第86話 揺れる鳴海城 三人称

「末森城へ援軍に向かった部隊は潰走、大将の丹羽氏勝にわうじかつ様は討ち死に致しました」


 甲冑は脱ぎ捨てられ、全身泥まみれとなった兵士が涙ながらに告げた。

 死にもの狂いで逃げて来たのだろう、よく見ればいたるところ擦り傷がある。だが、報告を受けた金森長近かなもりながちかは兵士を気遣う気持ちよりも、驚きと疑問の方が先に立った。


「潰走だと? 何があった? いや、それよりも丹羽氏勝殿が討ち死にだと? 戻ったのはお前だけか?」


「私と一緒に伝令に走った者は十人です。皆で相談し、敵に捕まらずにこの事をお伝えするため、散り散りとなりました」


 傷と泥にまみれた兵士は涙ながらにそう答え、『他の者がどうなったのかは分かりません』とこぼしてうつむいてしまった。

 金森長近はうつむいて嗚咽おえつする兵士を気遣うように声を掛ける。


「別にお前を責めるつもりはない。落ち着いて何があったのかを話してくれ」


 兵士は長近の表情と口調に幾分か安心したのか、ゆっくりと話し出した。


「末森城へ援軍に向かう途中でした。美濃勢に待ち伏せをされました。突然、矢が、無数の矢が降り注いで……気が付いたときには敵が突撃して来て、どうする事も出来ませんでした」


 暗闇にもかかわらず兵士を射抜くことが出来る程の手練れを揃えた弓隊。

 それは長近の中で疑問として広がって行く。


「恐らく弓の扱いの上手い者を集めた精鋭部隊でしょう」


 長近のかたわらにいた武将の一人が彼に向かってささやいた。


「来るかも分からない敵の援軍のために精鋭部隊を伏せておくとは思えないな――」


 長近はささやきかけた武将から、逃げ帰った兵士に視線を戻す。


「――敵の矢はそれ程正確に命中したのか?」


「外れた矢の方が多かったと思います。暗闇で突然襲われたのと、ともかく、その、矢の数が多くて……」


 言いよどむ兵士の口調と表情から、丹羽氏勝の部隊が反撃も出来ずに混乱の中で壊滅した事は容易に想像出来た。


「敵の規模は? 兵力はどれ程だった?」


 六百の兵士を混乱させ、反撃の機会を与えずに壊滅させるだけの弓隊の数。それに続いて突撃した騎馬隊と足軽。

 兵士の言葉を待つ間、長近と周囲の武将たちの視線が不安の色を湛えて交錯した。


「申し訳ございません、敵の数までは分かりません」


「状況から考えて、少なく見積もっても二千以上はいたと考えてもよろしいかと」


 同席した武将の言葉に長近もうなずく。


「敵は最低でも二千、それ以上いると考えた方が良さそうだな」


 兵士の受け答える様子から『敵にどの程度の損害を与えたのかも分からないだろう』、と兵士への質問を打ち切ろうとしたところへ、取り次ぎの武将が飛び込んで来た。


「兵士が四人程戻りました」


 長近はわずかな期待を胸に、飛び込んで来た武将に聞き返した。


「戻った兵の中に部隊長、或いは侍はいるか?」


「いえ、村から集めた足軽だけです」


 長近はその四人からも有益な情報は得られないと半ば諦めて、彼らを通す様うながした。


「泥を洗い流したらここへ通せ」


「畏まりました。その……」


「どうした、まだ何かあるのか?」


 口ごもる武将に先をうながす。


「そのうち一人は古渡城から守山城へ援軍に向かった河尻秀隆様の部隊の者です」


『それを先に言え!』との叱責の言葉を呑み込み、


「その者の話を先に聞こう、すぐに通せ」


 そう告げた。


 ◇

 ◆

 ◇


 金森長近の前に通された兵士は、目に付くだけでも三ヶ所の刀傷。

 いずれも浅いものではあるが、手当するどころか泥にまみれていた。ありていに言って、先程の丹羽氏勝配下の兵士よりもひどい有様だ。


 金森長近は兵士の傷の手当てをこの場でするように小姓に指示し、眼前の兵士に視線を向ける。


「お前が河尻秀隆殿の配下で間違いないな?」


「はい、間違いございません。古渡城から河尻様と共に守山城へ援軍に向かいました」


「河尻秀隆殿の部隊はどうなった?」


 聞くのが怖かった、躊躇われた。それでも内心の不安や焦りを表に出さない。


「河尻秀隆様は討ち死にされました。部隊の主だったお侍様も討ち死にです。その、俺も古渡城へ逃げ帰るつもりで走っていましたが、気が付いたらこちらの兵士と一緒になってここへ……」


