変わりゆく想い

 はらはら、はらはらと止まることなく涙がこぼれた。

 パトリシアは人に会わないよう気をつけつつ、裏門から離れた場所までやってきていた。

 そこまで来てようやく足を止め、近くにあった木にもたれかかる。


「……っ、」


 苦しかった。

 彼と一緒にいることが。

 彼の瞳に見つめられることが。

 とても辛かったのだ。

 恋心はもうないと思う。

 彼に対する想いは複雑だけれど、そこに甘いものは交わっていない。

 それでも幼い頃から彼を知る存在として、あの言葉は胸に刺さったのだ。

 戻ってきてほしいなんて、言われるとは思わなかった。

 パトリシアが皇太子妃を諦めたのは、彼の行動によるものだったから。

 それを理解してくれていると思っていたのに。

 きっと彼もいっぱいいっぱいなのだろう。

 夜眠ることもできず、不安な日々を過ごしているのかもしれない。

 だとしても、それをパトリシアに求めるなんて。

 流れ続ける涙を止めようと、そっと目元を拭った時。


「パティ」


「……クライヴ様」


 やはり追いかけてきたのか。

 優しい彼ならそうするだろうなと、振り返ることなく思う。

 さすがに涙でぐしゃぐしゃの顔を誰かに見せたくはない。


「……私は大丈夫ですので、お気になさらないでください」


「なんでこっち向かないの?」


「…………ぐしゃぐしゃなので」


「ぐしゃぐしゃ? ……ああ、泣いてるからってこと?」


 ぽんっと肩を叩かれて、しぶしぶ彼の方へと体を向けた。

 もちろん顔は両手で隠したまま。


「……わかっているなら放っておいでください」


「じゃあ見ないように目をつぶっておくよ。これならそばにいてもいいでしょ?」


 ちらりと彼の顔を指の隙間から見れば、確かに目を閉じている。

 そういうことではないのに、素直に目をつぶっている様子が少しだけ面白くてパトリシアは肩から力を抜く。


「転んだら危険ですから目を開けてください」


「んー……でもパティ見られたくないでしょ? 俺は泣いてるパティも可愛いなって思うけど」


「また、そういうことを……」


 これでクライヴが引いてくれるとも思えない。

 なのでここはもう諦めるしかないのだろうと覚悟を決めていたのだが、彼は目を開ける前に腕を伸ばすとそっとパトリシアを抱きしめてきた。


「――クライヴ様!?」


「こうしたら見えないし、俺は目を開けられる」


「そっ、そういう問題では!」


 一応二人は年頃の男女である。

 人がいない場所だとはいえ、誰が見るかもわからないところでこんなことをしていては、どんな噂が立てられるかわかったものではない。

 慌てて離れようとしたが、彼の力が弱まることはなかった。


「ねぇパティ。俺が言ったこと、覚えてる?」


「……言ったこと?」


「なにがあっても君の味方だよって」


「…………覚えています」


 忘れるわけがない。

 皇帝の生誕祭。

 パーティー会場から出ていくアレックスとミーアを見つけたパトリシアは、二人を追いかけようとしていた。

 その時に彼に会い、言われたのだ。


『パティ、忘れないで。僕はなにがあっても君の味方だよ』


 あの言葉に、パトリシアは救われたのだから。

 クライヴのあの言葉のおかげで、勇気を出すことができたのだ。


「忘れません。あの言葉は私にとって、魔法の言葉でしたから」


「…………そっか。今でも変わってないよ。俺は、ずっとパティの味方だよ」


 まただ。

 また彼の言葉が、優しく胸の中へと落ちてくる。

 傷だらけの心を労わるように、優しく染み渡っていく。

 どうして彼はいつも、パトリシアが欲しい言葉をくれるのだろうか?


「間違ってない。君は間違ってないよ、パティ。大丈夫。大丈夫」


「…………はい。大丈夫です」


 大丈夫。

 その言葉を使う時、本当は大丈夫じゃないことに気づいていた。

 強がらなくては、立っていられない。

 だから使っていたのに。

 今はその言葉が正しいものとして使うことができる。


「私は大丈夫です」


「…………うん」


 ゆっくりと離れたクライヴは、パトリシアの濡れる目元をそっと拭う。

 目元が赤く腫れていないか、見苦しくないか不安になった。

 けれど彼は、なんてことないように笑う。


「パティは泣いててもかわいいね。笑ってるほうが好きだけど」


「……そうですか?」


「うん。大好きだよ」


 ずいぶんと直球に伝えるようになってきたなと、パトリシアは頰を赤らめる。

 前からそんな感じではあったけれどあの一件からは特に、好意を全面に出してくるようになった。

 正直恥ずかしいのでやめてほしいと思う一方で、嫌ではないと思う自分もいる。


「……もう、ご自身のことを『僕』とは呼ばないんですね」


「ん? あぁ。パティにちゃんと男として見てもらいたいからね」


 さらっと言いながら彼は懐からハンカチを手渡してくる。


「涙止まった?」


「……はい。ありがとうございます」


 もう大丈夫だと頷けば、クライヴは微笑みながら手を差し出してくる。


「なら二人のところに行こう。心配してる」


「はい」


 その手をとって歩くことに抵抗はない。

 触れ合う手の温もりが落ち着くような、それでいて少しだけ恥ずかしいような不思議な感覚がある。

 ちらりと彼の手を見れば、パトリシアの手を包み込むほど大きい。


「……」


 傷はいつか癒えるのだろう。

 血が固まり瘡蓋となり、いつか何事もなかったかのように綺麗に治る。

 その時パトリシアは、一体どうするのだろうか?

 ――願わくば彼に、そばにいてほしい。

 

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