第103話 勝幡城(3)
縄を打たれ、床に座ったまま目を閉じている男に語り掛ける。
「
「無念」
発した言葉は只一言、それだけだった。
「織田家が北畠家と長年小競り合いをしているだけでなく、ここ数カ月の間に戦とも工作とも呼べないような、姑息な領民いじめをしていた。もちろん、工作を仕掛けていたのがお前でない事は分かっている――」
当然だ、やったのは主に百地丹波と蜂須賀正勝。やらせたのは俺だ。
「――身に覚えのない罪で他家へ引き渡されるのだから、さぞや無念だろう。私としてもお前を妻子共々、
反論も無ければ、目を開いてこちらを睨み返す事もない。
木造具政とは大違いだな。
「誰も恨むつもりはございません。只、己の力の無さから妻や子、家臣、領民たちに迷惑を掛けた。申し訳ない思いでいっぱいです」
静かな声が室内に響き、閉じたままの目から一筋の涙が流れた。
おい、お前ら二人、最近涙
四人だけの室内に無言で涙する男が三人。生贄を作ろうとしている男が一人、俺だ。
気まずい、もの凄く気まずい。
何だか俺一人が悪人になった気がする。
いっその事、木造具政を大橋重長と勘違いしたとして手討ちにし、大橋重長を木造具政として北畠具教の下に送り付けるか?
いや、だめだ。何の解決にもなっていないどころか、状況を悪化させるだけだ。
「北畠具教殿には貴方を丁重に扱うよう、書状でお願いするつもりだ。大橋重長殿、貴方が
良心の痛みを和らげようと、つい予定にない事を口にしてしまった。
だが反応は良好。先程までとは明らかに質の違う涙を浮かべている。
「感謝申し上げます」
「もし、このような出会いでなければ是非とも我が家中に迎えたいところだな」
「当家は織田家と共にあります」
俺の言葉は穏やかな笑みを浮かべてかわされた。
◇
◆
◇
その後は事務仕事が待っていた。
光秀を俺の代理人として尾張の差配を任せる、その旨を記した書状を三十通以上は書いた。各国人領主や部隊長、城主・城代に宛ててのものだ。
簡易な報告・通達事項であれば電話や電子メールで済ます事の出来た平成日本が懐かしい。
一通りの事務仕事を終えた後は稲葉山城への帰還準備と尾張の差配にかんする申し送りだ。
稲葉山城への帰還準備に追われる中、善左衛門と光秀、
「百地丹波、噂を流す準備はいつ頃整う予定だ?」
「津島港近隣の準備は既に整っております。
「よし、それで構わない。準備が整ったところから開始してくれ。木造具政と大橋重長を乗せた船が津島港を出たら噂を広げて欲しい」
「畏まりました」
百地丹波の返答に小さくうなずき、光秀へと視線を移動させると、薄っすらと口元に笑みを浮かべた光秀が静かに頭を垂れる。
「承知いたしました。噂が流れるままにして肯定も否定もせず、我らは知らぬ振りをいたします」
「ただ、こちらにとって都合の良い方向に尾ひれ背びれが付くなら傍観していてもいいが、こちらにとって都合が悪いと判断したらすぐに報せてくれ。こちらで手を打つ」
「承知いたしました」
光秀の承諾の言葉に続いて、善左衛門が口元を綻ばせる。
「さて、どう転びますかな」
流す噂は二つ。
「虜囚とした織田軍にかんする噂は基本的に事実だ。織田軍の兵士もそうだが、その家族たちの喜びようは皆も見た通りだ――」
一つ目は、竹中軍は捕らえた織田軍に一切の危害を加えないばかりか、織田軍の兵士たちよりも良い食事を全ての兵士とその家族に与えている。
さらに虜囚とした兵士を家族共々、三河に逃走した織田信長の下に無傷で送り届けている、とした。
「――誇張があるとすれば、織田信長は三河に遠征中であり、逃げ込んだわけではない、といった事くらいだ」
「食事の効果、特に兵士でないものにまで食事を施したのは大成功でした」
俺の感覚からすると特に豪勢な食事を与えているつもりはない。織田軍の兵士が支給されている食事よりも少しだけ良いものを兵士とその家族に食べさせているだけだ。
とはいってもこの時代、一般の領民がありつける食事と考えると、戦のときに支給される食事の方が通常の食事よりも良かったりする。
「気が早いな、善左衛門。功を奏するのはこれからだろ?」
「まったくです。彼らが三河の織田軍に合流してからが楽しみですな」
その食事よりも良いものが虜囚の身でありながら支給される。
そんな彼らが遠征中の織田軍に合流する。余分な兵糧がどの程度あるかは知らないが、間違いなく食料は
「三河の国人領主や豪族。これに一向一揆が加わる訳だ。内と外に問題を抱えた信長が
家臣の不満が爆発して一向宗や三河の豪族に流れる前に、一人、また一人と引き抜きを掛ける。
気付いたときには丸裸だ。
「――何だか信長に同情してしまうなあ」
自分でも調子に乗ったと思った瞬間、
「殿、まだ噂も流していない段階です。ましてや、不満の火の手など火種の一粒も見えておりません」
光秀から釘を刺された。
「それで、津島港と大橋重長にかんする噂の方だが――」
二つ目は、竹中軍が北畠家から攻撃を受けていた津島港を守り、守将であった大橋重長とその家族を北畠軍から救出して竹中軍の捕虜とした、というものだ。
「――こちらは事実をそれなりに
「承知いたしました」
たった今、俺に釘を刺した光秀が深々と頭を下げる。
「それに付随しての噂だが、こちらは木造具政に泥を被ってもらう――」
竹中重治は大橋重長を高く評価して家臣に迎えたいと告げたが、北畠家の偉い武将がそれを認めず、大橋重長を自分の手柄とするために伊勢に連れ帰った、とした。
「――津島港や大橋重長の救出とは違って、一介の武将で詳しい事を知る者はいない。大きな問題になるとは思えないが十分に留意してくれ」
再び頭を下げる光秀の隣で、善左衛門が視線を俺に固定して問い掛ける。
「将来的には大橋に連なる者を採用する必要があるかもしれませんな」
この土地の領民たちからすれば、長い事支配していた大橋一族に対する畏敬は決して小さくない。
「必要となってから探すのでは後手に回ります。蜂須賀正勝にお命じになって、適当な血縁者を探させては如何でしょう?」
なるほど、妙案かもしれない。蜂須賀正勝の活動基盤となる村も近いし、やらせてみるか。
「光秀、私たちが稲葉山城へ向けて出発したあとで構わない、蜂須賀正勝に大橋一族の血縁者を探させろ。出来れば妙齢の女性がいい。九鬼嘉隆に嫁がせる」
「承知いたしました。あらかじめ九鬼嘉隆殿へはお知らせになりますか」
「やめておこう。嫁を探してやると言っておいて『見つかりませんでした』では九鬼嘉隆も落胆するだろう」
ふと、北条さんの少女へ固執する
九鬼嘉隆の女性の好みも調べておいた方がいいかもしれない。とはいってもそんな事をこの場で切り出せば絶対に善左衛門と光秀から
◇
◆
◇
会議を終えた俺はその日は早々に就寝し、翌日の早朝に稲葉山城へ向けて勝幡城を出発した。
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