第2話

 パトリシア・ヴァン・フレンティアはローレラン帝国の公爵令嬢である。

 一族は皇族とも深い関わりを持ち、祖母は皇女であった。

 そんな由緒正しき一族の令嬢は、齢五歳の時には皇太子妃になることが決まっていた。

 幼い子供にはつらかろうさまざまな教育を、彼女はものともせずに身につけていく。

 皇室の歴史から王宮作法、さらには本来なら皇太子妃には不要な帝王学までもを完璧に理解した秀才である。

 その先を見通し進める力を信用してか、十四になるころには皇帝から意見を求められるようになった。

 国をより良いものとするためにその知性を惜しげもなく使っていたパトリシアは、ただ己が皇太子妃、そして皇后となった時にこの国の民たちが今よりもっと笑っていられる国を作りたいと、そんな思いで日々を過ごしていた。

 だがそれがまさか裏目に出るなんて、その時は思いもしなかったのだ。


 

  窓から差し込む木漏れ日に、優しく頬を撫でる心地よい風。小鳥は囀り朝の到来を教えてくれる。

 使用人が起こしにくる五分前に、パトリシアは目を覚ましていた。

 ぴょんと跳ねた黒く艶やかな長髪を手櫛で直し、紫色の瞳で鏡に映る己の姿を確認する。


「……よし」


 今日も一日が始まろうとしていた。


「おはようございます、お嬢様。お目覚めのお時間にございます」


「おはよう、エマ」


 数人の侍女と共に部屋へと入ってきたのは、乳母の娘であるエマだ。

 見知った顔に微笑みつつ鏡台の前に腰を下ろした。


「今日、午前中にはドレイク夫人がお越しになるわ。おもてなしを。午後からは皇宮に行くので準備しておいて」


「かしこまりました」


 社交界の花ともいわれるドレイク夫人に会うのだから、下手な格好は許されない。

 派手すぎず、しかし手を抜くこともせず、落ち着いた色合いのアクセサリーに、薄い青色のドレスを身に纏う。

 簡単な食事を済ませて客人の元へと向かえば、そこには優雅に紅茶を飲む一人の貴婦人がいた。

 深いワインのような赤く美しい髪をくるりと巻いた女性は、今の社交界にはなくてはならない人だ。

 そんな人が年下のパトリシアに、最上級の礼を払う。


「お久しぶりです。パトリシア様」


「お久しぶりです、ドレイク夫人。お越しくださり感謝いたします」


「あら、パトリシア様からのお誘いを断るものなどいませんわ」


 向き合うかたちでソファーへと腰掛け、お互いに紅茶を一口含む。

 好きな薔薇の香りが鼻を抜けほっと息をつくことができた。


「さっそくで申し訳ないのですが、お願いがございます」


「わたくしに願い事となると、社交界関係でしょうか?」


「さすがお話しが早くて助かります」


 異性を魅了し、同性から羨望の眼差しを受ける彼女だからこそ、このお願いをしたかったのだ。

 手に持っていたティーカップを受け皿の上に置き、改めて姿勢を正した。


「皇太子殿下が奴隷制度廃止を謳っているのはご存知ですよね? その際奴隷であった子供たちを孤児院で引き取ろうと思っております。その支援を、ドレイク夫人にお願いしたいのです」


「…………なるほど。話はわかりましたけれど、なぜわたくしに?」


 華やかな国、ローレラン帝国。人々が語らい合う裏で、人知れず傷き泣くものたちがいる。

 それがこの国の奴隷たちだ。彼らは過去の戦争のさい負けた者たちであり、その人権はないに等しい。


「あなたが人々の羨望を集める人、だからです」


 そんな彼らを救うにはまず衣食住が必要不可欠だが、それを国が補償するのは今のところできそうにない。

 金銭面での問題、ではない。この国の権力を持つ貴族たちが、それに反対するからだ。

 そもそも奴隷たちの解放すら渋り続けて伸びに伸びているのだから、支援などもってのほかなのだろう。


「奴隷たちの支援を国がすることを、貴族たちは良しとはしないでしょう」


「ですね。ではどうするおつもりですか? まさか私が支援したら、貴族たちが掌を返すとでも?」


「そのまさか、です。ものは考えようともいいますでしょう? 簡単なお話です。貴族たちが大切にするのはなんでしょうか?」


「……名誉や誇り、ですわね」


「ならそうしてしまえばいいのです」


 その言葉に数秒黙ったドレイクだったが、頭の切れる彼女はすぐにその真相に気がついたのか、真っ白な鳥の羽根でできた扇子を広げた。


「なるほどわかりましたわ。……ですが、なにもわたくしでなくてもよいのでは? パトリシア様こそ、その素質がありますのに」


 それは確かに考えたことだった。パトリシア自身も社交界では顔が効くため、効果はあるのだろう。しかし。


「私ではダメなのです。私がそれをしてしまうと、義務感が出てしまいますから」


「――確かに。わたくしが適任のようですわね」


 十を言わなくても理解してくれる彼女は、少しだけ歳が離れているとはいえ、素晴らしい友人だと思う。

 こういう人だから任せられるのだと、ほっと息をついた。


「ありがとうございます。このお礼はいつか、必ず」


「不要ですわ。パトリシア様のことですから上手くやってくださるでしょうし……未来の皇后陛下に貸しを作っておくのもいいではありませんか」


 ドレイクの言葉に思わず苦笑いを浮かべてしまったのだが、それはどうにか見逃してもらえたようだ。


「……」


 未来の皇后。それがパトリシアの決まった未来であり、どうあっても覆ることのないものであると、そう信じていた。

 幼い頃から共に育ち、この国のためを思い手を取り二人一緒に歩んできた道。それが違えることはないのだと。

 ――たとえ今、二人の間に見えない壁があったとしても。

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