第16話
そしてその日はやってきた。
それは、皇帝陛下生誕祭での出来事だった。
王都のみならず国中がお祭り騒ぎになるこの日に、皇宮でなにもしないわけがない。
朝から盛大なパーティが模様され、夜にはダンスパーティが始まる。
そんな国中が笑顔になる日に、パトリシアは鏡に映る己の姿をただ眺めていた。
「……」
着飾った姿。指定通りの深い青色を用いた、流行を取り入れたドレス。
髪は結い上げ垂らした部分はくるりと巻かれている。
身につける宝石は青や緑で纏められ、世話をしてくれた侍女たちからは絶賛の嵐だった。
これでパーティーに出れば人目を引くのは間違いないだろう。
上出来な出来栄えなのに、なぜか心は凪いでいた。
静かに穏やかに、己の姿を見つめるだけだ。
「そろそろお時間でございます」
「ええ」
ゆっくりと立ち上がり、エマに手を借りながら馬車へと向かう。
乗り込み安全が確保されたのちに動きだそこから、外の様子を見つめる。
お祭り騒ぎの街中は騒がしくもみな楽しそうで、見ていて思わず笑顔になれた。
花びらが空を舞い、天高く花火が光る。
そんな美しい光景を見ても、パトリシアの心は静かだった。
「…………」
頭の中は、たった一つのことでいっぱいだった。
「このままで、いいのかしら」
今まで考えたこともなかったこと。どんなに思考をめぐらせても答えの出ないこと。
自分はいったい、どうしたいのか。
決められた道を、決められたままに向かうことに疑問も疑念も抱いたことはなかったのに。
ここ最近の出来事により、パトリシアの中で浮かんだのだ。
無視することはできない不安が。
このまま流れに身を任せるだけでいいのかと、どこからともなく語りかけてくるのだ。
凪いだ心に一点の波紋をもたらすのは、期待や喜びではない。
それが、少しだけ悲しい。
「そろそろ到着いたします」
「……えぇ」
ゆっくりと馬車が止まる。
出迎えの騎士や侍女たちに案内されて、パトリシアは控え室へと入った。
そこには、アレックスが不機嫌そうに座っている。
「皇太子殿下にご挨拶を申し上げます」
「…………」
返事はないらしい。
顔の険しさなどを見ても、普通に会話をするような雰囲気ではなさそうだ。
それならそれでいいかと、パトリシアは彼の対面に腰を下ろした。
あと少ししたら一緒に会場に入って踊って。その後は好きにしたらいい。
やらねばならないことを終わらせたら、あとは庭でも散策しよう。
息苦しい場所にわざわざいる必要はない。
「…………パトリシア」
「はい?」
「………………どうした?」
呼ばれたからアレックスへと視線を向けたのに、なぜか彼は驚いたような顔をしている。
「どうとは?」
「いや、なにも言わないから……」
「なにも? 挨拶はいたしましたが?」
「そうじゃなくて……」
変な人だ。なにを聞きたいのかわからない。
こんなふうに言い淀む彼は珍しくて小首を傾げていると、ドアがノックされた。
「お時間でございます」
「わかりました」
「…………」
どうやらパーティー会場への入場時間らしい。
アレックスはまだなにか言いたかったようだが時間なので、渋々立ち上がると腕を差し出してきた。
そこになれた様子で腕を絡ませ、共に入場する。
皇太子とその婚約者は、人々の視線を集めた。
「――」
「――」
幼い頃はこの視線が怖かった。
その全てが好意的でないことを、頭のいいパトリシアは理解していたからだ。
気づかぬ間に眉を寄せたこともある。下を向いたこともある。
その全てを叱られ矯正された。
皇太子妃としての品位を、未来の皇后としての品格を、と。
それらの視線にはやがて慣れ、背筋は伸び気づいたら前を向けていた。
品位と品格を、手に入れられたのだろう。
けれど怖くないわけじゃない。あの時の気持ちは、きっと今も奥底にある。
「帝国の太陽、皇帝陛下。帝国の月、皇后陛下にご挨拶を申し上げます」
「父上、お祝い申し上げます。我が国の益々の繁栄と、父上の健康をお祈りいたします。……皇后陛下も、お久しゅうございます」
「二人とも、礼を言う」
「ありがとう」
挨拶を済ませて下がれば、あとは待ちだ。
ダンスの時間までまだあるので、軽く飲み物をもらいながら招待客と談笑する。
たわいない話をうまく交わしながら会話を進めていると、ふと視線の端にとあるものが映った。
「――…………」
どういう、ことだ。なぜ、ここにミーアがいる?
その姿を見た瞬間に、心の中がひどくざわついた。
淡いパステルカラーの生地を重ねた流行を押さえたドレス。
ずっと愛用していたからわかる。あれは、今パトリシアが着ているものと同じシャルモンの作品だ。
貴族御用達のドレスを、なぜ着ているのだろうか。
いや、それよりもなぜここに招待客としているのだ。
よりにもよって皇帝の誕生祭に、奴隷の身分でありながらいるなんて……。
着飾った彼女は確かに美しく可愛らしい。
普段の仕事着の時ですら可愛らしい子だと思ったのだから、化粧を施しドレスを着た姿は人々の目を惹く。
男性たちからは好意の視線を。女性たちからは訝しげな視線を。
それぞれ受けている彼女は今、微笑みながら見知らぬ男と談笑している。
パトリシアはそれを、ただ呆然と見つめた。
「……パティ?」
「――はい!」
あまりにも呆然としすぎていたらしく、いつのまにかそばにはクライヴがいた。
心配そうな顔をする彼へと意識を向け、無理矢理に笑顔を作る。
「申し訳ございません、クライヴ殿下。ご挨拶を申し上げます」
「ありがとう、パティ。なにかあった? 大丈夫?」
少しだけ意識をあちらに向けていただけなのに、クライヴはよく気がついたなと思う。
いつだってそうだ。彼は小さな変化に気づいてくれる。
それに何度助けられたことだろうか。
「……いいえ、殿下。大丈夫です。ありがとうございます」
「…………パティ?」
「はい?」
「……どうかした?」
アレックスといいクライヴと言い、なぜそんなことを聞いてくるのだろうか。
自分はどこかおかしいのだろうかと首を傾げる。
「どう、とは……?」
「…………ううん。パティが大丈夫なら、それでいいんだ」
「ご心配おかけして申し訳ございません。……ですが、私は大丈夫です」
そう、大丈夫だ。
たとえ視界の端に庭園へと消えていくミーアとアレックスを確認したとしても、もう。
「少し失礼いたします」
「…………うん」
それでも醜聞というものがある。
二人の姿を見て、彼女の正体に気付いたものもいるかもしれない。
どちらにしても今日は祝いの席だ。慎みは持ってもらわないと困る。
だからこそ追いかけようとしたのだが、なぜかクライヴが腕を掴み止めてきた。
「パティ、忘れないで。僕はなにがあっても君の味方だよ」
「クライヴ殿下……。ありがとうございます。忘れません。その言葉のおかげで今、私は笑えています」
もう一度頭を下げて、彼の元から離れる。
向かう先は二人がいる庭園。そこで、話をしなくては。
「――……」
重い足取りを、それでも進めるパトリシアはふと思う。
もし、もし仮に今この心にある全てを曝け出したとして、クライヴはそれでもパトリシアの味方でいてくれるのだろうか。
大丈夫だと、言ってくれるのだろうか。
「……現金ね、私は」
そうだと願う心は、少しだけ元気になれた気がした。
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