第88話 金森長近 三人称

「兄上、鷲津砦から降伏の使者が戻りました!」


 竹中重矩たけなかしげのりが軍勢の後方から馬を駆けさせながら大きな声をとどろかせた。その声に馬上で振り向いた竹中重治たけなかしげはるが、微笑ましげに口元を綻ばせる。


「相変わらず声の大きいヤツだ」


 その背に向けて明智光秀あけちみつひでが安堵した様子で声を掛けた。


「これで三つの砦、すべてから返事が届きました」


「予定通りとはいえ、ホッとしましたな」


 続く善左衛門の言葉に竹中重治も大きくうなずくと笑顔で答えた。


「概ね計画通りだ――」


 自分の斜め後ろで馬を操っている金森長近かなもりながちかに一瞬視線を走らせる。


「――もっとも、計画した以上に事が上手く運んでいるがな」


 そう言うと軽やかな笑い声を響かせた。


 中島砦と丸根砦に続いて鷲津砦と、これで降伏勧告を行った三つの砦が竹中重治の勢力下に収めた事になる。


 三つの砦に宛てた、竹中重治の用意した書状。

 それは竹中重治だけでなく、織田信清おだのぶきよと金森長近の名を連ねた降伏勧告。自分が署名した書状が功を奏した事に、長近も胸をなで下ろしていた。


 署名した書状は四通。残る一通は大高城の佐久間信盛さくまのぶもりに宛てたものだ。

 長近自身、佐久間信盛に宛てた降伏勧告も気になったが、それ以上に三つの砦へ降伏勧告だけで、兵力を差し向けていない事が気になっていた。

 竹中軍は鳴海城に残した守備部隊を除いた全兵力を大高城へと向けて行軍中だ。


 長近は竹中重治へ馬を寄せると、自身の不安を口にする。


「竹中様、中島、丸根、鷲津の三つの砦へ、引き渡しのための兵を向かわせなくてよろしいのでしょうか?」


 武装解除をし、砦を完全に手中にしなければ、再び織田側へ走る可能性がある。その芽を摘む事が肝要であると示唆する。

 だが、長近の心配や危惧をよそに竹中重治は、


「再び織田側へ寝返るならそれも仕方がない。だが、そんな大馬鹿者に砦を任せる程、信長は間抜けじゃないだろう? ――」


 そう答えると、芝居がかったような厳しい顔つきと口調で言い放つ。


「――再び寝返るようなら、容赦するつもりはない。『竹中重治も非情になれるのだ』と、世間に知らしめるために役立ってもらうだけだ」


「そうですか」


 絞り出すように返事をした長近に、竹中重治は打って変わって明るい表情と軽い口調で、思い出したように聞いた。


「ところで、金森殿は木下藤吉郎きのしたとうきちろうという男をご存じないだろうか?」


「木下藤吉郎ですか?」


 竹中重治の唐突な変化に戸惑いながらも、長近は記憶を手繰る。


「身体が小さくて、猿のような顔をした男だ。いや、ネズミのような顔かも知れない」


「いえ、聞き覚えがございません。その者がどうか致しましたか?」


「いや、何でもない。忘れてくれ」


 目端が利きそうだし、既に織田家にはいないかもしれないな。竹中重治はそんな風に思いながら馬を進めた。


 ◇

 ◆

 ◇


 大高城まで後わずか、三十分も進めば視界に入る距離で竹中重治は物見からの報告を受けていた。


「大高城は門を固く閉ざして籠城の構えです」


 報告を聞き終えると、竹中重治は自分とくつわを並べて馬上にいる明智光秀に無言で視線を向ける。


「我らが鳴海城を出立する頃には、降伏勧告の使者が到着しているはずです」


「念のため、もう一度使者を出せ」


かしこまりました」


 馬首を巡らせて後方へと移動する光秀と入れ替わるように、難しい顔をした善左衛門が馬を寄せる。


「降伏勧告を蹴ったと考えた方が良いかもしれません」


「そうそう、楽はさせてもらえないという事か――」


 ここまで計画が予想を上回ってスムーズに運んでいただけに、『あわよくば降伏を受け入れるのでは』と甘い希望を持っていたことに自嘲した。


「――正面から戦うのは趣味じゃないんだよなあ」


「力攻めになりますな」


「多少時間が掛かっても損害を最小限に留めたい」


「とはいえ、兵糧攻めをする訳にも行かないでしょう――」


 敵は少数とはいえ籠城している。相当数の損害が出る事を覚悟したのか、二人とも厳しい顔つきで視線を交差させた。


「――大高城の攻略に時間が掛かるようであれば、古渡城へ立ち寄らずに熱田の千秋季忠せんしゅうすえただの下へ向かっては如何でしょうか?」


