第一章完 傷だらけでも花は咲く

「ごめんなさいっ!」


 マリーが泣きながら帰って行った。

 三人に支えられて。

 ちなみに三人は申し訳なさそうに何度も謝っていたので気にしないよう伝えておいた。

 パトリシアはやってやったと満足げに胸を張る。


「これでシェリーの無罪も証明できましたね」


「別によかったのに……。でも、ありがとう」


「いいえ。こちらこそ、彼を連れてきてくれて……」


 図書室の男の子はマリーからの事情聴取の前に返した。

 どうもクライヴが嫌っているらしく、睨みつけられて震えていたので軽いお礼くらいしかできなかった。

 次会った時にでもきちんとお礼を言おうと決めて、パトリシアは腕をグッと上げ伸びた。


「とりあえずこれで一難はさりましたね」


「いやぁ、面白かった。フレンティア嬢があんなに強気な性格だとは」


「……この学園にきて変わったのかもしれません」


 昔までだったらきっとあの謝罪を受けて終わっていたはずだ。

 確かにずいぶんと変わったものだなと、己の変化を改めて実感した。


「それにしても、パティが皇太子妃だったなんて……」


「いえ、ただの婚約者ですし、もう破棄してますから」


「……まあ、話したくないことはあるわよね。わかってるから大丈夫よ」


「…………はい。ありがとうございます」


 結局は話さなかったパトリシアを許してくれるらしい。

 先ほどの図書室の男の子を連れてきてくれた件といい、本当に優しい友人を持ててよかったなとシェリーに感謝の言葉を伝えていると、ハイネがほんのりと哀れみのこもった声で言う。


「まあ、フレンティア嬢に挑もうってのに、流石に少し浅はかだったよなぁ」


 実際彼女の計画の甘さのおかげでことなきを得れたので、そこは否定しようがない。

 彼の言葉に苦笑いを浮かべようとして、ふと止める。


「…………ハイネ様は私がやっていないと、信じておられたのですか?」


「え? もちろん。フレンティア嬢がこんな馬鹿なことするわけないでしょう」


 まるで当たり前のようにそう言われて、ああそうかと納得してしまった。

 パトリシアの中で彼の立ち位置は微妙だった。

 友人ではあるけれど、それはクライヴとの絆があってのことで。

 そこに割り込んできたパトリシアと彼の間にはなにがあるのか、明確に理解できていなかったのだ。

 だから一歩を踏み出せなかった。

 それがわかっていたから彼も、パトリシアのことを『フレンティア嬢』と呼んでいたのだろう。

 やっぱり聡くて、優しい人。


「……ハイネ様」


「はい?」


 だからこそ今、彼が無条件にでもパトリシアを信じてくれたことが嬉しい。

 それは信頼されている証だ。

 なら、それには応えたいと思う。

 彼ともっと、ちゃんと友人になりたい。


「――どうぞ、パトリシアとお呼びください」


「…………え、」


 ぽかんとした彼の顔。

 それを見ながら微笑めば、ハイネは数秒固まったのちにどうしたらいいのかわからないように己の頬を爪でかく。


「……え、っと………………っ、パトリシア、嬢?」


「はい」


 呼ばれたから答えたのだが、なぜか彼はまたしても数秒固まった。

 はちみつ色の綺麗な瞳と見つめ合う。

 その一瞬だけは、この場に二人しかいないかのようだった。

 思えば人の気持ちの変化に聡い彼には、何度も救われている。

 ありがたいなと、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます、ハイネ様。あなたと出会えて、私は幸せ者ですね」


「――っ」


 この学園にきてよかった。

 シェリーとハイネというかけがえのない友人と出会えたのだから。

 そんな思いを込めて告げた言葉は、きちんとハイネに届いただろうか?

