第55話 織田信長 三人称

「今、何と言ったっ! もう一度だっ、もう一度言えっ!」


 古渡城に織田信長の怒声が響き渡る。その形相、特に鋭い目つきと全身から漂う迫力に、家臣たちは大広間で雷が鳴り響いたような錯覚を覚えた。

 その怒声に家中の者たちは声のした方に近づくのをやめる。そちらへと近づいていた者はきびすを返して遠ざかっていた。


 だが、今更近づくのをやめる事も、遠ざかる事も出来ない者たちもいる。織田信長と共に大広間に居合わせた者たちだ。

 そしてその筆頭が織田信清である。


 織田信清、南尾張を治める織田信長の従兄で、一門衆の筆頭格である。

 そして美濃の竹中家との戦で停戦の条件として、自身の居城である犬山城を明け渡す羽目になった不遇の武将だ。

 

 その織田信清が口を開く。


「美濃の稲葉山城は既に斉藤家のものではなく、竹中重治の居城となっていました」


「どういう事だっ!」


 再び鳴り響く信長の怒声に、織田信清は『どうもこうも、あるものか』と小声で毒づくと、


「斉藤義龍は既に病死しており、後を継いだ龍興とその側近連中は揃って、竹中重治と奴に味方した西美濃勢に討たれていました。稲葉山が落ちたのは、奴らが北尾張に攻め込んできた前日の夜の事だそうです」


 稲葉山城が落ちた? あの堅牢な山城が落ちたというのか?

 その事だけでも信長には信じられなかった。


 ここ何ヵ月か、伊勢の北畠家と尾張沿岸に出没する海賊、そして今川義元に時間も人も割かざるを得なかった。それは事実だ。

 だからといって宿敵である美濃の、それも稲葉山城が攻められているとの情報が入ってこなかった事に、信長は驚きと激しい怒りを覚えた。


「稲葉山城が攻められていた、という報告は聞いていないっ! 間者や国境の物見たちは何をしていたっ!」


 織田信清は美濃の国境に近い犬山城を任されていた自分が責められているような、そんな錯覚を覚えながらも信長に向かって淡々と語る。


「一日です。いえ、一晩です。竹中重治は一晩で、それもたった十七人の手勢で稲葉山城を落としたそうです――」


 織田信清の言葉に信長の目が大きく見開かれる。


 目の前の従兄は何と言った?


 稲葉山城を十七人の手勢で落としただと? 城が十七人の手勢で落ちるものか。まして稲葉山城のような堅固な城がそんな少数で落ちるはずがない。

 いや、そもそも十七人で城攻めをするなど正気の沙汰ではない。

 

 信長の思考が混乱する中、織田信清の話はさらに続く。


「――竹中重治は稲葉山城を落としたその夜のうちに尾張との国境を越えました」


「バカな……」


 そう絞り出した信長は必死に思考を巡らせていた。


 まるで織田軍が桶狭間に出兵しているのを知っていたかのようではないか。知っていて、稲葉山城を一晩で落として尾張の国境を越えたとしか思えない。

 仮に今川軍が尾張に迫っている事を詳細に掴んでいたとしても、普通なら織田軍が籠城すると考えるはずだ。百歩譲って迎撃すると考えたとしても、織田軍が信長自身が桶狭間に打って出ると決めたのは直前の事だ。


 それを予想したというのか、竹中重治は。

 突き付けられた事実と自身が立てた仮説、信長は背筋に冷たいものを感じて身体を震わせた。


 織田信清は押し黙って冷や汗を流す信長を見やりながら、さらに続ける。


「後はご存知の通りです。村井貞勝は書状と噂で足止めされ、俺は偽の使者にまんまと吊り出されて、犬山城に逃げ帰る羽目になりました。清須城は――」


 織田信清は固く握りしめられた信長の拳に視線を落として、それ以上の詳しい説明を切り上げる。


「――説明するまでもないでしょう」


「美濃はっ、美濃は西と東で割れているのかっ? 斉藤家の旧臣たちは何をしている、竹中重治に反発する者もいるだろうがっ!」


 逆上した信長に向かって、織田信清は感情を押し殺した口調で淡々と告げる。


「斉藤龍興とその側近たちも稲葉山城で討ち取られ、対抗出来そうな家は当主を失い、抗う間もなく討ち滅ぼされました。また残った東美濃勢も新国主である土岐頼元ときよりもとの下、一つにまとまったようです――」