 兵士は今にも泣き出しそうな様子でそう答えた。

 何とも情けない話だが、今の長近にとっては助かる話である。


「河尻殿の率いた兵力は分かるか?」


「一千の兵士でした。お城を出るときにそう言っていました」


「それで、どれだけの兵士が残った? いや、逃げたか分かるか?」


「分かりません」


 長近の質問に力なく首を振る兵士へ、彼は次の質問を投げかける。


「敵の兵数は分かるか? 敵にはどの程度の損害を与えた?」 


「敵の数は分かりませんが、部隊長が『敵兵一千』と言っていたのが聞こえました。数もどんだけ減らしたかも分かりません。ただ、敵はもの凄い大きな音を出して火を噴く短い槍を持っていました」


 種子島。その単語と主君である織田信長が試し撃ちをしたときの光景が金森長近の脳裏をよぎる。


「その火を噴く槍はどのくらいの数があったか分かるか?」


「俺は部隊の後ろの方にいましたし、夜だったのでよく見えませんでした。すみません……」


「いや、構わん。知っている事だけでいいので教えてくれ。音は大きかったか? たくさんの音がしたか?」


 種子島なら、数が揃っていれば厄介な事になるのは長近にも想像できる。

 音の様子から美濃勢が実戦に投入した種子島の数を推し量るつもで聞いた。


「音はもの凄く大きくて、お侍さんの馬が暴れ出しました。しかも、音は何度も続けて鳴って、馬も兵士も何が何だか分からないうちにどんどんとやられて行きました」


「何度も続けて鳴ったのだな?」


「はい、間違いございません。何度も続けて鳴りました」


 脳裏に蘇った種子島の破壊力と兵士の言葉に長近の背筋に冷たいものが走った。

 竹中重治は間違いなく大量の種子島を持っている。兵士に暗闇の中でも扱えるだけの訓練もしていると考えて間違いない。


 この場で種子島の脅威を幾分かでも分かっているのは、金森長近だけだった。

 同席した他の武将は種子島など気にも留めずに長近へ語り掛ける。


「丹羽様を襲撃した部隊が二千、河尻様を襲撃した部隊が一千の兵と考えれば、合わせて三千です。鳴海城に立てもればしのぎきれない数ではありません」


「そうです、ここは大高城の佐久間様に援軍を要請して鳴海城に立てもりましょう」


「古渡城の織田信清様とも連携すれば美濃勢を挟撃する事も出来ます」


 敵兵力の見積の甘さに長近が辟易へきえきとしている中、それでも幾分かマシな意見も耳に届く。


「援軍要請があったのは守山城と末森城だけではありません、小幡城もそうです。美濃の軍勢は五・六千はいると考えた方が良いでしょう」


 だが、それでも甘い。


「守山城、末森城、小幡城を包囲している軍勢もあるはずだ。あまり士気をくじく事を言いたくはないが、美濃勢は一万に届く可能性もある」


 長近の言葉に居並ぶ武将が沈黙する。

 自分の発言で場が静まり返った事に気まずさを覚えた長近が口を開こうとした矢先、本日何度目かになる伝令が飛び込んで来た。


「金森様、古渡城から使者が参りました」


「古渡城から?」

 

 援軍の催促だろうか、織田信清様にも困ったものだな。そんな事を思いながら伝令を呼び入れると、一通の書状が差し出される。


「使者からあずかった書状です」


 長近は差し出された書状を受け取った。


 ◇

 ◆

 ◇

 

