君のあの日のこと
「では、行ってまいります」
「うん。そんなに緊張する必要ないからね」
「ありがとうございます」
校舎に入り階段を上がりきったさき、最上階の一室に学園長室が存在していた。
室内は基本木製の作りをしており、どこか暖かみのある優しい雰囲気になっている。
廊下には赤いカーペットが引かれ、片面には大きなガラスの窓が、もう片方には著名人の肖像画や花などが飾られている。
そんな廊下でノックの後学園長室へと入っていったパトリシアを見送り、クライヴは大きくため息をつく。
「そのため息はなんのため息だ?」
「パティの心を心配してのため息」
ふうんと、興味なさげな相槌にクライヴは鋭い視線を向ける。
「無理してるに決まっているだろう。ここまでバタバタしてたから深く考えてはこなかっただろうけど……」
「まーじであの日なにがあったのさ?」
「……あの日、か」
クライヴはゆったりと目を閉じた。
真っ暗になった視界の奥底から、あの時の景色がまるで映像のように浮かび上がってくる。
それは、父である皇帝の生誕祭での出来事であった。
「皇太子妃にはなりません」
声高々に宣言したのは、未来の皇太子妃として皆の記憶に刻まれていた女性――パトリシアだった。
彼女は後ろになにが起きているかわかっていない顔をしている皇太子、アレックスを連れている。
「パトリシア、いったいどうしたというのだ……」
「申し訳ございません、皇帝陛下。お祝いの席ですのに、このような話を。非常識なのは重々承知しておりますし、後ほどお叱りもお受けいたします」
「私がそなたを叱れるものか。いったいなにがあったというのだ?」
「パトリシア。きちんと説明してください」
「皇后陛下……。ありがとうございます」
両陛下の了承を経て、彼女自身の口から話をされるのかと思えば違い、その手を引っ張りアレックスを前へと連れてくる。
「さあ、殿下。どうぞお話しくださいませ」
「パトリシアっ、君は――」
「殿下。どうぞ、全てをお話しください」
「――……」
話せるわけないだろうなと、クライヴは笑いそうになるのを堪える。
あの時会場から走って消えるパトリシアと別れた時、クライヴの視界にはこそこそと隠れるようにどこかへと消えたアレックスと奴隷の娘が捉えられていた。
それを追うように向かったパトリシア。
そしてそのあとすぐにこの事件だ。
十中八九奴隷の娘とのいざのざが原因だろうが、プライドの高いあの兄が自らの非を認めるような話はしたくないはずだ。
だがしかし、皇帝と皇后から話を求められているのに、しないわけにもいかない。
さてはてどうするつもりなのか、と高みの見物をしようとしていると、突然横から女が飛び出してきた。
「アレックス様! おやめくださいっ。なぜパトリシア様はいつもいつも殿下に冷たく当たられるのですか!」
「――、」
まさかの展開にクライヴは溢れそうになる声を抑えるため、そっと己の口元を手で隠す。
どうもあの女は悪手な行動ばかりしていくらしい。
彼女の登場に、アレックスの表情が一瞬で変わる。
そしてそれは、皇帝もだった。
「…………どういうことだ、アレックス。なぜその娘がここにいる」
「これはっ」
「捕えなさい」
皇后の命によりやってきた騎士たちは真っ直ぐに女の元へ向かおうとする。
だがしかしそれをアレックスが手で制し、彼女を背後に庇う。
「待て。彼女は私が招待したのだ。不法に入ったわけではない」
「愚か者っ! それが原因だとなぜ気づかない!」
くっと思わず声が漏れてしまう。
なんという茶番だ、これは。
ただただ、アレックスの痴態を晒し続けるだけではないか。
「しかしっ、皇帝陛下。私にも人を招待する権限はございます。それに彼女は……、私の側室になる女性です」
「――……」
なんだ、それは。
静まり返った室内で、クライヴもまた息すら止めてアレックスを見た。
自分の頭に血が昇ったのもわかったし、体に力が入ったのもわかる。
たった一言。その一言で人をブチ切れさせるなんて天才だなと、ただ黙って見つめる。
まだ、まだだ。だって彼女がまだ、動いていないから。
「……なにを、言っている」
「決めました。彼女は私に必要な人。支え、愛し、癒してくれる。そんな彼女にはそばにいてほしいのです」
「アレックス殿下……」
