第68話 小田原城月下 三人称
小田原城の一室、線の細い青年武将が
青年武将はこの北条家の後継者と目されている
大徳利から
杯を満たしたのは、事実上の美濃の国主である
「
氏規がロウソクの明かりに照らされて、わずかに輝く清酒を見つめながらそうつぶやくと、中庭の茂みの中から一人の男が無言で進み出た。
氏規は男を手招きして呼び寄せると、一通の書状を濡縁の端に置いた。その横にもう一つの
「その書状を正木時茂に届けて欲しい」
氏規の示した書状には、
さらに正木時茂が現在所有する領地についても安堵する旨が書かれている。
正木時茂は北条家と敵対している里見家の家臣なので、その領地を北条氏規が安堵するというのもおかしな話ではあるが、北条氏規は敢えてそれを書いた。
さらに、正木弘季、正木憲時の親子と、遺恨なく和解して欲しいとも書いた。
書かれた内容はそれだけだった。
北条家と里見家との争い、正木時茂に対する勧誘等については一切触れていない。
小太郎は音もなく近寄り、
「承知いたしました」
と小さく一言だけ発すると、書状へと手を伸ばした。その彼の手を氏規は視線で制して、清酒で満たされた杯を彼の方へと押しやる。
「仕事は明日からで構わない。一杯飲んで行きなさい」
氏規の穏やかな声音が耳に届くと、ほんのわずかな時間ではあるが小太郎の動きが止まった。
小太郎は
彼の常識からすれば、主が酒を振る舞うのは仕事が終わってからだ。さらに言えば、自分たちのような素破に酒を振る舞う主など聞いた事が無い。しかも、目の前に差し出されたのは最上級の清酒である。大名といえどもそうそう口にする事など出来ない代物だ。
「まだ仕事が終わっておりません」
自分が素破である事を主に改めて伝えるのを寸前のところで思い止まり、絞り出すようにそれだけを口にした。
「仕事の労いの意味で勧めているのではないよ。単なるおすそわけです。そんなに構えないで気楽に飲んでもらえないかな」
「しかし――」
尚も固辞しようとする小太郎に向けて氏規は柔和な笑みを湛えて再び勧める。
「ほら、私が飲んでいいと言っているんだから、遠慮は要らない」
「では、頂戴致します」
根負けして杯を
主が笑っているのに気付くと、小太郎はすぐに驚きの表情を消してすました顔を見せる。
「殿もお人が悪い。からかわないで下さい」
「気分を損ねたのなら謝るよ、すまなかった――」
氏規は心底申し訳なさそうにそう言うと、小太郎に向かって頭を垂れ、さらに続ける。
「――からかっているつもりは無いよ。それで、お酒の味はどうだった? 美味しかったかい?」
「はい、大変美味い酒でした。私にはもったいない代物です」
氏規は『そうか』とうなずくと、口元を綻ばせて語りだした。
「この清酒は美濃の竹中重治殿から頂いたものだ。何でも新しい製造方法で容易に清酒が造れるそうだ――」
まさか、その新しい製造方法を探りだせと言うのだろうか? 言葉通り容易に清酒が造れるなら特産品として高値でさばける。金山の発見で潤っている北条家はさらに裕福になるだろう。
そんな事を考えながらじっと主を見つめていると、北条氏規はクスリと笑って先を続ける。
「――酒だけでなく、製造方法も教えてもらった。つまり、伊豆でも簡単にこれと同じものが、清酒が造れる」
「新しい製造方法を? 馬鹿な、信じられん……」
にわかには信じられない思いが、口をついて出てきた。主を前にして口にしてよい言葉ではない。明らかに失言だ。
慌てる小太郎をよそに、氏規は話を続ける。
「竹中殿はとても気前の良い男だよ。信用も出来る。と言ってもにわかには信じてもらえないか」
そう言うと、氏規は快活に笑いだした。
その様子と直前の言葉から、なんと返して良いか分からずに押し黙っていた小太郎であったが、これ以上の命令は無いものと思い、切り出した。
「大変希少なものを口にさせて頂きありがとうございます。ご命令通り、夜が明けましたら正木時茂様の下へ書状を届けます」
「忘れものだよ」
退出しようとした小太郎に差し出されたのは、清酒が入った大徳利だった。
目を丸くして無言で動きを止めたままの小太郎に向けて尚も言う。
「持って帰って、皆で飲みなさい」
「このような貴重な代物を頂戴する訳には参りません」
「まだ沢山あるから、遠慮する事はない」
「ですが、この場にはこれしかございません」
大徳利を氏規の方へと静かに押し戻す小太郎に向けて、
「私はこれで十分だ――」
氏規はそう言うと、穏やかにほほ笑んで未だ口をつけていない杯を目の高さに掲げる。
「――それにまだ話は終わっていない」
氏規の瞳が鋭く光る。その瞳に射すくめられたように小太郎は動きを止めた。
手にした杯を濡縁に置くと、小太郎に向けて口を開く。
「ところで、君は竹中重治という人物をどう見る? 贈り物として清酒を貰った事やその製造方法を教えてくれた事は忘れて、純粋に大名としてどう見るか。君の考えを聞かせてくれないか?」
小太郎の脳裏に、眼前でほほ笑む主の評判や噂話が蘇る。
評判通り、噂通りの主であれば、ここで小太郎の身分が素破である事を理由に、この場を立ち去ろうとしても叶わないだろう。
観念して竹中重治に関する世間の評判を思い起こした。
「十七人というのは誇張があるにしても、奇襲で稲葉山城を落とした事は知恵があり度胸もある
「面白みのない評価だな。続けて」
言葉通り、面白くなさそうな表情で先をうながす氏規の顔を、小太郎は無言で見返し、そのまま話を続けた。
「
氏規は小太郎が話をしながら次第に
一旦、言葉を切った小太郎に向けて、氏規は『それで?』と再び先をうながした。すると、小太郎は意を決したように一気に言葉を吐き出す。
「――稲葉山城奪取だけであれば、世間の言うように『今孔明』と称賛するところですが、尾張にまで攻め込んだとなると、運が良いだけのただの大馬鹿者としか思えません。将たるもの、安易に賭けに出るものではございません」
大馬鹿者か。まあ、仕方がないか。
小太郎の言葉に氏規は苦笑しながらも、竹中重治にわずかばかり同情をする。そして、そう遠くない将来、自分も同じように思われるのだろうかと内心で苦笑した。
「その大馬鹿者と同盟を組んだ。武田家との同盟のような、うわべだけの同盟ではない。もっと深く、もっと強固なものだ。北条、今川、竹中、最上。この四家で長尾景虎に一泡吹かせてやる」
「それはおめでとうございます」
いつだ? どうやって? 使者は誰が? 氏康様はご存じなのか? どんな条件の同盟だ? それに竹中家だけでなく最上家まで? 分の悪い賭けに出る当主がいる竹中家との同盟は危険ではないのか?
