第9話

「パトリシアっ!」


 皮膚をひりつかせるような大声を響かせて、前から歩いてきたのはアレックスだった。

 瞳はギラギラと輝き、整った眉を強く寄せている。

 あの表情を知っている。あれは怒りに我を忘れている時のものだ。

 ドスドスと大きな音を立てて近づいてきたアレックスは、その勢いのままパトリシアの腕を強く掴んだ。


「――っ、アレックス様、いっ」


「ミーアになにを言った」


「痛いです、離してくださいっ!」


「ミーアが君に傷付けられたと言っていた。なにをしたんだ」


「……っ、落ち着いてください。私は彼女を傷つけてなんていません」


 掴まれた腕があまりにも痛くて顔を歪めるが、彼は苦悶するパトリシアが見えていないのか、離す気配すらない。

 皮膚を通り越して骨からの痛みを感じ、たまらず彼の手をはたき落とした。


「おやめくださいっ! なんなのですか、急に」


「…………ミーアか泣いていた。彼女は自分が悪いのだと言っていたが」


「その通りです。彼女の失態を私が咎めただけのことで、アレックス様から叱責されるようなことはございません」


「失態? ただ話がしたいと言っただけだろう。それのなにがいけないんだ」


「彼女から話しかけてきたのです。下のものから声をかけるのはしきたりに反すると、アレックス様もお分かりでしょう?」


 そっと己の手をさすりつつ見れば赤く色がついていた。

 彼の手の形についたそれは、一日二日では消えそうにない。

 痣になるであろうそこを父に見られたら大事になりそうだと心配していると、またしてもアレックスが大声を出した。


「下のもの? 君も彼女を奴隷だと、卑しい存在だというのか!?」


「……おっしゃいたい意味がわかりません。彼女は一、使用人です」


「卑しい存在だと思っているからそんな言葉が出てくるんだ。なぜ同じ人間だと思えない? ただ話をすればよかっただけじゃないか」


 腕の痛みすら忘れるほど、呆然と見つめてしまった。

 よりにもよって、皇族であり次期皇帝である彼がそんなことを口にするなんて。


「私が間違っているとおっしゃるのですか?」


「話をすることのなにがいけないんだ」


「話をすることが悪いと言っているのではありません。彼女から話しかけてきたことが問題なのです」


「ミーアから話しかけることのなにが悪い。それこそ彼女を見下している証拠だ」


「……見下すもなにも、彼女は侍女ですよ? 私に直接仕えるわけでもない」


 侍女から令嬢に声をかけるなんて、そんなことはあってはならない。

 パトリシアはそれを指摘しただけなのに、なぜ彼はこんなにも怒りをあらわにするのか。


「なぜ優しくできない。彼女が君になにかしたのか? ただ話をしてやることはできないのか?」


「できません。私と彼女では立場が違いすぎます」


「……なるほどな。そうやって地位の低いものは相手にもしないのか。君は冷たいな」


 なぜ話が通じないのかと、たまらず額を押さえてしまう。


「冷たい冷たくないではありません。それがここでの礼儀であり常識です。アレックス様だってそうしてきたではないですか」


「それがおかしいことだと、彼女と会って気づけたんだ」


 だとしても、だ。

 その考えを他人に押し付けるのは違う。

 もし仮にその考え方が正しいのだとしても、それを浸透させるには時間がかかる。

 今あるものを壊して変えるのは、簡単なことではないのだ。

 奴隷制度がそうであるように。


「だとしても、そう思っているのはアレックス様だけです。人の認知を変えるのはとても大変だと、アレックス様ならお分かりでしょう」


「……君と話していると温かみを感じない。まるで自分まで無機質なもののように感じてくる」


 なんだそれは。

 なぜそんなことを言われなくてはならないのだ。


「少し頭を冷やすといい」


 頭を冷やすのはあなたのほうですと、そう言いたかったけれど流石に口にはできず、黙り込んだパトリシアを見てアレックスはその肩に手を置いた。


「もし今度機会があったら君から声をかけてあげてはくれないか? 彼女は君に憧れていたんだ」


 なぜこちらから声をかけなくてはいけないのか。

 彼女の行動がどれだけパトリシアを傷つけたか、彼はやはり気づいてはくれないのだ。

 ゆっくりと、体から力が抜けていくのを感じる。

 感情が抜け落ちていくみたいだ。

 呆然と、ここであれこれ言ったところで無駄なのだと理解した。


「……機会が、あれば」


「ああ、それでいい」


 どうやら溜飲を下げたらしいアレックスは、パトリシアの手を掴むとお茶でも飲もうと部屋へと向かう。

 今この状況で一緒にお茶を飲むなんて、とてもではないができそうにない。

 けれど相手は皇太子。誘いを断るのは失礼なことだとわかっているからこそ、ただ黙ってついていく。

 なんだろうか。なんだか、少なくとも今はもう、怒りも悲しみも喜びも感じない。

 己という存在が本当に無機質になってしまったかのようだ。

 大好きなのに。ずっと隣にいたいのに。

 ――今は、少し、あなたのそばが辛いと思った。

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