頰を染め見つめ合う二人。
なんて喜劇だろうか。
笑えもしないと思っていたのに鼻で無意識に笑ってしまった。
お笑い草とはこのことだ。
熱を上げる本人たちとは別に、会場内はどんどん白けていく。
最初は皇室の痴態に皆がざわめき、興味ありげに見ていたというのに。
盛り上がっていく本人たちを見ていると、どうも周りは冷めていくらしい。
クライヴはちらりと皇帝を見る。
普段の冷淡な表情から打って変わり、怒りに顔を歪めている。
当たり前だ。皇帝は実の娘のようにパトリシアを愛していたのだから。
これは終わったなとため息をついてふと思う。
ならばこの先は、と。
「アレックス。お前は自分がなにをしているのかわかっているのか?」
「なにも彼女を皇后にしろなどと言ってはおりません。ただそばにいてほしいのです。父上だって側室を持ったじゃないですか」
「お前っ!」
「陛下!」
怒りに我を忘れている皇帝を皇后が止める。
流石にこれ以上は人目があるため、皇室の威厳にも関わってくることだ。
「ひとまず、お開きといたしましょう。これ以上は控え室で」
「…………あとは皇后に任せる」
「かしこまりました」
皇后はてきぱきと指示を出し、パーティーは一旦お開きとなった。
客人を使用人たちがお見送りする中、渦中の人物たちが控え室へと集められる。
ちゃっかりそこに混ざったのはパトリシアが心配だったからだ。
ソファに腰を下ろす皇帝とその隣に皇后。
その前にはアレックスと奴隷の娘。
パトリシアとその父公爵とクライヴは立って話を聞いていた。
「……パトリシア」
「はい、皇帝陛下」
「…………意志は固いのだな?」
「…………」
隣に立つパトリシアを見る。
ほんの少しだけ悲しげに伏せられた瞳は、しかし力強い意志を持って前を向いた。
「――はい」
「……そうか」
皇帝はそれだけしか言わなかった。
しばらくの沈黙ののち、今度は皇太子へと視線を向ける。
「このような問題を起こして、ただで済むとは思ってないな」
「……なぜいけないのですか。私は、パトリシアと結婚します。彼女を皇后とします。その上でミーアを側室にと言っているのです」
「いいえ。私は結婚しません。ミーアさんが側室になるからではありません。殿下と生涯を共にすることが不可能だと理解できたからです」
「ふっ、」
たまらず笑ってしまったが、アレックスからの鋭い視線が飛んできただけでどうにかなった。
「パトリシア。君の夢は皇后になることだろう。それを叶えられるというのに、なぜそこまで頑なになる必要がある」
「……」
ああ、本当に。
この男はクライヴを怒らせる天才だなと思う。
そもそも感情が動きにくいクライヴにとって、大切だと思える存在は数少ない。
そのうちの一人がパトリシアであり、ある意味では唯一無二の人であった。
そんな彼女が全てを投げ打ってでもアレックスと共にと、皇后となることを目指していたから、重く仄暗くしかし美しいこの想いに蓋をしてでも応援していたというのに。
本当に、馬鹿な男だ。
「夢は変わるものですよ、兄上。そもそもその夢を奪ったのは兄上ではないですか。あなたはもう少し周りの人の気持ちというものを理解した方がいい。俺が言えた義理ではないですが……。せめて最後まであなたの味方であろうとしたパティの手は、手放さない方がよかったのに」
「クライヴ、お前は黙っていろ」
「黙りませんよ。だってもう、パティはあなたの婚約者ではない。そうでしょう、父上」
話を振ったのは顔を伏せたまま動かなかった皇帝だ。
相当堪えたのだろうけれど、ここははっきりとしてもらわないと困るところだ。
「…………ああ、パトリシア。私はそなたを娘と、そう呼びたかった」
「……もったいなきお言葉でございます、陛下。…………私も、許されるのなら陛下を、父と、お呼びしたかった」
クライヴにとって父親とは敬意と畏怖を表していた。
人並みには愛してくれていたと思う。それを与えてもくれた。
しかしたった一人の女を愛したが故に、妻と息子たちに取り返しのつかない恐怖を与えた。
皇帝としては尊敬するが、父としては恐怖の対象なのだ。
あんな女を、そばに置いたから。
そんな男が今、一雫の涙を流した。
父が泣いたのなんて初めてみた。それが実の息子に見せる、最初で最後の涙なのだろう。