「計画に変更はない。多少時間が掛かろうと大高城を攻略した後、一旦、古渡城へ寄ってから熱田へ向かう――」


 善左衛門の提案に対して竹中重治がきっぱりと言い切った。


「――予定よりも手間取ったとなれば、それこそ捕虜たちは不安になるだろう。帰蝶殿たち非戦闘員に無用の不安を与えたくない」


 その言葉を側で聞いていた金森長近は、清須城を奪ったときと同様に帰蝶やお市など、信長の親族だけでなく配下の武将たちの親族までも無傷で三河へ送り届けるのだろうと、納得した。

 同時に胸の内にわだかまっていた疑問を口にする。


「竹中様、熱田へは兵を向かわせないのでしょうか?」


「千秋季忠は既にこちらに寝返る事を約束している。兵を向かわせるまでもない」


 可能性は低いが千秋季忠が捕虜奪還のために動かないとも限らない。そう考えたのだが、その危険性は無くなった。

 長近はもう一つの危惧をオブラートに包んで口にする。


「既にご存じとは思いますが、熱田港沖に海賊が集まっております。万が一海賊が熱田港に押し寄せたりしたら、千秋殿の手勢だけでは支えきれない可能性がございます」


 支えきれないどころか、一蹴されそうな程の戦力差だ。


「海賊たちが海上で織田方の城や砦を牽制することはあっても、熱田や津島に攻め込んでくるような事はないから安心しろ――」


 金森長近は竹中重治が口にした言葉の意味を掴みかねた様に、新たに主君となった若者を不思議そうに見返した。


「――あの海賊は村上一族を中心としたもので、私からの要請がなければ動かない」


「え? なぜ?」


「不思議か? 熱田沖に停泊している海賊は私の依頼で動いている」


「竹中様は海賊と通じていたのですか?」


 信じられないといった様子で大きく目が見開かれた。


「通じていたというのは正確じゃない。あの海賊、村上一族を裏で動かしているのは九州の伊東義益いとうよします殿と四国の一条兼定いちじょうかねさだ殿だ。彼らに頼んで熱田と津島の沖合でちょっと暴れてもらっていた――」


 伊東義益に一条兼定? 村上一族? 何の話をしているのだ? 長近の中に疑問と混乱が巻き起こる。


「――『通じていた』と表現するなら、伊東義益と一条兼定の二人と通じていた事になるな」


 長近自身、竹中家が今川氏真と繋がっている可能性は考えた。これまでの今川家と竹中家の動きを振り返れば低い可能性ではあるが想像できた。

 だが、伊東義益や一条兼定など想像すらした事がない。


「今川家との繋がりは『もしや』と想像くらいはしておりましたが、まさか四国や九州の勢力と繋がっているとは。御見それ致しました」


 いつからだ?

 いつから今川家と繋がっていた? いつから四国や九州と繋がっていた? 海賊を動かしたのはいつからだ?

 長近の胸中に新たな疑問が巻き起こる。


「今年の三月頃からかな――」


 長近の胸中を見透かしたように竹中重治が笑顔で語る。


「――海賊たちを尾張沖と伊勢沖に出没させて暴れさせたのは」


 尾張を、信長を悩ませていた海賊たちが全て眼前の若者の差し金だった。

 長近の背筋に冷たいものが流れる。


「では、今川家を含めて、伊東家や一条家と連絡を取り合っていたのは……」


「さらに前になる。二月頃だった気がするなあ」


 その頃には尾張を手に入れる筋書が出来上がっていたということか。

 それを長近は瞬時に理解した。


 稲葉山城を少人数で落とし、織田家と今川家との争いを利用して北尾張を手に入れた。世間では『神算鬼謀』だの『今孔明』だのと持てはやしていたが、織田家中では『頭が回り目端の利く若造が、運を味方につけただけ』程度の認識だった。


 長近は事実を知って目眩めまいがした。

 まさに『深慮遠謀』『神算鬼謀』とはこの事だ。長近は目の前の若者に畏怖と憧憬の入り混じった眼差しを向ける。新たに主君と仰ぐ若者の作る未来を一緒に見たいと感じた。


 東北の安東繁季あんどうしげすえ最上義光もがみよしあき、関東の北条氏規ほうじょううじのりとの繋がり、朝廷への献金。

 それらを知ったときの長近の驚きを想像して、善左衛門が憐みの視線を向けていた。

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