風魔小太郎の頭の中を幾つもの疑問が浮かんでは消える。
小太郎の胸中を見て取ったように、氏規が問い掛けた。
「竹中重治殿と同盟を結ぶのは反対か?」
「滅相もございません。い、いえ、私などが口を出すような事ではございません」
慌てふためく、という言葉が当てはまるような様子で盛大に砂利音を立てながら平伏した。
氏規にしても別に
小太郎の反応は多少の差こそあれ、同じ様に反応するであろう家臣団への対策の参考にと聞いたのだが、その反応の大きさに逆に面食らっていた。
「すまない、普通にしてくれ。顔を上げてくれないか。意見を求めたのは私だし、それで
「しかし――」
平伏したまま抗弁しようとする小太郎に向かって『ではそのままで構わないから聞いて欲しい』、と告げて静かに語りだした。
「竹中重治殿のところでは北条家と同じように素破を活用している。規模は北条家よりも大きいな。百地丹波を筆頭とした素破の集団を抱えている――」
胸中に
北条家と同じように、か。とんでもない話だな。間違いなく日本中で素破を一番活用している。この時代の誰もが、いや、私たち転生者の誰もが考えなかったドラスティックな変革を行い、思い切った役割を
氏規は己を襲う武者震いと、湧き上がる笑いを無理やり押さえつけてさらに続けた。
「――彼は百地丹波の一党を『素破』とは呼ばずに『忍び』とか『忍者』と呼んでいたな」
「呼び方を変えても本質は変わりません」
「これから先は新しい時代だ。作るのは私たちだっ! 私たちが作る新しい時代には、新しい働きや役割を
氏規の脳裏には『茶室』での竹中重治の言葉が鮮明に思い出されていた。百地丹波を説得したときの言葉。それは文字にもかかわらず、想像上の竹中重治の声で紡がれる。
彼はその竹中重治の言葉を借りて小太郎に語り掛けた。
「役割は従来の素破と同じように諜報活動や遠方との連絡係、武士と同じように戦場での槍働きはもちろん、夜陰に乗じて敵を混乱させることもする。さらに、他国や他勢力への外交も兼ねている」
そこから先の言葉も、幻の竹中重治の声で頭の中に響く。
『それに見合うだけのものを用意しよう。領地と身分。領地は近日中に三千石を美濃の領内に用意する。もちろん、屋敷もだ。一族郎党を引き連れて移り住め。百地丹波、たった今からお前は竹中家の重臣だ。そのつもりで明日の評定に参加しろ』
少し変えるか。氏規は内心で苦笑しながら言葉を紡ぐ。
「それに見合うだけのものを用意する。百地丹波は竹中殿から領地を貰い、一族郎党を養っているそうだ。評定でも重臣の列に並んでいる」
「馬鹿な……」
「風魔小太郎、お前にも領地をやる。三千石の領地を用意しよう。働き次第で加増もする」
「そ、それを私に信じろと?」
言葉とは裏腹に、氏規が嘘を付いているのでもなければ、からかっているのでもない事はどこか信じられた。
視界が
夢にさえ見た事が無い、考える事すら馬鹿げていた。自分たち素破が領地を得る。しかも働き次第で加増まで望める。
自分を、自分たちをこれ程高く評価してくれる主の顔を見たい。この目に焼き付けたい。その思いとは別に、顔を上げたら何もかもが消えてなくなるのでは、との得体の知れぬ不安が襲う。
月明りの下、平伏したままの小太郎から漏れる
氏規にしてみれば、竹中重治のセリフ――借りものの言葉で、これ程まで小太郎が感動するとは計算外だった。
自分の言葉で伝えた竹中重治。それは百地丹波の心をどれほど揺さぶった事だろう。
平伏したままで嗚咽する小太郎を目の当たりにして妙な罪悪感に見舞われた氏規は、小太郎から半ば雲に隠れた月へと視線を移すと、淡々とした口調で話を再開する。
「お前が信じてくれなければ、何も始まらないよ。信じてくれれば、風魔小太郎、お前は一族の者に報いる事ができる。城下に屋敷を用意する必要がある。一族郎党かき集めて何人になるか、すぐに報告しなさい――」
今、何と言われた? 屋敷だと? 城下に我らが住まう屋敷を下さるのか?
はばかる事無く涙を流す小太郎の肩に氏規はそっと手を置いた。
「――今からお前は私の重臣だ」
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