第35話 攻防、岡崎 戦端 三人称

 今川氏真が岡崎城へ到着したときには守将である山田景隆は既に逃げ出した後だった。


 空城となっていた岡崎城の城門をくぐりながら、蒲原氏徳かんばらうじのりが吐き捨てるように乱暴に言葉を発する。


「何ということだ、山田景隆の恥知らずがっ!」


 蒲原氏徳だけではない、氏規とくつわを並べて進んでいた井伊直親も何か言いたげにしているのを氏真は見逃さなかった。


「言うな。援軍が来るかも分からない、撤退してくる味方も混乱していたんだ。織田軍の追撃を恐れて逃げ出したとしても不思議はない――」


 氏真は蒲原氏徳に向かってそう言うと、傍らの井伊直親へと視線を向けた。


「――直親、何か不服か? それとも不安でもあるのか?」


 氏真の言葉に直親が顔を曇らせた。そして言い難そうな表情で口を開く。


「岡崎城ですら守将が逃げ出しているのですから他の城や砦でが思いやられるかと。それに逃げ帰った者たちに厳罰を以ってあたりませんと……」


「そうだな。裏切り者の処分は絶対に必要だ。逃げ帰った者たちも言い分はあるだろうが、厳罰を以ってあたる。約束しよう。だが、それらの処分は後回しだ。今は敗走してくる今川勢を糾合して、少しでも多くの兵力を駿河・遠江へと連れ帰る――」


 氏真は口から飛び出さんばかりに心臓が鼓動しているのを悟られないよう、一呼吸おくと声の調子を低くして静かに語る。 


「――ここ、岡崎を敗走してくる味方の兵士を糾合するための拠点とする。さらに裏切り者の松平元康を討ち、将来の禍根を断つ。松平元康の首級を上げる事で反撃の狼煙とするっ! 」


 氏真の口調を強い決意と受け取った蒲原氏徳と井伊直親が、静かにこうべを垂れた。


 今川氏真率いる軍勢は岡崎城へと向かっている途中で、敗走する兵士や伝令と思しき兵士と遭遇していた。

 まるで落ち武者のような様相の彼らがもたらした情報は、氏真が予想した通りのものだった。


 今川義元、桶狭間にて討ち死に!

 味方は大混乱でその場で散り散りに敗走し、かろうじて軍勢の体をなしている岡部元信の手勢のみが鳴海城に取り残されて孤立無援の状態だった。


 伝令の兵士からの報せは今川にとって決して喜ばしいものではなかった。どれも最悪といってもよい内容の報せばかりだ。岡崎城へと向かう兵士の誰もが不安に身を震わせる。

 だが、氏真と近しい者たちはもたらされた凶報以上に、今川氏真――新たな今川家の当主の先を見通す力に身を震わせた。


 ◇

 ◆

 ◇


 物見から報告を受けた石川家成が馬首を巡らせて、松平元康の傍らに駆け寄ると声を掛けた。


「元康様、岡崎城です」


「ようやくだな」


 石川家成の報せに松平元康の緊張が緩んだ。


 岡崎を奪う。それも『思い返せば石川家成の言葉で決断をしたな』、と元康は桶狭間での混乱を思い返す。


 ▽


 今川義元が討たれた! その報せを最初に受けたときは織田側の謀略と一顧だにしなかった。

 だが、その後の物見の報告や周囲の状況からそれが事実だと信じたところに、伯父である水野信元からの使者が訪れた。


 その使者の報せが松平元康の中で今川義元討ち死にの情報を確定させた。

 

