第102話 勝幡城(2)
俺の眼前では、とても三十歳を超えたばかりには見えない老け顔の男が、眼差しで射殺さんばかりにこちらを睨み付けていた。『目は口ほどにものを言う』というが、その
「木造殿、昨夜はゆっくりと休めましたか?」
「小僧! 私にこのような事をしてただで済むと思うなよ!」
激怒しているのを内に隠すような出来た大人じゃなかった。穏やかに、友好的にと心掛けている俺とは大違いだ。
「不幸な行き違いはありましたが、貴方の身柄は無事に
「何が不幸な行き違いだ! よくも抜け抜けと! ――」
自分が囚われの身であると忘れたのか、掴み掛らんばかりの勢いで立ち上がると、即座に周囲を固めていた俺の家臣たちに取り押さえられる。
木造具政は床に組み伏せられた状態で、尚、俺の事を下から睨み付けた。
「――貴様らは織田とグルだったのだな! 今までの伊勢への嫌がらせはお前たちも噛んでいたのだろ!」
意外と鋭いな、こいつ。
心配になって
木造具政は床に頭を押し付けられた、完全に取り押さえられた姿勢にもかかわらず、身体を激しく動かして抜け出そうとしていた。
「木造殿、言いがかかりは困ります。そもそも、当家ほど織田家と敵対している勢力はありません――」
そこで言葉を切って、
「――そもそも、我々が北畠家と敵対して何の得になるというのですか。織田家や浅井家を喜ばせるだけでしょう」
「ではなぜ我らに攻撃を仕掛けてきた!」
一条さん経由で朝廷から使者が来る事は間違いないだろうし、少しからかってみるか。
「我らが織田家と戦の只中にあるのはご存じでしょう? 漁夫の利を得ようとした小ずるい連中にお灸を据えただけの事です」
「ふ、ふざけるな! 今の言葉しかと聞いたぞ! 絶対に後悔させてやるからな! 憶えてろよ、小僧!」
頭に血が上った木造具政の意見は無視しよう。
「私としては北畠家との戦は望んでいません。出来れば穏便に済ませたいと考えています」
「何が戦を望んでいない、だ。何が穏便に、だ。どの口が言うかー!」
エキサイトが止まらない。『もう少し大人になれよ』と言ってやりたい。
「本当です。その証として、貴方を無事に北畠家の領地まで送り届けましょう」
「俺が無事に帰ったら、戦だ! 全兵力を率いて尾張に攻め込んでやるから、そのつもりでいろよ」
無事に帰るつもりがないとしか思えない。
『じゃあ、お前、打ち首な』、と笑顔で言ってやりたい衝動にかられる。
だが、そんな事を口には出来ない。
少し目先を変えてみるか。
「木造殿、散々に蹴散らされたので、もうお分かりと思いますが、竹中家は
木造具政の顔が曇る。
さて、顔が曇った理由はプライドを傷つけられたからか、痛い目を合わされたのを思い出しからか。或いは、次の俺の要求を察したからか。
「――田城城と波切城、この二つの城を返してもらえると嬉しいのですが、貴方と二つの城とどちらが大切でしょうね、北畠具教殿にとっては」
「俺を交渉の材料にするつもりなのか?」
今しがたまでのハイテンションが嘘のように消え、こちらの思惑を探るように慎重な視線を向けてきた。
よし、これで少しは話し合いが出来る。
「田城城と波切城は、まあ、返してもらえたら九鬼嘉隆と九鬼水軍が喜ぶだろうな。という程度の思い付きです――」
北畠家が今回の事を口実に戦を仕掛けて来られるように、こちらにも伊勢に攻め込む大義名分があると伝われば十分だ。
「――恐らく、帝も我々と北畠家との戦は望んでいらっしゃらないと思いますよ」
「なぜ、そこで帝を口にする……」
「さて、なぜでしょうね――」
急に不安そうな表情を浮かべた木造具政にそう告げると、俺の両脇に控えていた善左衛門と光秀の二人が口元に妖しげな笑みを浮かべた。
二人が楽しんでいるのが伝わって来る。
「――これは忠告です。軽率な行動は北畠具教殿のご迷惑になりますよ。さらには帝のご
「貴様ごときが気安く口にするな」
