第104話 尾張からの届け物

 開け放った扉の向こうには青い空が広がり、遠くには八月の陽光を反射して積乱雲が白く輝やいていた。

 夏がそろそろ終わる。


 室内吹き込む穏やかな風が運んでくる夏草の匂いが周囲に漂う微妙な香りを打ち消した。

 邪魔な匂いだ。せっかくの香りが台無しだな。


「ここですか?」


 恒殿の優しげなささやきが耳をくすぐり、彼女から漂う心地良い香りが鼻孔をくすぐる。


「そう、そこです。うん、気持ちいいな」


「何だか怖いですね、こんな奥まで入れても大丈夫なのですか?」


「大丈夫ですよ、もう少し奥まで入れても平気です」


「私が怖いです。この辺りまでにしましょう――」


 そう言って、恐る恐ると言った手つきで耳かきをそろそろと動かす。


「――この『耳かき』も重治様が木蔵さんに作らせたもの何ですよね?」


「ええ、そうですよ」


「本当に重治様はいろいろと不思議な事を思いつかれる方ですね」


 ささやく言葉に続いて『うふふふ』と小さな笑い声と微かな息が耳に届く。

 早朝から恒殿の膝枕で耳掃除をしてもらう。何という至福のひとときだろう。このまま八十年の時間が過ぎて欲しい。


 その幸せな時間を小春の声が打ち破る。


「お殿様、お方様、朝食の支度が出来ました」


 一応気を利かせて部屋の外から声を掛けているのだが、どうせ気を利かせるなら声も掛けずに待っていて欲しかった。


「ありがとう、小春。今そちらへ行きます――」


 耳の掃除を中断し、小春の声のする方へ振り向いて返事をする恒殿。その一瞬の隙を突き、すそめくって膝の内側へと手を伸ばすと、手首をピシャリと叩かれた。


「――さあ、重治様。朝食ですよ。続きは食事の後にしましょう」


「どっちの続きですか?」


 半身を起こしながら聞くと、ほんのりと赤く染まった頬をプクリと膨らませて視線を逸らす。


「み、耳のお掃除です」


「分かりました、では食事が終わったらまたお願いします。いや、今度は私が恒殿の耳掃除をしましょう」


「え? 私は大丈夫ですから」


「そんな事を言わずに試してみましょう、気持ちいいですよ」


「その、ちょっと、怖いです」


「恒殿は何も心配する事はありません。私に任せてくれれば大丈夫です――」


 少し怯えた様子の恒殿を抱き寄せ、軽く息を吹きかけながら耳元でささやく。


「――最初の夜もそうだったでしょう?」


 恥ずかしそうに、くすぐったそうに首をすくめる仕草が可愛らしい。本当、このまま時間が過ぎて行ってくれないかなあ。誰か天下統一して太平の世を作ってくれよ。

 胸元に吐息が掛かり、甘えた様な声が小さく響く。


「もう意地悪をしないでください」


「分かりました。約束します。朝食を食べ終えて戻って来るまでは大人しくしています」


「約束ですよ」


 俺の胸に埋めていた顔を上げてこちらを見上げた。

 家臣たちとの殺伐とした会話と違って、恒殿との会話のなんと安らぐ事か。


「はい、約束します」


 そう言って恒殿を立たせると、彼女を伴って朝食が用意してある隣室へと向かった。


 ◇

 ◆

 ◇


 食事の用意された部屋には俺と恒殿の他は、彼女の侍女の小春と女中が一人だけ。

 朝食のお膳は俺と恒殿の二人分。


 小春は恒殿が嫁いで来るときに、彼女付きの侍女として安藤家から当家へ移ってきた女性だ。

 幼い頃から恒殿と一緒に姉妹の様に育った間柄で、恒殿自身も彼女の事を姉の様に慕っている。当家でも他の侍女とは一線を画した扱いとなっていた。


 台所を取り仕切るのは本来なら俺の正室である恒殿なのだが、なにぶん十四歳という若さのため、侍女の小春がサポートしている。

 その小春の目の前で領主とその正室の食事の支度をするのだから緊張もするよな。


 小春の鋭い視線が注がれる中、女中が炊き立ての白米が入った茶碗を俺と恒殿のお膳へ置いていく。

 顔は強ばり茶碗を運ぶ手がわずかに震えていた。


 可哀想に。


「重治様、このお魚は初めて見るかもしれません」


 俺が女中に同情している横で、恒殿は目の前に出されたおぜんを見て目を輝かせていた。


「これは太刀魚です。昨夜遅くに明智光秀あけちみつひでから届けられたものです」


 尾張に俺の名代として残してきた明智光秀は良くやってくれていた。戦後も大きな混乱は起きていない。それどころか、こちらの予想以上に尾張の統治が良好に進捗していた。

 昨夜も、領民たちから感謝されているとの報告が光秀から入ったばかりだ。


 尾張では津島港の修復作業と並行して、開拓作業を実施させ、楽市楽座を取り入れさせた。

 美濃同様に農民や商人たちの次男や三男、流民たちを積極的に取り入れて大掛かりな開拓作業に取り掛かっている。楽市楽座も、早々に寺社を制圧して施行していると書状にはあった。


