第8話

 その日は思ったよりも早く、そして予期せぬ形でやってきた。

 それはいつものように、奴隷解放の件で話し合いをするために皇宮へときた時のこと。


「――あのっ!」


「……」


 パトリシアが好きな薔薇の庭園に、その子はいた。


「あの、パトリシア様、ですよね?」


 そうやって話しかけてきたのは、あの時アレックスと共に見た可愛らしい女性。

 侍女である証の服を身にまとった、その人が今目の前にいる。


「はじめまして。お城で働いています、ミーアと申します。アレックス殿下にはよくしていただいております……」


 うるうるとした瞳で見上げる彼女はとても小さく見える。

 いや、実際そうなのだろう。皇宮働く一人の人、そんな存在なのだ。

 だというのに、彼女は話しかけてきた。

 パトリシア・ヴァン・フレンティアに。


「アレックス殿下からパトリシア様のお話を聞いていて……ぜひお話ししてみたいと思いまして」


 この子は、なにをしているのだろうか。

 ここではここでのしきたりというものがある。それは守られるべくして定められており、皇族ですらそれを遵守するのだ。

 だというのにこの子はそれを破っている。

 皇宮で働くならば、まずはそこを習うはずだ。だから知っているはずなのに、この子はパトリシアに話しかけてきた。目上の人に。

 彼女たちにとって、しきたりを破ることは罪になるというのに。

 思わず絶句しているパトリシアに気づかずに、ミーアは話を続ける。


「私たちお城で働く者にとってパトリシア様は憧れの存在だったので、こうしてお話しできてとても光栄です」


 彼女の考え方は非常に危険だ。これをパトリシア以外の人にしようものなら、その場で騎士たちに拘束され鞭打ちされてもおかしくはない。

 それを理解していないのか、彼女は嬉しそうに笑っている。

 このままではいけない。パトリシアは心を鬼にして、背筋を伸ばしまっすぐ彼女を見つめた。


「――あなた、皇宮の礼儀作法は習っているわよね?」


「え? あ、はい! ここに入る時に」


 だというのに、なぜ?

 頭を抱えそうになるのをなんとか我慢して、体制を崩すことなく話を続けた。


「ならあなたのしていることが礼儀に反していることは、気づいているわよね?」


「そ……、それは、そう、ですけど」


「ですけど、なにかしら?」


「………………私はただ、パトリシア様とお話ししたかっただけで……」


「だとしても、貴女のしていることはとても無礼なことです。鞭打ちされてもおかしくないと理解してますか?」


 そこまでいわれて、初めてミーアの顔に恐怖の色が浮かんだ。

 きっと過去に罰を受けたことがあるのだろう。その時の記憶が蘇ったのか、彼女は一歩後ずさった。


「でも、パトリシア様はお優しい方だと。過去にも罰せられそうになっていた使用人をお許しになられたと聞いたので……」


「もし仮に私が優しいと思う人がいるのであれば、それは礼儀を尽くした上で失敗してしまった者たちへです。貴女はどうですか? 私のことを下に見ていると思われてもおかしくはない行為です」


「そんなことはしていません! 私はただパトリシア様と仲良くなりたいんです」


「分不相応です。今回は見逃しますが次はありません。お気をつけなさい」


 結局またこの薔薇園でのんびりすることはできないらしい。

 むしろしばらくはこの場所には近づかない方がいいかもしれない。

 少し離れたところで待機していた騎士たちに目配りしてその場を離れた。

 ここ最近は奴隷解放の件で寝ずにアレックスへ渡す書類を制作していたりするからか、いつもより心に余裕がない気がする。

 ……いや、多分それだけではない。

 きっと彼女がアレックスと仲良さげにしていたのが、どこかに引っ掛かっているのだ。

 だからこそ、冷たく当たってしまった。

 なんて情けない。パトリシアは未来の皇后だ。

 もっと心にゆとりを持ち、民たちを引っ張っていかなくてはならないのに。

 会議へと向かう道すがら、少しだけ立ち止まって呼吸を整える。

 深く息を吸い込んで、モヤモヤとした気持ちと共に吐き出した。

 大丈夫。自分はまだ、笑える。

 強く拳を握り締めるとまっすぐに前を向いて歩き出した。

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