いつか必ずその報いを

「…………」


 彼との再会でパトリシアが感じたのは『なぜ?』という感情だけだった。

 なぜそんな顔をしているの?

 なぜそんなに痩せているの?

 なぜそんなに、悲しそうなの?

 つかの間見つめあう二人だったが、先に正気を取り戻したのはパトリシアのほうだった。


「……皇太子殿下にご挨拶申し上げます」


 そうだ。

 今のパトリシアは公爵令嬢。

 彼と婚約者としての関わりはないのだから、きちんと礼を尽くさなくては。

 深く頭を下げて挨拶をすれば、彼は一瞬息を止めた。 

「………………あり、がとう」


 ゆっくりと頭を上げるけれど、とても彼の顔を見れそうにない。

 視線だけは戻さずにいれば、パトリシアを背中に隠すようにクライヴが前に出た。


「兄上。なにかようでしょうか?」


「…………父上から、お前に手紙を預かっている」


「父上から?」


 アレックスの手から渡された手紙には、確かに皇室の蝋印がされていた。

 クライヴは数秒それを見つめた後、懐へとしまう。


「ありがとうございます。……しかしこの手紙を送るためだけにわざわざ兄上がこられたんですか?」


「……いや、」


 やはり彼には他に用事があったのかと、地面を見つめながら思う。

 重要なものとはいえ手紙を渡すためならば騎士でいいはずだ。

 それなのにわざわざ皇太子がくるなんて。


「…………」


 パトリシアが呼ばれた理由はなんだろうか。

 なにか、言いたいことがあるはずだ。

 ……大丈夫。

 大丈夫だから顔を上げなくては。

 一度強く瞳を閉じて、それからゆっくりと開く。

 静かに顔を上げれば、やはりアレックスと目が合う。

 ずっと、見ていたのだろうか?


「私を、お呼びになった理由はなんでしょうか?」


「…………すまない。パトリシアと二人きりにさせてくれないか?」


 どうやらよほどの話らしい。

 二人に離れるよう伝えるが、クライヴは小さく首を振った。


「できません。今の兄上とパティは皇太子と公爵令嬢です。二人っきりのところを誰かに見られて、おかしな噂でもされたらどうするんですか」


 確かにその通りだ。

 パトリシアと彼はもう、二人っきりでいていい間柄ではない。

 クライヴに言われて気がついたのか、アレックスは複雑そうな顔をしたのちにもう一度パトリシアと目を合わせた。


「……パトリシア」


「はい」


「…………皇太子妃に、戻ってくれないか?」


「――は?」


 なにを、言っているのだろうか。

 なぜそんなことを、彼は口にしたのだろう。

 皇太子妃に戻る?

 なんのことだ。

 どうしてそうなる。

 だって、パトリシアからその場所を奪ったのは……他ならぬ彼ではないか。


「無理を言ってるのはわかっている。父上は私が必ず説得する。……だから」


 説得も何もない。

 皇帝陛下は最後までずっと悩まれて、それでもパトリシアのためと婚約破棄を認めてくれたのだ。

 そんな人にまた認めてもらえるように話をする?

 呆然とするパトリシアの前で、クライヴが鋭い目つきでアレックスを睨みつけた。


「……兄上。あなたには失望しましたよ」


 今にも殴りかかりそうなクライヴを手で制す。

 こんなところで皇子同士の喧嘩なんて起こっては、皇室の悪い噂が立ってしまう。

 そんなことを望んではいない。


「クライヴ様。落ち着いてください」


「パティ! でも……」


「ありがとうございます」


 パトリシアのために怒ってくれたクライヴのおかげで、少しだけ冷静になれた気がする。

 ぼーっと動いていた頭は、ただ『なぜ?』を繰り返すだけで、答えになんてたどり着けないでいた。

 いや、もしかしたら辿り着きたくなかったのかもしれない。

 だってこれは。


「――アレックス様」


「……っ、ああ」


 婚約破棄を決めたあの時から、彼の名前は意図して呼ばないようにしていた。

 皇太子と公爵令嬢。

 その関係を自分自身にもわからせるためだった。

 久しぶりに呼んだ彼の名前は唇に馴染み、一体今まで何度口にしたのだろうかと考えてしまいそうになるほどだ。

 パトリシアの意図に気づいていたのだろう。

 名前を呼ばれて少しだけ嬉しそうな顔をした彼に、パトリシアは告げる。


「今度は彼女を傷つけるおつもりですか?」


「――……」


「お気づきではないのですね。私はこれでも、傷ついていたんですよ?」


 見開かれた瞳が、答えだった気がする。

 全く理解していなかったのか、はたまた表面上だけはわかっていたつもりだったのか。


「今私が戻ったら今度は彼女が同じように傷つくと、なぜわからないのですか?」


 ミーアは裏切られたと思うだろう。

 パトリシアを連れて帰り皇太子妃に据えたら、彼女がどれほど屈辱を感じるか。

 それはあの時パトリシアが感じたものと、似て非なるものだろう。

 けれどわかってしまうのだ。

 それがどれほど辛いものか。


「そして今もなお私を苦しめていると……なぜ、わかってくださらないのですか」


 思い出してしまう、あの時の気持ちを。

 心がぐちゃぐちゃになったあの時のことを。

 けれどそれも過去のことだ。

 過去のことだったのに……。

 傷口は開かれた。

 ぱっくりと空いた心から、ただ血が流れ落ちる。

 けれどまだ。

 今はまだ。

 泣いてはいけない。

 弱みは見せてはいけない。

 パトリシアは真っ直ぐに、アレックスを見た。

 未練はもうない。

 今ここで、全てを終わらせよう。

 過去は過去と、区切りをつけるために。


「さようなら、アレックス様。もう元に戻ることはありません」


「……パトリ、シア。私は――」


「お慕いしておりました」


『君は人を愛したことがないからわからないんだっ!』


 あの言葉の返事を、今やっと言えた。

 頭を下げる。

 貴族が皇族にする礼を、彼へと向ける。

 それはこれ以上の関係はないと、態度で示したのだ。


「では、失礼致します。皇太子殿下」


 振り返ることはしない。

 彼の瞳に映る最後の瞬間まで、背筋を伸ばし歩み続ける。

 たとえどれほど頰を濡らそうとも。

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