 今川義元が討ち死にした以上、大高城に留まっても死を待つばかりだ。だが、下手に動けば織田軍の追撃や落ち武者狩りが待っている。


 思案する元康に酒井忠次が駆け寄った。


「殿、すぐに撤退いたしましょう」


 若い家康の言葉を待たずに周囲にいた多くの家臣が同調する。


「すぐに遠江へ戻りましょう」


「ぐずぐずしていては敵に付け入る隙を与え、味方からは疑われるだけです」


「氏真殿が後詰でこちらへ向かっているはずです。ここはすぐに合流して跡継ぎである氏真殿と今後のことを話し合うべきかと」


 そんな中にあって石川家成のささやくような言葉が、周囲の家臣たちの大声にかき消される事無く元康の耳に響く。


「義元が討ち取られたなら今が好機です。岡崎城へ向かいましょう。この機会に岡崎城を奪うのです」


 元康の視線が石川家成に向けられると、家成はゆっくりとうなずき元康の背中を押す一言を発する。


「織田信長、清洲城向けて退却致しました。退路に強敵はいません」


「大高城や鳴海城へは向かっていないのだな?」


 元康が念を押す。織田軍の撤退が早い。ここ大高城も鳴海城と一戦も交えることなく清洲城へ撤退したことを疑っていた。

 元康の疑問に家成が即答する。


「織田軍の被害も相当にあったのかも知れません」


 清洲城へ撤退する織田軍と入れ違うようにして撤退する。賭けだ。だが、ここで時間を無駄に費やすのも危険だった。いつ織田軍が仕掛けてくるかもしれない。

 ここで仕掛けられたら孤立する。


 駿府には元康だけでなく重臣の子息も人質として取られている。自分たちがここで岡崎城を奪うことで危険にさらされるのは承知している。

 それでもここが勝負どころだと、その場にいる者たちの目が語っていた。


「岡崎を奪うことの意味が分かるな?」


 元康の質問に答えるものはいない。

 駿府には元康だけでなく重臣の子息も人質として取られていた。覚悟を決めたように人質については誰も触れる事なく皆がうなずいた。


 この短いやり取りで方針が決まった。

 この戦でもそうだったが、今川義元からの仕打ちに耐えかねていた元康はすぐさま決断をする。


「撤退するっ! いや、岡崎へ帰還するっ!」


 ▽


 大高城でのことを思い返していた元康の視界に、岡崎城の城門が飛び込んできたことで我に返った。

 家成が苦々しげにこぼす。


「岡崎城に兵士がいます」


「守将は山田景隆だったな」


 山田景隆であれば守備兵は五百程だ。撤退してきた今川の兵士が合流していなければ手勢の二千で十分に奪える。元康は視線を岡崎城へ向けたまま胸中でつぶやいた。


 家成の意識は元康と違うところにあった。

 彼は山田景隆が小勢で城を守っているなど予想していなかった。今川義元討ち死にの報せを確かめる事無く駿河へ撤退していると考えていただけに眼前の岡崎城の様子に戸惑う。  


「はい、既に桶狭間での敗戦と今川義元が討たれたとの報せは届いているはずですが……」


「我々の見立て違いだったのかもしれないな。山田景隆は思ったよりも肝が据わっていて忠義深かったようだ」


 元康の言葉に家成が苦笑いをしていると兵士の一人が城門を指差して叫んだ。


「騎馬武者が一騎、城門を出てこちらへ駆けてきます」


 兵士の示す先へと元康と家成だけでなく他の家臣たちも一斉に視線を向けた。


「使者のようですね」


 駆け寄る一騎の騎馬に皆の視線が注がれた。それは元康率いる軍勢だけではなかった。岡崎城に立て籠もる軍勢の視線も駆ける騎馬武者へと注がれていた。


 騎馬武者は自身に視線が集まっているのが分かっているのか、元康の前まで来ると馬を下りて緊張した面持ちで切り出した。 


「松平元康殿でしょうか? この度の戦は残念でした。先ずは岡崎城でお休みください。城代の山田景隆様がお待ちです」


「殿っ! こいつは氏真の手の者ですっ! 駿府で見ておりますっ!」


 馬を進めようとした元康を阻むように酒井忠次が元康と使者との間に飛び出した。


「ちーっ、覚悟ーっ!」


 そう叫ぶと岡崎城からの使者が突然抜刀した。そして間に入った酒井忠次を押し退けるようにして元康へと切り掛かる。

 振り下ろされた白刃を横合いから突き出された槍が甲高い音と共に弾き飛ばした。


「討ち取れーっ!」

 

 元康に覆いかぶさるようにして盾となった酒井忠次が叫びと重なるように幾本もの槍が襲撃者となった使者へ突き出される。


 肉と内臓を貫く音、骨を砕く音が響いた。続いて槍を受けた使者のくぐもった声が聞こえる。


「殿は無事かっ?」


「岡崎城に立て籠もっているのは今川氏真です」


「城門が閉じるぞっ!」


 元康の安否と騙まし討ちに対する怒りで元康の周囲が騒然となる。怒声が響き渡る。

 ともすると混乱しているように見える兵士たちに向けて、元康の号令が下る。


「城門を閉じさせるなーっ――」


 その声の真先に反応したのはこの遠征が初陣となった本多忠勝だった。岡崎城の城門へ向けて一騎の若武者が飛び出した。

 忠勝を示してさらに元康の語調が強まり、声が大きくなる。


「――続けーっ、忠勝に続けーっ! このまま城へ雪崩れ込めっ! 今川氏真を討ち取れーっ! 今川義元亡き今、氏真を討ち取れば今川家は瓦解するぞーっ!」


「松平家の復興だっ!」


「殿に岡崎城を取り戻して差し上げろっ!」


「岡崎城を取り戻せーっ!」


 ここまでの行軍の疲れなど忘れたのか、松平元康の号令一下、松平軍が一斉に岡崎城の城門へと迫る。


 ◇


 城門の影に身を潜めていた氏真配下の兵士が叫び声をあげる。

 

「氏真様っ、来ます。松平軍が押し寄せてきます」


 蒲原氏徳と井伊直親、二人の武将が判断を下すのは早かった。戦の経験の乏しい氏真が迫る敵兵に茫然と立ちすくむ傍らで次々に指示を出していく。


「城門を閉めろ、固く閉ざせっ!」


「櫓っ、矢を放てっ!」


「城からは打って出るな、弓矢で応戦しろっ!」


 城門付近にいた武将が叫ぶようにして城内へと報せる。


「城門、閉じましたっ!」


 突撃してくる若武者に恐怖し、思考が停止していた氏真がようやく動いた。


「殿、お怪我はありませんか?」


 その場にへたり込んだ氏真に井伊直親が手を差し伸べた。

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