「金森様、書状にはどのような事が?」


 古渡城で何が起きたのかは使者として逃がされた兵士たちから聞いていたので大方の予想はしていた。

 その場で金森長近の言葉を待つ武将たちは皆一様に緊張した面持ちである。


「古渡城が竹中重治の手に落ちた。織田信清様が寝返り、副将の村井貞勝は虜囚りょしゅうとなった」


「織田信清様が寝返ったですと?」


「信清様は、ご一門衆ではないですか?」


「そんな……」


 居並ぶ武将たちの間から、『信じられない』といった口調で発せられた言葉ではあったが、金森長近の中では織田信清が寝返った事が何故か納得できていた。


「清須城の時と同じように、帰蝶様やお市様をはじめとした女や子どもには一切の危害を加えていないそうだ――」


 そう付け加えたが、果たして何人の者たちが聞いていた事か。


「――古渡城を落としたのは美濃の竹中重治。今、一万五千の兵を率いてこちらへ向かっている」


 自分たちの十倍以上の兵力。

 その事実に武将たちは一様に押し黙ってしまった。


「ここは籠城を――」


 絞り出すようにそう口にした武将の言葉を長近が途中でさえぎる。


「籠城をして守り切れると思うか?」


「では、大高城の佐久間信盛さくまもりのぶ様に援軍をお願いしましょう」


「同じことだ。『今孔明』と呼ばれる知将・竹中重治率いる一万五千の軍勢に対して、こちらは鳴海城と大高城を合わせても四千にも満たない兵力。これで退しりぞける事出来ると思うか?」


 美濃の事実上の国主、竹中重治。その名前は『今孔明』『軍略の天才』『稀代の知将』といった言葉と対で全国に轟いていた。

 竹中重治の名を知らない武将の方が珍しい程だ。


「それは……」


「しかし、他に手立てが……」


 言いよどむ者はまだいい。そこにいた武将のほとんどが無言で互いに牽制けんせいし合うように視線を交わすだけであった。

 

 長近も噂を鵜呑うのみにするつもりはないが、それでも恐れてしまう。


「我らの動きを見通すかのように尾張に攻め入って来た。さらに調略により林秀貞殿に続き織田信清殿を寝返らせる」


 なぜ、今、なのか。まるで織田信長が三河に攻め込むのを知っていたかのように、手薄となった尾張に侵攻してきた。

 家老の林秀貞に続いて従兄の織田信清までもが寝返る。


「信長様のそばに密偵が潜り込んでいるのでしょう」


「かも知れないな」


 長近の視線は冷たく、言葉は素っ気なかった。いまさら密偵を探し出してもどうしようもないだろう、と言わんばかりだ。


「そうです、すぐに信長様に急使を出してこの事をお伝えしましょう」


「三河の国境付近では堀秀重ほりひでしげが街道を封鎖しているそうだ――」


 封鎖されているのは街道だけではないだろう、鳴海城から信長様へ使者を走らせるのは難しいはずだ。

 長近は押し黙る武将たちに向けて静かに語り掛ける。


「――今から思い返せば、我らが今川義元を討ち取るのを予想していたようではないか」


 すべてを見通すかのように我らが桶狭間に打って出るのを待って、稲葉山城を少数で落とした。そしてそのまま尾張へ侵攻した。

 いや、違うな。

 それよりもずっと前から尾張に対して工作をしていた。林秀貞が寝返ったのがその証左だ。

 同時に美濃でも斉藤龍興を追う準備を進めていたはずだ。


 今日、何度目かの背筋が凍るような錯覚を覚える。それは先程の訓練された鉄砲隊の威力を想像したときの比ではなかった。

 竹中重治を心底恐ろしいと感じた。『神算鬼謀』そんな単語が長近の脳裏をよぎる。


 義兄である安藤守就から遣わされた使者の言葉を思い出す。


『失礼ですが、織田信長殿とは器が違います。我らが主君、竹中重治様は名将であるに留まらず、名君となられるお方。金森様には竹中家へ臣従をお願い致します』


 稀代の知将・竹中重治だけではない。


 隣国では『暗愚』と言われた今川氏真が、人が変わったように精力的に動き、頭角を現していた。

 その向こうでは北条氏政が倒れても少しも揺らがない北条がある。五男の北条氏規が後継者としての器を示しているとも聞こえてくる。


 この三人が互いに潰し合ってくれれば織田家にも生き延びる道はある。逆にそれ以外に織田家が生き延びる道が見当たらなかった。


「それでは、如何されますか?」


「起死回生の一手がある――」


 長近の言葉に武将たちが感嘆の声があがった。


「――我らが揃って竹中家へ寝返る。負け戦が一転、勝ち戦となる」


「いや……しかし、それでは――」


 長近は力なく抗弁しようとした武将の言葉を遮ると、


「隣国に麒麟児が現れたのだ。如何いかんともしがたい」


 そうつぶやいて、筆と紙を用意させた。

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