第87話 鳴海城、開城 三人称
鳴海城の一室、
「殿、
「ご苦労。それで――」
真新しい
「――竹中様のご様子はどうだ?」
「側近の方々はともかく、竹中様は大そう
「豪胆なお方なのだな」
「その分、周りの方々はピリピリしております」
疑われるような行動を取れば問答無用で切られる可能性がある。そんな雰囲気を
「分かった、十分に注意する。しかし、主君がそのように不用心では側近の方々はさぞや胃の痛い事だろうな」
長近がそう言って苦笑すると、報せにきた武将も先程まで居た大広間の様子を思い出し、困ったように
◇
鳴海城、無血開城。
竹中重治自身、金森長近の調略は難航すると考えていた。使者を再度派遣して、二度三度とやり取りを重ねる覚悟をしていた。それだけにこのスピード展開は嬉しかった。
「殿、口元が緩んでおります」
妙に
「そう言うな。金森長近の調略に成功したのだ、どうしても笑みが
「安藤様の妹が嫁いでいる相手とはいっても、降伏した敵将との会談です。
「善左衛門、この鳴海はもはや敵地ではない。留守役の金森長近が寝返ったのだから我々の拠点の一つだ。金森長近にしても歓迎されていると分かった方が嬉しいんじゃないか?――」
善左衛門が腰を浮かせて反論しようとする矢先、
「――それに、
そう告げて、視線を善左衛門から
「これはお気遣い感謝いたします。私もこれで肩の荷が下りました」
「舅殿には大変なご苦労をお掛けしました。改めて感謝申し上げます」
さすがの善左衛門も安藤守就を引き合いに出されては、それ以上反論出来ないと口をつぐんだ。
そこへ追い打ちを掛けるように、普段なら善左衛門に味方する
「仰る通りです。私も殿からの使者から話を伺った時は半信半疑でしたが、実際に満面の笑顔を
善左衛門が驚きの表情を浮かべて光秀を見ると、その隣で何度もうなずいていた
「私もです。殿と直接お話をさせて頂いたときは、涙が止まりませんでした」
竹中重治の脳裏に初めての会談で
自分もと、口を開こうとしていた島清興を竹中重治は軽く左手を上げて制す。
「すまないが、それくらいにしておいてくれ」
会談に出席する美濃側の者たちがそんなやり取りをしていると、大広間の外から先触れの声が聞こえた。
「大変お待たせいたしました。金森長近様、間もなくご到着いたします」
◇
大広間に入った金森長近が上座に座った竹中重治に向かって平伏する。
「大変お待たせし、誠に申し訳ございませんでした」
部屋の外に数名の武将や小姓が控えてはいるが、大広間に居る鳴海城側の出席者は長近一人。
竹中重治は長近に顔を上げるよう告げると、早速本題を切り出した。
「この度の英断、こちらこそ感謝する。よく決心をしてくれた。これからは竹中家の将としての活躍を期待している――」
竹中重治を初めて目にした金森長近は、眼前の若者の風貌や所作を観察しながら、その言葉を聞いていた。
若いとは聞いていたが、予想以上の若さに驚いた。声は若者らしく張りがあるが、落ち着きがあり自信に満ちていた。
上背はあるが全体的に身体の線が細く色白だ。容貌もその端正な造形から、頼もしさや力強さを連想させる事はなかった。長近はなるほど、と思う。その智謀は鳴り響いても、武勇にかんしての噂はないのもうなずける。
「――金森長近殿はもちろんの事、城内に居る全員の命を保証しよう」
「ありがとうございます――」
長近は再び平伏して礼を述べると、顔にわずかな緊張を見せる。
『全員の命の保証と所領の安堵』事前に取り決めた条件にあった事項ではあったが、彼に従った大勢の武将にとって大切な事だ。長近は腹を括って言葉を続けた。
「――城内に残った者の中には領地を持っている者もおります。彼らの所領の安堵をお願いしてもよろしいでしょうか」
「所領安堵? もちろんだ、そういう約束だっただろう? ――」
長近は竹中重治のその言葉に、張りつめていた緊張の糸が緩むのを感じた。だが続く言葉に、
「――それに、金森殿さえ承知してくれるなら、貴方にはこの鳴海とその一帯を任せるつもりだ」
再び緊張の糸が張り詰める。金森長近の動きが止る。
寝返ったばかりの武将に重要な拠点である鳴海の城代を任せるなど長近の想像の外にあった。突然の大任に声が震える。
「城代として、この鳴海を引き続き留守しろと?」
長近自身、自分が敗残の将だとの自覚があった。
形の上では寝返った事になるのかもしれないが、事実は抵抗すら出来ずに城を明け渡した、ただの敗残の将でしかない。
浮かんでくるのは疑問と疑惑。自分自身が試されているのではないか、との疑惑が生じた。
この大任を果たして受けてよいものか? 受ければ『欲の張った男』だと思われるのではないか? 断れば断ったで、不興を買うかもしれない。
進退
「それは違う。この鳴海城はたった今から金森殿の城だ。もちろん、ここを任せるとなると領地替えになるが、構わないか? ――」
金森長近の顔から表情が消えた。無言で見つめる姿を了承と受け止めた竹中重治は、満足げにうなずくとさらに続ける。
「――大高城攻めには金森殿にも同行してもらうつもりだ。申し訳ないがその間、鳴海城には私の叔父である
「金森殿、大高城攻略までのわずかな間だが、鳴海城をあずからせていただきます。よろしいですね」
続く竹中重光の言葉で長近は現実に引き戻された。
よろしい訳がない。城代どころか城主だと? この鳴海城一帯を任せる? 領地替え?
長近の脳裏にたったいま聞いたばかりの言葉が幾度も繰り返し響く。
どれも理解しがたいものだった。所領安堵の約束にしても、あれこれと理由をつけられて領地を削られると思っていた。
いや、没収もあり得ると思っていた。命が助かれば十分だと、そう願っていた。
長近は眼前の満足げな笑みを浮かべた若者を注視した。
続いて、竹中重光へと視線を巡らせる。長近には重光の表情が自分を憐れんでいるように見えた。慌てて、同席する他の武将へと視線を巡らせる。やはり自分を憐れんでいるような表情を浮かべている。
長近の背筋に冷たいものが走った。
竹中重治が策謀をもって稲葉山城を落城させた男である事を改めて思い出す。『謀られた』との思いが湧き上がる。家臣たちの顔が、まだ幼い我が子の笑顔がよぎる。
長近は視界が大きく揺れたような気がした。
「金森殿、
聞き覚えのある声に振り向けば、側室の兄である安藤守就がいつの間に傍らで微笑んでいた。
「――だが、感激するのは大高城を落としてからにしよう」
「そ、それでは……」
それ以上は言葉にならなかった。『私は謀られた訳ではないのですね』そう聞きたかった長近の思いは伝わらない。
安藤守就が大きくうなずいて、
「うむ、これから大高城へ向かう。金森殿もすぐに仕度をお願いいたします」
そう言うと、重光と竹中重治の言葉が続く。
「金森殿、鳴海城は私に任せて、安心して大高城へ向かってください」
「金森長近! 手柄を立てるお膳立ては既に出来ている。大高城攻略後は大手を振って鳴海城に戻れる、安心しろ」
狐につままれたような面持ちで辺りを見回した長近は、自分が謀られたのではないとそこで初めて理解した。
長近は胸を撫でおろすと、力強く告げる。
「
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