この男でも泣くのだな、と驚きはした。
「――パトリシアと皇太子の婚約を破棄する」
「……ありがとうございます、皇帝陛下」
しんみりとした空気の中、往生際の悪い男が一人テーブルに拳を強く叩きつけた。
「認めません! パトリシアは私と婚約しているのですよ!? それを片方だけの意見を聞いて破棄するなどっ」
「……アレックス、そなたは」
「父上っ。なぜいつも私から奪うのですか。なぜいつも――」
「アレックス殿下」
ふと様子の変わったアレックスを見て、一瞬嫌な予感が頭をよぎった。
しかしそんな彼の言葉を遮るように、この騒動の中黙り込んでいた公爵が声を発する。
「殿下。あなたにパトリシアは渡せません」
「――……」
それは明確な拒絶であり、双方の関係に終止符を打つ一手になった。
それはアレックスにとって後ろ盾を失ったも同じだが、今の彼にはそこに気付けるだけの余裕はないだろう。
いい気味だ。なんて清々しいのだろうかと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
これでやっと、行動に移せる。
「兄上の、皇太子の婚約者でないのなら、別に僕がパティになにを言っても許されますよね?」
「……クライヴ、お前」
見開かれた大きな瞳。
ずっと気づいていたはずだ、クライヴの中にあるこの気持ちに。
なのにその上にあぐらを掻いて怠けていたのは、他ならぬ自分自身ではないか。
すいっと視線をずらし、もうそちらは見ない。
この瞳に映るのは、他ならぬ人だけ。
不思議そうな顔をする彼女の手を取り、優しく微笑んだ。
「パティ、好きです。僕と結婚してください」
「告白したのか!?」
「先手必勝だろ。他のやつに取られるのなんて絶対嫌だったから」
「なるほどなぁ。それで……まあ、今の現状見る限り答えはわかってる気がするけど」
「うるさい」
一発殴ってやろうと拳を握れば、それに気づいたハイネは慌てて反対側の壁の方へと避ける。
「あっぶね。……んで? なんて返事されたんだ?」
「普通聞くか?」
「俺に普通を求めるのか?」
そうだったと口を閉じる。
なんて無駄な会話をしたのだと早々に諦め、今一度記憶を呼び起こしてみる。
あの時のことは鮮明に覚えていたから、すぐに思い出すことができた。
クライヴの言葉を聞いたパトリシアは、大きく目を見開き、ほんの少しだけほおを染める。
淡い桃色の花のように色づく頰と、少し気恥ずかしそうに視線を逸らすその仕草が大好きで、このままずっと見ていたいと思った。
だがそれは叶わず。
彼女がゆったりと瞳を閉じて開いた時には、顔の高揚は消え失せていた。
「『申し訳ございません。お受けすることは、できません。私はもう、選ばれるのは嫌なのです。わがままは承知です。なんて生意気な女だと皆から後ろ指刺されるでしょう。それでも私は、私の愛する人を選びたいのです。……今度こそ』って言われたらもうそれ以上なにも言えないだろ」
実際はそこのすぐ、『なら選ばれるように努力するから、少しでいいから僕のことを見てほしい』と願い出た。
だがそれをハイネに伝えるつもりはない。
惨めに縋りついてるだなんて、思われたくはないのだ。
「…………なんだそれ」
ポツリとつぶやかれた言葉に視線を向ければ、ハイネは開く窓から頭を出し空を見上げている。
その表情は見えないが、クライヴは嫌な予感に眉を寄せた。
「なんだそれ。――かっこよすぎない? 惚れそう」
「殴られたいらしいな」
「嫌ですぅ。でも実際本当にかっこいいじゃん。惚れ直した?」
「直すまでもない」
「はいはい」
だからパトリシアが学園にくると聞いて、喜びと共に不安もあった。
この学園でパトリシアが誰かを見初めるようなことがあったら……。
クライヴは頭がおかしくなってしまう自信がある。
「でもよかったな。同じ学園に通えるなら、選ばれる可能性上がるじゃん」
「……まあな」
どちらにしろそばにいられるのならそれに越したことはない。
「まあ、そんな女性ならこれからも楽しめそうだ」
「……好きになったら俺と戦うってことだけは覚えておけよ?」
「いやぁ……。自信ないなぁ、色々」
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