威勢のいい
俺のような田舎の領主風情では帝とのコネなどないはずだと思っていても、一抹の不安は拭い切れないようだ。
「九鬼嘉隆がなぜ私を頼ってきたかご存知ですか?」
「なんの話だ?」
急に話題を変えた事で木造具政は一瞬キョトンとした顔をし、すぐに考え込むように押し黙った。
「四国の
表情に大きな変化はない。一条さんと毛利元就が朝廷へ献金した事は既に伝わっているようだ。
「――実はこのとき、私も朝廷へ献金をした」
木造具政の目が大きく見開かれ、息を飲む音が俺の両脇から聞こえた。
◇
◆
◇
「いやー、木造具政が話の分かる相手で良かった」
あの後、木造具政はこちらの要求通り、無事に伊勢へ送り届ける代わりに、伊勢へ戻った後も戦を仕掛けないという条件を呑んだ。ついでに大橋重長も引き取ってくれる。
俺の話を
「殿、何もあの場であのような話をしなくてもよろしかったのではありませんか?」
善左衛門らしからぬ
大橋重長のところへ案内してくれている若い武将を気にして、『朝廷への献金』という言葉は使わずにいた。さらに表情と口調も穏やかだ。
「そう言うな。そのお陰で八方丸く収まったんだ。それに済んだ事だ」
「確かに済んだ事ですが、事前にご相談頂ければ我々も協力できました」
嘘だ。事前に相談しようものなら、絶対に反対する。
善左衛門の顔を見て反論しようと振り返ったタイミングで光秀が口を開いた。
「善左衛門様、先程の件は今夜にも殿を交えて時間を取るべきではないでしょうか?」
まずいな。二人を一緒にしておいては危険だ。
俺は立ち止まると案内の武将に少しの間、外すように伝えて二人に向きなおる。
「光秀、すまないがそんな時間はない。私も早くに休むつもりだが、二人とも今夜は早々に就寝するようにして欲しい――」
当面、尾張の代官を誰にするかで悩んでいたが、たった今決まった。
「――私は明日の早朝、稲葉山城へ向けて出立する。善左衛門、お前も付いて来い。光秀には尾張の戦後処理を任せる。私に代わって差配して欲しい」
光秀の息を呑む声が聞こえ、続いて善左衛門が小声で抗議をした。
「光秀殿の能力を疑う訳ではありませんが、
その重光叔父上と
側に置いておきたいのは光秀だが、今回、俺の代理人として尾張の戦後処理を差配する事で、竹中家家中でのポジションを決定づける。
「殿、私には荷が重すぎます。それに善左衛門様のおっしゃる通り、私のような新参者が殿に代わって差配するなど過ぎた事です」
「善左衛門、光秀。新しい事を始めようとすれば古い事を好む者やそれを守ろうとする者から反対されるのは当たり前のことだ。それを恐れていてはいつまで経っても新しい事は出来ない――」
俺が話をしている間も光秀の表情は暗い。自信がない訳じゃないだろうから、やはり人間関係を気にしてか。
「――これは決定事項だ。光秀、お前には期待をしている。尾張の戦後処理を見事こなし、竹中家家中における明智光秀の存在を不動のものにしろ」
「光秀殿、尾張はまだ混乱している。頼りにしておりますぞ」
光秀が尚も固辞しようと開きかけた口を善左衛門が見事に閉じた。
よし、光秀が気を取り直す前に案内の武将を呼び戻そう。気を利かせて庭に出ていた案内の武将に声を掛ける。
「すまないが、大橋重長のところへの案内を頼む」
「畏まりました」
案内の武将は大声でそう返事をするとこちらへと駆け寄って来た。恨めしそうにしている光秀から視線をそらし、駆け戻った案内の武将に訊ねる。
「先程『捕らえてある』と言っていたが、この城には牢屋があったのか?」
「いえ、牢屋はありませんでしたので縄を打ってあります」
まあ、そうなるよな。
北畠家へ引き渡すときまったら、あまり手荒な真似をしないよう徹底しよう。恨みを買って織田と北畠とで手を組まれても困る。
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