幕間 ある皇太子の話

 皇太子は歩く。

 見慣れた皇宮の中を一人。

 夜風が頰を撫で、その冷たさに身震いするほどだった。

 季節は巡る。

 晴れの日も、雨の日も、雪の日も。

 巡って巡って巡って。

 今日になる。


「…………」


 ここ最近はなかった不調を感じる。

 幼い頃は多かった記憶の欠如だ。

 まるで眠るように記憶は抜け落ち、目覚めるように始まるそれは数年ぶりに感じるもの。

 わかっている。

 本当は気づいているのだ。

 己がなにかの病気なのだと。

 だから皇太子の座が盤石ではなく、クライヴという腹違いの弟に脅かされているのだと。

 気づいていて。

 けれどどうしようもできなくて。


「…………」


 ふと、立ち止まる。

 そこは見慣れた薔薇の庭園。

 さまざまな色の薔薇が咲き誇るその場所は、皇太子にとってもお気に入りの場所だった。

 それがいつから苦手な場所になったのだろうか?

 そっと薔薇園に置いてある椅子に腰掛けると、ゆっくりと前を見る。

 なぜか震える瞳は、陽炎のような幻影を映し出す。


「…………パトリシア」


 彼女が苦手だった。

 いや、子供の頃は好きだった。

 可愛らしい自分だけのお姫様。

 こちらを見上げるその紫色の瞳に、きっと恋をしていたのだと思う。

 それが一体いつから苦手になったのだろうか。

 思えばそれは、母の影響だったのかもしれない。

 母は子供のできなかった皇后に変わり、子をなすために側室として入った。

 その時は皇子を産んだとしても影響力のないよう、最悪は皇后の子供と偽れるよう、没落した子爵の娘を連れてきた。

 そして子をなした。

 しかし母は愚かで、権力を欲する人だった。

 そこに公爵家は目をつけ、後ろ盾として力を与えた。

 その頃からだ。

 母が口癖のように言いだしたのは。


『お前は皇帝になるの。お前だけはこの母を見捨ててはダメ。お前だけはこの母のために動くのよ』


 それはゆっくりと水が染みわたっていくかのように、この体に侵食していった。

 そしてそんなころに、パトリシアと出会った。

 子供の頃の彼女は大輪の花のようだった。

 いや、今ですら美しく咲き誇る花のようで、見るものを魅了することだろう。

 けれど彼女の魅力はそこではない。

 努力家で、周りをよく見て動ける、優しい人……。

 気がつくと彼女の内面にばかり目がいくようになる。

 ……恋をした。

 彼女と結婚できることを心の底から喜んだ。

 毎日、毎日一緒にいて、どんどん、どんどん好きになった。

 幸せだった。

 ――あの日までは。


「……母上」


 母はその異常性を危惧され、皇宮にある塔の上に監禁されている。

 小さな小窓があるだけのそこは、監獄となにも変わらない。

 小さな頃の皇太子にとって、母という存在は偉大だった。

 無くしたくないものだった。

 けれど失ってしまう。

 母の異常性を指摘したのは、パトリシアだった。

 内緒でクライヴと遊んでいた時、気をおかしくした母が彼の首を絞めて殺そうとしている場面を目撃したのだ。

 彼女はすぐに騎士に言って母を拘束させた。

 父はそんな母を見限って、塔へと監禁した。

 わかっている。

 母が全ての元凶だったことは。

 ――けれど。

 幼い頃の皇太子は母を奪われたと思ってしまった。

 そこから少しずつ彼女との関係に亀裂が入り始める。

 いつだって比べられた。

 優秀な彼女と凡庸な皇子。

 さらにはそこに、才能の塊であるクライヴも加われば……。

 心のゆとりなんてなくなっていた。

 ほろほろ、ほろほろと崩れ落ちる砂の城のように。

 皇太子の心が崩れていく。

 そして崩れ切るその前に、彼女に出会ったのだ。

 かわいそうで可愛らしい女の子。

 彼女と一緒にいるうちに、砂の城はまた形をなしていく。

 心地よかった。

 彼女のそばは。

 微笑みが全てを許してくれるかのようで。

 ――なのに。


「……………………パトリシア」


 消えない。

 消えないのだ。

 ずっとあったもの。

 当たり前にそこにあったもの。

 それが消えた時生まれて初めて気づくのだ。

 それが己にとって、いかに大切だったかを。


「パトリシア…………っ」


 もう遅い。

 失ってからでは遅いと知っていたのに。

 ――会いたい。


「パトリシア」

 

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