とクライヴに迷惑をかけたくない」
未だアレックスを皇太子にと声を上げるものたちがいる。
しかし彼にその気がないので、彼らは徐々に作戦を次へと移行しているようだ。
それが、未来に生まれてくるアレックスの子供を皇太子とすること。
貴族たちの娘との間に子供ができれば、その子供には皇位継承権がある。
彼らは声高々に言うつもりなのだ。
『アレックスから皇位を奪った簒奪者から、正しき者へ皇位を返すのだ!』
と。
それがわかっているからこそ、彼は生涯独身で過ごそうとしているのだ。
未来に起こり得る問題を起こさないために。
「……そうですか。体調にはお気をつけて」
「…………ありがとう。君も、忙しそうにしているが、昔のように食事を忘れたりしないようにな」
「だ、大丈夫…………です」
しないとは言えないと口籠れば、彼は屈託なく笑った。
肩の荷が降りたのだろう。
昔のような笑顔に、もう大丈夫なのだなと少しだけ安心した。
彼は数秒パトリシアを見つめたあと、胸ポケットへと手を入れなにかを取り出した。
「――これを」
「…………これは?」
「母が大切にしていた指輪だ。……君に、渡したいと思って」
見覚えがある。
確かアレックスの母親が皇帝からもらった唯一のものだと。
少し古くなってはいるが、美しく洗練されたデザインになっている。
大切なものだ。
それをパトリシアに渡そうとするなんて意外だと思いながらも、差し出されたそれに触れることはしない。
「……いつか、それを渡したいと思える人に出会えるといいですね」
「………………そう、だな」
受け取ってもらえないことがわかったのか、彼はそれをポケットにしまう。
代わりというように差し出された手に、パトリシアは清く答えた。
「お元気で」
「パトリシア、君も」
繋がった手はすぐに離れ、パトリシアは頭を下げると部屋を後にする。
彼のしたことを許したわけではない。
けれど前を向いて歩めるようになったことには、素直に喜びを感じている。
愛も恋もなくなったけれど、関係が無になったわけではない。
一幼馴染として彼の門出を祝福しようと思っていると、前から一人の侍女がやってくる。
その姿を見て、パトリシアは足を止めた。
「……ミーアさん」
「――! パトリシア様……」
ミーアは困ったように視線を彷徨わせた後、小走りで端に寄ると頭を下げた。
侍女としてのあり方に、パトリシアは少しだけ目を見開く。
「…………」
そうか、と足を進める。
彼女もまた、決めたのだ。
ならパトリシアからなにかを言う必要はない。
彼女の前を通り過ぎる。
そう、ただ黙っていればいいだけだ。
「――ごめんなさい」
聞こえた声に足を止めそうになるのをグッと堪えて、前を向いて歩み進める。
正直な話をするならば、謝って欲しかったわけではないのだ。
それで過去がなくなるわけではないから。
でも、それでも。
「――お元気で」
あの時、彼女のおかげで救われたこともまた、事実だから。
この言葉が聞こえたのかはわからないけれど、後ろから息を呑む音だけが耳に届いた。
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