第101話 勝幡城(1)

 どこか遠く、大勢の人たちが慌ただしく動き回る気配がする。意識をそちらへと傾けるとそれが急速に近づいて来た。

 慌ただしい気配が近づいて来たと思ったら、急に目の前が明るくなる。


「ああ、そうか。朝か」


 自分が今まで寝ていたのだと気付かされた。


 聴覚と視覚を刺激されて目が覚めると、昨日の南尾張攻略作戦とそれに伴う現状とがすっと頭の中に浮かぶ。

 そうだ昨日は津島港の戦闘が終わったところで、勝幡城へ引き返して宿泊したんだ。


 目は覚めたがすぐに起き上がる気になれず、寝返りを打って昨夜行われた茶室での出来事を思い返す。

 久しぶりに濃密な茶室だった。


 長尾景虎の関東入りに先駆けての外交に裏工作。武田家への接触や情報収集もこれまで以上に慎重にならないといけない。

 そして俺自身は上洛へ向けて準備を進める。


 やらなければならない事が山積している。それどころか一つ片付けても、次から次へと問題が出てきそうな予感しかしない。

 それもこれも、あちこちで戦争なんかしているからだ。


 まったく戦国時代とはよく言ったものだ。あちらこちらで火が噴いている。

 だが、真っ先にやらなければならいのが北畠への対処だ。


 起き上がって縁側へと歩き出すと、扉の向こうから声が聞こえた。


「殿、お目覚めになりましたか?」

 

 若い武将の声だ。俺が起きるのを待っていたのか、扉の外に控えていたようだ。


「たった今、目が覚めた。朝食の用意を頼む。ここで食べるので運んでくれ」


「お身体の加減の方は如何でしょうか?」


 身体の加減? そうか、昨夜は北畠対策を考えるのを放棄したくて、体調が悪いからと理由を付けて早くに寝たんだった。


「一晩ゆっくりと休ませてもらったお陰で復調したようだ。君たちにも心配を掛けたようだな、すまない」


「滅相もございません。すぐに朝食の用意をさせますので、少しの間お待ちください」


 慌ただしく立ち去る音が扉の向こうで響き、足音が遠ざかって行った。


 ◇

 ◆

 ◇


 運ばれた朝食のお膳には、お椀にてんこ盛りにされた白米、スズキの塩焼きとアワビのお吸い物、香の物とアワビの肝を酢で和えたものが並んでいた。

 白米は炊き立てのつやつやで、湯気が立っている。スズキとアワビは今朝水揚げされたと言っていたな。昨日戦いがあったというのに早朝から船を出すとは見上げた漁師たちだ。


 そのスズキの塩焼きも塩を贅沢に使って調理されていた。新鮮なアワビが刺身でなく、お吸い物の具になったのは少々残念だがやむを得ないか。

 アワビの肝を捨てずにちゃんと料理するあたり、稲葉山城の女中たちを無理に軍勢に同行させて正解だった。彼女たちにも十分に報いよう。


 それにしても朝から何と贅沢なメニューだろう。港を手に入れたのは正解だ。

 しばらくは港付近に留まって采配するのもいいかも知れない。


 さて、現実逃避はこれくらいにして、そろそろ現実に目を向けるか。


「なあ、せめて食事が終わってから、という訳には行かなかったのか?」


 お膳の向こうに座る善左衛門ぜんざえもん明智光秀あけちみつひでに向けて恨み言を口にした。

 すると善左衛門と光秀の言葉が重なる。


「事は急を要します。何しろ北畠の使者がいつ駆け込んできてもおかしくない状況ですからな」


「敗戦と木造具政こづくりともまさ殿が我が方の手に落ちた事は既に北畠具教きたばたけとものり殿の耳に入っているでしょう――」


 光秀がずいっと身を乗り出した。

 スズキの白身が箸で簡単に崩れる。


「――北畠家からのご使者が来られた際に対応が決まっていない、という事は避けねばなりません」


 善左衛門と光秀の二人はもちろん、彼らの背後に控えていた島清興しまきよおき久作きゅうさくも不安そうな表情をみせている。

 この場で平然とした顔をしているのは百地丹波ももちたんばくらいだ。普段通りのポーカーフェース、相変わらずダンディーなヤツだ。


「確かに北畠軍と戦端を開いたのは予定外の行動だった。だが、予想していなかった訳じゃない――」


 大嘘だ。予想なんてしていなかった。いや、わずかに不安はあったが準備を怠っていた。だから慌てた。

 うん、美味い。久しぶりのアワビの肝だ。アワビの肝は塩漬けにすると保存も効くし、酒の肴としてもいける。昆布と一緒に煮てもいいな。箸を進める毎に次々と構想が浮かぶ。


 皆の表情を見回すと百地丹波以外は、皆ポカンとした、いわゆる、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。