「まあ、光秀様から。三日前にもアサリやハマグリ、スズキが届いていましたよ――」


 太刀魚の塩焼きからお吸い物の中に入っているハマグリを経由しアサリの酒蒸しへと視線を巡らせ、最後に俺の目を見て止まった。


「――光秀様は重治様の名代でご多忙なのでしょう? 無理をさせたりはしていませんか?」


「大丈夫ですよ、全てを光秀一人でやっている訳ではありません。こうして食材を運んでくるのは別の者がやっています」


 狩猟や採取、運搬はそうだが、何をどれだけ運ぶかは光秀が直接差配していた事は黙っていよう。


「それで、昨夜はこの太刀魚の他に何を持ってきてくださったのですか?」


「伊勢海老とアワビです」


 平成日本の感覚で考えても贅沢だ。


「伊勢海老というと、あの大きな海老ですね――」


 恒殿の顔が綻んだ。

 一週間ほど前に生きた伊勢海老を刺身にしたのだが、もの凄く幸せそうな顔をして食べていたのを思い出した。


「――以前お刺身も焼いたものもとても美味しかったのを憶えています」


 あのときもアワビの刺身とアワビの肝料理が添えてあったのだが、忘れ去られているようだ。


「活きのいい伊勢海老が届いています」


「今夜のおかずは伊勢海老ですね」


「はい、その予定です」


「では、お昼はアワビでしょうか?」


 アワビも忘れられた訳じゃなかったようだ。伊勢海老ほどではないが恒殿を笑顔にした。


「アワビも夕食に頂きましょう。日中は領内の見回りをする予定です。調理する者も同行させますので、外でうなぎの蒲焼を頂きましょう」


「まあ、鰻の蒲焼! あのタレを付けて焼くときの匂いが堪りませんよね。身も柔らかくてフワフワで、思い出しただけで幸せな気持ちになれます――」


 伊勢海老の刺身と鰻の蒲焼はガッチリと恒殿の胃袋を掴んでいたようだ。いや、恒殿だけではなく小春ものどとお腹を鳴らしている。


「――肝のお吸い物もいいですね。あ、でも、焼いても美味しいですし、どちらにしましょう、重治様」


「取り敢えず、朝食を頂きましょうか。冷めてしまっては、せっかく作ってくれた者に申し訳ありません」


 目の前にありながら、すっかり霞んでしまった太刀魚の塩焼きを指す。


「そ、そうですね。この何とかというお魚も初めて頂きます」


 そう言って太刀魚の塩焼きに箸を伸ばした。

 太刀魚、名前を憶えてもらえなかったようだ。確かまだ残っていたはずだから現物を見せよう。特徴のある姿だからきっと憶えてもらえるだろう。


 太刀魚に同情しつつ俺も塩焼きへと箸を伸ばした。


 ◇

 ◆

 ◇


 朝食を食べ終え、お茶を飲んでいると扉の外から善左衛門ぜんざえもんの声が響く。


「殿、百地丹波ももちたんば殿が戻って参りました」


 随分と早かったな。耳かきの続きを諦めて返事をする。


「分かった、評定の間へ通しておいてくれ。お茶を飲み終えたらすぐに向かう。本多正信ほんだまさのぶも同席させたい」


「畏まりました。それと、浅井賢政あざいかたまさ殿から使者が参っております」


 もう来たのか。向こうも野良田の戦いが決着したばかりで忙しいだろうに。

 さて、どうしたものか。

 百地丹波からの報告は絶対に長くなるよなあ。


「浅井家からの使者には百地丹波から話を聞いてから会おう。使者には申し訳ないがお待ち頂くように。くれぐれも丁重にな」


「種子島の返却も兼ねていたようで、ご使者と共に二十名程の運搬役と護衛とが同行しておりますが、こちらは如何いたしますか?」


「ご使者だけでなく運搬役と護衛の方々も別室に通して、持て成しを頼む――」


 善左衛門の百地丹波からの報告の趣旨は分かっているだろうが、念のため『承知していると思うが』と前置きをして付け加える。


「――百地丹波からの報告は長くなる。それを考慮しての持て成しだ。頼んだぞ、善左衛門」


「畏まりました。明智光秀殿から届けられた海産物を調理して早めの昼食を用意させます」


「頼む。あ、伊勢海老は残しておいてくれ」


 一瞬の沈黙に続いて何かもの言いたげな口調で答えが返ってきた。


「承知いたしました」


 絶対に後で小言を言われるな。

 まあいい。


 さて、百地丹波からの報告に浅井家からの使者か。

 隣で残念そうな表情の恒殿に微笑みかける。


「恒殿、申し訳ありません。午後に予定していた領内の視察は明日に延期となりました」


 恒殿との領内視察は順延しても中止にはしない。


「はい、分かりました。ご無理をなさらずに」


「無理なんてしていませんよ。私が貴女との視察を楽しみにしているのです」


 明るい笑みを見せる恒殿に、後ろ髪を引かれる思いで百地丹波が待つ評定の間へと向かうべく立ち上がった。

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