 信長の顔色が変わった。

 そう、今の美濃には内紛という形で付け入る隙はない事を示していた。茫然とする信長の耳に織田信清の淡々とした言葉が容赦なく届く。


「――現在の美濃の国主は土岐頼元。幼い頼元の後見人は竹中重治。殿が和議を結んだ竹中重治が美濃の事実上の国主です」


 信長の中で、失った北尾張の奪還計画が音を立てて崩れて行く。


 稲葉山城の斉藤龍興と結び、美濃を二分しての内紛状態にする。その上で、六角なり浅井なりをそそのかして、三方から西美濃勢をすり潰す。

 そのつもりでいた。和議の際に既に自分の中で構想が出来上っていた。


 美濃の新当主はまだ若い斉藤龍興。

 龍興の側近である斉藤飛騨、長井利道、日根野弘就、日比野清美などは取るに足らないと高を括っていた。


 だが、実際はどうだ。


「何が西美濃勢だっ! 何が美濃半国だっ! 稲葉山城と睨みあうつもりは無いだとっ! ――」


 不意に立ち上がると近くにいた小姓の頭を殴りつける。もはや平静ではなかった。


「――何もかも嘘っぱちではないかっ!」


 もしこの場に竹中重治がいたらこう言ったはずだ。


『私は嘘は言っていませんよ。貴方が勝手に勘違いした事でしょう。それで私を責めるのはお門違いです』と。


 竹中重治は信長に対して嘘は言っていない。少なくとも信長があげつらった事についてはそうだ。信長の都合のよい思い込みだ。

 それはこの大広間で下を向いている武将たちの半数以上が知っている。


 だが、それを信長に伝える者はいない。


「竹中重治とは何者だ――」


 そうつぶやいた信長は再び座ると、広間に集まった武将たちを鋭い目で見回して大声を発する。


「――俺をたばかった竹中重治という小僧は何者だっ?」


 信長の脳裏に清須城の城下で会談した若武者の顔が蘇る。それと同時にこれまで集めた竹中重治に関する情報を思い出していた。


 今年に入ってすぐに名前を聞くようになった。

 家督を継ぐや否や領内の夜盗を一掃し、寺社の持つ既得権益を取り上げて、六角領で広がった楽市楽座を取り入れたと報告にあった。


 領民に人気があり、領民たちと一緒になって開墾や道具作りをしているとも聞いた。

 金儲けが上手いとの報告も受けていた。


 だが、それとは裏腹に『青びょうたん』だとか『武門に不似合いな軟弱な男』との噂も聞こえて来た。


 やがて頭角を現すとは思っていた。

 だがどうだろう。信長の予想をあざ笑うような速度で実績を示した。西美濃三人衆の一人、安藤守就の娘を正室に迎えたとはいえ、家督を継いでわずか数か月で西美濃勢を影響下に置いた事には驚いた。


 だがたった今、織田信清から知らされた情報は、これまで知っていた竹中重治という男の評価を、根底から覆すのに十分だった。


 信長の胸中など、うかがい知らぬ織田信清が竹中重治についてさらに話を続ける。


「『昔楠、今竹中』とも『今孔明』とも噂されております。特にたった十七人で稲葉山城を奪った手腕と桶狭間の戦いに乗じて北尾張を手中にした手腕に、世間は賛辞を惜しむ様子がございません」


 当たり前だ。敵でさえなかったら俺だって賛辞を贈る。

 信長は心の中でそう毒づくと、苦虫をかみつぶしたような表情で聞いた。


「それで、尾張は、織田家は、この俺は何と言われているっ?」


「織田家と殿は、大大名である今川義元を兵数的に不利であるにもかかわらず見事に討ち取ったと――」


 信長は織田信清の言葉を中断させるように、厳しい口調で言い放つ。


「もういいっ! 竹中の小僧の引き立て役にしかなっていない事くらい、容易に想像がつくわっ!」


 信長の言う通り、世間の信長に対する評価は低い。『少ない兵力で無謀にも今川の本陣を狙い、運良く勝利した。だが、帰ってみれば城も領地も部下も失っていた。織田の殿様はやはり大うつけだ』と。

 織田信清はその噂を入手していたが、それは口にせずに話題を変える。


「さらにご報告があります」


 自分とは対照的に平静な織田信清の態度に思わず語調が強まる。 


「まだ何かあるのかっ?」


「蜂須賀正勝と前野長康、それぞれ一党を率いて竹中重治に寝返りました」


「他にはっ、他に寝返った者はっ?」


 信長の脳裏に出奔したばかりの滝川一益とその一族の顔が浮かんだ。


「竹中家へ寝返ったのは、今のところ、その者たちと林秀貞の三名です――」


 そこで一旦言葉を切り、織田信清は信長の様子をうかがう。


「――その他に、滝川一益が一族を率いて出奔致しました。行先は聞いておりませんが、向かった方向を考えると美濃ではないようです。まして竹中家の可能性はございません」


 ここまでの話を総合すれば、美濃どころか、北尾張にも手出しできないと分かった。

 このままでは竹中家が大きくなり、呑み込まれる。遠くない将来、織田家は滅びる。信長にはその未来が予想できた。


 動かなければ、今すぐにでも動かなければ滅亡へと向かうだけだ。

 そんな強迫観念が信長をじわじわと侵食する。


 そんな信長の下に、美濃と北尾張に代わる地として、三河の情報が次々ともたらされていた。


 間者からの報告では、今川氏真は駿河と遠江を固めるのに精一杯で三河まで手が回っていない。

 そればかりか、松平元康の旧臣からも、主君の仇を討ち、三河を手中にする手助けをして欲しいとの嘆願も届いていた。


 信長が口を開いた。


「三河を切り取るぞ」


 織田信清の目には、主君である信長の暗く沈んだ眼に、狂気が宿ったように見えた。

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