「――こんな事もあろうかと、四国の一条兼定いちじょうかねさだ殿に使者を出してある」


 後出しどころか、事後対処なのに事前に準備していたかのように言うのって気持ちいいな。


 チラリと百地丹波を見やると、皆の視線が背後に控えた彼へと一斉に注がれた。

 当の百地丹波は眉一つ動かさずに静かに平伏する。それは先程までの落ち着き払った態度と相俟って、何も知らない者たちには全てを承知していたように映った事だろう。


 凄いな、百地丹波。事前打ち合わせ無しに、行き成り話を振ったにもかかわらず見事に対処したよ。

 明日の朝もスズキが届けられたら刺身にしてもらおう。


「さすがです、兄上!」


 久作が膝立ちになって声を轟かせると、我に返った光秀と善左衛門が詰め寄って来た。

 明日の朝水揚げされたアワビは刺身にして、肝醤油で食べる事にしよう。


「殿、それでその書状にはどのような事を書かれたのですか?」


「一条様からの返事はどのようなものでしたか?」


「二人とも慌てるな。一条兼定いちじょうかねさだ殿へは『北畠家や六角家と予期せぬ接触があった場合に助力して欲しい』、とお願いをしてある――」


 居合わせた者たちから息を飲む音が聞こえる。俺の一挙手一投足を見逃すまいとでもいうのか、見開かれた四人の双眸そうぼうが向けられている。

 百地丹波だけは平常通りの落ち着いた視線だ。


「――それに対して『朝廷を通じて穏便に済ませるように計らう』、と返事を頂いている」


 刺身だけでなく握り寿司も普及させたいな。併せて漁業技術を進歩させて道具も発展させないとならないから、海産物系はちょっと時間が必要かもしれない。

 一瞬の静寂、破ったのは予想通り善左衛門。


「そのような重要な事はもっと早くにお知らせください!」


「怒るな、善左衛門。すまなかったと思っている。だが、敵を騙すには味方から、とも言うだろ。もともと尾張を攻略すると決めた段階で北畠家ともめる可能性はあった――」


 善左衛門の眼が怖い。光秀も睨んでいる。島清興は惚けたまま、まだ帰ってきていない。

 けむに巻けるかな?

 軍艦巻きもいいな。アワビの肝の軍艦巻は美味そうだ。

 

「――万が一という事で布石を打っていただけで、今回の侵攻に併せて改めて書状を出した訳じゃない。使われる事のない準備だった可能性の方が高いだろ?」


「さすがです兄上。今孔明の呼び名に相応しい知略です!」 


 能天気な久作に続いて光秀の言葉が静かに響く。

 刺身と寿司を普及させるなら、やはり大豆から醤油と味噌を作る事を急いだ方がいいな。


「殿、他にも色々と使われる可能性の低い準備をしている、という事はございませんよね」


 光秀、お前絶対に疑っているだろ。


「今すぐお話頂く必要はございません。殿もお忘れになっている策もあるかもしれませんので、よく思い出して頂き今夜にもお話をうかがいましょう」


 善左衛門、お前に至っては決めつけているよね。それになに、今夜の話し合いは決定事項なのか?

 だが、そんな思いが顔に出ない様に心掛けて話をはぐらかす。


「だが、万が一もあり得る。百地丹波、改めて一条兼定殿の下に使者として誰かを遣わしてくれ。書状は後程渡す」


「畏まりました」


「私からも質問だ。現在の津島港の状況が知りたい。それと木造具政こづくりともまさの身柄と北畠軍の捕虜の扱いはどうなっている?」


「津島港はご指示通り、稲葉良通いなばよしみち様を主将、副将を重光しげみつ様、海上を九鬼嘉隆くきよしたかが封鎖しております」


 稲葉良通が無茶をしそうになっても叔父上が抑えるだろう。さらに海上の九鬼嘉隆率いる九鬼水軍がいれば防衛戦力としては十分すぎる。

 津島では伊勢海老は獲れないのかな? 後で九鬼嘉隆に使いを出そう。


「九鬼嘉隆には後で労いの使者を出すとして、稲葉良通殿のご様子はどうだ?」


 今後は稲葉殿には北畠への抑えか六角の抑えをお願いする予定だ。尾張・美濃の防衛面でも要職を担ってもらうのだから、ここで変に塞ぎ込まれても困る。


「津島方面の完全制圧と北畠軍撃退の手柄に上機嫌でした――」

 

 余計な心配だったようだ。

 俺が無言で首肯すると、それを合図に光秀が話を再開した。


「――木造具政殿には念のためご同行を頂きました。只今別室にておくつろぎ頂いております。他の北畠軍の捕虜は津島港にて稲葉良通様の監視下にあります」


「上出来だ。この会議が終わったら木造具政殿にお会いしよう」


「続いて織田軍ですが、大橋重長おおはししげなが殿を除いて、全員を鳴海城へ向かわせました。護衛には氏家うじいえ様率いる軍勢五百が付いております」


「大橋重長の身柄は?」


「この別室に捕らえてあります」


「よし、では木造殿に会った後で、大橋重長に会おう」


 そう告げて、朝食を終えるべく箸を伸ばした。

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