 彼はしばしの沈黙ののち、バッと顔を伏せると片方の手で口元を覆い、もう片方の手のひらをこちらに向けてくる。

 その仕草はまるで、顔を隠したがっているかのようだった。


「――俺、カフェテリアの場所取っとくな。じゃ」


「ハイネ様!?」


 走り去るように消えた彼に驚き追おうとするが、それをシェリーが止める。


「私も。二人のご飯とか先に注文しとくね。そろそろカフェテリア閉まっちゃうし」


「あ、なら私たちも――」


「二人、少し話したほうがいいよ。じゃあまたあとで!」


 シェリーまで急いで向かってしまい、部屋にはパトリシアとクライヴだけが残された。

 話をしたほうがいいとは何のことか。

 そしてハイネはなにがあったのか。

 不思議に思いながらもクライヴの方を見れば、なぜか彼の目は据わっていた。

 空気が変わる。

 先ほどまでのほんわかしたものが一変し、重くのしかかってくるかのようだ。

 その雰囲気を出しているのは、間違いなく目の前にいるクライヴである。

 どうしたというのだろうか?

 パトリシアはそっと彼の名前を呼んだ。


「…………クライヴ、様?」


「……パティはさ、いつもこうなんだ」


 伸ばされた手はパトリシアの手首を掴み、もう片方の手は顔の横の壁を押さえるように置かれる。

 身動きが取れない状態でクライヴの顔が近づいてくると、ふわりとあの香りが鼻をくすぐった。


「さっきのやつも……ハイネも。なんで?」


「な、なんでとは……?」


「希望がなければ望まなかったのに。……もう一度諦めるなんて不可能だよ」


「あ……、っ」


 顔が、近い。

 すぐそばにあるクライヴの瞳は、ただ真っ直ぐにパトリシアを映している。

 ああ、彼から見える自分はこんなふうに映っているのか、なんて現実逃避しそうになると、手首を掴んでいた手が離されて優しく頬を撫でた。


「――このままシてしまえば、【俺】は君の傷になれるのかな?」


 吐息を、感じた。

 それは己の唇のそばで。

 あ、と思った時には距離は縮まって――。


「――、クライヴ様っ!」


 慌てて彼の胸元を押せば、驚くほど簡単に離れていく。

 先ほどまでの逃がさないと言わんばかりの力は、一瞬で消え失せた。

 しばしの沈黙。

 静まり返った部屋の中で、彼はゆっくりと口を開く。


「…………わかってる。君に選んでもらわなきゃ意味がないって。……ごめんね。でも、これだけはわかって」


 パトリシアは震える瞳で彼を見る。

 その顔はとても真剣で、今から告げられる言葉が彼の心からのものなのだとわかった。

 クライヴは笑う。

 穏やかに。

 先ほどの雰囲気を消し去って。

 まるでいつもの、朝の挨拶のように。

 それが、当たり前の言葉のように。


「――愛してる。パトリシア」


 彼はそれだけいうと、静かに部屋を後にする。

 一体なにが起きたのだろうか。

 パトリシアはぽかんと、消えた彼の面影を見つめる。

 どうしてこうなった?

 なにが引き金になった?

 なに一つわからないけれど、わかったことが一つ。


「…………っ、」


 誰もいなくなった部屋で一人、そっと己の唇に触れる。

 確かにあの時、触れ合おうとしていた。

 クライヴはパトリシアに、キスしようとしていたのだ。

 ――熱い。熱い。熱い。

 心臓がうるさい。

 頰が、顔全体が、耳が熱い。

 壁を背にずるずると崩れ落ちると、辛抱ならないと顔全体を手で覆い隠した。

 どうしてこうなったのかは定かではないが、確かに今二人は――。


「……私の馬鹿っ」


 触れ合おうとした唇。

 それをパトリシアは一瞬受け入れかけた。

 嫌じゃなかったのだ。


「っ――。私の、馬鹿」


 心のどこかで、クライヴのことを弟のように思っていたのだ。

 実際アレックスと結婚すれば、彼は義理の弟になるから。

 一体いつからだろうか?

 その思いが形を変えたのは。

 ミーアが現れた時? 味方だと言ってくれた時? 婚約破棄をした時?

 わからない。

 わからないけれど、確かにパトリシアは変わった。

 勉強も友情も、かけがえのないものになった。

 けれど恋だけは。

 恋だけはできないと、そう思っていたはずなのに。

 そうではないことに気付かされた。

 それはまだパトリシア本人ですら自覚がないほど淡く、儚いものだけれど。

 そう遠くない未来に、傷だらけの心に灯る一つの感情を。

 ――彼女はまだ、知らない。


 第一章 完。

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